13 伝える覚悟
退勤のチャイムが鳴る。
いつもなら「やっと終わった」と肩の力が抜けるはずなのに、今日は妙に疲労感が重い。
昨日の疲れが抜けきれず、1日を過ごしてしまった。
唯一の救いは、安藤さんと顔を合わせなかったことぐらいか。
帰り道、涼しさが心地よくなってきた。
電車に揺られ、最寄り駅を出て歩き出したところで、ポケットの中のスマホが震えた。
画面を見て、思わず足が止まる。
──古野沢 梨里。
「どうした?」
無視してしまうと、あとで何が待っているか怖いので、とりあえず応答する。
『あ、証人さん?今大丈夫?』
「今仕事終わって帰るところだけど……」
『そう…。よかったよかった』
「なんだよ、よかったよかったって」
『え、だって証人さん、社会人だから忙しいでしょ。つかまんないかなーって思って』
「つかまえなくていいだろ。俺、虫じゃないんだから」
『なによ、それ』
電話口で小さく笑う声が聞こえる。
けれど、その後に少し間があった。
『ねえ、今から会えない?』
「……会う?」
『うん。ちょっと話したいことあんの』
からかう調子でも、勢い任せのノリでもない。
妙に落ち着いたトーンに、俺は眉をひそめた。
「場所は?」
『駅前のカフェ。まだ開いてるとこあるから』
「……わかった」
通話を切ると、どっとため息が漏れる。
昨日の今日で何を話すつもりだ。
けれど――行かないという選択肢は、俺にはなかった。
指定されたカフェにつ着くと、
テーブル席に一際目立った金髪少女がすぐ目についた。
その美貌からは、
「あの子可愛くね?」
「一人かな、声かけてみる?」
などと、暇を持て余したであろう大学生たちが、ちらちらと見ている。
──君たちやめときなさい。鼻が曲がっってしまうよ。雀荘にでも行っておきなさい。
と言いたくはなるが、
完全にやばい人になってしまうので、その横を通り過ぎて、彼女のもとへ行く。
「来たのね」
「君が呼び出したんだろ……」
彼女の正面に腰を下ろすと、すでに頼んでいたらしい半分に減ったアイスティーのグラスを、ストローでくるくる回していた。
少し待たせてしまったかもしれないが、仕事だったので許して欲しい。
今日の古野沢さんは何かが違う。
見た目はギャルだが、ギャルっぽい軽さはなく、視線はテーブルに落ちている。
昨日はお酒も入っていたし、印象が変わるのは当たり前ではあるか。
とりあえず、コーヒーを頼んで話を聞くとしよう。
「で、話って?」
「……桃子さんに会う日、決まった」
「もう?早くね?」
「次の土曜。14時に中央駅にレストっていうカフェで集合だって」
俺の反応はスルーされて、場所と日時だけ業務的に伝えられた。
中央駅だったらここから1駅だな。
それにしても、昨日の今日でずいぶんと早い。
響子さんが速攻で動いてくれたのだろう。
さすが、見た目通りデキる女って感じがする。
「一応聞くけど、予定空いてるよね?」
「大丈夫、開けとく」
断る返事を許さない圧みたいなものを感じる。
俺が首を横に振る未来は、どうしても想像できなかった。
「よかった。じゃ、決まりね」
古野沢さんはようやくストローを口に咥え、アイスティーをひと口。そのタイミングで俺のコーヒーも運ばれてきた。
横顔に妙な緊張が走っているのがわかる。
桃子さんに事実を突きつけることの重さを自覚しているのだろう。
それでも踏み出そうとしている。
俺にできることはあるのだろうか。
巻き込まれた身ではあるが、自分の正しいと思うことを逃げずにやろうとしている彼女をサポートしたい。
運ばれてきたコーヒを一口飲んで落ち着く。
「……なぁ」
一息ついて切り出したはずなのに、喉のなにか張り付いている感覚がある。
コーヒーでは喉の渇きはとれなかったみたいだ。
「俺は当日、何をすればいい?」
変に我を出して場をかき回すのが一番の悪手なのはわかってる。
ただ、念の為になにか俺にできることがあるか聞いておきたかった。
古野沢さんは、ストローを口から外してこちらを見る。
その瞳は、思った以上に真剣だった。
「証人さんは、そこにいるだけでいいの。あたしが桃子さんに言う。そのとき、ちゃんと“見てた人”がいるって証明になるから」
「……そうか」
ただいるだけ。
けど、それは“逃げないで一緒に立ち会う”ってことだ。
大げさかもしれないが、妙に重たい役目に思える。
「安心した」
古野沢さんが、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「一人だったら怖くて死ぬかと思ってた」
思わず、胸が詰まった。
ギャルっぽい外見の裏にある、等身大の弱さがにじみ出ていた。
目元はアイラインできっちり縁取られているのに、その奥は不安げに泳ぎ、時折こちらにすがるように視線をよこす。
──そりゃ、怖いよな。
強がって笑っていても、心臓が喉から飛び出しそうなくらい緊張していてもおかしくない。
桃子さんに真実を突きつけることが、どれほど重いことか分かっているから。
俺の胸の奥まで、その震えが伝染してくる。
呼吸が浅くなって、自分まで一緒に緊張しているのが嫌でもわかる。
普通なら、黙ってればいい。他人のことなんか知ったこっちゃない。となる人も多いだろう。
こんなこと伝えてもしょうがない。となっても仕方ない、気持ちはわかる。
だけど、彼女は踏み出すのだ。
健二が言っていた、
『浮気されたやつが“自分は損した”って思うから余計辛ぇんだよ。別に人としてのの価値が下がったわけじゃないだろ?悪いのは裏切ったやつで、被害者が負けたみたいな顔するの、なんか違うだろ』
宮沢さんが言っていた、
『だって、バレなきゃいいって、それもう相手を“バカにしてる”じゃないですか。そういうの一番ムカつきます』
二人の言葉は、浮気が間違いなく悪だということ再認識させくれた。
宮沢さんがもう一つ言っていた『好きだったら許す人もいる』というのも、確かにそういう人もいるかもしれない。
ただ、許すというのは相手の浮気を知ったうえで、許すか許さないか決めるという話で、知らなければそれさえもできないのだ。
今はあの鼻曲がりくんが自分の欲望のまま、好き勝手にやって、桃子さんも傷つけようとして、さらには古野沢さんも傷つけようとした。
結果的に、
シャイニング・ウィザードを食らうという天罰は下りているが、別に許されたわけではない。
許すかどうかを決めるのは、神様じゃない。桃子さんだからだ。
桃子さんがどういった選択肢をとるかは分からない。
ただ、この事実を知る権利はある。
もしかしたら、知りたくない事実なのかもしれない。
だけど、浮気を知らない状態でも、ステイルで人目もはばからず、彼女は泣いていたのだ。
溜まっているものが、相当あったとしか考えられない。
鼻曲がりくんに対し、他の女性の影を感じて、不安になっているのも、浮気をしていてほしくない気持ちがあるからだ。
伝えることで、悩んでいる桃子さんの助けになるのなら、俺はできることはやるたい。
「まぁあれだ、できる限りサポートはする。だから、あんまり気負いすぎるなよ」
「……ありがとう……ちょっと楽になった」
古野沢さんが、ほんの少しだけ表情を緩めた。
俺の薄いフォローでさえ、助けになるなら今は御の字だ。
ふと上を見て、頭を冷静にする。
不安はもちろんあるが、考えてももう無駄だ。
──決戦の日は近い。




