第十一話 タグ
所長が完全に酔いつぶれてしまい、送別会もそのままお開きとなった。
所長と旧知のここの店長は、「後で送るから、寝かしたままでもいい」と言ってくれたが、明日のこともある。俺は店長の助けを借り所長を車に運んで、他の二人と一緒に店を出た。
店の明かりから離れると、途端に静かな島の夜が広がる。波の音と虫の声だけが耳に残った。先ほどとは打って変わって、暗く静かな時を楽しむように、揃って口を閉ざしていた。そんな中、時折漏れる所長の寝言に、口元を緩ませた。
まず、所長を家まで送り届けた。中から家人の文句が漏れ聞こえたが、所長には届いていないようだった。
そして、次に橘を宿に送った。降り際に橘が、いつもの調子で軽く手を振りながら言う。
「それじゃ──。ねえ……また今度、助手席に乗せてくれる?」
「──ええ、いつでも」 軽口に軽口を返した。
約束したわけじゃない、何気ないやり取りだった。
そして、最後に藤宮を別の宿に送り届ける。そこで、俺と橘の会話が聞こえた彼女が、不意に問いかけてきた。
「……橘さんとなにかあったのですか?」
少し驚いた。そういう踏み入った事を聞いてくるタイプとは思っていなかった。
「まあちょっと、島の観光案内をしたんです」
特に進展したわけでもない橘との仲を勘繰られても気持ちが悪い。そう答えてはぐらかした。
後部座席で藤宮は、窓の外に目を向けたまま、しばらく黙っていた。街灯などほとんどない真っ暗な夜道を、車のライトだけが細い筋となって照らし出している。彼女の横顔はその微かな光に照らされ、影を深く落としている。
「高梨さんって……橘さんみたいな人が好みなんですか?」
唐突なその一言に、ハンドルを握る手がわずかに強張った。俺への問いかけというより、感情が口をついて出たように聞こえた。
普段は理知的な彼女の不意打ちは新鮮だった。
それは、酔ったせいかとも思った。お酒の力が普段隠れた顔を見せる、それ自体は珍しくもない。ただ、藤宮にもそういう面があることに少し驚いた。
そして、答えに困った俺は、ズルい手を使った。 「藤宮さんは、ああいう人は苦手?」
質問に質問で返されて、藤宮はあからさまに不機嫌な顔を見せた。彼女のそんな顔も珍しい。
「……意地悪ですね」
その一言に、俺はむしろ胸を撫で下ろした。そう、彼女はちゃんと見抜いている。それは、酔いがそれほど回っていない事を示していた。
そんなやり取りのうちに、車は宿の前に差し掛かり、俺はゆっくりとブレーキを踏み込んだ。
「それじゃ、またよろしく」
藤宮を降ろしながら声を掛けると、彼女はドアを半分開けた姿勢のまま、こちらを振り返った。
「ええ、また。今度来るときは、仕事じゃなく、ぜひ──観光で」
そう言って微笑む彼女の声には、いつもの明朗な響きがあった。それに俺も笑って応える。
その時、深くは考えなかった──彼女の言葉にある「ぜひ」という意味を。
車のドアが静かに閉まる音とともに、外から入ってきたようやく涼しくなった夜の空気だけが肌に際立ち、俺はひとりハンドルを握り直した。
それから──俺の生活は、ひとまず日常に戻った。
翌日、所長は深々と頭を下げてきたが、むしろ俺の方が体の具合や、家庭のことを気にかけずにはいられなかった。
そして、俺がいつものように観測小屋を巡回している間に、藤宮と橘は静かにこの島を後にした。
◆
あれから、一週間が過ぎていた。
島の時間は相変わらず静かに流れている。観測所の中も、それまでの数日間に起きたことが、夢であったかのように静けさを取り戻し、淡々と積み重ねられる作業が続いていた。
磁場観測機器が記録するノイズは、例によって決まった時刻に現れ、決まった時刻に消える。その規則性は、むしろ日常の一部として組み込まれていさえした。
所長は業務をこなしながら、データの解析に取り組んでいた。
