第三章 9 ーー 逃げなきゃっ ーー
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急激に足が竦んでしまう。
こいつがここに現れるなんて、夢じゃないのっ、あれって。
夢じゃない。
現実なんだと胸を締めつけられる。
どうしよう…… またこいつに……。
「ーーっ」
またこいつに襲われる恐怖に動けずにいると、美月が私の左手をギュッと握った。
脅えを堪えるように強く。
そうだ、今回は美月にも見える。
「……ねえ、なんなのあれ。遥香の言ってたコスプレ野郎?」
途切れそうな声に、不謹慎ながらも安心した。見えているんだと。
それでも動けずにいると、次の瞬間、黒装束は一歩私らに距離を詰める。
「遥香はあれがなんなのか知ってるの?」
唇を噛んでしまう。
こいつは恐らく“影法師”。だけど口にするのもためらってしまい、震えながらかぶりを振る。
「ってか、なんでみんな驚かないの?」
美月は疑念に息を呑んだ。
確かにそうだ。おかしい。
昨日もそうだけれど、辺りには普通に人が行き来している。それなのに、誰もこいつに気を止めない。
これだけ目立つ格好をしているのに、なんで無関心でいられるの。
通行人の態度が腹立つ。
私らの方が異常なのか、と煙たく眺めてしまう。
まるで、私たちは別次元に飛ばされたみたいに。
咄嗟に美月の腕を掴み直した。
周りのことを気にしている余裕なんてない。
逃げなきゃっ。
「ーー逃げるか」
踵を返して、地面を蹴ろうとするのと同時に、黒装束の声が肌に貼りついた。
心臓を握り潰されそうな低い声に縛られるなか、必死に堪えて地面を蹴った。
どれだけ走り、どこを走っていたのかも覚えていない。
それだけ余裕がなかったけれど、隣でずっと一緒に美月も逃げてくれたことには安心していた。
「ここって、どこ?」
息が上がり、膝に手を着いて肩で息をしていると、弱々しい美月の声にようやく顔を上げた。
辺り構わず走り、気の向くままに走っていたからか、まったく見覚えのない路地に入り込んでいた。
閑静な住宅街でありながらも、車一台が通り抜けるのがやっとの細い路地。
静寂に包まれた辺りは、先ほどよりも街灯がなく、暗い。
……しまった。
咄嗟に奥歯を噛み、息を呑んでしまう。
例え、ほかの人に奴が見えなくても、人通りの多いところを選んでおくべきだった。
その方が最悪、誰かに話しかけーー
……すでに後の祭りでしかなかった。
背中に感じてしまう。奴の不気味な雰囲気を。
引っ張られるみたいに振り向くと、すでに黒装束が私たちの後ろから歩み寄っていた。
手には先ほど抜かれた剣を握っている。
「以前に処理したと思ったが、まだ私の姿が見えるとは」
歩を進める黒装束は唐突に呟く。
意図が掴めない言葉に、自然と後退りしてしまう。
「昨日の一撃でも消滅しないとは…… そうなれば、こちらが問題ということか……」
……昨日? それって私の。それじゃ、あれは……。
黒装束の言葉に耳を傾けていると、不意に剣を振り上げる。
歩を止めると、一度身を屈める黒装束。
ーー来るっ。
そんな勘が走ったとき、
「ーー嫌っ」
私の腕を掴んでいた美月が急に叫び、私の腕を振り払い、逃げようとした。
「ダメ、美月っ」
刹那、黒装束が標的を私から離れた美月に定め、地面を蹴る。
一つ瞬きをしたとき、黒装束は前屈みになり、腕を上げて剣先を天に突き上げていた。
そばでは美月がしゃがみ込んでいる。
赤い血が美月の白い制服に滲んでいく。
殺され…… いえ、大丈夫。
美月は震えている。大丈夫。
目を擦れば、右手で左の手首の辺りを握り、そこが赤くなっていた。
どうやら腕を斬られたらしい。
動揺を必死に宥めていると、黒ずくめが立ち上がる。
「……しかし、なぜ。なぜ、こうなるのか……」
どこか自問を続ける黒装束。
しばらく立ち竦むと、思い出したみたいに、こちらに体の正面を向ける。
……次は私……。
心臓の奥底から震えていき、手の指先にまで広がろうとする。
震えをごまかしながら、ゆっくりと後退りするのがやっと。
「ーー怖いか?」
私を嘲笑うように、黒装束に問われる。
そんなの決まってるでしょ。
またしても前屈みになり、剣を真横に構えた。
「ならば、これらのことは忘れろ。それが救いだから」




