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霹靂



「 どうも   どーも       ねぇコールマンさん 」

 頭の上から声がする。

 反射的に顔を上げると、半開きになった窓から覗くニック・ルーカスだった。

「なに……なんだよこんな時間に……非常識だな」

「すいません。だけど、どうしても気になって眠れないんです、僕」

「はあ? いったい何の話」

 イライラする。

「踊り(ジョーカー・ポーク)の事ですよ」

「……んん……」

 眉間を押さえる。前にもこんな事があった。

 寮は敷地の端っこで警備が手薄なため、ちょっと努力すれば一般人でも侵入できるのだ。

「お前は本当に何を考えてるのかわからない奴だ……この隣の部屋には短気で有名なブライアンがいるってのに……」

「えへへ……誰でしたっけそれ」


 結局これだ。

 どうしてこう、自分は都合のいい人間なのだろう。

「明日は休みでしょう?」

「休みだけど。それがなにかしら」

「休みの前夜には夜遊びしなきゃ。常識でしょ? 違いますか?」

「知らない。少なくとも俺の辞書には載ってない」

 寮からずいぶん離れた所に、彼の個人所有の走行機が駐機されている。カエルのようなデザインの小型の種だ。彼が三か月分の給料をはたいて買ったお気に入りの品らしい。

「よく揺れますけど我慢して下さいね」

「それよりお前、寮母さんになんて言って抜けてきた?」

「別に何も言いませんよ。僕みたいな若い労働者が何をしようが無関心ですから」

 扉を少々乱暴に閉める。これには油を差したい。

「ふーん。なんだか、良いのか悪いのか分からない状態だな」

「良いんです、これで。キチキチ管理されるのは嫌いです。菜っ葉じゃないんですから。根っこが有る訳でもあるまいし、自由に動き回りたいでしょう」

 グストフは珍しく声を上げて笑った。

「はははは。うまいこと言う。お前みたいな人間は俺のこの仕事はどだい無理だろうな」

 言ったとたん、ニック・ルーカスはムッと黙り込んだ。しまった、と思う。

「いや、その、個人の特性としての話だけど」

「動きますよ。掴まって下さい」

 ニック・ルーカスの愛機は想像以上の乗り心地だった。未舗装の路面で機体が跳ねる、機関から漏れた煙の臭いが機内に充満する、ギアを変える度に首が前後に揺さぶられる……移動手段というより、修行手段だと内心で泣いた。あまりに音がうるさいので、目的地より二百メートルも手前の空き地に駐機し、徒歩で接近しなければならなかった。

「このところ大通りにいつもいるので、夜はどこで寝ているのかとか色々と気になって調べてみたんです。そうしたら、どうやら隔日くらいでここに寝泊まりしてたらしくて」

 夜のギルドラドは意外と静かだ。酔っ払いは常だが、時々子連れの一家なんかも歩いているので面食らう。それだけ皆、やる事がなくて退屈を持て余しているのだ。

 ニック・ルーカスの案内で辿り着いたそこは、走行機の廃棄場だった。

「ここ……前は麻薬商人とか、素行不良の連中のたまり場だったところだ」

「前は柄の悪い連中がうようよしていましたけど、巡査達が頑張った後は、しばらく閑散としていて、最近になってまた路上生活者達が集まるようになってきたらしいです」

 なるほど。

 どうりで大きな乗り合い式の機体からはいびきが聞こえ、そこら中に転がされた機体からも生臭い饐えた臭いや、安っぽい飲料の匂いが漂ってくる訳だ。

「文字通り鼠だな。払っても払っても新しい家族がやってくる」と言い掛け、慌てて言葉をもみ消す。

「このいっとう奥になるんですけど」

「あの、ひときわ綺麗な機体?」

「ええ。一度だけですけど、あの中に例の豚男が入って行くのを見たんです。見間違いじゃありませんよ。もちろん仕事でクタクタでしたけど、決して寝惚けてなんかいませんからね」

