第十二話 承認欲求
その会話の後、橘はほんの少し肩の力が抜けたように見えた。張り詰めていた表情に、わずかに柔らかさが戻っている。
けれど、それで彼女の抱えている問題が消えたわけではない。所長と何を相談していたのか、俺には詳しくは分からない。そもそも、彼女の専門である地震予測についての知識など、俺にはほとんどないのだから。
本当に、研究が行き詰まったことが、彼女をそこまで追い込んでしまったのだろうか。研究というものは、それほどまでに心身をすり減らすものだろうか。もちろん、すべての研究者に当てはまるわけではないのだろうが、その重さを推し量ろうにも、俺はそれが測れる物差など持っていなかった。
これまで冷静で聡明に見えていた彼女の印象からは想像できなかった姿に、俺は戸惑いと同時に、彼女をなにも理解していない事を知った。
橘は、その後もしばらく所長と会話を交わしていた。
彼女にとって、白石慎一という名はやはり特別な意味を持つのだろう。少なくとも、この小さな観測所の所長という肩書きを頼りにしているわけではないのは明らかだった。
やがて、橘は椅子から立ち上がると、深々と頭を下げてから部屋を後にした。
自然と体が動いていた。別れの言葉もなく出て行った彼女を追いかけ、観測所を出たところで声を掛けた。
「橘さん! 車で送りますよ」
足を止めた彼女は、こちらを振り返ることなく小さく頷いた。その仕草には、まだどこか沈んだ影が残っていた。
俺は橘を港まで送り届けた。
バックミラーに映る彼女は何もしゃべらず、ただ窓の外を眺めている。気まずい沈黙が続いたが、無理に言葉を探すよりも、俺はこのままのほうがいいと思った。
結局、最後まで一度も口を開かないまま、助手席には座らなかった彼女を降ろした。
俺は、フェリーの出発を待つ彼女を残し観測所に戻る──つもりだった。
「出発まで、少しお話しましょうか」
そう声を掛けられた橘は、嫌な顔はしなかったが、嬉しい顔もしなかった。
それよりも、自分から話しかけておきながら、どんなことを話せばいいのか、俺は悩んだ。
ふと、”理解してもらえないことの方が遥かに多い”──橘がそんなことを言っていたのを思い出した。
確かに、それはよく分かる。他人とはそういうものだと割り切りながら、俺も人付き合いをしてきた。
けれど、彼女が言った”理解してもらえない”とは、具体的に何を指していたのだろうか。成果が出ないことへの苦悩、成果主義による評価の不満、チーム研究ならばそこに軋轢も生まれるかもしれない。
考えれば考えるほど、俺が橘にしてやれることなど何もないと痛感した。
「──橘さんは、あのノイズ信号がどんな意味で送られていると考えますか?」
結局俺は、観測所での話の続きをすることしかできなかった。
「……それは、やっぱり”知らせ”じゃないかしら。
何か伝えたいから口にする──それは、生命がもつ自然な欲求でしょう」
彼女はそんな俺の問いに、とても静かに落ち着いて答えた。
「そうですね。それは未知の生物が持っていても、不思議ではないですね」
そんなありきたりな受け答えから、俺の内心を見透かすように、橘はふいに問いかけてきた。
「──もし、完全に自己完結してる完璧な生命体が、宇宙のどこかに存在するとしたら……なんて考えたことある?」
なぜこんなことを切り出したのか、この時まだ、俺には分からなかった。
「人智を超えた、神様みたいな……SFとか漫画に出てくるような存在なら」
思いつきをそのまま口にした。
「そうね。生命体と呼べるかは分からないけど、もし全知全能の神のような存在が宇宙のどこかにいるとしたら──果たして、人間に興味を持つかしら?」
神様の考えなんて分かるはずもない。素直にそう言ってもよかったが、神様にも気まぐれというものもあるだろうと、俺は軽く返した。
「持ってもおかしくはないんじゃないか?」
「そうかしら?」 橘は即座に切り返してきた。
「完全に自己完結し、全知全能の完全なる知性を持った存在に、他者へと向かう欲求なんて生まれると思う?」
俺の単純な考えに対して、彼女の考えは論理的なものだった。
