倦怠
ここのところ、激しい雨が続いている。
湿度の高い空気が、額にねっとりとまとわりつく。
「おい。吐いたか」
入室して開口一番、上司の言葉には険がある。
「いいえ、一向に口を割る気配がありません。ずっと爪剥ぎから髪抜きを繰り返してますけども岩壁の何倍も強情で硬く」
「あぁ、まったくやめろ。その下手くそな比喩は余計だ、私が出る。来い」
上司は腰を下ろしたばかりの椅子を後ろに弾き、机上の道具を掴むと大股に【粛清室】へと向かった。頭ごなしに突っ撥ねられながらも、仕方なく後に続く。煉瓦壁は雨漏りがひどい。溶けた建材の堆積物が不快にヌメヌメとした光を放ち、ところどころ蔦が這い出していた。
滲み出した雨水の跡が複雑に重なり、まるで怪物の胃の中に放り込まれたようだ。
実際ここはこれまでに無数の人間が消化されていった怨念渦巻く場であり、彼らの勤める特別高等警保軍粛清課連隊の収牢粛清施設一級塔【首斬り台】最奥の部屋。
中央に設えた錆まみれの椅子。
そこに括り付けられて項垂れている人間の足元には、夥しい量の血液や尿、頭髪、吐瀉物がごちゃ混ぜになった液体が広がり、なんとも言えぬ饐えた臭いを発散している。
椅子に固定された罪人の頭部は頭髪が半分ほど無くなり、腐った果実のように紫色の地肌を露わにしている。口からは血の混じった唾液が絶え間なく糸を引いている。
腰に手を当てて見入る上司の視線の端で、犬革張りの帳簿を振ってみせた。
「えっと、ラクシュミー・シャマラン。歳は二十三。二級黒髪部族マハトゥバプル・サティの族長補佐で重犯罪第五類・暴動及び謀反企図該当の容疑――おい、お前と同い年だぞ」
「はい」
「しっかりやれよ、これくらい」
「すみません」
上司は資料を机に放ると利き手に握ったそれを徐に罪人の左肩に食い込ませ、把手を思い切り引いた。三本ある鉤爪が引き絞られ、肩の肉を摘み上げるように食い込む。
すると死人のように動かなかった罪人が世にも悲痛な叫び声を上げ、全身を筋張らせて暴れ始めた。声が何度も濁り、口の端から粘っこい泡と血の混じった大量の痰が流れ出ている。
「くそ、これでもダメかっ! なぜだっ!」
上司はヤケを起こしているように見える。
「いちおう、同じ事を三度繰り返しています」
「ええい。くそったれが。もう知らんわい!」
不機嫌面の上司は傍にあったバケツの水を一息に罪人に浴びせ掛けると、また肩を怒らせて大股で部屋を出ていった。ブーツの底が床の石畳みを打つ音が、精神の水面に波紋を広げる。
「せ、席を外す。次はもっと酷い……だから自白の用意をしておいた方がいい」
戸惑いと焦りを表に出さぬよう、お得意の役人口調でそう告げると、なるべく罪人そのものを直視しないようにして部屋の扉を閉めた。
詰め所に戻り、上司は常温の水を手渡しながら、ひどく憔悴した顔で言う。
「雨。どんどんひどくなってるな」
「ええ。そうですね」
言葉が何も思い浮かばない。しばらく沈黙があった。
「なあコールマン」
「はい」
グストフ・コールマンはごくりと生唾を飲んだ。
「今の私の顔を見て、部下として何を思う。ん?」
普段から眉間にくっきりと濃い縦ジワを刻んでいる上司の顔が、今夜は更に酷い。
まるで大干ばつに見舞われた田んぼのように、荒みきっている。
そしてそれは――不吉なことに――自分が日々接している罪人達の表情とどこか重なる。
「ひどい……とても悔しそうな、それでいて哀しそうなお顔をされています」
上司は首を何度も横に振り、ぐったりと椅子に身体を投げた。そういえば、先週の定例会議と慰労を兼ねた飲み会も欠席していた。その前日もこんな様子だった気がする。
「あぁ、そうかい。なぜそうなっていると思う。ん? どうだ」
不思議な色の瞳が、上目遣いにグストフを捉える。
「それは……」
先の言葉が出ない。
しかし、表情にはしっかりと露呈されていたらしい。全く、お喋りな表情筋だ。自分は情けない事に、言葉を発した時より、無言の時の方が対人における〝会話〟が捗りがちだ。
上司は視線を下に小刻みに頷きながら厳かに述べる。
「分かる、分かる。結構だ、よく分かる。そこで重ねて君に尋ねたい。君はこの仕事を続けていく自信は、どうだ、あるかね」
それはグストフにとって妙な質問だった。これまで触れた事もない世界の景色。自分の仕事をこれからも続けていく自信があるかどうか?
