第十三話 嘘
北側の観測地点に着くと、俺はいつも通り外装の清掃や可動部の動作確認を済ませる。
そしてその間に、藤宮は持参した黒いハードケースを取り出し開けた。中には携帯型の基準器やテスターが整然と収められている。
彼女は慣れた手つきで機材を取り出すと、ケーブルを接続し、各センサーの出力を順に測っていった。
風速計は基準器の値と照らし合わせ、湿度センサーは測定器を傍らに置いて比較。通信回線は端末を繋ぎ、パケットの送受信ログを確認する。電源部にはテスターの端子を当て、電圧の値を読み上げる。
「各センサーの値はすべて標準器と誤差の許容範囲内。通信パケットロス、規定値以下。電源電圧も安定──」
藤宮はマニュアルに並ぶチェック項目を、決して手を抜かずに一つ一つを丁寧にこなしていった。その姿は真面目そのもので、信頼できる仕事ぶりを見せてくれた。
「──はい、完了しました。問題は一切ありませんでした。では、次に向かいましょうか」
そう言うと、彼女は手早く機器を片付け始めた。すべての機材を収め、バチンッ! と力強くケースを閉める音が、何とも心強く響く。俺はその音に命令されたかのように、車を次の中央展望台まで走らせた。
エンジン音と、タイヤが荒れた舗装路を噛む低い振動だけが車内を満たしていた。
そんな中で、助手席の藤宮は再び窓を開け、外を眺めながら少し柔らかい声を発した。
「……やっぱり、この島は特別ですね。仕事で来ているのに、どこか落ち着くというか」
この獅子島の環境が一般的な日本の生活と比べて特別に見えるのは、この島で生まれ育った俺にもわかる。でもそれは、いい意味での「特別」とは考えられなかった。
「落ち着くか……。そうかもね、一応観光地ではあるけれど、テーマパークがあって人が賑わうわけじゃないから。
でも、それも不便なだけだよ。夏休みも過ぎたら人も来ない、ただ田舎の漁港なんだから」
そんな俺の言葉を、窓の外を見ながら聞いていた彼女の声は、もっと柔らかくなった。
「そうかなー。今はリモートワークもあるし、物資の輸送もドローンを使えば、不便さは大きく改善できそうな気がします。
少しずつ便利に進歩していく暮らしが、こんな自然に囲まれて続いていくなんて、夢みたいだと思いません?」
俺はそれを聞いて、素直に夢みたいだと思ってしまった。
日々のニュースから、一つ一つの技術がどういうものかは知っていた。だが、それを自分の生活に取り入れて、今の生活様式を大きく変えようなんて思ったことは無かった。確かに、実現しようとすれば、いくつかの問題をクリアする必要はあるだろう。でも、数年前までは手が届かないどころか、視界にすら入らなかった世界が、実はもう手元まで届いている。そう考えると、本当に夢みたいだと思えた。
それを想像してニヤつく俺の顔を、窓からこちらに視線を映した藤宮の瞳が捉えていると気付いた時、何ともいたたまれない気持ちになった。
車内には再びエンジン音だけが満たされる。けれど、藤宮が残した沈黙には、ほんのりとした熱が宿っているのを、俺の肌は感じ取っていた。
しばらくして、磁場観測装置のある展望台に到着した。
ここでの作業も先ほどと大きく変わりはしない。ただ、この装置が検出している磁場ノイズが、今日の定期メンテナンスが前倒しされた理由であるため、チェック項目は多岐に渡り、検査は入念に行った。
そのぶん、いつもの点検よりも時間を要した。俺も自分の作業をしつつ手伝ったが、藤宮の仕事ぶりは鮮やかで、下手な手出しはかえって逆効果になるのは明らかだった。
そこで、俺は観測所に帰ってからの仕事が少しでも楽になるように、北側の観測地点で取ったデータの整理や、活動報告書を手持ちの端末で作成していた。
そんな時、藤宮は確認作業の手を止めることなく、ふと口を開いた。
「──高梨さんは、この島を離れたことはないんですか?」
唐突な問いに少し驚いたが、さっきの話の続きとも思えなくもない。自分の経歴なんて大したものじゃないが、隠すようなことでもない。
「うん、高校は島外にしかないから、その時ぐらいかな。
俺は勉強は得意じゃなかったし、特にやりたいこともなかったんだけど……ちょうど卒業の時に、この仕事の求人があってね」
取り立てて語るほどのこともない、ただの平凡な人間の過去を口にした。
藤宮は視線を計器の数値に向けたまま、小さく息を吐いて微笑んだ。
「……いいですね。そういうふうに、自然に流れに身を任せられるのって。
