疲弊
グストフが目を覚ましたのは、それから三日後だった。
一級塔の医務室ではなく中央病院の集合病室で目が開き、深刻な顔のプラウスキ、泣き顔のニック・ルーカス、そして世話役の若い白人美女エリル・ボナソンが自分を覗き込んでいた。途端にニック・ルーカスが泣きついてきた。
「グストフさぁぁん! 意識戻ってよかったよぉぉぉ! あぁぁぁぁ」
何がなんだかわからないまま、グストフは首を伸ばして固まるしかなかった。
直後、全身にズキズキッと鋭い痛みが走る。
「いで、いででで! やめて離れて」
「あ、ごめんなさい」
ニック・ルーカスが離れると、すぐに痛みは消えた。
「だめ。今は触るのはよくない」
エリルが優しく注意する。情けない声が漏れた。
「あの、俺、どうなったの」
さっきから口を真一文字に結んでいる僚友に、救いを求めて問う。
彼は四度、五度と素早く瞬きをして、ゆっくりと語り始めた。
「俺自身はその瞬間を見てないから、おおよその状況しか推測できんが……あのさ、お前のすぐ近くに、でかい走行機が止まってなかったか」
すごく苦々しい顔だ。焼け着いた記憶の糸を辿る。
「でかい護送用のやつなら……」
プラウスキはあちゃー、という風に額を手で叩いた。
「それだ」といい、十秒くらい間を置いた。
ニック・ルーカスとエリルも気まずそうに顔を見合わせたり、プラウスキをちらと見たりする。なぜか、ニック・ルーカスはそわそわとした様子だ。あどけない顔にサッと影が差す。
「その護送機がな、連中の砲弾を受けて爆発したんだよ」
頭の中がホワイト・アウトした。
つまり、自分はそれに巻き込まれたという事か。
「……はあ。それで、それがあって、俺はこんなザマに?」
手足の至る所に包帯やガーゼが貼られている。ヒリヒリと鈍痛も絶え間ない。
「そうなんだよ。だけど、お前だけじゃなくて、見てみ。ここの連中、全員同じ場所にいた警備巡回班の人間だぜ」
言われて改めて、ここが大部屋で他にもたくさんの負傷者がいることに気付く。
みな、重傷を負っているようで顔が見えないくらい包帯で巻かれた者や、そもそも肌が出ている場所がないくらいビッシリと全身に包帯を巻かれ、それが赤々と染まっている者もいた。頭髪が右半分だけ焼けて無くなった者――よく見たら、自分を突き飛ばした中年巡査だ――そして一番端には、なんと片足が無くなっている者もいた。あまりに凄惨な光景だった。
「みんな、その爆発で?」
三人が何も言わずに同時に頷く。
「それでな、ちょっと込み入った話になるんだが」
プラウスキはそう前置きした。居住まいを正し、水筒の中身を少し含んで喉を潤す。
「……この護送機を注文されて製造したのが、どうやらこいつんとこのオヤジらしい。それで今回のこの事で責任を問われて、いま一級塔で尋問されてる」
なんと。ニック・ルーカスの勤務先の公社長、ジフ・キントジュアリが拘束されたというのだ。ジフといえば、まさにニック・ルーカスの親父のような存在でもあったというのに。それはグストフにとっても他人事とは思えないほどショックだった。
彼もニック・ルーカスも、お互いに親無し身寄り無し、それが余計に二人の絆を強くしていた。仲間意識が芽生えたのだ。
そんな彼を我が子のように可愛がっていたギルドラド荷運び公社の経営者ジフ・キントジュアリは、他に【ジフ工作店】という走行機の受注販売や修理を行う工場も経営しており、非常に優れた製品を造る事で有名だ。現に国防も何台か発注している。
しかしその中の一台が、爆発した護送機であるという。
