#6 アップルパイと侵入者
夕食を食べ終わった後の皿を洗っている横で、彼はおもむろにリンゴを剥き始めた。デザートにするには多すぎる量。
きっとMINE(メッセージ通話アプリ)で言ってたように、アップルパイを作るつもりなんだろう。
「…その、なにか手伝うこと」
「いいんデスよ!杏サンは食べる係デス!」
と言い張るけど、きっとこれは遠慮でなく手を出して欲しくないんだろう。この間も流石に申し訳なくて何かしら手伝おうとしたら、やんわり台所から追い出されてしまった。
(…好きな事してる時は邪魔されたくないよね)
その気持ちはとてもよく分かる。私も趣味で好きなことやってる時は、誰にも邪魔されたくないし…まぁ、今は全然やる気が失せてしまってやってないけど。
少し後ろめたさもあるが、大人しく居間で大学の課題をやる事にした。…少し前までは自分の部屋でやっていたけど、電気代勿体ないし。人の目がある方がサボらず捗る気がするので、最近はもっぱらここで作業をする。
(あ…いい匂いしてきた)
うちはダイニングキッチンだから、甘いバターとりんごの香りがダイレクトに漂ってくる。お菓子作りにハマっているザクロが、勉強のお供にと頻繁にお菓子を作ってくれるようになって。甘い香りに包まれながら宿題をするのが、いつの間にか日課になっていた。
(…1年経ったらこの甘い匂いに包まれる時間も、きっと無くなっちゃうんだろうな)
ふと、またそんな事を考えてしまった自分に嫌気がさす。そんな分かりきった結果を今惜しんで、一体何になる。
でもその反面。…もし、もしも1年後、ザクロが居なくなったら。またこの体質のせいで忌み嫌われ続け、異様な欲を他人から向けられ続けなければいけないのか。そんなの。
…なんて。被害者じみた泣き言が絶え間なく胸の奥で蠢く。
(…本当に最悪)
あの時はただ、マダム達に優しい笑顔を向けられて、戸惑ったけど嬉しかった。これが本来器さえなければ手に入ったはずの温かさだと知って、益々彼を手離したくないなんて。そんな最低で、身勝手な事を理性の奥の方で考えてしまっている。
(こんなの、ただザクロの好意を利用したいだけじゃん…)
…1度グルグル考え込んでしまうと、全然集中できない。当然、課題なんて進むわけなくて。出てくるのは問の答えでなく、ため息ばかりだった。
「だいぶ苦戦してマスねぇ」
…料理してる最中でもため息を聞き逃さないなんて、どんな地獄耳だ。
「もう少しでアップルパイが焼けマスから。1度休憩しマショう?」
「…うん」
彼の言う通り、今日はそうするしかなさそうだ。
「…うん、焼き加減はこんなもんデスかね。もう少しシナモンを入れても…ま、今日のところはこれでよしとしマスか!」
…この調子だと、明日のおやつもアップルパイになりそう。オーブンレンジが開けられた瞬間、より強い いい香りが部屋中を満たしていく。
「さ、無事焼き上がった事デスし、お茶も用意しマスか!えーと。マグカップは…」
コポポポ…
カップにお湯を淹れる音がしたので、勉強道具をまとめて横に置く。フォークやパイの乗ったお皿をテーブルに出すくらいはやろうと、椅子から立ち上がった。
ドンッ!
「わぷっ!」
何も無いはずの場所で、いきなり見えない壁に当たった。壁?というより、生き物のような。まるで、人にぶつかったみたいな…。
「杏サン!?…ってヴォァ!?」
アップルパイの乗った皿を手に、ザクロがこちらに近づいて来た。…んだけど、彼もまた見えないナニカにぶつかったようで、よろけてバランスを崩した。
ーその拍子に宙に舞う、三角の形をした複数のアップルパイ達。
「…はッ!!」
体勢を立て直し、人の目に見えない動きでアップルパイ達を掴み取り、皿に乗せる吸血鬼の王子。
最後の一つを掴もうとして、手が滑り、逃がしたアップルパイが落ちた先は…。
ジュッ
「…あ゛っっっっつい!!!!!!!!」
…さっき私たちにぶつかった、透明人間に当たったみたいだ。
「あっついって!洒落になんないって!!…あっこれ労災おりるのかな…」
透明人間…だったものは、徐々にその姿を現していく。
「って下りるかっ!…ははは…あーあ、またドジった…」
そこに居たのは。片手に魔法使いのような杖を持ち、全身藍色のローブに包まれた…
自嘲気味に笑う、小柄な男の子だった。
「…」
「…」
「…」
「…え、聞こえてる?」
こくり。と頷いたのは、私もザクロもほぼ同時だった。
「…見えてる?まじ?」
また2人で頷くと、男の子はサッと青く血相を変える。
「…あ゛ぁーーーっ!!!!また更にドジったーーー!!!!!!!」
静まりかえった家の中で、男の子の悲痛な叫びが、やまびこのようにエコーがかかって聞こえた。