14 BAR ステイルの裏メニュー
時が経つのは早いもので、気がつけば金曜日の夜になっていた。
「マスター、唐揚げ三つとウーロン茶」
「お前、居酒屋と間違えてないか?」
夜のステイル。
カウンターに座るなり、マスターに突っ込まれた。
いや、俺だって分かってる。ここはおしゃれなバーだ。
でも昨日から色々ありすぎて、
胃袋はとにかく油分を欲していた。
疲れた時は甘いもの。
というのが、世の中の通例な気もするが、甘いものが苦手な俺はガツンとパワーがあるものが良い。
ここに来る前、
上司に連れられて牛丼屋には入って、晩御飯は済ませたのだが、ここに入った瞬間にそういう欲が出てきてしまい、無意識に口から出た結果が、これだ。
そして視線を感じる。
カウンターの奥でグラスを磨いていた響子さんが放つあの冷めきった目。
──やめて、響子さん。 そんなに氷のような目で見ないで!
慌てて両手を振る。
「嘘です嘘です!響子さん、テキーラサンライズで」
「……はいはい」
完全に呆れ声で注文を受けると、響子さんは店の裏へ消えていった。おかしいな、いつもは目の前で酒を作るのに、どうしたんだろう。
響子さんの行動を疑問に思っていると、バイト中の杏奈さんがとことこの近づいてきた。
「知り合いさん、どーもッス。あの日以来っすねッスね」
挨拶をしながら、お酒の準備を始めた。
鮮やかで元気な印象の橙色のショートヘアで猫を連想させるような可愛らしい見た目がバーテン服の大人っぽい雰囲気とコントラストを生んでいる。
「こんばんは。ちゃんと話すは初めだね」
「ッスね。あの日は……まぁ、色々あったっすから」
杏奈さんは小さく笑って、シェイカーを片手に取り上げた。
琥珀色の瞳が、ちらりと俺を見たかと思えば、すぐにグラスの方へ視線を戻す。
その横顔は、猫が気まぐれにこちらを伺う仕草に似ていた。
「知り合いさんは、よく1人でここに来るんッスか?」
「もう3.4年は通ってるかな。杏奈さんは?どうしてこの店に?」
「私、年の離れたお姉ちゃんがいるんですけど、マスターとお姉ちゃんが友達なんスよ」
「へぇ、そうだったんだ」
「だから、ここでバイトすることになったんス。まぁ、放っといたら夜遊びばっかしてそう、って言われて……監視役も兼ねてるみたいッスけど」
肩をすくめて笑う杏奈さん。
けれどその笑みは、どこか本音を隠しているようにも見えた。
「夜遊びって……そんな感じには見えないけど」
「んー、どうッスかねぇ。猫って、昼は寝てるけど夜になると目が冴えるじゃないッスか」
橙色の髪がライトに照らされて揺れる。耳の辺りで軽く外ハネしているのが、より猫耳っぽく見えてまう。
冗談みたいに言ったのに、瞳の奥は妙に澄んでいて、言葉が冗談で済まないような気がした。
「……猫っぽいってよく言われる?」
「よく、ってほどじゃないッスけど。気まぐれで、掴みどころないって意味なら……当たってるのかも?」
軽やかな会話の裏で、わざと一線を引くような距離感。それが逆に気になる。
シェイカーを振る手元からカラカラと氷の音が響き、ステイルの夜にリズムを刻む。
その音に耳を預けながら、妙に胸の奥が落ち着かないのを感じていた。
「はい、テキーラサンライズッス」
「お、ありがとう」
グラスを受け取り、一口。
オレンジの甘さとテキーラの余韻が、疲れた体にじんわり染み込んでいく。
「……うまいな」
「でしょ?わたし、カクテル作るのはわりと真面目にやってるんスよ」
にやりと笑う杏奈さん。
その表情は軽いのに、どこか挑むような色も混じっていた。
「おみそれしました……」
お世辞ではなく本心だ。ちゃんとうまい。
酒の味に違いが分かるのか?と問われれば、自信があるわけではないが、杏奈さんの努力が滲んでいる気がして、感心させられた。
「へぇ、本気で言ってる顔ッスね」
「もちろん」
「……そういうの、ちょっと照れるッス」
シェイカーを片付ける手元が、ほんの少しぎこちなくなる。
髪が揺れる様が嬉しくて、反応してしまっているように見えてしまう。
「でも、知り合いさんって真面目そうに見えて、意外と素直なんスね」
「……いや、そうでもないと思うけど」
「ふふっ。ほら、今みたいにすぐ否定するのも素直な証拠ッスよ」
軽口を叩きながらも、杏奈さんの視線はまっすぐだった。
冗談に包んでいるけれど、言葉の奥でこちらを試しているような、不思議な感覚が残る。
グラスを回しながら、俺はわずかに肩をすくめる。
どう返せばいいのか分からず、ただ橙色の瞳を避けるように琥珀色の液体を見つめた。
杏奈さんが猫みたいに口端を上げた、その時。
「お待たせ」
低めの落ち着いた声とともに、カウンターに皿が置かれる。
振り向けば、響子さんが例の“氷の目”をほんの少しだけ緩めていた。
皿の上には、こんがりと揚がった唐揚げが5つ。
しかも、ちゃんとレモンとマヨネーズまで添えてある。
「唐揚げあんの!?」
「初めて見た……」
4年くらい通ってて初めて見た。
俺はともかく、杏奈さんも驚いているにはおかしいと思う。
「BARステイル、秘伝のメニューよ。ありがたく食べなさい」
「……マジで、ありがとうございます」
「えー、ちょっと羨ましいッス」
「そういうと思ったから、あなたの分もあるよ」
「わーやったー!!マスター大好きッス!」
上機嫌に響子さんから唐揚げを受け取る。
そんな姿を横目に、心の底から感謝をしながら、唐揚げ口に放り込む。
うん、揚げたてで外はサクッとしていて、中はジューシー。肉汁があふれんばかりに出てくる。
黒胡椒とニンニクがガツンと効いていて、これはやみつきになる!