磁場ノイズを解析することによって得られたパターンを、他の観測データに当てはめることで、統計的に偏りや規則性を探る。そこから導かれた傾向をノイズ解析用のパラメータに反映し、再び解析を走らせる。その繰り返しによって、少しずつ解析の精度を上げていた。
そして同時に、ノイズの解読にも着手していたと思われる。観測データの中から浮かび上がりつつある言語的なパターンを手がかりに、未知の信号を解読しようとする試みだ。
しかし、それは暗号解読とは本質的に異なる。暗号には必ず人間的な言語体系や機密を守るといった意図が前提として存在するが、ここにはそれすら保証されていない。そもそも言語であるのか、それとも単なる構造的な現象なのかは、未だ判然としない。
つまり、人類がこれまで培ってきた多くのアプローチが、どこまで役立つのか分からない。
今の作業は、完成形が知らされていないパズルを組み立てるようなものに等しい。しかも現時点では、そのピースが十分に揃っているかどうかすら、まだ分からないのだった。
時折、橘や藤宮からも報告が届いているようだったが、所長の反応を見る限りでは、目覚ましい進展はしていないようだった。
俺はといえば、ただ指を咥えて見ていたわけではない。
データ解析の助けになりたい──その一心で、慣れない勉強に手を伸ばし始めていた。
とはいっても、高校数学すら危うい俺にとって、どこから手をつければいいのかすら見当がつかなかった。仮に基礎から学び直すとしても、この島の環境では仕事を続けながら大学に通うことなど不可能だ。そもそも、そんな悠長な時間をかけてもいられない。きっと所長はそれより早く、このノイズの謎を解き明かしてしまうだろう。
一度は橘に相談しようとも思った。だが彼女も本業をしながらやっていることだし、そもそも別会社の人間であるのに、これ以上の余計な負担をかけるのは忍びない。かといって、このまま諦めて、理解できないままやり過ごすこともしたくなかった。
そんな時、ふと閃いた。きっかけは、藤宮がこの島にやって来たときの会話だ。あの時は、新しい世代ならではの発想にただ驚かされたが、それを俺がやれないことなどないのだ。
そう──AIを使えばいい。俺はそう考え、学習の手段としてAIに頼ってみることにした。
実際に使い始めてみて、最初はどう扱えばいいのか戸惑った。だが、その答えは意外なほど単純だった。その「どう使えばいいのか」という疑問すら、AIに聞いてしまえばよかったのだ。
AIは論理的で簡潔に答えてくれた。それを手がかりに、まず自分の目的に必要な知識の全体像を洗い出し、そこから逆算して学ぶべき順序を整理する。そして分からない箇所を一つずつ掘り下げ、噛み砕いていくうちに、自分に必要な知識の輪郭が少しずつ見えてくるようになった。
その有用性は驚くほど高かった。
AIに頼らず、人に相談すればいい。それは否定しない。俺自身がそう考えていた。だが、人間にはどうしても限界がある。無料で二十四時間、しかもこちらの些細な疑問に際限なく応じてもらえる相手など、現実には存在しない。なにより人に頼めば気を使うが、AIにはその必要がない。だからこそ、思いついたことを気兼ねなく、いくらでもぶつけられる。
ただし、AIの答えをそのまま信じ込むのは過信にすぎない。少し使ってみて、不得手にみえる部分もあった。大事なのは、AIから答えを貰うのではなく、答えに至るための相談相手として使うことだ。その距離感さえ誤らなければ、これは強力な学習の道具になると信じれた。
そうしてしばらく、AIとのやり取りを重ねながら学習を続けた。体系的に見れば、俺の知識は歪な形になっているのかもしれないが、それが時間とのせめぎあいで、今の俺にできる精一杯でもあった。
それから、何事もなく日々は過ぎ、さらにまた一週間が経とうとしていた──。
しかし、そんな俺を待っていたのは、思いがけない再会だった。
