#2 とんでもない事になっちゃった
住宅街から少し離れた2階建て。そこが私の家。
父は単身赴任で外国へ、母は既に空へ旅立ち、兄弟もいない。
つまり、今ここに住んでいるのは私一人だけだ。
…そんな状況で、不可抗力であれ初対面の男を。ましてや人間ですらない彼を家に上げた事を知れば、娘に甘いお父さんは一体どんな顔をするだろうか。
「…その上お風呂まで入ってるし」
家につくなり、風邪をひいてはいけないから。とお風呂に押し込まれて今に至る。
実際。色んなことが怒涛に起こった一日の後に更に具合が悪くなるなんて勘弁してほしいし。素直に従った。
…夜風で冷えた身体に熱いシャワーが染み渡る。
さっきまでの恐怖体験も、まるで悪い夢でも見ていたように。すべてが日常通りだ。
「彼」が居間にいる事以外は。
「お帰りナサイ。勝手に台所使わせて頂きマシタ」
「…大丈夫、です」
着替えを終えてドアを開けると、マグカップの中身をスプーンでかき混ぜる彼がいた。
チョコの甘い匂いが漂ってくる。きっと冬に使っていた余りのココアだろう。
「さぁ、こちらに…」
彼に促されるままテーブルにつく。
「さて、どこからお話しさせて頂きマショうか…」
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ザカライアス・ブラッディハート。
高等吸血鬼…つまり吸血鬼達の頂点に立つ「ブラッディハート」一族の王子。
吸血鬼達は過去、魔王にかけられた呪いにより、男子しか生まれない。
だから一族の血を絶やさないために、人間の女性を眷属にして娶る事を習わしにしている。
けど、普通の人間では吸血鬼の子供を授かるのは難しい。そもそも種族が違うのだから当たり前。
しかし極稀に、生まれつき魔族の子供を宿せる「魔性の器」を持った人間が存在する。
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「…その器を持っているのが、貴女なんデス」
彼は一呼吸おいて、手元にあるコーヒーを啜った。
…どうやら、私は壮大な話に巻き込まれてしまったみたいだ。
「魔性の器…って言われても…本当に私にそんな力…」
「人間の技術や医学で魔力の有無を調べるのは不可能デス。私達魔族の目でなければ見えマセンから。器を持っているからと言って、魔法が使えたりするわけでもありマセン。それに…」
見透かすような。確信めいた瞳で、語り掛けてくる。
「魔族の器を生まれ持った人間は、異様に異性に好かれ、同性に嫌われ易くなる」
「…っ!」
「…心当たりが、あるんじゃないデスか?」
心当たりも何も。その一言が、胸の奥深くまで突き刺さる。
「…」
「っ!スミマセン、不躾な事を聞いてしまいマシタね!ええと…」
急に黙って俯いた私に、目の前の男は焦って話題を切り替えようとする。
「…私が「器」持ちだから、子供を産むために結婚したい…ってことだよね」
「それは…!…違いマス、いやっ、決して違うなんて言い切れマセンけど…そうじゃなくて」
「ごめん。いっぱいいっぱいだから…もう寝るね…」
半ば強引に話を切り上げて、席を立つ。
「待っ…」
「隣の客間。よかったら布団、使ってもいいから。夜遅いし…助けてくれて、ありがとう」
「…いえ、おやすみナサイ」
「…おやすみなさい」
居間のドアを閉めてから、吸血鬼に夜も遅いなんて。頓珍漢な事言ったなと気づく。
自分の部屋に戻って、早速ベッドに倒れ込んだ。
レポートは…書ける気分じゃないし、期限も先だし。明日でいいや。
寝返りをうった目の端に、ベッドの横に置いた写真立てが目に入る。
小さい頃、家族三人で撮った…。まだ、お母さんが心を病む前、幸せだった頃のもの。
「…とんでもない事になっちゃったな…」
今はとてもそれを見る気分になれなくて、そっと写真立てを伏せた。
………………
「杏ちゃん、僕君が好きなんだ」
全部、そこから狂いだしたと思う。
「あっち行ってよブス!」
「みーちゃん泣いてるじゃん!最低!幸雄君の事好きだったのに!」
「あたし知ってる!こういうの、あばずれっていうの!おばあちゃんが言ってた!」
そうだ。物心ついた頃から私は、男の子に好かれて、女の子には嫌われた。
「なぁ、二組の木下、エロいよなぁ」
「どけよノロマ。陰キャが調子に乗んな」
「木下さんって、何考えてるか分からなくて不気味よねぇ」
「木下さ、誰でもヤらせてくれるって本当?なら俺ともしてくれる?」
その好きの正体は異性への性欲で、嫌いの正体は性に汚い同性に向けられる嫌悪。
年齢が上がるにつれて、嫌でも理解した。
「困ったことがあったら父さんに言いなさい。必ずだ」
「すっとろくてイライラする!手伝いなんかいいからあっち行って!」
それが父親なら庇護欲、母親なら人格が変わるような怒りに変わった。
「ごめんね。怖かったよね杏。大好きだよ」
「いいわよねぇアンタは、苦労もしないで守られて」
「今日は杏の好きな物作ったの、…嫌な事言ってごめんね」
「メソメソ泣くな!!泣きたいのはこっちなの!アンタの為なの!!」
「ごめん、ごめんなさい、こんなお母さんでごめんね、辛いよね、もっと優しいお母さんならよかったのにね、あなたのお母さんになってごめんなさい」
「アンタなんか、産まなきゃよかった」
「ーお母さんは消えるので、どうか安らかに、幸せに生きてください。愛しています。敬具」
「見るな杏!!!!」
必死で私を庇い抱きしめる父の肩越しに、首を吊った母を見た。
そこから先の記憶は曖昧で、何も考えたくなくて。
月日が経って色々と落ち着いた頃、ある日の夕食時。
ふと思い出したようにお父さんが話し始めた内容によると。
「大丈夫」「平気、だって」
「お兄ちゃんが迎えに来てくれる」
と。ずっと私はうわ言のように繰り返し呟いていたらしい。
勿論そんな記憶はないし、お兄ちゃんって誰の事かもわからない。
わからない?…というより、憶えていない。
大事な何かを、忘れているような…。
『…必…迎え…く』
…あなたは、誰?
『…から…ほ…少…待…』
聞いたことがある声。でも、あと少しの所で思い出せない。
『…わた…の…』
あと、もう少しで、届きそうなのに。
『約束だ』
「うん、約束する!」