11 中華鍋と炒飯と半裸
「じゃあ、私こっちだけど、証人さんは?」
駅から少し歩いたあと、分かれ道で古野沢自分の行く方向を指を差した。
もう住宅地に入っているが、彼女を指し示した先にあるエリアは塔南大学が近く、家賃が安いアパートが立ち並んでおり、学生たちがたくさん住んでいる。
俺の家とは違う方向だ
この辺に大学はいくつかあるが、塔南大学は図抜けて偏差値が高い。
古野沢さん、頭良かったんだな……。
ということは例の鼻曲がりくんも頭良かったのか。いや、4浪してたって言ってたし判断難しいな。
諦めずに、よく頑張った!と言ったところか。
「俺は……反対側だな」
「そ。じゃあ、また証人してもらう時に」
「桃子さんに伝える時な」
「うん、桃子さんには、バーのマスターさんが伝えてくれるらしいから、具体的に決まったらまた連絡するね」
「わかった」
不思議と気が重いとか、そういうネガティブな感情がない。
彼女のまっすぐな姿勢に影響されて、自分のなかで整理できてきているのかもしれない。
「じゃあね、証人さん!また」
「あぁ、気をつけてな」
小さく手を振って背を向ける彼女の後ろ姿が、街灯の下で遠ざかっていく。
こういう時、家まで送るべきなのかもしれないが、女子大生の家を知りたいやつみたいになるのも、嫌なので、大人しく帰ることにする。
古野沢さんなら、そんなことは思わないかもしれないが、気を使わせるのも本意ではないし、リスク管理ってやつだ。
なにより、あの子俺より強いし。
「……証人さん、ね」
この定着しつつある珍妙な呼び名にも違和感がなくなってきた。
妙に静かな住宅街の道を歩きながら、胸の奥に残る小さなざわめきが、次第に落ち着いていくのを感じていた。
カツーンッッ!!カツーンッッ!!カツーンッッ!!
家に帰ると軽快な鉄の音が部屋に鳴り響いていた。
「何してんの、こんな夜中に」
長い夜だった。
バーで知り合った女子と公園でシャイニング・ウィザードをきめていたギャルの彼氏が同一人物だと判明したこと。
駅で、こっぴどく振られた会社の同僚にバッタリ遭遇したこと。
そんな一日を締めたのは、キッチンで汗をかきながら、服も着ずに裸エプロンでで中華鍋を振っている同居人の姿だった。
「おう、おかえり!正寿も炒飯食うか?」
「いらん。だから何してんだよ。服着ろよ」
「冷蔵庫の米が昨日の残りだったから。あと、なんか目が冴えてさ」
「いや、カラカラいわせんなよ、下の階起きるだろ」
「大丈夫大丈夫、俺の鍋捌きは静音設計だから」
意味分かんないんですけど。
ため息をつきながらジャケットを脱ぎ、椅子に沈み込む。
健二は火を落として皿に盛りながらちらりとこちらを見て、
「で? 何その顔。今日、修羅場でもあった?」
こいつのこういう鋭さには感心すらする。
……違うな。俺が分かりやすいだけだ。
知り合って間のない古野沢さんにも、一瞬で見破られたし。
「……修羅場っていうか、まあ、色々だな」
「ほぉーん。会社でやらかした?」
「違う」
「女か」
「……」
「図星かよ!お前、そういうのもっと早く報告しろって。俺に」
「報告義務はない」
実際、この件に関係がない健二にどこまで話していいものなのか。
第三者の意見聞くって感じでもない気がする。
俺が迷っていると、山盛りの炒飯を皿に盛った健二が食卓の方に来た。
「……多くね?」
明らかに、一人で食べる量じゃない炒飯はドスンと机に置かれる。
しかも、肉やらエビやらレタスまで入っていて、もはや何炒飯なのか分からない。
「それで、何があったんだよ?」
「何があったって言われると難しい」
色々ありすぎて、何を話せばいいのか。何を話していいのか。
それに、この前、雑にシャイニング・ウィザードの件を話してしまった罪悪感がある。
「ほら、そうやって言い淀むと余計気になるんだって」
健二は炒飯を口いっぱいに頬張りながら、じろりとこちらを見た。