「でも、どうして爆発したからってジフ公社長を尋問する必要があるの?」
あまり意味が分からない。なぜ生産者のジフが責任を問われるのか。
「……それがな、こういった感じの、犯罪者との激しい攻防戦なんかも想定したつくりにしてほしい、という注文があったのに、燃料タンクの一部が何のガードもされずに露出した構造だったらしいんだ。もしちゃんと装甲なり武装なり、そこまでいかずとも少し覆いをつけただけで爆発は免れたんじゃないか、っていう話になってる。そもそも被弾したのはその護送機じゃなくてその前に止まっていた普通の巡回機だ。その破片が後方に飛んで護送機の燃料タンクに刺さって二次災害的に爆発が起きた。見分した交通課の見立てがこう出ちまったんだ」
頭がついていかない。
ニック・ルーカスが両手で顔を覆う。
「こんなこと、誰も想定できっこないじゃないか。ジフさんは何も悪くない。僕はジフさんが無実である事をなんとしても伝えたいのに……グストフさんも怪我しちゃって……それで悔しくて悔しくて……」
後半は悲痛な声になって、ボロボロと涙が落ちた。
「グストフは何も悪くないが、応援のお前が怪我をしたことでちょっとややこしい事になってるんだ。保険が効くか効かないかとか。他にも監督責任で警邏の幹部二人が懲戒免職になったし、俺らの部署にも人員調整で何らかの影響があるだろう」
プラウスキは抑え込んだ低い声で説明する。
エリルがニック・ルーカスの華奢な背中をさすってやっている。
「話がおかしいだろう。悪いのはあくまであの黒髪族――」
――あの少女――
「そ、そういえば黒髪族の方はどうなった?」
難しい顔をしている僚友に恐る恐る尋ねる。
「奴らか? 大勢死んだよ」
ごくりと唾をのむ。
「あのあと他の地区に行ってた連中もみんな総動員されてよ。それだけじゃ足りないってんで実は俺ら内勤組も一般人の走行機を借り上げて駆け付けた。だいたい八十人くらいが死んだみてぇだ。残りの連中はほぼ捕まえてきて粛清待ちだが、逃げたやつらも相当数いるらしい。その事でスガナ婆さんがまたお冠さ。もしかしたら、グラナも何かしらのお灸が貰えるのかもしれねえ」
予想外の言葉の連続に息切れを覚えたが、逃げた者がいたという言葉に関心がいった。
安堵感のような、不思議な気持ちだ。だが、こんな事は決して口には出せない。
「……っていうわけですよ、グストフさんよ」
プラウスキは、なぜか少し語尾を強めた。
「え、あ、了解。ありがと」
微妙な空気が流れる。グストフはそわそわした。
ここで、女性特有の鋭利な勘で空気を察したエリルが口を開く。
「あの、コールマン君の怪我だけど、どういうわけか他の人より火傷が軽いから、明日の夕方くらいには退院できるみたいなの。後は二週間くらいの間、しっかりお風呂でぬるま湯をかけて、包帯は三日目で外して空気に触れさせて、菌が入らないようにすればすぐ直るって医者が言ってたよ。よかったね」
彼女の説明を聞いて、ぼんやりと思った。きっと自分が足を失ったり、重度の火傷を負わなくて済んだのは、向こうのベッドで半分髪の無くなった頭をこちらに向けて寝ている中年巡査が突き飛ばしてくれたからだ、と。
とんだ偶然が、あるものだ。
それにしても僚友の態度はなぜ、あんなにぎこちないのか。
今はそれについて深く考えるほどの余力は、なかった。
* * *
「カルハ。おい、聞こえるか。おーい」
そっと呼びかける声に、カルハは目を開けた。
薄暗い牢の中でも、彫りの深い顔はすぐに族長だと分かった。
「ジンさん……?」