本能的な欲求すら自己で完結し、未知という概念すら存在しないのなら──他者は不要なものとなる。そんな存在は、欲望という概念すら持っていないのかもしれない。
言い負かされた悔しさよりも、彼女が言いたいことの方が、俺は気になった。
「──そう、だからノイズ信号を送ってきているのは、そんな途轍もない存在じゃない。
彼らなりの都合や、欲求を持って送ってきているのよ」
全く未知である存在の思いがけない人間らしさに、俺は思わず笑ってしまった。
「ふふっ……、なるほど、とても人間らしい話ですね」
「そうね。案外、人間らしさというのは宇宙で共有できるのかもしれない。
自己では完結しないから、他者を求める──それはひょっとしたら、大宇宙の中でさえ普遍であるかもしれない」
少し遠くを見ているような橘の瞳は、一度閉じられると、口元を緩ませて再び開いた。
「何かを伝えたいという欲求は、相手を知りたい裏返しなのよ」
その一言に、俺は胸を撃ち抜かれた。
そうか──俺は、橘を理解したいと、もうすでに心の奥で願っていたんだ。
橘の職場での立場や仕事について、俺は何も知らない。知ろうとも思わない。それは冷たく突き放すという意味ではなく、干渉するべきでない事だと思っている。
今日この島に、俺ではなく、所長を頼って来たことが、彼女も俺にそれを望んでいないということを示している。
じゃあ、俺は彼女の何を知ろうとしているのだろうか。
彼女が俺に好意を向けてくれたから、それに応えたいのだろうか。
それとも、ただ自分の存在価値を確かめたいだけなのか。誰かに必要とされたいという、安っぽい欲求にすぎないのかもしれない。
そんな打算と衝動が、頭の中でぐちゃぐちゃに絡まり合う。
俺はそんな混乱の中から、はっきりとした答えを出すことができなかった。
そして、フェリーが出発する時間が訪れた。
当然のように席を立つ彼女を止める言葉を、俺は言うことができなかった。
振り返ることなく船内に消えていく彼女を、俺もまた見送ることなく立ち去ると、車に乗り込み観測所へと走らせた。
◆
そのあとは、またしばらく穏やかな日々が続いた。
特に異常が起きることもなく、かといって所長たちのデータ解析に目立った進展があるわけでもない。
その日、外回りを終えた俺は、なんとなく気になって所長に磁場ノイズの解明がどれほど進んでいるのかを尋ねてみた。
所長の返事は、「特に問題もなく、順調に推移しているよ」というあっさりしたものだった。その回答に拍子抜けしつつも、そういうものかと納得する。
考えてみれば、所長たちが行っているのは、もう未知のパターンを探し出す段階ではなく、すでに得られたモデルや仮説の精度を上げる段階なのだろう。それならば、大胆な発想で新しい発見をするよりも、外れ値の処理やパラメータ調整といった地道な作業の積み重ねが中心になっているはずだ。
学校のテストで言えば、40点から60点に引き上げるのと、60点から80点に伸ばすのとでは必要な労力がまるで違う。それをグラフにすれば、きっと努力と成果の関係はまっすぐ比例せず、非線形的な曲線を描くはずだ。だから、同じ20点の差でも、その重みには明確な違いがある。
まして、さらに100点を目指そうとする努力となれば──それをテストから現実問題に置き換えた時、非現実的であるほどの労力が必要になるのかもしれない。
まあ、100点を目指そうとしたことのない俺が、断言できることではないが……。
そんな俺でも、ここ数週間の勉強で、やっとデータ解析のおおまかな流れを掴めるようにはなっていた。だから、所長からもう少し専門的な話を聞き出して、今の俺がどこまで分かっていて、まだ何が分からないのかを確認したい気持ちはあった。だが所長も、決して余裕を持ってこの研究を進めているわけではない。俺がそれを邪魔するわけにもいかなかった。
外からは静かで穏やかに見えても、内心では大きな重荷を抱えているのかもしれない。──橘の一件が、俺の足を止めていた。
それに、それよりも気になることが、業務用の端末に届いていた。
