逃避
「どうしてこんな事になった。グストフ、なんでだ。有能で職務に真摯に励むお前が、一体なぜ、他の誰も――いや、それは言い過ぎだが――とにかく、こんなひどい過ちを? 頼むから正直に応えろグストフ」
プラウスキは自分のすぐ傍らにセメント袋を三つ積んでそこに腰かけ、問いかける。
「悪い、本当にごめんよプラウスキ……俺には、この仕事はもう荷が重い……」
「嘘つけ、嘘をついてくれるな……ずっとトップを、脇目も振らずに走ってたじゃないかお前……この仕事に誇りを持ってたんじゃないのかよ……なあ、女だろ? あの黒髪族の少女のせいだろ? そうだとしか思えないんだよ……」
ジェダリンスが、じっと自分を射抜いている。
「答えられないか。俺としても、お前をこんな目に遭わせるのは本当に精神的にキツイんだ。一緒に切磋琢磨してきた僚友を、吊るし上げなきゃいけない……だけど、そうするしかなくなった、お前が自分からチョンボ(・・・・)しちまったんだから……どうして、そんな哀しい選択を……」
グストフは身体が安静を取り戻していくのを感じ、そっと首を起こしてみた。
「まず先に縄を解いてくれないか。これじゃ、何も答える気が起きない」
「それは出来ないな。申し訳ないが、それ相応の事をしたおまえが、悪い。グストフ。お前は今、一番やばい状態にあるんだぞ。おいそれと辞めさせるわけにもいかない、国の一番の最重要機密に触れているんだからな。それに、だからと言ってお見逃しを乞うのも筋違いだ……過去最悪の失態を犯した国防吏員だからな……生きている者の中では」
その一言が、グストフの魂の底の、何かに火を点けた。そして、それは自ら自信を激しく炙り、焦がした。今になって思えば自分の仕事内容は、ニック・ルーカスにすら話した事がない――否、話せたもんじゃない……情報が云々、国家機密が云々ではなく、恥ずかしい、秘匿したい思いがその胸に満ちているのだ、そうだ、自分は心から人を大切に思ったのは、人間を人間として身近にその温度に触れたのは、実は――どんなたいそうな理屈を他に並べてみようとも――カルハが、初めてなのかもしれない。
どれだけ優秀だ国防だと持ち上げられても、大切な人に堂々と胸を張って誇れない仕事なんて。何のために、人より努力に励んだ泥臭い青春を今まで過ごしてきたんだ。
その結果が、嘘だ、これか?
努力、勉学、鍛錬。
その先にある自分の姿が、汚物に塗れてセメント袋の上で拘束だと?
「プラウスキよ。俺、失望したよ」
「俺の方こそお前には失望だ」
「うるさい黙れ! そんな事、とっくに知ってる! 俺は、自分自身に失望したんだ。こんな仕事、もう辞めてやる! 地位も名誉も、そんなの最初っから大嘘の、それどころかそんな美辞麗句からは全くかけ離れた汚職じゃないか! ようやく気付かされたね、キャメロン総督は遅すぎたから自らの命を絶ってしまったよ、可哀想に! だけれども俺はまだ間に合う! 償いをしなきゃ! こんなところでこんな事をしてる場合じゃなくなったんだよ!」
プラウスキとジェダリンスは顔を見合わせた。
「こりゃあ、完全にあの黒髪に洗脳されてやがるな」
冷淡で、陰鬱なジェダリンスの言葉に頷く。
「末恐ろしい……ここまで落ちぶれるものなんだな、人間って」
グストフは発狂しそうになった。
それはどっちだ! 人でなしは、落ちぶれてるのは、まやかしの頂上に登らされて良いように踊らされて、滑稽で残酷で醜いのは、一体、どっちで、しかもその中に自分は全く知らずに今までのこのこと何年間も…………………………………………。
限界。
「くそう! 最悪だ! ふざけるな!」
グストフは、叫んだ。これまで出したことの無いくらい悲哀に満ち、どんな殊勝な(・)形容詞で以ても他に表現のしようがないほど苦痛に染まった叫びをあげた。涙も、鼻水も、後から後から、とても熱いそれが湧き出してくる。人体には一体、こんな熱い涙を造る能力が備わっていたのかと妙に冷静に馬鹿馬鹿しい感想を抱くくらい熱い涙が、後から後から流れ出してくる。
物置小屋の扉が開き、グラナ総督の巨体が捩じり込んできた。
そしてなんと、その後からブガー主席がぬうっと現れた。全く状況が飲み込めない。
「あぁ、こいつはもう及第点だ」
実に落ち着いた声だ。及第点? 一体何に対してのソレを自分は満たしたのか?