「わかった、わかった……ちょっと待った。ここへ何度も通っていたの?」

「ええまぁ……二~三日に一度くらいですけど。最近は荷運びの仕事が多過ぎて、なかなか時間が取れなくて。少しご無沙汰です。趣味の彫刻も仕上げに入ってきてるし」

 充分に暇な人間だ、と心の中で吐き捨てた。

「お前は、それを黙って眺めていただけなんだな?」

 指まで差して強めに確認する。

「はい」

「このことは誰にも喋っていない?」

「グストフさん以外には言っていません。ただ何人かはこの豚男を付け回している人間がいますから、知っている人はいると思いますが……僕が関与しているところだけで言えば、何も」

「はっは。お前みたいなモノ好きはそうそう居ないから、そこは心配いらないさ」

 仮にいたとして、それがどうした?

 自分は警保軍の人間だ。国家権力だ、恐れるものなどない。

「………………やれやれ………………」

 しかし、なるほど。

 業務の垣根を飛び越えている事は確かだ。現場の事は巡査という人間の管轄。内勤の自分らの出る幕ではないから、何か手柄を立てたところで称賛されるどころか逆に揚げ足を掬われて職位そのものが危うくなる可能性だってある――

 ビクッとした。首筋に人の息がかかった。

 ニック・ルーカスが怪訝そうな顔でグストフの肩越しに機内を覗き込んでいる。

「これは見たところ何の変哲も無いけども」

 そう言い掛けたグストフの目が、あるものを捉える。

「おい見ろ、あれ!」

 そう言って、自分は無我夢中で機内に入ってしまった。

 静かに駆け寄り、拾い上げてみる。

「これ、職場の近くで売ってる惣菜の箱だ」

 月明かりに翳してみせる。

「『ギデオン・パーカーの飯の友』ですね。うちの職場の人にも人気ですよ」

 ニック・ルーカスは少し緊張のほぐれた顔で視線をずらした。

 目で追うと、同じ箱が隅の方に幾つも転がされている。

「やっぱりね。この辺りをまんべんなく回りながら日銭を稼いでいるってわけ……でも、惣菜ばかりで肝心の主食が無いんじゃないですか」

「そう言われてみれば、そうだな。あんな塩辛いものだけ毎日食べるとなると相当キツいなぁ。滋養面から見ても良くはないし、第一、腹も膨らまない……」

 グストフは青息吐息、少し遠い目をした。

「これ、パーカーさんに話を訊いてみましょうか。近くで見た豚男がどんなだったか、いつもどの方向に向かっていくかとか、何か手掛かりが」「いや、いい」

 グストフはずいと制止した。

「どーしてですか?」

「そこまでスタンドプレーしなくてもいいよ。もう大丈夫」

「いや、そういう感じじゃ」

「ここから先は俺たちの仕事じゃない。業務の垣根を超えた事をしちゃならない」

 半分は自分に言い聞かせる意味を込めて――ニック・ルーカスの眉がピクリと跳ねる。

「そんな! せっかく情報を提供してこの場を作ったと言っても過言ではないのに……薄情ですね、意外と」

「薄じょ」「やっぱ、こういう仕事をする人って頭が固いというか」

「やめろ、そっちこそそんなこと言うな大人に向かって! 仕方ないだろ、国の仕事で国民を守るのが大義名分なんだから。まったく冷や汗かかせてくれるなあ」

 片方の眉だけ歪める相手に、ほとほと困った。

 この年頃は本当に繊細で敏感なのだな。

「ちゃんと感謝はする。だけど、もう引っ込んだ方がいいんだよ本当に。これはお前の為でもある。いいから、今日のところはひとまず引き揚げ。ほら、操縦を頼むよ。プロ(・・)なんだろ」