「大丈夫か。しっかりしてるか」
「はい。私は平気です」
「おお、ならいい。一つ、聞きたいんだけどさ」
「はい」
「お前は何してたんだ。あの時」
ジンが尋ねると、カルハは斜め上を少し見て、
「ああ、やっと来たんだ、やっと清算がされるんだって、覚悟していました」
「……せいさん? ……何の事か、ちょっと教えてくれ。ほら、そこに座って」
* * *
「あっつい! 痛いってばちょっと!」
「ほーら。もうちょっとだけ我慢しましょーねグッシーちゃん」
「その呼び方やめろ! 子供の時さんざんその呼び方でからかわれた! 待てっておまえ乱暴なんだよ手当てが!」
「餓鬼の頃のことなんて考えるな。先の事を考えろ」
「いてててててて! いたいたいたいたいたい!」
「もうちょっと優しくしてあげてよ。プラウスキ君」
「甘やかしちゃダメだってエリルちゃん。もうずっと温室にいたからこの程度でこんなにキャンキャンと」「俺を粛清する気か!」
火傷の跡が化膿しないように朝と晩に湯で洗い、自然乾燥させた後に綺麗な布を巻く。
看護師の手が回らず、僚友やニック・ルーカスら見舞い人がやってくれていた。
「ふう、やっと一息だ。エリルちゃんもプロドロモウも、忙しい合間を縫って来てくれてるんだぞ。もちろんこの俺だってそうだ。お前は本当に幸せな奴だよ。いいねえ、こんないい同僚はなかなか居ないよ? お前が羨ましい」
「何が言いたい」
「だから、お前はもっと人に心を開け。固いんだよ、物腰が。話し方とか、考え方とか、間のとり方とかこう……全部だ。固いんだ、なんか」
「怪我人にダメ出しなんて、お前もたいそう腹の冷たい男だね」
「だからダメ出しとかそういうんじゃなくて。せっかく時間があって命があって、身体を治すチャンスなんだ。この機会に心というか、考え方もガラリと変えてみた方がいいぞ? ずっとその偏屈っ子つらぬくつもりか? そんなんじゃお前、いつまで経っても……あのさ、女は欲しくないのか?」
「……何が言いたい」
「そろそろお前も女、見つけた方がいいってこと。女欲しいだろ?」
「イイ人がいればね。で、お前こそ女、女と言う割にどうして恋人をつくらない? 説得力がないぞ、お節介焼こうとしているんだろうけど」
「お、俺だってまだイイ人に巡り合えなくて苦労してるんだよ。だからなおさら、言うんだ。わかるか? 同じ悩みを抱える同志として、その視点に立ったアドバイスを」
「別に悩んでないし」
「………………」
エリルもニック・ルーカスも帰ってから、一時間もこうして、ああでもないこうでもないと喧しい。書類仕事が溜まっているのになぜ帰らないのか。
プラウスキも変わった男だ。
エーゲルホーファー一家は鍋料理の店で成功した豪族だが、プラウスキは御覧の性格で商売にはほとほと向かず、店を継がせたい親族とは喧嘩別れ同然で家出。屈強な肉体と強靭な反骨精神からおのずとこの道へ踏み込んだらしい。本人談なのであまり真に受けてはいけないが。
たしかに頭はキレるし仲間意識は強い。猪突猛進する度胸や、それをしっかり制御するだけの命綱たる忍耐力も有る方だ。だが、あまり人間性としては整っていない粗削りでぶっきらぼうなタイプ。嫌いではないが尊敬できる類ではない。
まるで自分と正反対なのに、入隊したすぐから妙に打ち解け合って今までやってきた。
こういう理屈をも凌ぐ友情というのは、本当に不可解だ。
そして、似たような感じの奇妙な友人というのが、ごく短期間ではあるが他にも数人、今までいたことがある。彼らの近況が、無性に気になる。
