嫌悪
「いつかきっと、こんな汚い寮は抜け出して自分の家を建てる。それまで俺は総督にならなきゃいけない。なんとしてもな」
談話室の前に来た時、僚友の威勢のいい声が聞こえてきた。
それに合わせて何人かの合いの手も聞こえる。
なんとなく、雑巾の入った桶を抱えたまま耳を澄ませてみた。
「総督になったら、少なくとも今の給金の四倍は貰えるらしい。しかも、一年に二回、賞与といって月給分の金が、基本給金とは別で支払われるらしいぞ」
誰かがそう言うと、皆の声が色めき立った。
「それは誰から聞いた?」「そんなに貰ったら、あっという間に家が買える!」「走行機がいったいどれだけ買えるかな」と、口々に好きな事をくっ喋っている。
――所詮、人間は人間臭さには勝てん――
恩師の言葉。
国に仕える名誉ある職員とて、結局その原動力は金、家、走行機。
餌を欲する鳥か。
自分が偉そうなことを言える身分でもないのだが、なんだか虚無感が吹き荒れる。
「プラウスキ。廊下まで丸聞こえだぞ」
酔った僚友は喧嘩するような視線をこちらに向けた。
「ああ? 地獄耳かいまったく」
下顎を馬鹿みたいに突き出してつまみを口に放り込む彼を横目に、他の僚友らもゲラゲラと楽しそうだ。
「グストフ君。残業あがり? どうぞ飲みなよ」
牢務課のグレム・ハンドレーがジョッキを差し出す。分厚い眼鏡の下のそばかす顔は、既に酒が回って真っ赤だ。
今日は週末。グストフは職場の清掃当番で、つい今の今まで残業していた。
「ああ、ちょっと待って。雑巾だけ洗ってくる」
「早くしてね。エリーの誕生日なんだから」
上機嫌のノロケを背に、げんなりした。
「はいはい」
彼と同じ課のエリー・キャスリンの二十四歳のお祝いをしているのだ。
テーブルの上にはいくつもの美味そうな食事が並び、酒が用意されている。自分が普段話さない人間含め、男女併せて八人くらい同席している。
グストフは便所の手洗い場で雑巾を絞りながら、エリーの事は何も知らないのに気まずい、などと眉を寄せながら、それでもキャメロン総督の事が脳裏に蘇っていた。
今、プラウスキが総督になって自分の家を持つだのなんだのと言っていた。キャメロン総督も、かつてこの寮に入っていた。最後にこの寮を後にする時、あの人もウキウキとした気分だったのだろうか。きっとそうだ。奥さんがいて、これから二人だけの新居に入る。昇進して給金も上がり、社会的にも成功者の部類に入った。
その顛末が、まさか職場で自殺とは。
「お待たせ。ごめんね遅れて」
「いーよいーよ。さて、じゃあお待ちかねのご馳走の封印を解いちゃおう!」
グレムはお調子者気質の男で、主賓のエリーはそれより一回り賑やかな女の子。
自分がこれまで関わってきた人々とは違う、なんというか派手目な感じの人だ。
そして皆が知っていることだが、この二人は交際している。
「わー! すごい。これってあの役所へ行く道の肉屋のやつじゃない?」
豪勢な肉料理に上機嫌。
「その通~り。みんなで少しずつ、なけなしの小遣い出し合って出前とったんだ。滅多に食えない代物だから、今日は盛り上がっちゃおうぜ!」
「いやっほー!」
その場は大盛り上がりだ。普段はなかなか口角を上げない太っちょのベンデル・マクゴフも珍しく頬をピンク色にしている。
「あ、待って待って。齧りつく前に、優等生代表のグストフ君から何か祝辞を」
「え……? ちょっと待って」
いきなり話を振られてたじろぐ。八人の目が一斉に自分へ向けられる。
「えっと、あー……」
「なんだ。いつも通りかしこまった事ぐらい言えばいいさ」
プラウスキのイジリはいつもの事だが、この時は心底やめてくれと思った。
一丁前に咳払いをしてみて、息を整える。
「えー。僕らの仲間、エリー・キャスリンちゃん……キャスリンさんが今日めでたく二十四歳を迎えられまして、これは僕らにとってもとても喜ばしい事で」
どっと笑いが起きた。
「お前、それじゃ親戚のおじさんじゃねーか! 緊張ほぐせ!」
プラウスキの冷やかしで、さらに爆笑の渦が巻き起こる。
「えぇっと、だから……とりあえず明日は休みだから、とことん盛り上がりましょう!」
「そーだそーだ、それでよかったんだよ」
ぎこちなく乾杯をして、後はご馳走をつまみながらの他愛もない会話や仕事の愚痴、また十代の若者がやりそうなボーダーラインぎりぎりの猥談なんかをしてどんちゃん騒ぎだった。あまり騒ぐといつもどこかの部屋の人間が文句をつけてくるが、今日は談話室まわりの人間がうまいこと夜遊びに出ているせいか誰も文句を言いにこない。
それにもう一つ、苦情が来ないであろう理由がある。グストフの斜め向かいに座っている細身の男はジェダリンスといって、ひどく感じの悪い奴だ。こやつの目に留まればストレスを余計に抱える事になる。さっきから五人ほどがこの談話室をさりげなく覗き込んではすぐどこかへ行くが、ジェダリンスがいると分かった途端に遠慮しているからだ。
グストフにとって宴の席ほど胸の痒い場所はなかった。興味は無いけどただそこに座っている誰かの過去の恋愛談や武勇伝を聞かされると、あたかも情報料をよこせと言わんばかりに自分も絞られる。何も出ないのに。
何もダシが出ないとわかると、今度は余計なお世話が始まっていく。
「二十三なら、女の一人も抱いていないと」「十代の時に一度も一人旅をしなかったなんて」「男なら靴下は常に十五足は揃えてなきゃ」「まだアノ店のアレを食ってないなんて」
こんな事、皆と同じくなったとして、何の価値がある。
自分を見失って惨めになるだけなのに。
これは遅くなるかと思いきや、意外や意外、二時間程度でお開きとなった。
「ほんと楽しかった。みんなありがとう! すごく思い出になるよ」
おてんばエリーは幸せそうだ。その満足げな様子を見て、グレムも目を細める。
各々が自室へと引き上げ、休む。働き出してから自分の時間がどれだけ尊いものかを痛感させられた。グストフは小一時間読書をした後、歯を磨こうと部屋を出た。
「今日は月、綺麗だな」
ふと二階の図書室テラスに出てみる。酔った身体にひんやりとした夜風が心地いい。
深呼吸。
――なんだ――?