「洒落のつもりですか。面白くないです」

「いいから早くするっ」

 華奢な背中をグイグイ押して、やっとの事で撤収した。


*     *     *


 その日、グストフは非番だったので休日の習慣である朝の散歩と水浴を終え、朝食をとったあと、犬革のカバン片手に一級塔へ足を運んだ。しかし足取りは重い。

「運動しなきゃいけないなあ。でも時間ないなあ」

 健康診断の通知に体重が半年前より三キロ増えているとあった。自分は細身な方だが、それでも体重が増えたと聞くと嬉しくない。増えたモノがまず筋肉でないのは、体型からして明らかだからだ。

 幾人かの仲間とたわいもない挨拶を交わし、ここへ足を運んだ名目は「休み明けまでにどうしても片付けたい書類がある」と(とお)した。何せここ数日、いつもなら出勤と同時にこなす用が忙しさにかまけてこなせなかったのは事実だから。

「コールマン」

 太く重い……しかし空気が足りない、弱々しい声。

「なに? おはようマクゴフ君」

 ベンデル・マクゴフが大きな体をゆっさゆっさと揺らして現れた。クセの強い金髪は今日もまた複雑に絡み合い、三メートルは離れていても湿っているのが分かる。普通の人の三倍の量はあろうかという眉毛をくっと寄せた表情は、いつも通りだ。

「最近、夜中に君の部屋の方から声なのか音なのかわからないけど、よく聞こえてきて気になるんだ。少し気遣ってもらえないかな」

 ふっくらした顔なのに、表情はゲッソリとした印象の彼は心底迷惑だ、というように身振り大袈裟に訴えた。

「ごめん。このところ来客が立て続けで僕も困ってたんだ。よく言い聞かせておくよ。安眠妨害しちゃって申し訳ない」

「いいよ。とにかく、よろしくね」

 それだけ言って、またのそのそと出ていきかけた時だ。

「あぁ。そういえば、君宛に何か届いてるみたい。デスクの上に置いておいたから」

「ほんと? ありがとう」

 礼を言うと、返事もなく、さっさと彼は出ていった。

 ここでふと疑問に思う。そんなに音を立てる事があっただろうか?

 ベンデル・マクゴフは、この仕事を始めた直後は気が合ってよく話したものだが、いつの間にかすっかり陰気になってしまい、自分と疎遠になっていた。自分だけでなく、人とあまり関わらないような、消耗したようになってしまった。

 何が原因か、悩みがあるなら打ち明けてくれと言ったきり、やはり会話は続かなかった。

 果たして。自分の持ち場に行くとガランとして高い位置から差し込む日差しがデスクの片隅にキラキラと幻想的な陽だまりをつくっている。そして、何か置いてある。人員精査管理からだ。先月に行われた職場の様子を作文にするという鬱陶しい宿題で、自分が優秀賞に選ばれたのだが、その景品だった。粛清課の紋章を(かたど)った文鎮。

 素直にうれしい。そっとデスクの端に飾り、他に誰もいない事を確認する。

 カバンを置くと中から朝食の残りの焼き菓子と炒った豆(最近、これが若い女性の間で流行っている。興味があって買ってみた)の入った筒を取り出し、部屋を出て書庫室へと続く螺旋階段の扉を開いた。裸の電球が一つだけ長い電線の先にほおずきのように垂れ下がっており、それがいつもゆらゆらと独りでに揺れている。

 足元に用心しながら階段を下りていく。下りながら豆を掌に五、六粒流し、一気に口に放り込む。最初、埃っぽいような、粉っぽい食感がした後、噛んでいくうちに甘みが広がった。確かにおいしい。しかし、そんな言うほど〝華やぐ〟食べ物な気はしなかった。

 急階段が終わると目の前に書庫室のささくれた扉が現れる。

 そこに直角に位置する場所に、これまた古くて小さな扉がもう一つ。

 かつて備品庫だったそこは、敷地内に新たに物置小屋が増設(例のあそこだ)されてから役目を奪われ、今はもぬけの空となっている。

 ――と、思われている。

 グストフはすっかり滑りの悪くなった扉を力を入れて押し開けた。

「ケミトリさん。ごはん持ってきました」

 優しく呼び掛ける。

 くぐもった返事と共に、闇の奥で何か動いた。盛夏の公衆便所のような、うげ、となるような悪臭がする。やがて光の下に姿を見せたのは、みすぼらしい襤褸を纏い、干物のように皺だらけの老人だった。

