第二話 AI
観測所に戻ると、建物の影に停めてあった軽トラックの荷台に、洗ったばかりの長靴が逆さに干してあるのが目に入った。
ドアを開けると、ひんやりとした空気が迎えてくれる。エアコンの効き具合にほっとしながら靴を脱ぐと、奥の部屋から紙をめくる音が聞こえてきた。
「おかえり。暑かっただろう」
顔を上げた所長は、眼鏡を少しずらしながら微笑んだ。机の上には、本社からの資料と朝の観測データが広げられている。
「はい、もうすっかり汗だくです。北も南も、とりあえず異常はなしです。……この暑さ以外は」
「ははは、そうですか。大きな問題に目を瞑りさえすれば、それは何よりありがたい報告ですね」
所長はなんとも皮肉めいた口調で笑った。俺はタブレットを机に置き、さらに紙袋を差し出す。
「ついでに、漁港の奥さんから鯖を手に入れてきました」
「お、鯖か。いいなあ。焼き魚にしたら晩酌が進むぞ」
所長は目を細め、子どものように嬉しそうな表情を浮かべた。
観測所の窓の外では、ひぐらしが鳴きはじめていた。蒸し暑い島の空気とは裏腹に、部屋の中は穏やかで落ち着いた雰囲気に包まれる。
ふとした会話の間に、日常の安らぎが静かに漂っていた。
「──天気が荒れてきそうですね」
しばらくして、外に伸びる影がゆっくりと長くなり始めた頃、白石所長が空を仰ぎながらつぶやいた。外に出たときに感じた雨の気配が、現実味を帯びて近づいているようだった。
ちょうど外を眺めたそのとき、観測所の駐車場に見慣れないバンが滑り込んで来た。やがて扉が開き、一人の若い女性が軽やかに降り立つと、そのまま観測所の扉を開けた。
「失礼します! オーロラテック九州支社から参りました、藤宮栞と申します!」
はきはきとした声とともに、彼女は深々と頭を下げた。
「本日は事前にお伝えした通り、太陽フレア用の磁場観測装置の搬入と設置、そして初期オペレーションまでを担当いたします」
突然の来訪だったが、その目的はとても明快だった。
「これはご丁寧にどうも。私はこの観測所の所長を務めさせて頂いております、白石慎一と申します。どうぞよろしく」
所長は穏やかな笑みを浮かべて礼を返すと、横にいた俺へ視線を送った。
「……高梨颯介です。ここで契約観測員をしています。よろしくお願いします」
俺も軽く会釈を返す。一通りの挨拶を終えると、白石所長は改まった口調で本題を切り出した。
「さて、それでは挨拶も済んだところで、早速ご用の件を打ち合わせましょうか。私の方でも、この獅子島で磁場観測に適した場所を考えてみましたが……」
白石所長はそう言いながら、大きな地図を机に広げた。
「利便性を考えるなら、この観測所の裏庭に設置するのが最も効率的でしょう。ただ、近隣の集落や送電線が、磁場観測に干渉する恐れがあります」
指先で地図をなぞりながら、所長は続けた。
「となると、残る候補は島の北と南にある観測地点です。──さて、藤宮さん。あなたはどちらが適していると考えますか?」
それは、この島に来たばかりの新参者に答えられるはずのない問いだった。まだ現場も見ていない彼女には判断しようがない。所長がこうして唐突に問いを投げかけるのは、意地悪ではなく、若手の見識を測る彼の癖だった。
だが、藤宮は少しも怯むことなく地図を覗き込み、少し考えたあと、さらりと答えた。
「装置の仕様上、周囲数百メートル以内にある人工的な磁場は避けたいところです。北の観測地点は風の通りが強く、送電網からも離れているので理想的ですが、急峻な地形が輸送やメンテナンスの負担になります」
「一方で南側は地形がなだらかで搬入は容易ですが、海風の潮気が強く、装置の耐久性を損ねやすいと考えられます」
「設置後の安定稼働を考えるなら──……北側が望ましいと思います」
即座に示された答えは、場当たり的な推測ではなく、装置の特性と土地条件を踏まえた理路整然としたものだった。
白石所長は一瞬、意外そうに目を細め、それから満足げに口元を緩めた。
しかし、なんと彼女の解答はそこで終わってはいなかった。
「──ただ、所長」
藤宮は一呼吸おいて、地図の中央を指さした。
「北と南、それぞれ利点と欠点はありますが……装置の性能を最も安定して発揮できるのは、この中央部の展望台付近だと思います」
その提案に、所長がわずかに眉を上げる。
「周囲に大きな集落も送電線もなく、磁場への干渉が最も少ない位置です。標高もありますから、沿岸よりも外乱が抑えられますし、塩害のリスクも低いです。輸送ルートを考えても島の中心なら北と南のどちらからもアクセスでき、メンテナンス性も悪くありません」
彼女の声には、驚くほどの確信があった。まるで現場を歩いて見て来たかのような、妙な説得力さえ漂う。
「観測データの精度と装置の寿命を両立させるなら──第三の選択肢として、この展望台周辺が最適だと考えます」