こんな夜中に、外で騒ぐ輩がいるようだ。
女のきゃっきゃ、という嬌声のようなものが途切れ途切れに聞こえてくる。
「馬鹿じゃないのか。いくら休み前だからって外で……」
息をのんだ。叫びそうになった。
(あの子だ!)
さっきまで皆と飲んで食って騒いでいたエリー・キャスリンが部屋着らしい軽装で中庭を横切っていく。男が後を追っていく。
グレムじゃない。
あの長い手足と尖った髪はそう、いやみなジェダリンス。
そいつとしっかり手を繋いだり、楽しそうな声を上げている。互いの腰へ手をやった。
なぜこの二人?無性に気になったグストフは、階段を駆け下りて中庭の方へ向かっていた。
普段なら絶対に関わらないのだろうが、如何せんしらふではない。酒の勢いで少し大胆になっていた――魔が差したのだ。
二人は寮の建物から中庭の端、寮棟の隣にある物置小屋へ向かっているらしい。
グストフも木の陰に隠れながら尾行する。二人は何やら扉をガチャガチャやると、小屋の中へ入ってしまった。
(合鍵?)
そんなものどこで手に入れた。物置小屋には窓があったので、そこから用心して覗き込んでみた。薪や除雪器具などが収納されている雑然とした屋内で、二人は何か語り合うような仕草――向かい合い、身振りを交えて何か訴え合っているように見えた。
そしてそれが、見ていると段々と二人の距離が近づいていくのだ。
何か、咳をするように息を荒らげたり、身体を前後に揺らしたりしている。
遂には抱き合い、熱い接吻を……
(…………!?)
エリーはグレムと恋仲だったって……それなのに?
このいやらしい痩せ男と何を?声が出そうになって渾身の力で顎を押さえながら、それでも目を離す事ができない。二人は小屋の更に奥へと場所を変えたので、こちらも隣の窓へ移る。
するとそこには、セメントの袋が綺麗に並べられた一角があった。意図して……ありあわせでベッドが造られていた。ジェダリンスはそこへエリーを押し倒すと、自分の服を脱いで下着一枚になり、エリーに覆い被さると、鷲のように広げた両手で彼女の身体を弄び始めた。
「こっれはっ……!」
浮気だ。
ジェダリンスに思うままにされている彼女の顔が、月明かりにはっきりと浮かぶ。とても楽しそうで、悩まし気な……まさしく……情事の表情。
グストフの心臓は凄まじく早鐘を打ち、下腹が妙に騒ぎ始めた。
興奮と緊張と嫌悪感が限界に達しようとしている。
やがて、彼女の方も服を脱ぎ――
そこで、グストフは小屋から離れると、すぐさま自室へ逃げ帰った。
よくわからない感情を何も持たないこぶしで思い切り握り潰しながら、全力疾走した。
また今夜も眠れない。
「牢務課はアホばっかり」
かつてプラウスキはそう言った事がある。
「職位否定はなはだしいぞ」
「事実を言うだけだ。だいたい奴らの素行や顔ぶれを見ていて何も感じないのかお前は」
「何もって事は」「ないだろ」
「……まあ……そうだけれどさ」
「あまり洗練された人間でなくともいいんだろうよ。雑用だしな」
「まぁなんというか、言葉の問題かな」
「だってよ。体術も学問も人間性も、はっきり言って俺たちの半分以下だ。この前の喧嘩騒ぎだって、よくよく話を聞いてみれば反抗期の餓鬼みてえな幼稚なものだった。恥ずかしいと思わんか? 同じ寮に、同じ国防の制服を着た人間の中にこんな連中が混じっている。本当、上も棲み分けが出来てないんだからよ」
国防吏員の中でも確かに牢務員らは毛並みが悪かった。囚人の生活管理や厚生教育、見張りや懲罰などを担当する部署だが、ここの部署は他と比べて敷居が低い。しかし、お互い様だ。あの誕生祝いの時、あれだけ楽しそうに盛り上がっていたプラウスキだって陰でこんな事を言っているのだから。決して人間性が洗練されているなんて言えたもんじゃない。
まあ、それは傍観者たる自分も同じか。
とにかく最悪なものを見てしまった。
これからあの二人と哀れなグレムを見るたび、ずっとあの夜の事を思い返してしまう。