「グストフ君」
プラウスキが隅によけ、セメント袋に腰かけたブガー主席が呼びかける。
「また会ったね」
それだけ言って、鼻からすごい量の息を吐いた。
「ピーター・キャメロン先生は立派な恩師だったようだねえ」
「…………」
「彼は非常に優秀で、だからこそ総督にまで昇りつめる事ができた。それはそれは光栄で素晴らしい事だよね。ところが仕事も優秀だったけれど、秀でていなくてもいいところも秀でていたようだ――角が、生えていた」
「…………」
「力こぶは、いくつあってもいいさ。だけども、国に楯突く角は頂けないよ」
荒い鼻息を吐きながら話すブガー主席に並々ならぬ悪意を感じ、グストフは全身が攣りそうになりながら辛うじて理性を保っていた。
「仲間を裏切りながら登る出世の階段。断頭台への階段……どんな気持ちだったろうね? 一段一段がそのまま青むくれた仲間だった、それを踏み台に登るんだから、そこを登って手にした栄光を、一口含んで首を括った。美しい死に様とは言えない。そして彼は自らの血をも汚してしまった」
非常に饒舌な皮肉の囀りはとてつもない吐き気を誘う。
「彼には妻があった。子供があった。家庭があった。ところが、不思議な事に彼の家族を見た者は一人も居ないそうだ。これは一体、なぜだろう」
ブガーは窓から差し込む西日に目を細め、とても芝居がかった態度で語っている。
端によけて居るジェダリンスとプラウスキも硬い表情のままこちらから目を離さない。
「はっはっは。面白い事にな、あの男は黒髪族の女と家庭を築いていた。それを今までずっと隠し通してきたのだ」
衝撃が走った。ジェダリンス、そしてプラウスキも声を上げた。
「嘘だと思いたいのは痛いほどわかるがね。もう居ない人になってしまった。馬鹿だ。国家医局の目を騙せると思ったのか。彼の遺体を引き取った際に医者が気付いた。髪の色こそ色髪だが、瞳の色が黒髪と同じだと。そう、彼自身も半分は黒髪の血が流れていたんだ。さすが医者だ。彼の妻の元を尋ねたら、やっぱり。黒髪族の女房。偽名を使って、さらにカツラを被ってなんとか誤魔化してこられただろうが、医者相手にそれは通用しないさね。彼の妻も、そして哀れな子供たちも、もう以前の暮らしはない」
グストフは全身が震えた。確かにキャメロン総督の目は不思議な色をしていた。とても珍しかったが、そういう人もいるのかと深く考えた事は無い。そもそも黒髪族を近くで見ていながら、なぜここの職場の人間は誰も不思議に思わなかったのか、そこも疑問ではある。
「あの人の家族を、どうするつもりだ!」
「あぁ、大丈夫だよ。殺しはしない。だが生かしもしない」
ブガーはそっと戸口に隠れているワッカーを振り返る。なんともいえぬ会釈を返す。
「君も申し訳ないが、異例中の異例だが自らこうなる下拵えに勤しんでしまったのだから仕方ない。呪うなら過去の己を呪ってくれ。我々に罪はない」
「どういうことだ、何をする……どうするんだよ……」
「粛清しなきゃならん。本当に、なぜこんな事をした。よりによってこの立場にある君が……ええ? どんな魔が差したらこんなお笑い劇みたいな事になるのかねえ。納得いくように説明してもらいたいよまったく」
駄目だ駄目だやめろ――炸裂する危機感と共に、プラウスキとジェダリンス、そしてグラナ総督が自分の身体を抑え、セメント袋から解いてそのまま四肢に巻き付け、引きずる。