入院生活は三日で終わったものの、職場復帰は大事をとってさらに三日後に引き伸ばされる事になった。
「一命は取り留めましたね」
「うん。本当だよ。ありがとう、いろいろと」
「どういたしまして」
退院の日、ニック・ルーカスの走行機で寮まで送ってもらった。本当にありがたい。彼は断ったが、さすがに貴重な時間を割いて助けてくれているので、たくしを呼んだ時の半分くらいの気持ちを包んだ。
軽く一時間近くも走ったので、道中はかなり会話が弾んだ。まず、いきなり事故の本題に突っ込むのはお互いに気まずく思っていた事もあり、たわいもない話題を振ってみる事にした。中身の無いような、世間話は脳の中を掃除するような気持になって非常に有意義だった。
「ところでニック・ルーカス。おまえの、今の夢ってあるのかい」
論理的なグストフにしては、珍しく唐突な問いかけだった。
「僕の夢ですか。なんか恥ずかしいですね」
「いいから。俺にだけ教えてくれたらいいよ。秘密は守るし」
少し考え込んだ。
「そうですね~。恋人を見つけて、今の寮を出て二人で住んで、仕事終わりに一緒に美味いものを食べて、酒を飲んで、本を読んで、そしてできたら」
「ああ、そこまでで大丈夫だ。おまえ、恋人がほしかったのか」
自分がこんなに恋人、という単語に反応するのは、我ながら驚きだった。しかも、プラウスキとこの子と、立て続けに女の話をしてきた。そこがなんだか引っ掛かるのだ。
「当たり前です。逆にグストフさんは欲しくないんですか? 今、二十三歳ですよね?」
「え? 俺か? いやー。いい人がいれば是非、というところかな……」
「グストフさんだったら、軽々と女性を拾う事ができそうですけど」
意外な発言だった。
「いや、そうでもないぞ。なぜそう思う? 俺が今までどれだけ女性と関わってきたか、おまえは少しも知らないだろう。全くだ、全く。女性と手を繋いだ事すらない」
「えええ?」
ニック・ルーカスは本気で驚いたようだ。
その反応に、逆にこっちが戸惑いを隠せない。
「グストフさん、そこまで奥手なんですか?」
怯む。なにか心の奥の痛いところを看破された気になってきた。
「奥手とかそういう視点は捨ててくれ。たまたまピンとくる女性と巡り会っていないだけだ。そんな人は意外とたくさんいると思う」
「はて……そういうものなんですかねえ」
ニック・ルーカスは声を曇らせた。些か不愉快だ。
「逆にお前はどうなんだ? 質問返しのつもりはないが、恋人はいたこと、あるのか」
「はい」
彼が頷いたとき、下腹がズキンと反応した。
なぜだろう。自分で自分に愕然とする。
「え、あー。それはいつの頃?」
「あれは……二年前の事ですね。僕がようやく操縦士として一人で仕事をできるようになったばかりの頃、先輩たちによく連れて行ってもらった鍋屋で働いていた女の人と仲良くなって」
「詳しく、聞かせてくれ。おまえがどういう気持ちで、どういう行動をとったのかを」
「照れますねー。意外と突っ込みたがりだったんですね、グストフさんって」
うるさい。早く教えてくれ。
学生時代に感じた学問への渇望と似た、この感覚。
自分が、恋愛に対して触手を伸ばし始めた。この歳になって……?
「どういう人だったんだい」
「二つ年上でした。画塾に通っていて、そばかすが可愛い金髪の人で」
嘘だ! こんな無垢な少年、しかも当時十五歳のニック・ルーカスが年上の女性と交際していたなんて! 自分の知らない彼がそこにいたのか?
それっていったいどんなテクニックを使った? 話術か? 心理学か?
