15 二股男と弁護士
今日のステイルは全体的にゆったりしている。
現在は俺以外にも数名客はいるが、他の人は一緒に来た人同士で奥のテーブル席にいるので、カウンターには俺1人だ。
店員2人に微笑ましさと静かな雰囲気がなんとも心地いい。
唐揚げと2杯目のレモンサワー風のジンカクテル。
響子さんが唐揚げに合うお酒として出してくれただけあって、最高の組み合わせ。
レモンのキレが唐揚げをより引き立ててくれる。
このゴールデンコンビを楽しんでいると、
響子さんが、そうだと俺に言わないといけないことがあったと、話しかけてきた。
「そういえばあんた、桃子と会うの明日じゃなかったけ?」
氷を回す手を止め、俺をちらりと見た。
「あぁ、そうですそうです。響子さんも色々動いてくれたみたいで」
「動いたってほどじゃないけど……。桃子と杏奈の友達の子……梨里ちゃんだっけ、それを繋げてやっただけだよ」
さりげない言い方なのに、なんだかんだ心配してくれていたのが伝わってくる。
「そういえば、杏奈。例の男と梨里ちゃんが同じ大学ってことはあんたとも同じだろ?何か知らないの?一応、友達の彼氏だったんだろ?」
「そうっすね──」
上を見上げて少し考える杏奈さん。
そういえば、男については細身の茶髪でストーカー気質ってことぐらいしか知らないな。
あと現在、鼻曲がり中。そろそろ治ったの?
「あんまり、いい噂は聞かないっスね」
杏奈さんはグラスを拭きながら、眉をひそめた。
「単位ギリギリで留年しかけてるとか、ゼミでも女の子にやたら絡むとか……。あと、酔うとやたら絡んでくるからサークルの飲み会も出禁っぽいっス」
「おいおい……。完全に地雷物件じゃないか」
4浪して何してんだ……。
というか、どうして古野沢さんは、付き合ったんだ……。こんな悪い話が出てくるやつ、嫌いそうだが。恋を知りたかったとは言っていたが、その相手に選ぶには分不相応だと思う。
「桃子も梨里ちゃんもどうしてどうしてそんなのと……」
額に手をあてやれやれと言わんばかりに、俺の疑問を響子さんが代弁してくれた。
「桃子さんはわからないッスけど、梨里に関してはと・に・か・く、しつこかったッス」
杏奈さんが、やれやれと両手を広げて見せた。
「しつこかった?」
「そうッス。最初は梨里も『まぁ普通に話すくらいなら』って感じだったんですけど……。LINE返せば即既読つけて長文返してくるし、帰り待ち伏せしてるし、夜中電話しようとか言ってくるし、告白の結構されたって」
「ブロックすればよかったんじゃ……」
すぐにでも思いつきそうな解決法を口走ってしまうが、何も分かってないな、こいつと言わんばかりに首を振る。
「無駄っスよ。どうせ大学で会うんですから。あの人、無駄に人脈だけ広いから、梨里がどこにいるかすぐ分かるんッスよ」
「それ……逆に怖いな」
「でしょ?私の友達の間でも“GPS男”って呼ばれてたくらいで」
「おい杏奈。怖い通り越してホラーじゃないの」
「いやいや、別に本当にGPSつけてたわけじゃないッスよ?……たぶん」
「“たぶん”ってなんだよ」
俺と響子さんが同時に突っ込むと、杏奈さんはケロッとした顔で唐揚げをもう一個つまんだ。
「それで結局は根負けして、こんなに言ってくれているんだったら一回試しにということで、“付き合う”ってことにしたということッス」
最後の優しさというか、譲歩が完全に裏目に出たってわけだ。
一番ヤバいのは、桃子さんという彼女がいながら、古野沢さんにストーカーレベルで熱を上げていた鼻曲がりくんだが。
「結局は1週間経たずに梨里は別れるって言い出したらしいッスけどね」
杏奈さんは肩をすくめて言った。
そこからもしつこかったって話は…ポロッと古野沢さんも言ってた。
思い出される夜の公園で、金髪ギャルが繰り出した衝撃の一撃。
あれも、その“しつこさ”の果てに出た技だったんだろう。
「それで、今はその男は大人しくしてるの?」
氷を回す手を止め、
響子さんが横目で杏奈さんをうかがった。
「うーん……“大人しい”っていう表現は微妙ッスね」
杏奈さんはグラスを拭く手を止め、首を傾げた。
「直接、梨里にちょっかい出すのは減ったみたいなんですけど……」