「やめろ、離せ! 俺はこんな事をされる人間じゃない! 考え直してほしい、今まで誰よりも職務に忠実に勤めてきたのに!」
「うっせえ! お前はキャメロンの生き写しだ。そっくり同じじゃないか。見過ごすわけにいかないんだよ、くそったれ」
堪忍袋の緒が切れ、全力で歯向かおうとした瞬間、何かもの凄い気迫のようなものに吹き飛ばされた。
敷地の壁の一部が崩れ、どこかで見た事のある巨大な機体が覗いていた。それが少し下がると、助走をつけて再び突進してきて、遂に侵入に成功した。
ニック・ルーカスの相棒である砲台はその強固な機体に任せて壁をなぎ倒し、グストフの目の前で停止した。耳をつんざくような音と共に、真っ黒い排気を空高く吹き上げた。
「間に合ったぁ、グストフさーん! 助けにきましたよー!」
ニック・ルーカスは操縦席から飛び降りると、グストフのもとへ駆け寄った。
グストフは、あまりの出来事に安堵する間もなく、呆然と機体を見上げた。
「お前……何してんの?」「さあほら早く行きますよ。説明は機内でしますから」
ニック・ルーカスが足を持ち、上半身を誰かが支えた。見ると、とんでもない肥満体の大男が見下ろしている。
「誰、ちょっと誰ですか?」「細かい事は後後、兄ちゃん」
大男は自分を担いで砲台の荷室ドアを開けた。ニック・ルーカスが地面に倒れ込んだ。ジェダリンスが飛び掛かったのだ。
「やめろ、こらぁ!」
自分を荷台に寝かせ、大男が駆け寄る。プラウスキまで加担した。
鋭い銃声が耳を聾する。その場に居た誰もが、一点を振り返る。ベンデル・マクゴフが自衛用のピストルを構え、なんともいえない表情でそこに佇んでいた。
「ベンデル、お前、どこで……それ……」
その言葉を最後まで許さず、グラナ総督は銃弾に倒れ伏した。
「そ、その人はボクの事も、キャメロン総督の……総督の事も陰で散々悪く言ってたんだよ!それとエーゲルホーファー君は、ここに入隊する為に実家の名前とお金にモノを言わせて入ったって、ボクに前に言ってたよね? あのさ、誰にも言わなかったけど、本当に最悪だと思うよ……あとボクとグストフ君を険悪な空気にしようとしてわざと音を立ててたでしょ。ボクが気付いてないと思って、何回もやってたでしょ。本当に、最低だと思うよ……そんな人たちと同じ場所にいるなんてもう耐えられない。うんざりなんだよもう! もういいや……死ぬ。じゃあね」
刮目するプラウスキ、ジェダリンスを問答無用で射撃すると、彼は徐に自分のこめかみに銃口を突き付けた。全く何のためらいもない動作だった。
「は、早まるな、ベンデルッ!」
グストフの叫びも終わらぬうちに引き金を引いた。
「ちょっと……待てよ……」
恰幅の良い体躯が中庭の一角に横たわる。グストフの目から、涙があふれた。
「……逃げますよ、早く! 何してんですか!」
飛び起きたニック・ルーカスが操縦席へと走る。
「兄ちゃん、遅くなってごめんね。息子が私を拾っていたらこのタイミングになって」
大男は自分の四肢を縛っていた縄を解こうとしていた手を止め、装備品ベルトにあった短剣――あの不名誉な――を使って拘束を解いた。その酷く傷んでつぎはぎだらけのズボンを見て気付いた。この大男は、あの踊り豚だ。息子という事は、まさか―!
