#番外編 カリン
ーセミが鳴いている。
「橘ァッ!!ったくお前はグズだな!!」
怒号が飛んでくる。
「だぁかぁらぁ、何度言えば分かるんだ…○○✕▽〜」
ー正直、途中から何を言っているのか理解が追いつかない。相手の言葉は分かるのに、理解ができない。…僕ってこんなに、頭悪かったっけ。
「ほら!これ明日までにやっとけよ」
頭を下げて床しか見えなくても、これだけはわかる。どさり。これは、机の上に置かれた大量の書類の音だ。部長がやるはずだった。
「橘さん、また…」
「可哀想にな…」
「いいか!?周りは手伝うんじゃねぇぞ!出来損ないのこいつのためにやってんだからな俺は!!優しい上司に恵まれて幸せだよなァ橘!?なァ!!?」
ヒソヒソ声がする方を上司がギロリと睨みつければ、一瞬でシーンと静まり返った。
「…はい、承知しました」
仕方ないよ。自分が標的にされたらと思うと、これ以上の負担を背負わされるかと思うと。誰も何も言えないから。僕だって周りの人達の立場なら、そうしたかもしれない。
この会社の皆、いっぱいいっぱいなんだ。
…そもそも、僕が不出来だから悪い。
(今夜も帰れそうにないな)
大量の書類に手をつける前に、まず今日の分を終わらせなくちゃ。椅子に座りPCに向き合って、また作業を進める。
ーこれが僕の日常。
ーーーーーーーーーーー
13連勤目の夜。
明日は久しぶりの休みだ。
奇跡的に部長の機嫌が良く、今日は早く帰れた…と言っても、もう22時半だけど。
安アパートの古いドアをそっと閉めて、敷きっぱなしの布団にダイブする。
…そうだ。携帯のアラーム切っておこう。
携帯に手を伸ばすと、珍しく一番下の弟からメール、母親からの着信が何件か入っていたことに気づく。
やばい、何か重要な話でもあったのかな。
こんな時間に電話なんて気が引けたけど、とりあえず折り返してみる。なんコールか後、眠そうな母さんの声が聞こえた。
「もう、こんな時間まで電話に出ないで!遊び歩いてたの?あっ!さては、彼女でもできた〜?」
「ハハッ、相変わらずだな母さんは…」
…元気そうで安心した。
「電話出れなくてごめん。何か急用でもあった?」
「あっ!そうそう!!実はね…ちょっと待って。レ〜ン!お兄ちゃんから電話〜!」
軽やかな足音が、電話口まで近づいてくる。
後は本人から聞いて!と母が弟と電話を代わった。
「…あー、もしもし、兄ちゃん」
「おう、元気してたか?柚子は?」
「柚子兄は相変わらず…。俺とはたまに連絡取ってるよ。何とか生きてるってさ」
「ハハハ、そっか」
僕たちは三兄弟。
1番上が僕。2番目が柚子。3番目が恋。
柚子はシンガーソングライターになる。と親の反対を押し切って家出て、フリーターしてる。恋は大学生で、就活してる。
そう、就活。
「…まさか、レン」
「…うん。就職決まった」
まさかの、夏採用!?
他の時期と比べたら難易度も高いっていうのに。
「おめでとう!!頑張ったなぁ…ウゥッ」
「おいおい、泣く程じゃないだろ!…ってか、俺が大学に行けたのだって、兄ちゃんのお陰だし。…1番頑張ってたのは、兄ちゃんだろ」
「僕のことなんかいいんだよ〜!!とにかく、本当におめでとう!!」
「あーもう、ありがと…。もう遅いから、時間ある時にまた話そ」
今度会ったらお祝いしようと約束して、電話を切った。ひさしぶりに、心が踊った。
そっか、就職決まったかぁ。良かった。思い起こせば長かったなぁ。
10数年前。父が病気で倒れて、兄弟全員が大学まで行く余裕は無かったから。大学に行くなら、3人の内の誰か1人。これが我が家の限界だった。
それでも弟2人には、大学に行って欲しかった。
僕はどうせやりたいこともない、体力も成績も平均かそれ以下の人間だ。でも柚子は夢を持ってるし、レンは賢くて運動神経もいい。
僕は高卒で今の会社に入って、実家に仕送りした。弟たちの為を思えば、どんな仕打ちも、理不尽も、惨めな毎日も、全部耐えれた。頑張れた。
弟たちが無事大学へ行って、その後の人生を歩めるように。立派じゃなくていい、少しでも心豊かに生きれるように。母さんも、安心出来るように。それだけが、僕の生き甲斐だった。
…ああ、良かった。これで報われたんだ。
…で。
その後、僕は一体。
なんのために?
ーセミが、鳴いている。
それに混じって、人の悲鳴も。
ついでに遠くから、救急車の音も。
…僕は。どうなったんだっけ。
目の前で血塗れになって。線路の上で倒れてるこいつは、僕じゃないか。
…でも、傍でそれを眺めてる僕も、「僕」じゃないか。
「…君はね、自殺したのよ」
後ろから、声が聞こえた。
「僕が、自殺…?」
「…無意識だったのね。可哀想だけど、規則には従ってもらう。こっち、ついてきて」
規則…?なんの事だ…?
理解が追いつかないまま、そのローブを被った女性についていく。
「僕、これからどうなるんですか」
何故かもう既に、事実を受け入れてしまっていたから出てきた疑問。自分の人生なんて、こんなものだ。そんな風に考えて、自然と受け入れてしまっていた。
自分の死を。
振り返った女性は、感情の読めない瞳を僕に向けて、確かにこう言った。
「ー君には、死神になってもらうわ」
ローブから覗かせた長いくせ毛の髪が、夏の風に靡いていた。