「修羅場ってほどじゃない。ただ……見たくなかったもんを見た」
「なにそれ、ホラー?」
「いや、人間関係のな」
健二は「ふーん」と鼻を鳴らしつつも、深掘りはしない。
まぁ、これくらいかは聞いてもいいだろう。
「なぁ、健二」
「なんだ?」
「バカみたいな顔でこっち見るな。なんか話す気が失せるから」
「おいおい、分かってねぇな。食事中の人間が一番無防備になってるんだよ」
「だったら、防御のために、服着ろよ」
「バカ、裸エプロンは男のロマンだろ」
「誰が男のを見たいんだよ」
くだらない掛け合いに、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
「健二さ……。浮気ってどう思う?」
「は?浮気?したのか?されたのか?」
「違う。いいから答えろ」
一度レンゲを置き、こちらを見る。
「浮気? そりゃあれだろ……バレなきゃセーフ!」
「は?」
予想外の答えにすで戸惑ってしまう。
そんな俺の様子に健二がしてやったと言わんばかり顔を向けた。
「いや嘘だって。俺はバレてもセーフ派」
「もっとダメだろ」
「まぁでもさ、浮気するやつって、結局“自分の欲”しか見てないじゃん。相手のこと考えてたら普通やんねぇよ」
「……正論だな」
そう正しい。普通はやらない。
これが正しい感覚のはずだ。
「でも、人間そんなに真面目に生きてないだろ」
健二は当然のように言い放つと、レンゲを口に突っ込んだ。
「俺だって、夜中にこんな炒飯作ってんのも欲のせいだしな」
「それと浮気一緒にすんなよ
「同じだって。欲に負けるのが人間。ましてや、食欲と性欲、人間の3大欲求として並べられてんだぜ?多分、そんなに大差ないんだよ、浮気すんのも夜中に炒飯食べちゃうのも」
「……論理の飛躍がすげぇな」
「けどお前、ちょっと納得しただろ?」
「してねぇよ」
そう言いながらも、心のどこかで引っかかっている。
欲に負ける。それは人間の自然な姿だ。
あの鼻曲がりくんも自分の欲を満たしていただけ。
「でも、飯とは違うのは、恋愛は相手ありきだろ?」
「そうだな」
相手がいるから、桃香さんみたいな傷つく人が出てきてしまう。古野沢さん否定しているが、全く気にしてないってこともないとは言えない。
「だから浮気はアウトなんだよ。飯はバカみたいに食って、太ったり最悪病気なっても自分に返ってくるけど、恋愛は相手の気持ち無視してやったら相手を傷つけるからな」
本当にそうだ。だからって納得はできない。
「そうだけど、だったら浮気するやつが得してないか。自分の欲を満たして勝手に満足してるだけなんだから。でも、された側はどうすればいいんだよ?」
「……損したと思ってる時点で負けじゃね?」
健二はレンゲをくるくる回しながら言った。
「は?」
「浮気されたやつが“自分は損した”って思うから余計辛ぇんだよ。別に人としてのの価値が下がったわけじゃないだろ?悪いのは裏切ったやつで、被害者が負けたみたいな顔するの、なんか違うだろ」
「……屁理屈に聞こえる」
「屁理屈だよ。でもさ、そう思わなきゃやってらんねぇ時もあるだろ。運が悪かったと思うしかねぇよ」
ひどい話だ。
恋愛の最悪な部分を見事に抽出している。
だからなのか、今も俺にはスッと心に入ってきて、簡単に納得してしまった。
「だからさ……、強くなるしかないんだよ」
「……強く?」
「裏切ったやつのことなんざ、思い出しても、『あー、そんなこともあったな』くらいで笑えるようになったら勝ちだろ」
そう言って、また炒飯をかき込む。
茶化しているのか本気なのか、わからない。けど、その曖昧さが少しだけ救いになる。
強くなる、か。
桃子さんも古野沢さんも俺も、そうなるしかないかもしれない。
「炒飯、もらっていいか?」
「おう、食え食え」
皿が差し出される。
温かい湯気と一緒に、ほんの少しだけ胸のざわめきも薄れていった。
……信じられないくらいうまいな、これ。