「待っとったよ」

 笑顔なのか無表情なのか読み取れない。

「お元気でしたか」

「ああ。最近は少し暖かくなってきたせいかな、以前よりも腹具合が良くてね。しっかりと腹が減るんだ、子供のようにねえ」

 ギラギラと光を放つ目を上目遣いにして両手で食事を受け取り、その場で食し始める。

「あまりしょっちゅうだと怪しまれちゃうんです。ごめんなさい。それにしても、ご健康そうで何よりです」

「さまさまじゃわ」

「……ところでケミトリさん」

「なんじゃ」

「誰かに存在を疑われていますけど、何かしましたか」

 少し、声を低くして詰め寄る。

 ケミトリという老人は動きを一瞬ピタリと止め、やがてのろのろと話し始めた。

「いや、それが、どうも油断したらしい」

 ドキリとした。

「わしの水筒、これな。これの水が底をついて、あんたが来るのを持っとったんだが、渇きに耐えかねてついつい上がっていってしまったんじゃ。あんたらが使っている給水棚のところで用心して水を汲んだが、足音が聞こえたんで引き返してきた。じゃが、相手は若い。わしのようなカタワの年寄りなんぞ簡単に捕まえてしまう。必死に逃げたが、尻尾だけ見られてしまって、この場所まで調べられてしまった。それからは三日三晩、久しぶりに外の世界に出て苦労したわい。日の光は痛くて痛くてたまらない。この布を纏っていたからまだ助かったものの、わしは衰弱してしまった。本当に、あんた無くしては生きていけないんだ。感謝するよ」

 尻尾とは影の事だろうと咀嚼し、何度も相槌を打って話に聞き入った。表情こそかろうじて仮面を保ったのだが、内臓がワナワナと震えるような感覚が沸き上がってくる。

(なんていう危なっかしい事をしてくれる!!)

 こうして勝手な厚意で面倒を見てやっているから恩着せがましい事を言いたくないが、もしこの事がバレたらグストフ自身も職を失い、たちまち彼と同じ状態だ。

 救助するつもりが共倒れなんて、そんな虚しい事があってたまるか!

「感謝してもらうのは結構なんですけど、あんまり迂闊な事はしないで下さいね。あなたがこうしている事がバレたら私は職を失う。貴方は場合によっては命を失う事になるかもしれないんですよ。いいですか?」

「すまん。本当に軽はずみじゃった。わしはまだ死ぬわけにはいかん。あんたみたいな若い人に、言っておきたい事がまだ山ほどあるからな」

 不自然なくらい神妙な顔で以上の事を言った。ムゴ、ムゴと噎せた。

 それが覿面に好奇心の窓を開ける紐を引っ張ってきた。

「例えばどういう事ですか」

 ケミトリは、ただでさえ細く窪んだ目元にさらに皺を寄せた。

「あんた、この国が今みたいな有様になる前、知っとるんか?」

 思ってもみない質問だった。

 国の事を詮索するのは、たとえこの職位でなくて一種のタブーだ。

「いえ、実のところ殆ど何も知らないんです」

「じゃろうな」

「自分が興味のある事について掻い摘んだ程度ですから。人に言える程の知識は何も」

 謙遜ではなく、本当に自信がない。

「あいよ。なら、なおさら言っておかなきゃならん。この国はもともと、今のような差別主義ではなく、文明とモラルの発達した素晴らしい先進国だったんじゃ」

「それについては、叔父から聞きました。かつては黒髪族が世界の経済に大きく貢献していたのですよね」

「あぁ、そうじゃ。特にこの何の資源もない島国に住まう民族は優秀な民族だった。繊細で臆病ではあったが、同時に器用で慎重でもあった。諸外国に比べて国土も狭く資源もない、おまけに民族的にも体格が小さい」