その日はいつもと同じように過ぎていた。九月も半ばを越えたというのに、太陽フレアの活発な活動の影響で真夏のような蒸し暑さが未だに残り、そして磁場観測機器からは、毎日定時にノイズが流れる。そんな変化に目を瞑れば、いつもと変わらない日々だった。
俺は日々の業務である観測機器の巡回を済ませ、観測所に戻った。すると、応接の椅子には橘が座っていた。突然の訪問に、一瞬自分が連絡を見落としたのかと不安になったが、確認しても通知はどこにも残っていなかった。
では、観光で寄ったのか、とも頭をかすめたが、彼女の表情はそれを否定していた。
俺の視線に気づいた橘は、軽く会釈をしてから、所長と真剣に話し合いをしていた。
それは良くない事が起きている事を予感させた。データ解析に大きな問題が発生したか、あるいは彼女の職場で問題となったのか、直接来なければならない相談は限られる。
その内容まで俺の耳に届いてこなかったが、そういった彼女の振る舞いすべてが、俺の悪い予感を増幅させた。
しかし、その心配は思っていた以上に早く払拭された。
橘は自分の研究が行き詰まり、所長を頼って今日ここへ来たらしい。何か彼女自身の身に直接的な問題が起きたわけではないと分かり、俺は胸を撫で下ろした。けれども、同時にそれは「何故メールのやり取りでは済まないのか」という疑問を俺に抱かせた。
ソファに腰掛ける橘は、手元の資料を開いたまま、しばし沈黙していた。普段の凛とした彼女の面影はそこになく、肩の力が抜け、視線は伏せられている。研究者として自信に満ち、常に前を見据えていたはずの人が、まるで答えを見失った子どものように見えた。
態々足を運んでくるほどの迷いと重さが、その背後にあるのだと俺は悟った。
俺はそんな橘を前に、どうしたらいいか分からなかった。もし藤宮だったら、社会人の先輩として励ます言葉には力があるかもしれない。でも橘は違う。何も知らない俺から、体のいい励ましの言葉を受けたところで、何の問題も解決しない。
これほどまでに落ち込んだ表情を、これまで一度も見たことがなかった。彼女は強い人間だと思っていた──いや、今もそうだ。ただ、その強さが揺らいだ瞬間を目にして、彼女の存在は危うく感じられた。
「──僕はね、こういった時にはすることを決めているんだ」
そんな俺たちの前で、所長は穏やかな声で語り始めた。
「科学的な考えに煮詰まってしまったら、非科学的な妄想を膨らませよう」
「いや、もちろん、そこから答えを得ることなんてできないよ。むしろ、答えからは遠ざかるかもしれないね。
でもね……それでも歩き出すための方向を見つけられるなら、やってみる価値はあると思うんだ」
未知の問題に明確な答えなど、所長でも示すことはできない。だから、これは所長からの励ましの言葉だった。
だが、橘の反応は思いのほか薄かった。おそらく、彼女が欲していたのは励ましではなく、具体的な方策だったのだろう。
それでも所長は気に留めることなく、言葉を続けた。
「うーん……そうだ。こんなのはどうだろう。
我々は未だにこのノイズ信号の意味も、発信源も、伝達の仕組みも、何一つ分かっていない。
そんな状況であえて考えてみよう。”何故この信号は送られてくるのか”──その意図をね」
そう言って笑みを浮かべる所長の横顔は、あの嵐の日に見せた顔と重なって見えた。
しかし、その問いは軽いものではなかった。
本来なら意図とは、その分からない事が解明されることで、初めて浮かび上がるものだ。それを逆から推理しようとすれば、選択肢はあまりに多い。理由はいくらでも付けられるし、同時にどんな理由も否定できてしまう。
俺は答えを出せずに考えあぐねていると、所長から救いの手が差し伸べられた。
