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決断


 グストフは朝の水浴を終えると、手ぬぐいをわざと大袈裟にパタン! と音を立ててはたいた。立場からすると自分のやる事ではないが、そうせずにはいられなかった。

 もう、かつてのように能書きや性善説や理想像をブツブツ(・・・・)やる(・・)のはやめだ。

 人の価値はすなわち地位か? 人柄か? 

「おはようございます」

 詰所の僚友らに挨拶をする。少し間が空いて、低く、陰鬱な挨拶が返ってくる。いつもの事だが、その日はいつにも増して暗く聞こえた。牢の鍵を開ける。艶のある黒髪が、同じく黒い空間からゆっくりとこちらに向かってくる。傷だらけになった中年の男も一緒だ。

 緊張を、気迫を、高揚を、感じた。

「いよいよ、だね」「うん」

 もはや、言葉はいらない。朝礼までの猶予は四十分。

「あんた、どうしてこんな事するんだよ」

 中年の男――族長のジンという彼は、今もまだ疑惑の目を向けてくる。過酷な環境で何十年にもわたって一族を守り続けてきた男の表情には、一級塔の壁よりも深い陰がある。

「人としての行いですから。あまり詳しく掘り下げるべきではありません」

 我ながら格好をつけ過ぎだな、この時はそう思った。

 今の時間はみな、着替えや身支度で忙しい。掃除の係は丁度、道具の片づけで席を外している。黄金時刻のオーバーラップ。今しかない。

「それで、どうするの?」

「助けてくれる人がいる。今からその人のいる所へ連れていくけど、絶対にその人の言いつけを守って約束してほしいんだ。少し怖い人かもしれないけど、素敵な人で頼りになるから。わかった?」

「わかった。ねえ、それであなたはどうするの」

 極限まで高鳴る胸を抱えながら通路を渡るグストフは、深く酸素を吸い込んだ。

「俺は、俺の中のケジメをつけなきゃいけないから」

「それって、どういう事?」

 カルハは切れ切れな息で問う。

「本来の行くべき道へ行く。罪人は地獄へ、善人は極楽へ――俺は、その両方だ」

「…………」

「昨日、水浴している時にふと思った。頭が冷めたからかな……どんなに自分が惨めだって思っても、必ずそれより惨めな人は後ろに立っているものだ。ただ……自分より低い壇に立っているから見えないだけでね、でも確実に存在している」

「じゃあ、貴方は世の中を少し高い位置からいつも見下ろしていたのね」

「…………一級塔は、高すぎたけどね、俺には。いつも足が竦んでいたよ」

 着いた。薄暗い、かつて備品庫だった場所。暗闇に呼びかけると、その向こうから襤褸をまとい、真っ白く濁った瞳でこちらをまっすぐ()据える(・・・)老人が現れた。

「なんだ、浮浪者か?」ジンが潜めた声で呟く。その通りだ。

 傍らでカルハが身を固くする、その緊張感がヒリヒリと伝わってくる。

「大丈夫だから。いい人だよ」

「うん……」

 汗臭さと、尿のような臭いがムッと鼻を衝く。

「連れてきたか。いいなあ、若い女の匂いがする」

 ケミトリは珍しく、笑顔のようなものを浮かべた。が、すぐにまた険しい表情に戻る。

「ええか。引き返すんじゃあないぞ。絶対にだ」

「はい。わかっています」

「んむ……そんなら、女の子、ついてこい」

「あの、あなたはいったい何ですか」

 ケミトリはジンの質問に答えず、さっさと進んでいく。その後にカルハ、そして無視されたジン族長も続く。他の黒髪族の人々にも、そして自分の職そのものにも、顔向けできたものではない。罪に塗れ、しかしその罪は裏返せば情けと紙一重。いや、同じか。

 ブガー主席との面会から今日で十二日目となる。

 あれから二日後に、決心した。むしろあの面会が背中を押してくれた。

(――勤めを、辞めよう――)