 なんとも言えない気分だ。

「――だが、その分を補うかのようによく学び、よく働き、コツコツと小さな煉瓦を積み上げる作業をいとわない実直な性格と素養を兼ね備えていた。その甲斐あって当時の世界経済に欠かせない存在となった訳じゃ」

「何とも哀れな話ですね。そこまで優秀だった人種が、今は迫害され、強制労働をさせられているなんて」

 ケミトリの白濁した瞳がギョロ、とこちらを向く。

「ひどいと思うじゃろ。じゃあ聞こう。お前さんは、なぜそんな優秀な歯車たちを酷使し果ては虐使する事に加担し、生業としているのか?」

 ケミトリの目の色がはっきり変わった。

 目の色だけでない。背後にある何か、その何かの気配そのものが変わったような、そんな気がした。グストフは思わず肩に力を込める。

「そ、それは……」

 脳内に、あの声がフラッシュバックする。


 ――学習成績の優秀な者を選りすぐって国のお遣いをさせられている、その渦中にいる事に君はまだ気付けないんだ。それはそれで、楽だろう――


 ――私たちの仕事は、地獄の使者そのものだ――


 かつて恩師であり、上司でもあった男から零れた言葉。

 続いて浮かび上がって来たのは、同じ人物が過去に吐いた言葉。

 それを訊いたのは、錬生学舎の教室だった。


 ――この素晴らしきお国の役に立つ人間になるためには、ここで与えられるカリキュラムを優等成績で卒業する必要がある。お国からの勅命をこなす為には基礎体力だけではダメだ。それを上回る素養、教養が求められる――


 ――私達の仕事は、国を護る立派な役人だ――


 いつも通りの硬い表情で言っていたが、今それを思い出してぞっとする。あれは気合いが入った顔ではなく、己の中の良心の呵責によって生み出された、苦悶の表情だったのだ。

 その違いなんて、その場で見抜けるものか!

「なぜ答えない。若いの」

 思わず、ぎょっとして見返す。

 濁った眼が、視覚ではない第六感で射抜くそれが、自分の弱点を離さない。

 そこには、未来永劫癒されることのない祟りにも似た怒りを感じる。

「それは……自分にとってはそれが、正解(・・)だったからです」

 追い詰められてでた、それが正真正銘の本音。

「……正解。はあ。そうか。わしから見ればそれは大きな間違いだ」

 吐き捨てるように言った。

 キャメロン総督にも、似たような事を言われた。

 ケミトリはまた元の穏やかな声色になり、諭すように話しはじめた。

「人間がエゴイズムとナルシシズムの塊である事は、お前さんから聞いたな」

「は、はい」

「それであるならば、理屈は何であれ社会の上座に腰を置いた人間がこの素質を振りかざさないと、なぜ言えようかい?」

 遠回しに、このかたわ(・・・)の老人は自分を怒鳴りつけているのだ。

 それは直接大声で怒鳴るよりも遥かに聞く者の心を抉り、お前達のように()は(・)いい(・・)が(・)それ(・・)を(・)しかと(・・・)使わない(・・・・)優等生(・・・)のおかげで自分たち弱者がどれだけ蝕まれているか、苦しく思い知るがいい――白濁した目は、それを熱いほど痛烈に脳裏にまで腕を押し込んでグストフの脳味噌を握り潰した。

