第七章 7 ーー 悲しい ーー
7
空気が一段と冷たくなり、肌に貼りついていた。
影法師が歩を止めると剣を抜き、剣先をこちらに向けた。
突風が吹き抜けたみたいに、全身が痺れてしまう。
それでも。
「まだ記憶を消そうとするのっ」
負けずに叫んだ。このまま影法師に従いたくない。
「ーー消す? 消すって何?」
身を屈めて警戒する坂口は、声をすぼめる。
「こいつは記憶を消すことに固執してる。圭一の言う通りね。しかも、なぜか私に対して強く」
憎しみをぶつけるため、より声を張った。
ーー 辛いことを忘れる。それのどこが悪い ーー
まただ。また頭のなかに直接文字が浮かんでしまい、眉をひそめてしまう。
しかも、今回は坂口にも伝わっていたらしく、不安げに私を眺めていた。
「……辛いこと?」
私としては、強く抗いたい。
それでも、坂口には響いてしまったのか、揺らいでしまう。
「ダメよ。惑わされちゃダメッ」
坂口の気持ちが折れてしまいそうで、慌てて立ち、坂口の肩を掴んでしまう。
坂口の肩に触れ、戸惑ってしまう。
震えていた。
坂口は影法師に脅えている?
「……辛いことって」
坂口にとって、思い当たる節がある。
きっと、“カガミ”という人のこと。
だからこそ、弱気が滲み出ていた。
ーー 忘れてしまえば、楽になる。辛いことがなければ、苦しむこともない ーー
また。
既視感のある問いかけを、今度は坂口に向かって投げかけてきた。
でも、惑わされてはダメ。
「だから、なんでそんなに消すことにこだわるのよっ」
一歩も引かない影法師に、立ち向かうことにした。
「ミラでの出来事って、すべてが悪いことなの? すべて忘れなきゃいけないことなの? 違うでしょっ」
私の訴えを坂口にも伝えたくて、腕を掴み直した。
影法師の言い分はただのまやかしなんだ、と揺るがないのは、私だけみたい。
坂口は微かに震えている。
私の考えを拒むみたいに。
「坂口、なんで?」
声は届くことなく、坂口は力なく剣先を地面に下げ、肩を落とした。
影法師の気迫に負けてしまったのか、うつむいてしまう。
これまでの覇気はすべて吹き飛ばされていた。
「それでいいの、あんたはっ。あいつのことを受け入れれば、全部なくなるのよ。それこそ、ルーンや、テレサのことだって。それでもいいのっ? 全部だよっ」
腕を揺らし、ミラのことを伝えても、坂口は反応しない。
「……カガミ……」
体を揺さぶりながらこぼれたか細い声。壊れそうな声に胸が詰まる。
坂口にとって、“カガミ”の存在は揺るがない。私の声は届きそうにない。
ーー 記憶とはそういうもの。楽しいことよりも、悲壮的なことの方がより強く刻まれるもの。辛ければ辛いほど、そちらが鮮明に残っていく。あたかも、ほかのものがすべて失われるように ーー
影法師の言葉が無条理に頭に流れ込んでくる。
悔しさに打ちのめされそうなのを、足に力を込めて耐えた。
「……そんなの、悲しいじゃん」
ーー 悲しくはない。人はそれを望んでいる ーー
「……カガミを忘れる。それの方が楽……?」
耳を疑いたくなる言葉が聞こえ、息が詰まる。
すると、坂口の手から剣が滑り落ちた。
呆然とする坂口の姿からすると、耐え切れなさそうに、虚ろになっていく。
「あんたは何もわかっていないっ」
それでも私は抗いたい。
「それに、忘れられた人たちはどうなの? ミラの世界だって現実なんでしょっ。消えてしまえば、それは虚構になってしまう。そんなの悲しいじゃん」
違う?
今度は剣を構える影法師を見詰めた。
影法師に動揺はなく、こちらに剣先を向けるだけ。
でも、微かに変わっていた。剣先が微かに震えている。
ーー忘れられるのが嫌なだけ…… それなら、消えていた方がいい ーー
これまでと同様に浮かぶ文字。
それでも、どこか違っていた。
冷淡な文字に、どこか寂しさが滲んで見えてしまった。
「そんなの悲しすぎるよ。坂口も。それに……」
それにあんたも……。