「どういうところが気になった?」
「えーっと。まず、壁紙職人になりたいっていうちゃんとした夢を持っているところと、明るいところと、あと……」
意味もなく、彼を見た。白皙の、そばかすが散った頬がみるみる赤くなっていく。
なんとなく、察した。
「よし、もう大丈夫。それで、どういう運びでお付き合いになったんだ?」
「本当に興味津々ですねー。いやらしいですねー」
「うるさい。いいから早く」
「別に自然な流れですよ。よく顔を出すから、自然に話すようになる。その頻度が増えれば、距離も縮まる。そうしたら、お互いの話もして、お互いに病院横の雑炊屋が好きって事がわかって、二人の休みが合うタイミングで一緒に行ったんです。帰り道に面白い大道芸なんかも見たり、石鹸作りの催しなんかもあったんでやってみたり……すぐに距離が縮まって、気がついたら恋仲になってしまっていました」
なってしまっていました、か。
なんとまあ、海千山千の人間がうっかり使いそうな言葉を軽々と。
「そうだったのか」
複雑な心境。
「懐かしい。恋って、なんだか風邪と似ていますよね」
「どういうところが?」
「まったく気づかないうちに侵されていくんです。気付いたら熱がでてしまって朦朧とする。どうですか。風邪とそっくりでしょう。恋も病気ですよ病気」
なんと。
この少年はこんな美しい事を宣うのか。
自分の知らないニック・ルーカスは、これだ。詩的な部分があるのだ。
普段は、まったくそんなものは匂わせずに……末恐ろしい。役者だったか、この子は。
「なんか意味が深いことを言うもんだな。おまえって」
「別に格好つけているつもりはないですよ。ただの感想です、感想」
「そうか。いや、本当に頭が上がらない」
十秒ほど、沈黙があった。
「あの、急に話が変わって申し訳ないんですけど、僕の父親の話です」
「ああ、なんだい?」
「まだ話してなかったと思うんですけど、僕の両親も十二年前のトンネル爆破事故で死んでいるんです」
「まさか。あの発破事故で……?」
「はい。親は出張料理人をやっていたので、工事現場で働く人達に給食を作りにあの山へ登っていたんです。それが爆破の雪崩に巻き込まれて、山裾にあった僕の実家も雪崩で潰れて、外で遊んでいた僕だけが生き残った。父も母も、あの事故で死んだんです」
「…………そうだったのか…………」
「今まで話さなくてすみません」
「いいや、とんでもない」
「当時僕は五歳になるかならないかというところでしたけど、不思議と父の記憶がほとんど無いんです。身体が大きくて料理が得意、という事は覚えているんですけど、それ以外の、声や顔がどうしても思い出せない。母はまだ記憶に色濃いんですけど、薄れつつあって……なんとも親不孝な息子ですね」
「いやあ、そんなものだろう……俺だってそうさ」
グストフは内心で大混乱だった。まさか、同じ事故で肉親を亡くしていたとは。
そういえば、彼の親が亡くなった理由は、踏み込んで聞いた事がなかった。
「そんなものなんですかね」
「ああ。そんなものだ」
しばらくの沈黙。
走行機は唸りながら、確実に道のりを消化していく。
「……ちなみに、質問していいかい?」
「はい?」
「その、前に付き合っていた人とは、どうして別れてしまったんだい?」
「それは……また今度ですね。ほら、丁度着きましたよ」
走行機は、しっかりと寮の前に停止した。
「はあ……なんとか生きて帰ってこれたよ」
これで、久々の連休。働き始めてから初めてのちゃんとした〝休暇〟だ。
皮肉だ。物理的に、本当に休まなければいけなくなってからしか休息がとれないなんて。何のために猛勉強して国防吏員となったのやら。
「これじゃ本当にただの鎖だ」
昼下がり。普段なら心身とも忙しく働いている時間帯だ。寝台にひっくり返って、訳もなく目を閉じたり窓から外を見下ろしてみたりしていると、自分だけ違う世界に来たような不思議な感覚に襲われる。なんだか虚しい。
そして悲しい。
なぜかはわからない。
そしてこの頃、やけに昔の事を思い出す。