砲台が走り始める。荷物室のドアを開け放ったまま、後退して敷地の外に出ると、大通りを目指してひた走る。
「あ、あの……」
「わかる、わかる。でも状況が状況だ。兄ちゃん、ひとまず、兄ちゃんが匿ってるっていう黒髪さんのところに行くよ。それからどうするかは決めたらいいけど、息子から聞いた話だと、カマルグ縦断道路を南にずっといくと、ブガー達の管轄でない街があるらしい。そこに入れば、追手もそこまで機能しなくなるから、当分はそこへの逃避行になると考えた方がいいかもしれない。悠長な事は言っていられないから、もう直感に任せていこう。この場合はいちいち考えない方がいい」
グストフは頭が働かず、ただひたすら相槌をうつので精一杯だった。
「脚は、僕の脚は……」「ん? ちょっと触るよ」
「いててててててて……」
コスタス・ウェイは若き高等軍人の脚を丁寧に看た。
「内出血がある。けど、大丈夫だよこんなの。すぐ治る。軽く止血しておくね」
「え、内出血? 銃で撃たれたんですが」
「これはゴム弾だな。木の芯にゴムを塗ったやつで、ただの脅し。確かに強い衝撃はあったと思うけど、全く大したことじゃない」
少し、おどけたような態度にホッとする。
「そうだったのか……死ぬかと思った……」
コスタス・ウェイは荷締めベルトでグストフの大腿部をきつく縛り上げた。
「よっこらしょっと。改めまして、ニック・ルーカスの父親のコスタス・ウェイ・プロドロモウと申します。息子がいつも大変お世話になっております」
こちらが恐れ入ってしまうほど丁寧な挨拶だ。
「あ、えっと、グストフ・コール」「ああ、言わなくても大丈夫だ。ニック・ルーカスから聞いているよ。今はしんどいだろうから、安静にしてて」
とは言っても少しずつ感覚がしっかりとしてきた。回復してきたようだ。
状態を起こして、後ろに手をやって外の様子を見てみた。
「大丈夫なのかい?」
「はい、外が見えないと逆に酔ってしまいそうで」
「そうか」
ニック・ルーカスは勝手知ったるギルドラドの大通りを思い切り突っ走っている。視界に現れる通行人が皆、こちらを指差したり唖然と見送っている。それら後ろへどんどん流れていく景色をぼうっと見送っているうち、視界から離れないものがある事に気付いた。
「あれ、なんですかね……」
コスタス・ウェイは指さされた先を凝視して、すっくと立ちあがった。
「まずい、ブガー主席の走行機だ」
しまった、というような声色だった。
「まさか、追手ですか?」
「そうみたいだ、ちょっと下がってて」
コスタス・ウェイは荷物室の扉を閉めようとしたが、何をどうやっても閉まらない。
「壁を壊した時に歪んでしまったらしいな……くそっ」
扉を解放したままの逃走。ニック・ルーカスに知らせなければ。
カーブを曲がった先で、ブガーの走行機が急加速してきた。
「まずいぞ兄ちゃん、奥に行って!」
コスタス・ウェイはグストフを荷室の奥へ押しやった。黒塗りの走行機が急接近し、窓から太い腕が伸びてこちらに銃口を向けて――発砲。銃弾が機体に当たって火花を散らした。
「いかんいかん、まずいぞ!」
荷室ドアを盾にしようとするが、機体が大きくローリングしたので倒れ込んだ。
操縦しているニック・ルーカスが、銃弾を避けるつもりか左右に蛇行操縦を始めたのだ。荷物室内の色々なものが音を立てて右へ、左へ行き来するのを見て、手当たり次第にブガーの走行機に投げつけた。だがそんなものが通用するわけもなく、性能面でもこちらをはるかに凌駕する相手は三メートルくらいまで距離を詰めた。
後方から黒く光を放つ物体が現れ、凄まじい勢いでこちらに近づいてくる。ほかのどの走行機よりも光沢があり、また余計なものを全て取り除いたような、ツルツルとした機体を持つそれは急加速をしたかと思うとブガーの走行機へ勢いよく追突した。弾みで前へ押し出された機体が砲台の後部に激突し、膝立ちになっていたグストフとコスタス・ウェイを前方に弾き飛ばし、よろけたブガーの走行機は横滑りを起こして道を逸れ、道路脇の廃レンガの山へと突っ込み、機体が大きく宙に浮きあがって地面に叩きつけられた。
「何が起こったんだ!?」
砲台が路肩によけて停止した。後方に、破損した黒光りする走行機も停止する。
機体のドアが開き、中から傷だらけのジン・サカベ族長が姿を現した。
「ジンさん!」
グストフは駆け寄る。コスタス・ウェイは黒髪族そのものを近くで見るのは初めてらしく、口を開けたまま、近づいては来ず、瞬きの回数が目に見えて増えていた。