「……え……」
仕事というのはただ与えられて、それをひたすらこなしていくものでは?
自信があるか、続けようと思うか。それはいったい、自分に依るものなのか?
上司は組んでいた足を床に落とした。分厚い靴底がゴツッと鳴る。
「なぜ答えないコールマン。時間のかかる返事は全て偽りだと教えただろう」
「す、すみませんキャメロン教か……いえ総督」
一瞬、悪臭を嗅いだように鼻に皺を寄せる。靴の中で足の指を丸める。
「ほらみろ。そこなんだよ。いつまでも学舎にいる気分じゃ困るってもう再三」
「すみません、本当にすみません」
上司は、めったにしない舌打ちを漏らす。それでビクッとした。
「……君って、本当に物事の意味をわかっているのかねえ? 私はかつて君に正解を教える側の人間だったが、今の君は自分の正解を自分で創っていく立場だぞ。いっぱしの成人なのだから……だいたい君は錬生時代からそうだが、何というかこう、優秀なのか愚鈍なのか本当に区別に困るんだよ。優れているのか変人なのか、わからん」
そんな事を言われてもこちらが困る。
「はい、重々に……申し訳ありま」掌を突き出した。
「いらん。そんな義務くさい謝罪なんか求めとらん。かえって虫唾が走る。とにかく今の態度で君もこの仕事に心から打ちこんでいない事は私にはよーく分かった」
「なっ」「何を隠そう」
ギラリと目を光らせた。
「何を隠そう、私も同じだからな」「………………え?」
相手は視線を足元に落として鼻をすすると、またこちらを見た。
若干ながら、目の色が変わったことが伺える。
「学習成績の優秀な者を選りすぐって国のお遣いをさせられている、その渦中にいる事に君はまだ気付けないでいる。それはそれで楽だろう」
グストフの胸中は濁流の如く掻き乱された。
自分が仕事に心から打ちこんでいない?
そんなことは断じてない!
「――まだ若いからな、君は」
自分は勉学も職務も真摯に打ち込む質だ。それが唯一の誇りだというのに! たとえ恩師であり上司である人物とて、それを否定する事はグストフの自尊心に大きな傷を拵えた。
「あの、その旨には納得しかねますキャメロン総督。自分はいつ、いかなる時も己の役割に忠実に生きております。生半可で怠惰なつもりは毛頭ありません」
粛清の雄と呼ばれ、かつて教鞭をとっていたピーター・キャメロンは小蠅を追い払うように左手を大袈裟に振った。
「違う違う、そうじゃない。本当に……あのなコールマン」
「自分は怠け心など、学舎に入る何年も前に切り捨てております」
「だから、あの」
「私は私なりの覚悟を持ってお世話になってきました!」
「だから怠惰だと言いたいのではなくてだな! ……むしろ逆だ。君は生真面目すぎる」
大きなため息が出る。
言葉選びに困る。語彙が広いと人は言葉に敏感になるから、高度な会話を常に要求される。まったく、優秀な部下を持つと煩悩に取り憑かれるという先代の教えは本当だった。
「どういう事でしょう」
「生真面目すぎるから、与えられた仕事という雑用に捕われて己の中の本当に大切なものを無くしてしまいかねないと言いたい。……いいや、もうほとんど無くしているかな。だいたい仕事というのはだな、言ってみればこう、魔物なんだよ。人に賃金とやりがいを与える優秀な給仕かと思いきや、心も時間も、要は生命を奪い取る吸血鬼にだってなるんだ。本当に、紙一重だ。理解してくれるかな……。無理かな。今の君と同じだけど、到底は分からないだろうね。紙一重さ、仕事のできる人間と……壊れちまった人間は」
上司の言葉が、意味も汲み取れぬうちに何度も何度も、頭の中で廻る。
呪いにかけられたようだ。
「実際そうだろう。どうだ。わかってないんだろう、なにも」
「はい」
「はっきり言おう。私たちの仕事は、地獄の使者そのものだ」
「それはつまり?」
「ああ? こういう事じゃないか。おい、本当にわからんのか。大丈夫か」
上司の眉が八の字に歪む。本当に参った。本当にわからない。
「自分は勤めを果たせるだけで幸せですし、光栄な事で……そういうつもりで、ずっと」