「そ、それは」「どうして、言えようか?」

 怖い。

 この老人が、とても怖い。

 病気でひ弱な老人が、こんなにも怖い。

「じ、自分にはそれを説明する資格がございません」

 ようやく出てきた答えらしきものを、そのまま放り投げる。

 鼻で笑い飛ばされる。

「上手いこと言いよって。資格がないのではなしに、単に答えられんだけじゃろうが。認めないところがしみじみ厄介じゃのう」

 唾も飲み込めない底なしの圧力に押し固められ、魂が委縮する。

 怖い。

 助けて。

 いやだ。

「すみません」

 この一言に、溢れんばかりの嫌悪感を込めた。

「……最後に、これだけは答えてもらおう。肉体か精神か、責められると苦しいのはどっちだと思う?」

 グストフは、この質問で少し冷静さを取り戻した。

「えっと、それは痛みを伴う肉体の方だと思います」

 また、鼻で笑われた。

「阿呆じゃな、やっぱり。まあええ。ちなみにこの両方を責めて責めて責めぬいて回転を続けておる永久機関を社会と呼ぶ、どっかの宗教家がそう言っておったが、これはわしからしても一理あるわ」

「……………………」

「まぁ、飯が貰えんくなると困るからな。この程度でええじゃろう。次も頼むぞ」

 ケミトリは襤褸を揺らして暗がりの奥の方へと消えていった。感情も姿勢もその場に固定されて投げ出され、グストフは妙な寒気と強烈な喉の渇きに襲われた。


「お前」

 僚友が化け物を見るような目を向けてくる。失礼な奴だ。

「なに」

「お前その顔。どうした」

「なにが」

 朝礼の為に中庭へと集合していたとき、ふとした瞬間に意識が飛んでいた。

「お前がそんなバカっぽいツラしてるの初めて見た。体調不良か」

 プラウスキは無遠慮に顔を覗き込んでくる。そういう奴だ。

 厚い唇と大きな目がいつもよりインパクトを持って映る。

「違う。そういう訳でもない。ちょっと昨日の夜は眠れなかったんだよ」

 普段は決してそんなことはないのだが、こういうときに限って足首を回してみたり腰に手をやったりと仕草がうるさくなってしまう。

「ハァ~ったくもう情けないねえ。総督の事でショックだったのはわかる。だけどあまり目につくような事はやっぱり勘弁してほしいんだよなァ。というのもスガナのやつがさ、最近はどうも女の子特有のアレみたいでカリカリしてやがんの」

「もうわかったから。静かに出来ないのか。朝礼始まるぞ」

 プラウスキの顔を眺めていると、自分がこの場にいてはいけない存在のような気がした。

「皆さん、おはようございます」

 いろんな方向から声がした。波のように四方に響く、拡声器を通した声。

 スガナ。朝礼台の上に立ち、総勢五百二十名の国防吏員へ厳粛な挨拶を降らせる。

 一同が敬礼を捧げる音だけで地鳴りがする感じがした。

「直れ――まず、一級塔へお勤めの皆さんへ急ぎの連絡が入っています。南東の町で起きた暴動の首謀メンバーの位置が特定されたとの連絡が入りましたので、巡視課護送班はこの朝礼後すぐに護送機の準備をして下さい。朝礼終了後すぐに出動要請が入るかと思いますので、伝達などは帰投後で結構です。あわせて粛清課の皆さんもすぐに仕事が開始できるよう態勢を万全でお願いします。人数が多いと思いますから、指揮担当は仕事が円滑に運ぶようサポートの方をよろしくお願いします。無線のチャンネルは5に固定しますので間違えないように」

 あまりにも唐突過ぎた。その場に居合わせた誰もが困惑を隠せずにいる。

「南東の暴動って、なんだ」

 グストフの右後ろから、粛清課新隊長のグラナ・グラレスが苛立たしい声を上げる。

 近くにいるだけで痒く(・・)なってくるような、いつも気が立った男だ。

「なにも聞いてないよな? そんな事があったことすらなにも」

 プラウスキがグラナへ耳打ちすると、彼は眉間に濃く皺を寄せた。

「おい。俺はもう隊長だぞ。気安い話し方は慎むべきだと思うが」

 そう一言置き、ポカンとするプラウスキへ言葉を続ける。

「そもそも事件が起こっていたならなぜ警邏班の方から伝達がない? そこがおかしいだろ。ことが終わってから後始末だけお願いします、奴らがやっている事はまさしくこういう事だ。便所の紙同然じゃねーか」