「おいあんた。大丈夫か。ごめんな、頑張っちゃった。ちょっと手荒な事させてもらったけど俺の傷にくらべりゃ大したことないだろ。それより、見てみろこれ」
ジン族長はひどく興奮しているらしい。黒光りする走行機を振り返る。
「ニホンジンがかつて世界中に誇った、国の技術の結晶で我々の誇りだ。レクサスと言って、贅沢という意味がある。これがかつての文明でのステータスだった。ニホンジンってすごいだろう。過去文明が崩壊してからもずっとずっとこうして磨き上げていつでも期間を動かせる状態を維持してきたが、遂に崩れる時がきたな。我々を虐げたあんたらを助ける義理はないし死んでいった仲間も浮かばれんかもしれないが、あんたは違う。だから助けた、これは個人的な行いだ。勘違いしないでくれ。色髪族は嫌いだが、グストフ・コールマン、あんたは好きだ」
ジン族長の目は燃えていた。
かつて黒髪族の人間をこんな目で見た事はなかった。
彼らも同じ人間なんだという事がまた、強く脳内を駆け巡る。
「――恐れ入ります、族長」
この言葉は、そう――実に小さい世界の小さい人数の中での話であるが――世間に大きく横たわる既存文明と差別を確かに超えた瞬間だった。
「カルハは、あの子は無事ですか」
グストフが問うと、コスタス・ウェイが割り込んだ。
「脱走の手引きをしてくれたおじいさんと安全な場所に隠れているって息子が言っていたよ。安心して。それより、これからどうするかを先に考えなきゃ」
ニック・ルーカスが操縦席からおりてきた。
「ここだとまたすぐに追手がきますよ。自分も刑事に追われているから、どこか隠れられる場所を探さないと」「それならついてきてほしい」
ジン族長の案内で、荒れ地の、盆地になっているところへやってきた。日が暮れて辺りは暗くなってきたが、ひっきりなしに国防の巡回機の警報が聞こえてくる。
「しばらくはこの街を離れなきゃいけないな」
コスタス・ウェイが言った。
「間違いないです。ここにはもう居場所がない。隣の町までいけば、自分を知っている人間はいなくなりますからそこで正体を隠して暫く生き延びるしかないですね」
グストフは職位上の意見を述べた。次に国防に見つかれば間違いなく殺される。
「でも隣の町ってどこにあるんだい?」
「カマルグ縦断道路をずっと進むと顔見知りが働いてる製粉工場があるんだけど、そこのおじさんが言ってた。その道路をさらに真っすぐ進むと街がある。ここと違って、もう少し清潔な街だって。山にあるから人口も多くないけど、その分国防の手もあまり伸びてない。人も穏やかで優しいって聞いたから、そこならチャンスはあるかもしれない」
ニック・ルーカスが淡々と述べた。仕事の関係上、他の町の話を聞く事は割としょっちゅうあるのだ。
「イチかバチか、行こう。早い方がいい。今晩のうちに移動するのがベストだぞ」
ジン族長が手を叩く。
「わかりました」
「あの人たちを迎えにいかないと」
ニック・ルーカスが立ち上がったのを、グストフが呼び止めた。
「カルハは、連れていかない方がいい」
「え? どうしてですか?」
目を丸くする相手を見据えて、力強く伝える。つらかった。
「俺といるところをもし見つかったら、あの子は間違いなく殺される。ほとぼりが冷めるまで離れて暮らす方がいい」
「その意見には、賛成だ」
ジン族長も同意見だった。
「実は生き残ったニホンジンだけで今、暮らしている場所があるんだ。極秘にな。暫くそこでカルハを預からせてもらう。若いの、あんたの判断は正しい。数年したら、また会えばいい」
グストフとジン族長を交互に見て、ニック・ルーカスは何も言わず、頷いた。
「わかりました。グストフさん、身の回りの品は」
「何もいらない。このままでいいよ」
グストフはすっかり荒れた国防の制服以外、何も身に着けていない。
「私物とか、いいんですか?」
「取りにいきようがないよ。ただ、紙と筆記用具だけ、貸してほしいな」
それが、彼のたった一つの要求だった。
「紙と筆記用具? いいですよ、納品書用のが操縦席にありますけど……」
「ありがとう、後で貸して。それと、ジンさん」
「なんだい」
「あなたの大切なその走行機、少しだけ手を加えさせてもらうこと、できませんか」
グストフはジン族長とニック・ルーカスの協力を仰ぎ、レクサスの機体表面にだけ、砲台の部品を少し取り外して移植した。これで国防や人々の目をごまかす事が出来る。