私なんか……気づけばずっと、やらなきゃいけないことに縛られてきた気がします」
視線をこちらに向けなかったのは、忙しいせいか、それとも、器用なのか、俺には分からなかった。
「──そういえば、橘さんと出会ったのは、この磁場観測装置がきっかけなんだよね」
昔のことを話して、それを打ち消したかったのか、自然と俺の口は軽くなっていた。
「あの人、ここで作業してた俺に、観光客のふりして近づいてきてさ……。
それなのに、ちょっと疑ったらすぐ名乗って。……あれ、何だったんだろう」
俺は笑みを浮かべながら、聞かれてもいない事をぺらぺらと喋っていた。別に深い意図があったわけじゃない。ただ藤宮もさっき話しかけてきたし、少しでも場が和めばいい──その程度の意味しかなかった。
けれど、彼女からは何の言葉も返ってこなかった。作業に集中していたせいだろう。そう思って、言葉の途切れた沈黙も、特に気には留めなかった。
ここでの作業も問題なく終わり、最後の南側の観測地点へと俺たちは向かった。
太陽が昇りきった車の外は熱気に焼かれ、もう朝のような心地よい風は吹いていない。藤宮もそれが分かっているようで、窓を閉じたまま真っすぐ助手席に座っていた。
「暑くないですか? クーラー強めましょうか」
俺は返事を聞く前に、身を乗り出してパネルに手を伸ばした。
「いえ、大丈夫です」 ──その言葉に、押しかけた指を止める。
手を離して体を戻した瞬間、藤宮がふいに口を開いた。
「……橘さんを観光案内した時って、どこに連れて行ったんですか?」
その何気ない問いかけに、俺の時間は一瞬止まり、息を呑んだ。喉の奥に棘が突き刺さる。さっきの仕返しをしているかのようなその質問に、答えを探そうとしても言葉が出てこない。
そんな俺の動揺を感じていないのか、あるいは気づかぬふりをしているのか、藤宮は変わらぬ調子で言葉を継いだ。
「さっき、言ったじゃないですか、ここはただの田舎の漁港だって……。
だから、観光するような場所があるのかなって、ちょっと気になっただけです」
さらりと言い切るその横顔は、感情を読み取らせてくれない。
俺は心を落ち着かせるように深く息を吐き、彼女の問いにようやく答えた。
「ああ、きれいな海の眺めが一望できる展望台があるんだよ」
その答えは、当たり障りのない説明のつもりだったが、それを聞いた彼女はこちらを振り向いて、屈託なく微笑んだ。
「そんな素敵な場所から見る獅子島の海は、とっても綺麗だろうな……。私も見に行きたい」
不意に向けられたその笑顔は、子供のようでもあり、からかわれているようでもあった。
俺は少し迷ったが、その言葉と笑顔を無下に扱うことは、できなかった。
「……それじゃ、次の観測地点が終わったら、最後にちょっと寄り道しようか」
何も手の込んだ大仰な設備があるわけでもない、そこにあるのは無人展望台だ。それでもいいならと、俺は軽い調子で答えたつもりだったが、彼女の反応はまるで予想外だった。
藤宮はぱっと花が咲くように、今日一番の笑顔を見せた。それは本当に子供のように素直で、不思議と胸の奥の緊張まで和らいでいくように感じられた。
南側での観測地点での藤宮は、心なしか気分良く仕事をしているように見えた。
俺の思い過ごしならそれでもいい。ただ、そんな彼女を見ていると、俺まで気分よく仕事を進められた。
測定値を書き留め、最後に機材のチェックを済ませる。すべて滞りなく終わったことにひと息つくと、それを先回りして急かすように助手席へと乗り込んだ。
そんな期待に応えるように、俺は展望台の方へと車を走らせた。
罪悪感がなかったわけじゃない。展望台が近づくにつれ、俺の脳裏には橘の姿がちらついた。
それでも──こんなに嬉しそうな顔を見せる藤宮を助手席に乗せておいて、今更引き返すなんてあり得ない。そんなことをすれば、今後の仕事に支障が出るどころか、修復不可能な亀裂を生みかねないだろう。
ふと、考える。俺は藤宮をどう思っているのだろうか。立場上は一応、社会人として先輩であり、年上でもあるが、さほど年が離れているわけではない。けれど、俺から見て彼女は時折、とても子供っぽく映る。
この離島の観測所で契約社員として働く俺よりも、藤宮はずっと優秀で、仕事も真面目にこなしている。それなのに、あの幼さはどこから来るのだろう。
気づけば俺は、橘とはまた違う類の魅力を、藤宮に感じ始めていた。