「あっそう」
「お、お言葉ですが、このご時世に仕事があるという事がどれだけ恵まれているか、貴方だって嫌と言うほどご存知でしょう。ギルドラドの通りは失業者で溢れ返って走行機すらまともに通行が出来ない状況です」
「そんなこと、毎日聞いてる」
真っ白な嘲笑。
「それでしたら、それこそ綺麗事に甘んじていられるのですか? 特に貴方にはお子さんがいらっしゃるのでしょう。尚更では?」
グストフは熱心に意見した。それは勇猛果敢の証と見る者もいるが、何の事はない。
逆だ。
彼がまだ本物の自信を身に付けていないために攻撃されたと身構える、それに過ぎない。虚栄心溢れる虚勢。そしてそれは、元〝教育者〟のキャメロンには手に取るように分かる。
「ああそうだな。ごもっともな理論だ。だがもう私には通用しないぞ。もう正しい事を追求して、そこに生きるという事に疲れた」
「……と申しますと」
胸の中の酸素が一気に漏れ出したような気がした。嫌な予感が、始まる。
「自分でも何を言っているのやら……はははは。この道の教育者である私が、かつての生徒の前でこうして弱音を洩らすという事は、まぁなんとも皮肉だよなぁ、まったく」
制帽の鍔の下で、なんとも言えぬ哀しげな双眸が見上げる。
水を飲み、長く息を吐いた。
「私だって人間だから。人間なんて所詮、救いようない。どうだ」
「は、はい」
乱暴な意見だ。乱暴な上に辛気臭い。なんて不愉快なんだ。
「そうさ。結局、人間は人間臭さには勝てんという事だ。分かるかコールマン」
「っ…………」
グストフは、かつての師の衰弱しきった様子に言葉の拳を握る事を躊躇った。
この男は人生を悲観し始めたらしい。中年になると強まる気の迷いが、かつて威光を放っていた恩師であり上司である男を責め苛んでいる。悲鳴だ。静かに軋む、断末魔の悲鳴なのだ。
「見なさいコレを。娘がこの前の誕生日にくれた。私のパパである事の勲章だそうだ。どう思う? ただ自分が、ただの父親であるだけで勲章がもらえるんだぞ。いいだろう? おまえも早く子供を作れよ。それも女の子をな。はははは」
制服の襟にいくつも掲げられた勲章の中に一つだけ、平和そうなものが輝いている。
「ええ」
ほほえましいはずなのに、グストフは身も心も強張ってしまう。
「君の場合はまず、良きお相手探しからか。女はいいぞ、果物と一緒で色が良くて柔らかいものは急がないと、さっさととられていく。たまたま地面に落ちたいいものを拾ったと思えば、中は虫だらけだ。他の、男の虫。ははははは」
「……ははは、ええ」
さっと真顔に戻る。
「なんだコールマン。ええ? そんな目を私にも向けるようになったか」
「いえ、そんな、あの、すみませんでした」
何がすまないのか、もうとても思考など追いついてこない。
もう、苦しい。
この人との会話、この人そのものが苦しい。
「いや逆か。そんな目を向けられるくらい、私が落ちぶれたということだな。気付かせてもらえて、まったく本当にありがたい」
片手を挙げて、そっと腰を浮かせた。
「待って下さい!」
グストフは突っかかるように呼び止める。
何か、このままこの場を終わらせてはまずい気がする。胸騒ぎがした。
「何だねいったい。本当にしつこいな」
だが振り返った上司の顔にはもう、グストフの捜しているものはなかった。
「あの……今までお世話になりました……」
消え入るように、そう言うのがやっとだった。この言葉が、全く自然に出てきたこの言葉が意思を持って独り歩きしているように、そっくりその通りの役目を担ってしまう。
「――あぁ」
彼がここから去る。
一切の職務や手続きを放棄し、去る。
―― 去る ――
それが、彼の全身から伝わってくる。
死のにおいがした。
ここから、
この価値観から、
この生き方から、
この人生から、
去る。
それがきっと恩師の最期の望みであり、きっと最期の〝生活〟なのだ。
少し間が空いた。
「これまで世話になった連中に、謝りに行かねば」
言い終わると同時に、バタンと扉が閉じられた。