そしてそのカムフラージュを施した走行機でカルハとケミトリを迎えに行き、ニホンジンらの隠れ住むコロニーの元へと送ってもらうのだ。信じられないくらい、快適な機内だった。
「どうしてもって言うんですか?」
「うん、俺はいかない。俺が行くと、あの子は間違いなく、ついてくるよ」
「まぁ、それはその……ぶっきらぼうな別れ方に、なったんじゃないですか?」
ニック・ルーカスは少し何か言いかけて詰まり、残念そうに別の言葉を貼り付けた、そんな調子で言った。
「……別れじゃないさぁ……少しの間、離れるだけ。それに、俺とあの子はまだ知り合ったばかり。何もない、これからだ。俺は罪を犯したから」
それに対してグストフは、少し嘲笑するように笑い、なんだかよくわからない事を言った。
「そんな、罪だなんて。そこまで言う事ないと思いますよ」
「罪という枠組みさえ、踏み外した気がする。裁きを越えた罪っていうのは、革命って呼んだ方がいいのかな。知見ある者の最大の偉業だとでもしておこうか。その方が、気持ちが楽だしね。さあ、もういいだろ。時間を稼いだって現実は変わらないんだし」
その場に居た皆が、一様に頷いた。
「わかった。それじゃ、行こうか」
朝方近く、ニック・ルーカスの顔見知りが働いている製粉工場へ到着した。
「グストフさん」
振り返ったまなざしを見て、彼は出かかった言葉を飲み下した。
特別高等警保軍人の孤高の青年グストフ・コールマンは、今、眩しすぎるほどに己が己として〝生きて〟いた。その澄み切った顔を見て、どうしてだかわからない――わからないのだが妙に鳥肌が立ち、腹がキンと痛くなり、そして本当に不思議な事に涙が浮かんできた。
「――あの、お元気で」
「うん。じゃあね」
もっと分厚い挨拶をしてくるかと思ったが、たったの二つ返事だったので拍子抜けした。
「今までありがとうございました」
「こちらこそ。あ、コレ」
グストフはポケットから折りたたんだ封筒を取り出して手渡した。
「カルハに、渡しておいてほしい。大慌てで書いたからめちゃくちゃな内容だし、なんか堅苦しくなってゴメンって、伝えておいてくれ」
「……わかりました」
工場のドアが開き、顔見知りの工員が会釈したので、こちらも返す。あとは振り返らずに一息に機体を発進させた。砲台ではない。自分の走行機だ。砲台はもうアシがついてしまっているので、非常に寂しい思いもあったが、カマルグ縦断道路沿いにある大きな湖へ入水させた。致し方ない。自分は身元のバレていないこの機体で行動し、ニホンジンたちの元で暫く暮らす事にした。
父親もそれに同意してくれた。説明なんていらない。今まで触れた事のないニホンジンという人々が非常に興味深かったという事もあるし、何より、もっと彼らを知りたい、彼らと友好的になりたいという気持ちが掻き立てられたのだ。どうせお尋ね者。
たった一晩で出た結論、しかし今の自分には余裕がない。
そうと決まれば、もうそれを信じて一本勝負するしかない。
涙が、頬を伝う。
機体が激しく揺れるたび、ほろり、ほろりと零れて、舵を握る腕に落ちた。
「グストフさん。あなたは強いよ……本当に強い人だ」
哀しくなかった。
安堵のような、祝福のような、それでいて、何か嫉妬のような。
熱く、熱く、とめどなく沸き立つ感情が涙として、言葉を持たず、溢れ出る。
大きく息を吸い込み、舵を握り直した。
「グストフさんからです」
ニック・ルーカスは封筒を差し出した。
カルハは真ん丸な目のままそれを受け取ると、封を開け、便箋に並んだ丁寧な文字に目を走らせる。
「これは、何ですか?」
ある箇所を指差す。
「それは、きっと、次に会う時にわかりますよ」
ニック・ルーカスは柔らかく微笑んだ。
黒髪族ニホンジンの孤高の少女カルハ・ミズコシは、濁りの無い目を少し、細めた。
口角を上向かせ、顔を上げる。
父、ケミトリ、ジン族長、そして大勢のニホンジンたちがこちらを振り返っていた。
鳥肌が立つくらい、皆の表情が明るいのだ。
誰もが、得体のしれない希望を、同時に感じていた。
人間が気温よりもはっきりと感じるのは、絶望と、そして希望だけ。
今、新しい生活がここから、始まる。
望ましい形ではないが、それは元々さ。
人は自分の意思で生まれてくるわけではない。
そして自分の意思で生きていくわけでもない。
生かされていく。
自分を創らされていく。
だからまた、最初から人生が始まったと思えば、それだけでいい。
あの人もきっと、そう感じているはずだから。
「冷たい……」
ちょうど、激しく雨が降り出した。