それは、”定期メンテナンスを名目に、藤宮がまたこちらに来る”という内容のメールだった。
まだ設置からひと月も経っていないのに、定期点検というのはさすがに早すぎる。しかし、ここの磁場観測装置はノイズが発生し、その解決は出来ていないのだから、その本格調査を兼ねて前倒ししたのかもしれない。
だが送られてきた文面は、どこにでも送るような定型文で、そこから意図を読み取ることはできなかった。
この件を所長に相談してみたが、返ってきた答えは「あまり気にすることもないだろう」のひと言だった。
確かに、もし所長の偽の報告書がバレていたら、もっと大事になっているだろうし、藤宮も業務連絡メールの中に、おかしな内容を残すほど馬鹿じゃないだろう。
考えてみれば、所長の言う通り、気にする必要はないのかもしれない──。
◆
翌日、藤宮はとても早い時間に顔を見せた。
この獅子島へ渡るフェリーの発着時刻を考えると、かなり朝早くから準備したはずだが、そんな気配は少しも見せず、いつものように明るく挨拶をしてくる。
「白石所長、高梨さん。おはようございます。本日もよろしくお願いします」
その声に引っ張られるようにして、朝から観測所はいつもより慌ただしい空気に包まれた。
さっそく、前倒しになった定期メンテナンスの件を本人に尋ねてみた。
「はい、今回の件は私の方から提案したんです。磁場観測装置のノイズ対応という形にすれば、不自然にはなりませんから」
やはり、何か問題が起きたわけではなかった。仕事出来な彼女の配慮であって、心配するようなことはなく、俺はほっと息をついた。
「私の上司も、ノイズの件で私を厳しく問いただすようなことはありませんでした。白石所長が提出してくださった報告書に納得していたみたいです」
藤宮はそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。その笑みに、少し良心が痛んだのは俺の方だった。けれど実際には、彼女の方がよほど腹をくくっているようだった。
「それよりも──九州支社で今一番の話題は、太陽フレアの磁場観測データの売れ行きです。なんでも、この短期間でこれまでの営業成績の記録を塗り替えたそうで……」
「今、会社全体でも太陽フレアの磁場観測に関わる仕事の優先順位が、一番高くなってるんです」
彼女は誰に聞かれる事もないこの場所で、耳打ちするような仕草で話した。
「それもあって、私もこの定期メンテナンスの前倒しを提案してみたんです。そしたら、何の審議もなくあっさり通ってしまいました」
肩をすくめて見せながら、彼女は苦笑を浮かべる。
「本社の上層部は、こんな小さなノイズのことなんて、今は眼中にないじゃないでしょうか」
それは会社の人間としては喜ぶべきことなのかもしれない。だが、素直にそう思うことはできなかった。
(きっと今ごろ上層部は、少しでも長く、この異常な太陽フレアが続くことを願っているに違いない)
口には出さなかったが、そんな思惑が透けて見える気がして、何とも皮肉な話に思えた。
いつもは行わない朝のミーティングを終えると、俺は藤宮と二人で巡回に出ることになった。
彼女は自分のバンからメンテナンス機材を取り出し、こちらの社用車へと移す。俺が手伝おうとした時には、荷物は思いのほか少なく、すでに作業は終わっていた。
そうして彼女を助手席に乗せ、俺はいつものように、まず北側の観測地点へと車を走らせた。
細い沿岸道路をしばらく走ると、藤宮は窓を開け、ふと笑みを浮かべて口を開いた。
「この島の朝の空気はいいですね。海風の匂いが混じってて、本土とは風が全然違います」
そんな肩の力が抜けた彼女の横顔を見ながら、俺もその調子に合わせる。
「夜が少し長くなったおかげで、やっと朝が過ごしやすくなったからね」
澄んだ空気と会話の中で、俺はハンドルを握りながらも、胸の奥がどうしようもなくざわめいた。
藤宮をこんなことに巻き込んでいる罪の意識と、彼女を助手席に乗せている背徳感は、俺の中の天秤をゆらゆらと、車の振動に合わせて揺らしていた。