「──……ふっ、ふっふっふっ……。いや、失礼」
所長は思わず笑いを漏らした。その笑いには嘲りの色はなく、期待以上の答えを聞いた喜びが滲んでいた。
「いや、実にすばらしい。……ただし、その案を採用するとなると、相応の基礎工事や電源設備が必要になってしまうでしょうね」
しかし、その指摘にも彼女は即座に切って返した。
「ご心配には及びません。今回導入する当社の磁場観測装置は、観測センサーに加えて太陽光パネルと蓄電池、通信モジュールを一つのパッケージとして提供する、どんな場所にも対応できる完全なスタンドアローン型です。設置場所を決めて固定すれば、その日から稼働可能です」
「ほぅ、なんと……」
所長は目を丸くし、俺は思わず彼女に視線を向けた。
「もちろん、自治体への設置許可や周辺環境の調査についても、事前に手続きを済ませてあります。島の方々に余計なご負担をおかけすることはありません」
そう言って軽く微笑む彼女の顔には、若さに似合わぬ自信に満ちていた。
俺は唖然とした。最新型観測装置の性能に、ではない。彼女の仕事っぷりに、だ。
まだ若そうに見えるが、事前準備の周到さは誰から教わったのだろうか。世間の仕事の仕組みというものが分かっていないとできないような段取りの立て方は、熟練の職人を思わせるほどのものだった。
その横で、しばしの沈黙ののち、白石所長は深くうなずいた。
「──よろしい。では、展望台への設置を前提に動きましょうか」
「ありがとうございます。準備はすでに整っていますので、すぐに搬入を始められます」
藤宮はそう言うと、持参したタブレットを軽く操作し、設置場所の指定と、工程の進捗を記録した。
「来て早々ですが、今から向かいますか? 明日は天気が荒れそうですからね」
所長の提案に、彼女は迷うことなく即答した。
「では、高梨くんも一緒に。今日は設置作業が終わったら、そのまま直帰してもらっていいからね」
「──あ、はい、わかりました」
あまりにトントン拍子で進む展開に、俺は慌てて返事をすると、軍手をはめながら外へ向かう。そのうしろを彼女は軽やかに付いてきた。入口で彼女を待ってから扉を開けた瞬間、熱気を帯びた湿った空気がまとわりつき、思わず息を詰まらせた。
駐車場に停められたバンの後部には、黒いケースがいくつも整然と並んでいた。それらはしっかりと固定され、少しの揺れではびくともしない頑丈さがうかがえた。
「高梨さん、それでは向かいましょう」
藤宮はそう言って、迷いなく運転席へ乗り込んだ。ナビがあるとはいえ、島の道は細く曲がりくねっている。土地勘のある自分が運転するべきでは……と一瞬思ったが、彼女はすでにシートベルトを締め、ハンドルを握っていた。今さら口を出すのは、お互いにとって良いことなど何もない。
俺は助手席に乗り込み、少しぎこちなく窓の外に目をやる。動き出した車が、夏草に覆われた細い道を通り、展望台のある方角へと向かっていった。
しばらく車を走らせると、藤宮の方から話しかけてきた。
「──高梨さんは、この島に長く滞在されているんですか?」
「俺は……、この島で生まれました」
初対面の人間への当たり障りのない質問に、わざわざ取り繕う必要もなく、正直に答えた。
「えっ?! そうなんですか。意外ですね……」
彼女は驚いた様子だった。何が意外なのか良く分からなかったが、まあ確かに、この島から出て行こうとしない若者はめったにいないだろう。俺だって今の仕事がなければ、とっくに出ていたかもしれない。
少し間が空き、今度は俺の方から、義務であるかのように質問した。
「──藤宮さんは、お若いのにずいぶん仕事に慣れているように見えますけど、経験は長いんですか?」
彼女は前を向いたまま、ハンドルから注意を外さずに答えた。
「そう見えました? 実は私、離島での設置業務はこれが初めてなんです」
思わぬ返答に、俺は思わず横顔を見やる。
「もちろん現地の資料は一通り調べてあります。でも……さっき言ったように、この製品はすべてパッケージ化されていて、設置手順から客先対応までマニュアルに落とし込まれているんです」
自嘲気味に答えると、彼女はクスリと小さく笑った。
だが、その言葉を俺は額面通りには受け取らなかった。そうは言っても、彼女は優秀だからその要求に応えることができているのだ。それは、第一印象や所長の反応を見れば明らかだった。
しかし、彼女が最後に付け加えた一言が、不意に俺の胸をざわつかせた。
「それに──今はAIが微調整までしてくれますし」
俺の耳には、その最後の言葉の方が悪い冗談のように聞こえた。
「……AIの微調整ってなんですか?」
考えるより先に、言葉が口をついて出る。
「例えば──資料をもとに磁場観測装置の設置場所の候補を挙げてもらったり、設置に必要な付帯業務の見落としや、想定されるトラブルへの対策をアドバイスしてもらったりですね」