展望台にたどり着くと、俺と藤宮は柔らかい地面の遊歩道を抜けて、その先に張り出した展望台へと足を踏み入れた。
視界に広がったのは、あの日と同じ一面の青の世界。ただ、よく目を凝らせば、空はほんのり白く霞みがかり、真夏のように鋭かった陽射しもどこか柔らいでいる。吹き抜ける潮風にはまだ以前として熱を孕んでいるが、その中にはわずかな秋の気配を感じさせる匂いが紛れていた。
息を呑むほどの大パノラマが広がる景色を前に、藤宮は風に髪をそっとなびかせながら、ゆったりと腕をのばすように視界を見渡していた。その表情は、笑顔とも違う、仕事から解き放たれたような、優しい安らぎに満ちていた。
「絵の中にいるみたい……」
彼女のそのかすかな囁きは、同じ海を見ている俺の胸にさざ波を作る。
同じ場所で、同じ言葉を言った藤宮の感動は、きっと橘と同じものだ。ここから見える絶景には、そうさせる力があるのだろう。ただ、橘とは違うと思っていた藤宮が、同じところで結びついたことに、俺の胸には静かなざわめきが広がっていた。
帰りの車の中では、俺たちは言葉少なだった。それでも、藤宮の満たされたような眼差しが、何よりも印象深かった。
窓の外に広がる景色よりも、藤宮の横顔の方が、俺の意識を奪う。そんな自分の気持ちの変化に気づくのが怖いのか、確かめたいのか分からないまま、俺はハンドルを握り続けた。
観測所に戻ると、所長がいつものように出迎えてくれた。
俺と藤宮は、まず今日の点検に異常がなかったことを口頭で報告し、そのまま手早くデータを整理して、報告書にまとめ上げ提出した。
それから、所長の決裁を受け取ると、藤宮は早速九州支社へと戻る準備を始めた。
「では、私はこれで九州支社へ戻らせていただきます。本日はありがとうございました。何かありましたら、またご連絡ください」
はきはきとした口調で別れを告げ、深々と頭を下げるその姿は、初めてここに来た日の彼女を思い出させた。
「うん、こちらこそ、君の尽力に感謝しているよ。ありがとう」
所長も同じように頭を下げ、労いの言葉を返す。
俺はそのやり取りを横で見ながら、無言で軽く会釈した。言葉をかけようとして、どんな言葉を送ったらいいのか迷った。
「またおいで」 そんな一言すら言うことを躊躇って、結局、喉の奥で飲み込んだ。
玄関を出ていく藤宮を目で追いながら、その背中を見送ると、そこに橘の影が重なって見えてしまった。
──藤宮が去った後、俺は気持ちを切り替えて、机に向かって残務をこなした。
しかし、端末にリズミカルに続く文字列と違って、頭の中は妙に落ち着かなかった。考えない様にすればするほど、つい余計なことを思い出してしまう。
藤宮は俺のことをどう思っているんだろう。
初めてこの島に来て、磁場観測装置を取り付けに行ったときは、今日みたいな素振りなんてまったく見せなかったはずだ。……いや、今日だって、本心からただ気晴らしに観光がしたかっただけなのかもしれない。それならそれで、楽しんでもらえたようだから結構なのだが……。ただ──もしそうなら、別に相手は俺じゃなくてもよかったんだろうか……。
そんなことを考えながら、モニターに映る作業画面を見つめ、しばらく、モヤモヤしながら仕事を進めた。
しかし、その時、ふと、あることに気づいた。
藤宮は磁場観測装置の設置位置を選定するために、この獅子島の地形や施設を一通り調べていたはずだ。狭い島だから網羅するのは難しくないし、彼女の仕事ぶりからすれば、それは簡単なことだろう。
だから──彼女は知っていたはずだ。この島にあの展望台があることを。
藤宮は知っていて、わざと嘘をついた──それに気づいた時、俺はその嘘をまったく不快だとは思わなかった。それどころかその不可解な行動は、むしろ胸の中をほのかに温かくさせた。
そういえば、橘だって最初に会ったとき、俺に嘘をついた。
それはつまらない身分詐称で、良心の呵責があったのかすぐに白状してしまったけれど……。
あのときも今回も、二人のその嘘の底には、もしかしたら同じ感情が眠っていたりするのだろうか。
──どうして、俺なんかに好意を向けてくれるのだろう。
いや、それは大きな誤解で、ひょっとしたら、二人とも単なる気晴らしに、俺を弄んでいるだけなのかもしれない。そんな邪推も頭をよぎる。
でも、それならそれで、二人が喜ぶならそれでもかまわない。二人の笑顔は、俺をそんな気持ちにさせていた。