そこに、テキーラサンライズを流し込むと、オレンジの酸味が口の中をスッキリさせてくれる。
やばい、永久機関が完成してしてしまった。
「響子さん……マジでうまいッス」
「当たり前でしょ」
感動しすぎて、杏奈さんの口調がうつってしまった。
でも、そんなことがどうでもいいくらい今は幸せだ。
「おいしッスね、これ……」
唐揚げを一個つまんだ杏奈さんが、
じっと皿を覗き込む。
「うちの店、こんな攻撃力高いメニュー隠してたんスね。これ、反則っしょ」
隠してたわけじゃないわよ。必要な時しか出さないだけ」
「必要な時?」
「……例えば、顔色が疲れてる常連が油分を欲してる時、とかね」
そう言って、響子さんは何事もないように次のグラスを磨き始めた。
なんだ、こんなうまいものがあったのなら、もっと早く教えてほしかった。
「へぇ〜!つまり知り合いさん専用メニューってことッスか!」
「バカ言ってんじゃないの」
杏奈さんがすかさず茶化してニヤリと笑う。
その瞬間──パシンッと乾いた音。
「アタッッ!痛いッス、マスター!」
額を押さえて猫みたいに身をすくめる杏奈さん。
響子さんは涼しい顔で指を戻し、またグラスを拭き始めた。
「……デコピンのキレまで一流だな」
思わず俺が漏らすと、杏奈さんが涙目でこちらを指差す。
「ほら!知り合いさんも見たッスよね!?この店、暴力反対ッスよ!」
「暴力じゃないわ。教育」
スパッと言い切られたのに納得いってないのか、猫耳みたいに髪を揺らして、杏奈さんはふてくされた顔をする。
その姿に、響子さんの口元がほんの一瞬だけ緩んだのを、俺は見逃さなかった。
「まったく……マスター、スパルタすぎッス……」
「まだまだ甘いわよ」
「……ひぃっ、怖いッス。知り合いさん、助けてくださいッス」
半分本気、半分冗談で俺に助けを求める杏奈さん。
けれど俺が口を開くより早く、響子さんの鋭い視線が飛んでくる。
「なにか?」
「す、すみません……」
何も悪いことはしていないはずなのに、反射的に謝ってしまった。
この人の冷静な圧、ほんと怖い。
「はぁ……うちのマスター、見た目は大人っぽいのに中身は鬼教官ッスよ」
「誰が鬼教官よ」
「じゃあ氷教官ッスね」
「うまいこと言ったつもり?」
「えへへ……」
杏奈さんはケロッと笑い、唐揚げをもう一個パクリ。唐揚げは普通のサイズのだが、その小さい口には大きいのだろう。
口いっぱいに頬張った顔は、なんとも幸せそうだ。
「ほら、口の端にマヨついてる」
「……え、うそッス?」
慌てて拭おうとする仕草が可愛らしく、思わず吹き出しそうになった。
「何笑ってるッスか!知り合いさん!」
「いやいや、そんなことは……」
「ほら、また目が笑ってるッス!」
杏奈さんがむーっと身を乗り出してくる。
その様子を横目に見ながら、響子さんがため息をつく。
「……静かに食べなさい」
「はーいッス」
まるで母親と子供みたいなやり取りがなんとも微笑ましい。ここだけ、嵐の前の静かな楽園みたいに思えてしまう。