子供の頃。まあ今もそうだが、自分は真面目一筋の性格でやっている。これはもう、もって生まれた性分のようなものだからこれからもきっと、変わる事はないだろう。過去の自分を否定するのも痛そうだ。厳格で実直だった父親は、大手の工事会社勤務で、トンネル等を掘る際に爆薬で発破をする作業の主任だった。気を抜く事が許されない立場にいるせいか、自分に対しても厳しくあたることも日常茶飯事だった。
父は酒を全く飲まない。それでもイライラすると、ひたすら走っていた。動きやすい薄着に着替え、夕食前に飛び出して町内をひとっ走りしてくる。そうすると、酒を飲んだ人間のように赤い顔になって、表情も明るさを取り戻している。それを子供心にしっかり観察していたので、理屈はわからないまでも、酒とはなんらかの理由で運動が出来なくなった人間が、その代用として飲むもの、つまり酒とは飲むだけで運動になる魔法の飲み物、なんて思ったものだ。
それがまさか、新人作業員が爆薬の量を間違えたがために土砂の下に埋まってしまうとは。そしてそれにニック・ルーカスの両親も巻き込まれていたなんて、やるせない気持ちだ。自分が迷惑をかけてしまったような後ろめたさを感じる。
遺体は今も見つかっていない。あの皺だらけの赤い笑顔は、もうない。
父が居なくなった事で練成学舎の学費が払えなくなり、医師になるという夢も同時に土砂の下に埋もれてしまった。
母親の記憶は殆ど無い。四歳の時に暴漢に襲われて死んだ。声すら覚えていない。
思い出せる事といえば、ピンク色の服を着た女性が川に自分を迎えに来るシーンと、大好きだった果実の飲み物を作って部屋まで持ってきてくれた場面だけだ。
物心ついたころにはもう母親がいなかった。
父子家庭育ちの自分はどこか愛情に飢えている側面があるのだろう。
だから、自分はこんなナヨナヨした、世渡りの下手な貧乏人生を宿命づけられたのだ。
……彼女なんてのも、今までいなかった。
女と交際?
そもそも何を以てして交際は成立した、といえるのか。
ただただ手を繋いでギルドラドの大通りを歩き、走行機が巻き上げる砂煙から彼女をかばってやりながら甘い餅でも買ってやって一緒に土手に座って齧る。
それをもし交際と呼ぶとするなら、自分にとっては暇で冗長なものとしか思えない。
それをするなら一人で読書でもしていたい。そう思って今まで生きてきた。
それに、やたらと装飾品が好きな女とくっつきたがる、こちらも同じく装飾品だらけの男など、自分から見ればなんだか一種の曲芸の趣味でもあるのかと本気で勘繰ってしまうのだから、価値観という色眼鏡は計り知れない度を持つものだ。
ついでに言うと、女というものは性欲の吐け口であると多数の同性は見ているようだが、決してそれだけのものではないだろう。
実は自分は床上手であると第三者から称賛された経験がある。その証拠に、職場の人間が余興の一環として娼婦と代わる代わる性交をして誰が一番上手かったかを評価してもらう低俗な遊び『床取り合戦』にイヤイヤながら参加させられた(それも、もうほとんど騙されたというような状態だ。有名な占い師がいると飲み屋の一角に連れ込まれてみれば、布団が敷かれて裸の遊女だ。しかも、行為そのものまで占いの一環と仕立て上げて!)際、いったい何がどうしたものか優勝してしまい、男性器を象った悪趣味な短剣を賞品として貰った事がある。
これも皮肉というほかない(負けたプラウスキは本気で悔しがった)。
「……もう疲れた」
ごちゃごちゃと考え事をするだけでいつの間にか眠ってしまい、プラウスキが夕食のために起こしてくれるまで六時間も眠った自分に、少し自己嫌悪だ。
* * *
「自分は本当はここに生まれるべき身ではなかったのに、きっと何事かやるべき事があって、ここに寄り道をしてきたのだと、そう思って今まで生きてきたんです」
十七歳の少女の語る、不思議な世界のおとぎ話を聞きながら、ジンはだんだん焦りのような感情を抱き始めた。
が、じっとこらえて聞き入る。