 グラナはキャメロン総督が健在だったころは大変有能な右腕として仕事をしていた。情に厚いキャメロン総督からの薫陶を受けていたとはいえ、荒々しさが垣間見えるあたり、どことなくプラウスキと似たところがあるとグストフは思っていた。

 あまり信頼のおける人間ではない、ということ。

「それでは皆さん。本日も気を引き締めて勅命に任ってください」

 スガナは革張りの手帳をわざとらしくパタンと音を立てて閉じ、背筋を伸ばしたまま朝礼台を降りて行った。その後は食堂長から今日の給食のメニュー発表があり、五百余名の国防吏員らは皆それぞれの持ち場へと散らばっていく。雑踏の向こうで、さっそく数台の護送機と警備巡回機が機関の音を響かせて正門を出ていくのが見える。

「コールマン」「はい?」

 新隊長のグラナが彼を呼び止めた。

 手元の書類を二、三度見てから、徐に指を差しながら言う。

「今日お前は外の巡回警備に行け。いま言われた通り暴動の件で警邏班のほとんどが出払っているらしい。人手が足りないという事だから、うちから応援を出す手配になってる。お前、操縦資格は持っていたよな?」

「は、はい。いちおう持ってはいますが」

 やれやれ精神で敬語を使う。まあ実際に役職が上になったのだから仕方ない。

 走行機を操縦するには走行機乗務技術ノ証という資格が必要である。それは十三歳を迎えれば誰でも取得可能で、およそ二か月間、操縦学校に通って走行機の扱い方や修理方法などの座学研修から実際に操縦をする実技研修を経て交付されるもので、所有する国民は全体の約三割程度しかいない。理由は取得費用の高さにある。

「ああ、さすが元医者志望だな。行き届いてる(・・・・・・)。警邏班の巡回機が一台余っているらしいから、それで町の巡視を頼めるか」

 グストフは不快な気持ちが表情に出てしまうのを辛うじて食い止めた。

 元医者志望という事には、触れられたくない。それと一体何様のつもりだ。勘違いしてくれるな。役職こそ隊長なのはもう飲み込むが、言葉の使い方がおかしいったらありゃしない。

「でもあの、人手の問題ならウチの課の方でも」

「いいから。それはいいから。わかったか?」

「…………かしこまりました」

 グラナは舌打ちを漏らし、身体をやけに左右に振る独特の歩き方で遠ざかっていった。

 悔しいような、悲しいような、冷たい感情が込み上がってきた。

「ほらほらほら~。うええ。おっえええ! 見た? 調子に乗り始めたよ、あれ」

 いきなりぬっと横から現れたプラウスキが嘲笑した事さえ、意識したくなかった。


「ひさしぶりなんだよ。上手くできるかな」

 事務員から受け取った始動棒を機関部に差し込み、奇妙な模様を描くようになぞる。次に操縦席に乗り込んで電気線を繋ぎ、ブレーキを踏み込み始動レバーを引く。カッカッカッ、とぜんまいが回るような音と共に機関に火が入り、黒い煙がガオッと吐き出される。しばらくすると、機関は安定し煙は無色になった。

 ふーっと深いため息が漏れる。

「わかりますか? 動かし方」

 警邏班の三十位の巡査が様子を見に歩み寄ってきた。

「すみません、いまいちわからないですし、久方ぶりなんで自信もないです」

 男はフフッと含み笑いのようなものを漏らした。

「このスイッチ、これが警告灯の点灯ね。これはサーチライトの操作用で、これが警報、こっちがホーン。それから」

 男は制帽を被った頭をにゅっと突っ込んできた。

「このレバーが、車載式機銃の展開、っと」

 つと上げた視線が、少し愉快そうだった。

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