「けど?」
響子さんの促す声が、妙に低く響いた。
「SNSで匂わせ投稿とかしてるんスよ。“大事な人はやっぱりお前だけ”とか、“待ってれば戻ってくる”とか。あと、ゼミの女の子に『俺には本命がいるから』って言うんですけど、名前は出さない。でも、梨里のことなのは周りにはバレバレで」
「……最悪ね」
「未練タラタラってやつか」
俺は思わず口を挟む。
SNSでそんなに暴れているということは、桃子さんはそれを見てるだろうか。さすがに、見れないようにしているか。
「そういうの一番タチ悪いッスよね」
「……その男、どんだけ余裕ないんだか」
響子さんは吐き捨てるように言い、俺の前にレモンサワー風のジンカクテルを新しく置いた。
「景気づけにサービスよ。そんな奴今すぐ桃子から離した方がいいわ」
苦笑しながら礼を言い、グラスを受け取る。
これでもう3杯目、そろそろいい感じにはなってきた。
なんてサービスの良い店なんだ。
「そいつの名前、聞いといていい?」
「瀬川 翔、塔南大学生の4年生ッス。4浪してるから今年の26歳になる年ッスね」
「やっぱ同い年かよ……」
だが、聞いたことはない。
ワンチャン知ってるかもしれなかったが、そんなこともなかった。
「知り合いさん同じ年ッスか……。高校もこのあたりの学校行ってたって聞いたことありますから、もしかしたら、知り合いとか?」
「いや、聞いたことないな……」
健二なら、何か知っているだろうか。
中高と健二とは同級生だが、高校は俺は帰宅部で健二は野球部だった。
今でも、高校の同級生と連絡を取っていて
『〇〇、結婚したらしいぜ』
『〇〇は海外行っているらしい』
とあまり顔も思い出せない人たちの近況をしばしば聞く。
顔が広いのは圧倒的にあいつのほうだ。
「あと、私が知ってるのは父親が食品会社の社長やでお金持ちってことぐらいですね」
「……金持ちか」
そういえば、桃子さんが言ってたような気もする。
ストーカーで留年ギリギリの大学生さらに金持ちときたもんだ。
肩書きだけでずいぶん歪んでいるな。鼻曲がりくん。
「バイトもほとんどしてないっスよ。奢るときはポンと出すから、そういうところで騙される子もいるんスよね」
ったく、甘やかされやがって羨ましい。
同じく25年生きてきてこんなにも人生違うものなのか。
当たり前だが、なんだか不公平を感じる。
カラン、とドアベルが鳴った。
静かな夜の店内に、少しだけ外の空気が流れ込む。
「こんばんは」
落ち着いた声とともに入ってきたのは、紺色のロングヘアを背に流した女性だった。
黒のタイトスカートにジャケット──仕事帰りなのだろう。
大人びた美しさに、思わず視線を持っていかれる。
「いらっしゃい、朝比奈ちゃん」
響子さんが柔らかく迎える。
なるほど、常連か。何度か見たことあるような気がする。
同じ年ぐらいだなぁっとフワッと思った記憶しかないが。
彼女は軽く会釈をして、俺の二つ隣の席に腰を下ろした。
バッグを置く仕草も、背筋の伸び方も隙がない。
「今日もお疲れさま。何にする?」
「そうね……ジントニックを」
「承りました」
「凪沙さん、仕事帰りッスか?」
とオーダーが終わった後、杏奈さんが親しげに話しかける。
「えぇ、裁判所から直行」
その単語だけで、俺は妙に背筋が伸びた。
ああ、この人。そういう職業なんだ。なんとなくしっかりした印象を受ける。
何も悪いことしていないのに、この緊張感はなんなんだろう。
グラスに氷が落とされる澄んだ音。
その間、朝比奈さんはふと隣──つまり俺のほうへ目をやり、穏やかな微笑みを浮かべた。
「話すのは、初めてですよね」
声をかけられた。
低めで柔らかい、けれど芯のある声。
「そうですね、ここで何度か見かけたことはあるんですけど……」
「やっぱり」
朝比奈さんはグラスを指先で軽く回しながら、落ち着いた調子で続ける。
「いつも静かに飲んでるから、声をかけるタイミングを逃してしまってたの」
さらりとした言葉なのに、なぜか胸の奥を突かれる。
大人びた余裕と、こちらをよく観察しているような視線。
「あ、えっと……俺も、人見知りというか……」
「ふふ。じゃあ、おあいこね」
そこへジントニックが差し出され、氷の音が軽く響いた。