――まだだ。まだこの娘の〝核〟には、触れていない――
「ほう。それで」
「つらかった。自分は周りの人にも、どうしても溶け込めなくて、周りの同世代がどういう事を考えているのか、頭ではわかっていてもなぜだか心ではそこに入り込めない、そのくせ、あけっぴろげに楽しそうに騒ぐところを見ると嫉妬してしまう。そんな自分が嫌で悔しくて……だから私は、自分と会話して自分自身に押しつぶされないようにしようと思ったんです」
「ほう」
「それが、こうして歌を作って歌うこと。それでなんとか自分を見失わずに今までやってこられたし、私の歌を聞いてみんなが喜んでくれるようになった。それが救いだった」
「なるほどな」
「だけども、そんな感情も最初のうちだけで、三か月もしたらまた暗い気持ちになっていったの。それからはもう何をしていてもこのくらい感情がとれなくて、いつしかそこにどっぷり浸かっていたの。それで、向こうから国防が向かってきたとき、ああ、きっと自分はここで終わるんだ、自分がやるべきことだったのは、形ははっきりしなかったけど、今までの事だったんだろ思って、後悔なく死ねるように、最後に歌を……遺そうと思って……」
ジンの額に皺が増える。
「……つまり、あんたは自分の死を覚悟していたという事で、いいんだな?」
「はい。まったく、その通りです」
ジンは徐に立ち上がり、壁と真正面から向き合った。壁に手を突き、崩れそうになる。
――落ち着け。
(ここで、怒ってはいかん。それでは、他の者と同じだ――)
「カルハ。お前は、取り返しのつかない事の発端となっている事、理解できるか?」
「それは自分にも問うた方がいいんじゃないか?」
カルハの返事を遮るように野太い声が響き渡った。
階段から降りてきたのは、国防の制服を着た屈強な男と、その後ろから頼りない足取りでついてきた色白の若者だった。
* * *
「ニホンジン。忠犬のフリした狂犬と聞いて驚く。ガリガリだしチビだし。本当かい?」
グラナ・グラレス総督は憎たらしい口調で呟くと、檻の鍵を開け、自分はジンに繋いだ鎖を持ち、カルハに繋いだ鎖の端をグストフに持たせた。金属音が幾重にも反響し、外で鳥たちが騒ぎながら飛び去って行くのが聞こえる。
「どうしてここに来る羽目になったのか、今から個別で話を聞かせてもらう。取り調べ後は、もう一緒の部屋には入れられないから、別れをしておくなら今だぞ」
グラナは淡々と、冷徹な声で告げた。文面にはまるで沿わない、他人事だという意思が見え透いていた。それでも小柄なニホンジンの二人は互いの手を取り合い、よく恋愛小説の主人公らが言いそうな涙ものの言葉を二言三言交わし、意外なほどあっさりと離れた。
グストフは非常に焦っていた。
実は黒髪族の少女をこんな間近で見たのは初めての事だ。
どういう訳か今まで粛清対象だったのは中年を過ぎた人間がほとんど、若い人間はごく
稀だった。おそらく、歳の近い人間だと感情移入してしまうだろうという上の勘繰りだ。
今まで嗅いだことのない、不思議な柔らかい香りがする。
初めてのはずなのに、どこか懐かしく感じられる。
自分は、本当に、今まで散々やってきた粛清を、このいたいけな少女にもするのだろうか。
自分で自分に問いかける。否、己を攻め立てた。
まさかそんな事、できるのか? この意気地なしで情けなくて弱虫の自分が、こんな柔らなく、なんの曇りもない色白の少女に、あのような残酷な行為を振り翳す事などできやしない。
(無理だ。今回の仕事は)
粛清室の扉が開く。中央にある椅子。幾人もの〝罪なき罪人〟らを飲み込んできた地獄の断罪座に、場違いなくらい美しい少女がそっと腰かける。
グストフは職務規定にある『扉を閉める時は、罪人に背を向けず後ろ手に閉める』という項目をすっかり忘れ、焦るように扉をしめた。息を整えて、振り向く。
ぎょっとした。
この少女、ここがどんな所かわかっていながら――おそらく――ほほ笑んでいるのだ。
グストフの中の動いたことのない歯車がこの時、静かに回転を始めた。