 優柔不断で進路選択難産な自分が、ようやく独断で下した決意のようなもの。

 世の流れ、運命の流れ、流され流れ生きてきた木の葉のように軽い自分が今、自分の腕で川底を棒で突く。


 方向転換せよ。


 宿命に楯突け。


 運命に抗え。


 理性を脱ぎ去れ。


 直感を奔らせよ。

「やっと気づきました」

 出来損ないで不格好、方角すらわからないそれは、それ(・・)まで(・・)の人生の終わりと共に名状しがたく激しい快感も伴っていた。不思議で仕方なかった。

「自分の今までの人生は、まやかしです」

 ケミトリは最後まで、何も口を挟むことなく傾聴してくれた。

「………………左様か。よう聴けよ」

 聞き終わってから、一言だけ言葉を贈った。その言葉が、どこまでも彼を動かした。



*     *     *


 

「遂にやりましたねー、グストフさん!」

「調子よく言う事じゃない。肝心の出来はどんな感じ?」

「最高の作品になりましたよ。これならバレっこないでしょ、ほら!」

 ニック・ルーカスは自分の雇い主が営む店『ジフ工作店』にあった特殊な工具で牢の鍵に細工をしてみせた。思ったより小慣れた手つきに内心で驚かされた。

「絶妙な擦り減り具合を演出したんで、鍵の劣化によって外れたと誰もが思います」

「助かるよ。一丁前に職人じゃないか。操縦だけにこだわるのはもったいないんじゃないか」

 ニック・ルーカスは得意げに、何をするでもなく、手元の工具で鍵をコツコツ叩いた。

「褒めすぎてもいけませんよ。それにお安い御用。グストフさんの為ですもん」

「いやあ、ありがたい」

「でも本当にいいんですか? なんかグストフさんのこれまでを知ってる僕からすると、止めたい気持ちの方が大きいような……まああんまり偉そうなことを言うつもりもないんですが」

「ん~。まあ、そう思われるだろうね。だけど今までにないくらい啓示の出来事が続いてさ。神の思し召しだと思う事にする。うまく説明できないけど……きっとそれが、俺が人生において成し遂げるべき事だろうと、訳もわからないうちに駆り立てられるんだよ」

「そうですか。わかりました」

 もう後にはひけない。その覚悟が、緊張が、怒涛の如く、腹の底から鳴り響く。

 覚悟こそ、今の自分には必要なのだ。



*     *     *



 ――錬生の頃、二つ歳上の人物と川沿いをよく散歩し、互いの胸の内を吐露し合った時期があった。その相手は意外や意外、猟師になるのが夢だという変わり者の男だった。法規で禁止されている動物を使った賭博に依存しており、親からの潤沢な仕送りをしょっちゅうそれで溶かし、グストフの少ない小遣いを何度も借りていた。

 ただの放蕩者かと思いきや実家は代々続いている刃物の設計事務所だそうで、何が起きてもその店を途絶えさせてはならず、学位をしっかりと取って家柄の柱として生きねばならぬ、それが長兄たる自分の哀れな運命だ――いつもいつも濃い茶を飲みながらそうして自虐的に言うのだった。それを聞くうち、自分には両親が無く天涯孤独はつらいと思い悩んでいたが、自分の生きる道を自分で決められるという事はなんと自由でありがたい事だろうと、なんとも不格好ながら思い知らされるのだった。

(――人の不幸を見ると、ときどき自分の幸せに気付ける――)

 この世は天秤だ。本当にそう思った。だが、それを口に出すと、ひねくれもの、根腐れ男、ときっと攻撃ならぬ口撃(・・)してくるので黙っていた。その時分、自分の性格の難解さをいま一度自覚させられたと共に、その年上の男からも相当に難解な頭脳をしている、と笑われた。

 どうやら、人が思わず気を緩めてしまうようなところで自分は妙にピリピリとしてしまう節があり、そのくせ他の人間が取り零さないところに限って自分はなぜかうっかりと踏み外してしまう性分のようだ。おかげで退屈しない。