朝比奈さんは一口飲み、口元に涼しい笑みを浮かべる。
「はぁ……。この一杯のために一日働いてる気がするわ」
仕草ひとつが様になるというか、場慣れしてるというか。こういう大人の美人に話しかけられると、普通に緊張する。
「私、朝比奈 凪沙って言います」
「三浦です」
「三浦さん、ね。覚えました」
その言い方は、どこか裁判で証言者の名を控えるようにも思え、妙にドキリとする。
ふっと肩の力を抜く姿に、大人の余裕と人間らしさが同時に見えた。
「あ、そうだ。最悪あの男が暴走するようなら、凪沙さんに相談するといいッスよ」
「そうなの?」
「弁護士ですから」
なぜ、杏奈さんがフフンと胸を張る。
「なんで、杏奈が誇らしげなのよ……」
響子さんが呆れたようにツッコミを入れる。
「いやぁ、なんか自慢したくなったんスよ。だって、かっこよくないッスか?法廷に立つ弁護士さんって!」
「……私のことをキャラ付けしないでよ」
朝比奈さんは苦笑しながら、ストローもないジントニックを軽く揺らした。
「でも、杏奈ちゃんが言う通り、もし困ったことがあったら遠慮なく相談してください。身近なトラブルほど、軽く見て放置すると後々面倒になるものだから」
そう言ってから、流れるように名刺を差し出された。スームズ過ぎて一瞬固まってしまったが、俺も慌てて自分の名刺を用意する。
名刺を受け取ると、さらさらとした手触りの厚紙に「朝比奈法律事務所」という文字が刻まれている。シンプルだけど品のあるデザイン。肩書きは――弁護士。
「え、個人事務所なんですか?」
思わず口から出た言葉に、朝比奈さんは小さく笑った。
「ううん、弁護士になってまだ3年目で……。これは兄の事務所なんです」
「兄弟で弁護士を?すごいですね」
「そう見えるかもしれないけど……正直、兄に半分押し込まれたようなものなの」
「押し込まれた?」
朝比奈さんはグラスの氷をゆるやかに回しながら、ふっと肩をすくめた。
「兄は仕事に関しては誰よりも厳しい人でね。昔から“自分の事務所を持ったら一緒にやるんだ”って言われ続けてきたの。だから気づいたら、こうして共同経営者になっていたわけ」
さらりと語るが、その声音には少しだけ苦笑まじりの色が混ざっている。
けれど同時に、家族に対する信頼も透けて見えるようで。
「へぇ……なんか、ドラマに出てきそうな話ですね」
「ふふ、現実はドラマより地味よ。書類と格闘してる時間のほうが圧倒的に長いんだから」
軽く流すように笑いながら、ジントニックを一口。
それでも“裁判所帰り”という一言の重みを、今もカウンター越しに感じてしまう。
日々、戦っているのだろう。
そんな雰囲気をこの人には感じる。
「何か困ったことがあったら、連絡して。これも何かの縁だから」
穏やかな笑みを浮かべつつも、その言葉には確かな重みがあった。
ただの世間話ではなく、現実的に“助けになる”と言える立場の人間が放つ言葉。
俺は名刺を改めて見下ろし、思わず姿勢を正す。
「……ありがとうございます。心強いです」
「大げさじゃなくていいのよ。困ったときに、思い出してもらえれば」
その声音はさらりとしているのに、まるで盾を差し出されたような安心感がある。
杏奈さんが、満足そうににやにや笑っている。
「ね、言ったでしょ?弁護士の知り合いって、いるだけで安心ッスから!」
「杏奈、営業部長みたいになってるわよ」
響子さんが苦笑交じりに突っ込む。
カウンターに漂う空気が、いつもの気楽さにほんの少し“大人の頼もしさ”を混ぜ込んだように変わっていた。
グラスを口に運び、ひと息つく。
明日のことを考えないようにしても、どうしても頭にちらつく。
桃子さんに会う。
俺にとって、間違いなく大きなイベントになる。
あくまで証人という立場だが、
古野沢さんの覚悟や桃子さんの反応を想像すると、気が重くなるのは確かだ。
けれど、今日ここで──
響子さんや杏奈さん、そして初めてまともに話した朝比奈さんと過ごした時間が、不思議と俺を落ち着かせてくれていた。
「……よし」
小さく呟いて、最後の一口を飲み干す。
グラスの底に残った氷が、カランと小さく鳴った。
明日はきっと、長い一日になるだろう。