「なに、そんなに難しく考えることはない。そうだね、例えばこの信号の意味は、”来い”だと仮定してみよう。もしそうなら、この信号には彼らの住所が織り込まれていて、我々を招いている。そう、予想する事はできる」
それは確かに納得できる。多くの可能性の中であり得る選択肢だ。しかし、所長は一拍置くと続けた。
「──だが逆に、”来るな”というメッセージだと考えることはできるだろうか。
何も分かっていない我々に、そのとっかかりとなるような情報を態々送ってまで、”来るな”と伝える。──そんな不親切な忠告は、愚かな行為と思わないかい?」
所長はその可笑しな意図を想像し、片眉を上げ苦笑する。
「……そう、何も分からなくとも、論理を踏まえながらある程度の方向性をもって、意図を想像することはできるんだ。
さあ、もっと自由な発想で考えてみよう」
所長に促され、俺は考えを巡らせた。答えを出そうとするのではなく、可能性を組み立てる。その行為は一見自由なようにみえて、実は制約があった。普段意識してそのようなことをしないせいか、とても新鮮で面白く思えた。
そんな時だった。沈んでいたはずの橘が、不意に口を開いた。
「……この信号は、私たちにとって分かりやすいものではありませんよね」
その声には、まだ自信の無さが残っているようだった。けれど、いつもの研究者としての鋭さも滲んでいた。彼女は視線を落としたまま、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「もし”伝える”こと自体が目的なら、もっと単純で明快な方法を取れるはずです。なのに、なぜわざわざこんな形で送られるのか……」
彼女は一度息を整え、顔を上げた。
「二つ、考えられると思います。この信号を、彼ら自身は分かりやすいと考えている。あるいは、彼らはこの方法でしか伝達できない。──そういうことではありませんか?」
所長はその橘に、微笑んで応えた。
一方、俺はその発言に、直感的にある考えが浮かび、口にした。
「……もしかしたら、わざと分かりにくくしてるのかも──意地悪で」
俺の言葉に、彼女は笑った。その時、いつもの橘が戻ってきた気がした。
それからしばらく、取りとめのないやり取りを重ねた。確かに何か問題が進展するような、有益な話し合いではなかったかもしれない。けれど、それは無駄ではなかった。ただ、今の俺たちには必要な時間だった。
その最後に、所長は声の調子を変え、一つの話を切り出した。
「この際だ、人類にとって都合の悪い解釈もしておこうか」
そう前置きした所長の笑みは静かに消え、淡々とした口調で話し始めた。
「この信号がもし“目印”だと仮定したら、何を意味すると思う?」
少し間を置いて、所長は言葉を選ぶように続ける。
「それは、『商品タグ』かもしれない。彼らは地球を見つけ、名札付きのラベルを付けた。
そして、そのタグを使って、どこか見知らぬフリーマーケットに勝手に出品しているのかもしれない」
「……あるいは、もっと絶望的な線もある。人身御供を指し示すための『白羽の矢』。この星は生贄として選ばれた──」
その声には感情の揺らぎはなかった。想像したくない光景を、現実に近づけて想定する。そこからは、あらゆる可能性から目を逸らさないという、科学者の覚悟が滲んでいた。
所長の話を聞いて、もしそんな悲劇が起こったらという妄想を膨らませるよりも、どうして最後にこんな絶望的な解釈を口にしたのか。俺はその意図を考えていた。
もしかすると、希望的な考えに偏りがちな俺たちに、あえて最悪を示して発想の幅を広げさせようとしたのかもしれない。
あるいは、信号の解読に成功した時、どんな意味を待っていようとも動揺しないよう、心の備えを促したのだろうか。
それとも、所長自身もまた橘のように不安を少なからず抱えていて、それを口にせずにはいられなかった──。
可能性はいくらでも考えられた。だが、俺はそれを確かめる気にはならなかった。