「季節を問わずに咲き乱れる花畑」

「ここがそうだったのか」

「コールマンさん、意外と何も知らないんですね」

「お前みたいに走り回る仕事と内勤で引きこもりの俺を比べるなんぞ、ナンセンスだろ」

「比べてなんかいないです」

「ま、外回りの大変さは、文字通り身を以て知ったから、下手に憧れないようにするさ」

 街のいっとう北端にある、小高い丘。ここから夜のギルドラドを見下ろすと、色とりどりの明かりが咲き乱れている。それを花畑に例えて言っていただけだった。

「ここは僕が初めて女の子と遊んだ日にきた所です」

「……へー。そうなんだ」

 どう反応していいのか、わからなかった。

「あー。懐かしいなあ。僕もあの時は若かったなぁ」

「おまえ、今いくつだよ。十七で若いなぁなんて、おかしいよ。それじゃあ俺なんかもうオジサンって事になるじゃないか?」「冗談ですよ冗談。間に受けないで」

 空気が研ぎ澄まされて静謐で、胸の底にスルリと流れ込んで浸透する。

「――今の気持ち、どうですか」

 そこには自分の過去と未来、これまでの葛藤と将来への不安、展望、全ての意味合いが込められているように感じられた。

「んー。意外と悪くないもんだよ」

 クッとほほ笑んだニック・ルーカスが、すぐに表情を硬くする。

「いよいよだ」



*     *     *



 翌朝、一級塔もとい首斬り台にただならぬ緊張が走った。

 非常事態宣言。

「緊急連絡です。粛清対象者であるカルハ・ミズコシとジン・サカベ族長の脱走が発覚いたしました。総員、通常業務を中止して全力で捜索にあたりなさい」 

 スガナの刃物のように尖った号令が全館に鳴り響く。

「おい、ちょっと全員集まれ。早く!」

 グラナ総督が粛清課の課員を一か所に集めた。血走った目で全員を見回す。

「昨日、最後に牢に鍵をしたのは誰だ。名乗れ!」

 一瞬の沈黙が落ちる。

「ベンデルじゃなかったのか?」

 咎めるような目をするダンの目線の先、ベンデルの目が激しく宙を泳ぐ。

「どうなんだ、ベンデル」

 気の立ったグラナに問い詰められたベンデルはすっかり震えあがって何も話せないようだ。気の毒な策略を立てた。彼の気弱な面をよく知っているグストフは、申し訳ないという気持ちを抑えに抑えて彼に濡れ衣を着せたのだ。

 手空きの国防吏員らはみな捜索へと駆り出され、敷地内が異様にガランとしていた。

 無論、いつもは内勤のグストフも例外ではない。朝から徒歩で街のゴミ箱の中まで徹底的に探すよう命ぜられ、弾き出されてきたところだ。大慌てで走り回る演技でなんとか河川敷までやってきた。運動不足がこういうところで仇になる、息を整えるのに数分もかかる己の身体に落胆しつつ、橋の下にもぐった。匍匐前進で少し進むと、広大な空間が広がっている。

「通りの地下にこんな場所があったなんて!」

 間抜けな声を出すグストフに、しゃがれた声が続く。ケミトリが現れた。

「よう来たな。かつて鉄道の駅だった場所じゃ。今の路面鉄道みたいなヘボなものじゃなくて一日に何千、何万もの人間を運んでいたらしい。規模が全く違う」

「はぁ……」

 感嘆の呻きが漏れたあと、胸にハッと酸素が流れ込む。何かの検査機のように八つ並んだ不思議な設備の向こうから、その姿が現れた。一気に吸い込んだ息が詰まる。どうして、目の前にするとこうも自分が自分でなくなるのか。

「ぶ、無事だった?」

 苦しい言葉だが、相手は相好を崩した。

「大丈夫。なんとかここまでこられて、本当によかった」

「油断ならんぞ。こっからどのようにして外に抜けるかは正直、運に任せるしかない。見てみろ。ここは地下じゃが、地上に上がるための通路が一か所しか残っとらん。ワシがよく使う道じゃが、意外と通用口で人と鉢合わせる事が多い。なんとかして身元を隠していかにゃならんぞ。一目ですぐにバレるからな」

 ケミトリのその言葉を聞いて、グストフの頭の中である案が閃いたが、それを口に出すことは躊躇われた。しかし、やるしかない。

「あの、ケミトリさん……そのお召しになっているもの、貸していただけませんか?」



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