藤宮は淡々と説明を続ける。
「それと今回は……島の方々とどう接するべきか、なんてことまで聞きました。普段はそんなことしないんですけど、初めての現場ですから。失敗はしたくなかったんです。──気に障りましたか?」
視線は前方の道路に注がれたまま。それでも彼女の声音には、ほんのわずかに不安の色が混じっていた。
俺は答えられなかった。気分を害したわけじゃない。ただ、言葉を失っていた。
AIにそんな使い方があるとは思いもしなかったからだ。設置場所の選定や危機対応ならまだしも──人との接し方まで。島に生きてきた自分にとって、人との関わり方は土地柄や習慣の積み重ねで、時間をかけて身につけるしかないものだと信じていた。
それを、彼女は平然と「AIから教わった」と口にする。──人が学び、積み上げてきた経験の領域にまで、機械が入り込んでいるのか。背筋を、冷たいものがすっと走る。
最後の言葉など、彼女は言わないこともできたはずだ。それとも、それも「言った方がいい」とでもAIが助言したのだろうか。そんな邪推が頭をかすめたが、それを口にするのは躊躇われた。
藤宮栞という人間が、急に掴みどころのない存在に思えてくる。自信に満ちた若手技術者なのか、それともただAIの声を借りているだけなのか、人間の俺には判断がつかなかった。
沈黙のまま気まずい時間が流れる。そのまま会話は途切れ、バンは目的地の展望台へと辿り着いた。
──しかし、そうは言っても人間性と業務は関係ない。俺は気持ちを切り替え、作業に集中することにした。
バンから降ろした黒いケースは、一つ一つが女性でも無理なく持ち運べるほどの重さに抑えられていた。細かいところまで配慮が行き届いた設計だと感心しつつ、黙々と運ぶ。
「助かります、高梨さん。やっぱり二人いると全然違いますね」
藤宮が軽く息をつきながら笑った。業務的な口調ではなく、少し肩の力を抜いた声色だった。気まずかったのは俺のほうだけじゃなかったのだろう。
「俺の方こそ。藤宮さんも、こんな機材をこの島まで持ってくるなんて、大変だったでしょう」
思わずそう返すと、彼女はふっと目を細めた。
「そんなことないですよ。ただ……船酔いだけは、どうしようもなかったですけどね」
そう言って思い出すように鼻をすする仕草は、子供のようにすら見えて、俺は少しだけ拍子抜けした。
黒いケースをすべて下ろし並べ終える頃には、重苦しかった沈黙も和らぎ、二人の間には自然と作業のリズムが生まれていた。器材を取り出し、組み立てていく彼女の手際はやはり見事だ。何の知識もなくAIに頼っているだけでは、とてもこうはいかないだろう。
だが、そう思った矢先──
「……これ、裏表逆ですよ」
俺は思わず口にしていた。彼女が太陽光パネルを逆に取り付けようとしていたのだ。
「えっ? ……あ、本当だ……」
気まずそうにパネルを持ち直すその姿は、ひどく慌てていた。
一度でも現場に出ていたら絶対にしないミス。──悪いと思いながらも、AIでもしないような失敗をする彼女に、俺はつい苦笑してしまった。
AIに頼る彼女に、俺の方が過剰に妄想を膨らませていたらしい。AIを使おうと使うまいと、彼女自身の仕事や人間性が機械に支配されるわけでは決してないのだ。
汗と笑いが混じる共同作業の中で、俺はようやく、藤宮栞という人物の温度を、ほんのわずかだが確かに感じ取ることができた。
夕暮れが島の草木を朱に染め始めた頃、ようやく観測装置の設置を終えた。
パネルやセンサーが整然と固定され、バッテリーや通信モジュールも正常に稼働していることを確認すると、藤宮は満足そうに小さく息をついた。
俺は装置を最後に眺め、手にした軍手をそっと外す。夕暮れの少し涼しくなった風が、汗ばんだ頬を撫でる。
「……これで、今日の作業は完了ですね」
「はい、無事に設置できました。ありがとうございました」
空の黒いケースを積み込んで、バンに乗り込むと、島の細い道をゆっくりと戻る。二人とも炎天下の作業で疲労し、おしゃべりする元気はなかった。沈黙の中で、時折窓の外を流れる景色に目をやる。向こうに見える淡い橙色の光に照らされた海原が、疲れた体をそっと癒してくれるようだった。
彼女が泊まる民宿は、ちょうど俺の家の近くを通る道沿いにあった。そこまで送ってもらったところで、車を降りる。
「今日はお疲れ様でした。また明日、観測所でお会いしましょう」
「はい、こちらこそお疲れ様です。高梨さんにお手伝いして頂いて助かりました。明日は、今日できなかった機器の運用方法をお伝えします。よろしくお願いします」
最後まで礼儀正しく、そして仕事熱心な藤宮の姿に、俺は背筋が伸びる思いだった。
夕暮れの光はすでに薄れ、島に夜の静けさが降りていく。疲労の中で、つい先ほどまでの一日の出来事が、夢に沈むように静かに夜の中へ溶けていった。




