18 それでも前を向く
俺が古野沢さんを止めた後、桃子さんはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
その目は優しいのか、悲しいのか――俺には判別できない。
涙をこらえた曇りと、誰かを思いやる温度とが、同時にそこに宿っていた。
「梨里ちゃん、謝らないで」
柔らかい声だった。
けれど、その奥に確かな強さを秘めている。
「あなたは何も悪くないんだから」
かすかに唇が震えたが、それでも言葉は真っ直ぐに届いてくる。
「むしろ……伝えてくれて、ありがとう」
古野沢さんの身体が震えているのが、分かる。
それは安堵とも、怒りともともとれるものだった。
俺の胸も痛む。
彼女は今、裏切られた事実に心を裂かれながら、それでも他人を思いやる言葉を選んでいる。
その優しさが、どれほどの強がりで、どれほど残酷なものか……。
分かっているのに、受け止めることしかできなかった。
桃子さんは、視線をカップから外せずにいた。
沈黙を裂くことなく、ただ冷めきった表面を見つめ続けている。
震えはある。
指先も、肩も、かすかに揺れている。
それでも涙は一滴も零さず、顔を上げようとはしなかった。
飲み干すでもなく、触れるでもなく。
ただそこにあるカップを前に、心ごと沈めているように見える。
その姿は、壊れる寸前でありながら、決して壊れまいとする人間の意地そのものだった。
そりゃ、ショックに違いない。
こんな裏切られ方られ方されたら、誰だって傷つく。
……だからこそ思う。
恋愛なんて、本当に人生に必要なんだろうか。
人をここまで痛めつけ、壊れそうにさせるものが、素晴らしいものな訳がない。
愛なんて、ただ残酷なだけじゃないのか。
店を出ると、まだ昼下がり。
ただ、先ほどよりは気温が少し低くなった気がする。
「……はぁ」
疲労感なのか思わずため息が出る。
結局、何もできなかったな……。
本当にそこにいただけのモブムーブもしてしまったが、俺の立場で出しゃばるのも、それはそれでおかしな話だ。
なにより彼女の邪魔をしたくなかった。
特にこれからすることもないので、駅へ向かってしばらく経つが、古野沢さんも隣で黙ったまま歩いている。
さっきまで必死に言葉を紡いでいた彼女が、今は小さな背中に沈黙を背負っている。
1人にして欲しいということで、俺たちは先に店を出たが、あの場に残した桃子さんの姿が、瞼の裏に焼きついて離れない。
壊れまいと耐えていた姿が、余計に胸を締めつける。
あれでよかったのか。と考えるのは虫のいい話だ。
伝えたことで、彼女を余計に追い詰めただけの可能性もあるが、こればっかりは桃子さんの今後の選択による。無責任かもしれないが……。
通りを歩く足音だけが、やけに大きく響いていた。
並んで歩いているはずなのに、二人の間には埋められない隙間がある。
「……後悔、してるのか?」
していて欲しくない。
そんな願いから、つい聞いてしまった。
すると、彼女はピタっと足を止めてまっすぐ見て口を開いた。
「してないよ」
迷いのない声だった。
けれど、その指先はぎゅっとバッグの紐を握りしめていて、心の奥では揺れているのが分かる。
「後悔なんてしてない、するわけがない。……だって、黙ってたら桃子さんはずっと騙されたままだったでしょ?」
視線は前を向いているのに、どこか遠くを見ている。
彼女自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
俺は言葉を返せず、ただ並んで歩くしかなかった。
それでも彼女は歩を緩めることなく、強がるように小さく笑った。
「だから、大丈夫。……私は、間違ってない」
その笑顔が、泣きそうな顔と紙一重だった
「でも……、私、桃子さんに……恨まれるかもしれないけど……」
自虐的で小さく、今にも消え入りそう声。
けれど、その言葉には、彼女自身の不安と罪悪感がすべて詰まっていた。
俺は言葉を探した。
正直、答えは簡単じゃない。
あの場にいた桃子さんの気持ちを、俺が代弁できるはずもない。
「……どうだろうな」
それでも、嘘はつけなかった。
ここで、俺が適当な慰めをしても何の意味もない。
だったら、正直に分からないと伝えるべきだ。
古野沢さんは苦笑いを浮かべ、前を向いた。
「うん、そうだよね。きっと恨まれたかもしれないし、嫌われたかもしれない。でも……それでも、伝えないといけなかったんだ。私が落ち込むのは違う。一番辛いのは、桃子さんなんだから」
その横顔は、泣きそうにも、強くあろうとしているようにも見えた。
あまり親しくない間柄とはいえ、古野沢さんからすれば、友人が働いている店の常連。繋がりがないわけじゃない。
むしろ、桃子さんみたいな良い人はなかなかいない。違う形で出会えていたら、良い関係になれていた可能性もある。
他人に嫌われることなんてどうでもいいなんて言う人もいるが、実際そういう場面になると心を傷つける理由に大いになる。
けれど、これだけは伝えたい。
「……でも、一個だけ言うとさ」
俺は、少しだけ声を強めた。
「嫌われたかとかは、桃子さんが決めることだ。君が勝手に結論出すな」
古野沢さんは目を瞬かせ、意外そうに俺を見上げた。
「伝えるべきことを伝えた。それは間違ってない。……だから、少なくとも俺は、古野沢さんを責めたりしない」
今回に関しては、古野沢さんに落ち度はない。
彼女自身も伝えたことを後悔していないと言うなら胸を張ってほしい。
一瞬だけ、彼女の瞳に涙の光が揺れた気がした。
けれどすぐに、照れ隠しみたいに顔をそらし、小さく「……ありがと」と呟いた。
少し緊張が和らぎ、お互いに表情が緩む。
古野沢さんは、もうそれ以上何も言わなかった。
俺もまた、余計な言葉を探さなかった。
ただ並んで歩く。
並んでいるはずなのに、互いの心の距離までは縮まらない。
それでも、完全に離れてしまうわけでもなく――ただ、一定の間隔を保ったまま、歩調だけを合わせていた。
すれ違う人々のざわめきや、遠くのクラクションが、やけに現実感を帯びて耳に入ってくる。
それがかえって、俺たちの沈黙を際立たせるようだった。
やがて信号が赤に変わり、二人は足を止める。
交差点の向こうを行き交う人々の顔が、誰ひとり止まることなく流れていく。
世界は当たり前のように動き続けるのに、俺たちだけが取り残されているような気がした。
すれ違う人々のざわめきや、遠くのクラクションが、やけに現実感を帯びて耳に入ってくる。 それがかえって、俺たちの沈黙を際立たせるようだった。
短い沈黙の中で、互いの呼吸の音だけが確かにそこにあった。
それは不思議と、壊れそうな心をかろうじて繋ぎ止めているようにも思えた。
短い沈黙の中で、互いの呼吸の音だけが確かにそこにあった。
それは不思議と、壊れそうな心をかろうじて繋ぎ止めているようにも思えた。
信号が青に変わる。
歩き出す人々の波に混じって、俺たちもまた一歩を踏み出す。
けれど――どこへ向かうのか、自分でも分からなかった。
ただ隣を歩く小さな背中と、まだ胸の奥に残る桃子さんの姿とが、交互に焼きついて離れなかった。




