衝撃
「失礼します。何か、御用でしょうか」
国防議会室の上級国務秘書を務めるワッカー・ホプキンスは主席議会長室の扉を開け、中にいる人物に呼びかけた。姿は見えないが、高い声が応え、それを合図に中に入る。広く豪華絢爛な部屋を少し進むと、大仰な席があり、その向こうに正装した肥満体の男がついていた。
「恐れ入ります。重ねてお聞きしますが、何か御用でしょうか」
相手は大きな咳を二、三度した。家畜のように下品な音を立てて喉の奥に絡まった淡を剥がすと、卓上にある痰壺の中に吐き出した。
「あー。あれだ。明日の午後からは何の要件が入ってたか聞きたくてね」
「明日ですね、少々お待ちを」
ワッカー秘書は手帳を開き、人差し指を走らせた。
「医療局長と来年の医療制度改定についての会議が入っておりますね」
「……どんな話をするんだったかな」
分厚い丸眼鏡をかけ、クセの強い金髪を撫でつけながらブガー・アチュート主席議会長は大あくびをした。
「はい、低所得者たちの医療費補助の割合を改定するために、その限度額と年収から割り出す計算式を更新する会談となっております」
「……低所得者と、何だって?」
「はい、低所得層の人々の医療費を優遇するための制度の改定に関しまして」
「わかったわかった。まあ……あれだよ。ほら。適当に相手の講義を聴く類だろう。それ以降は何も入ってなかったか」
「ええはい、今のところは何も」
「今のところは、じゃなくて、明日はもう何も入れてくれるな。一切合切、断っておけ。そういう事で頼んだぞ、ほらメモしろ」
「あの、でも国防が今は大変な状況ですし、いつ緊急の会議が入るかわかりませんよ」
「何とか理由つけて断りゃいいじゃないか、そんなの。頭を働かせりゃ上にも下にもやれるだろう。明日はどうしても行きたい。本当は今すぐにでも行きたいのに。ここのところずっと行けてなかったからな。ま~ったくバカバカしい。形だけの会議だの定例会だの視察だの、かったるいったらありゃしない。そ前もしばらく休暇をとってないだろ?」
「ええまあ……」
ワッカーは整えられた髭をそっと撫でた。
「少しゆっくりしてこい。そうだな、来週あたり、三連休でも作って孫たちをどこか連れていってやれ。俺も身が浮く」
「この時期に……よろしいのですか?」
「構わん構わん。なんとでも言っておくから。そうだな、虫歯がひどくなりすぎて高熱にうなされています、とか。近所の餓鬼どもが盛りづいて毎晩うるさくて寝不足だそうですよ、とかな。最高だろう?」
「……………………」
「さあ、ほら、ほれ。外せ」
ブガー主席は地縛霊のようにキチキチ症の秘書を追い払うと、大きな椅子に思い切り背中を預けた。背もたれが悲鳴を上げる。
「あ~……ったく、やれやれ。小指でちょいちょいだ。政治なんて。本来そうなんだよ」
彼が煙草を吸おうと机上のボックスに手を伸ばした時、ワッカーが戻ってきた。
「あの、主席。国防のグラナ・グラレスという者がいらしておりますが」
* * * * *
「父さんは……今までどうやってシノイ(・・・)できたの?」
窮屈な愛機の舵を切りながら、助手席に向かって尋ねた。父は息子の方をちらと見て、少し目を伏せる。そこは、できれば……願わくば……知らないでほしかった。
「ああ……あのな。お前には正直に言うから、聞いてくれ。ずっと苦しい思いばかりで……言いにくいんだが日雇いやゴミ拾いでなんとか食い繋いだ事もたくさんあった。そのうち一日の食費にも困るようになって、たくさん盗んだ。いけないとわかっていたけど、たくさん、たくさん盗んで食った。そうでもしないと、次はいつ食事にありつけるか分かったものじゃなかった。必死だったよ。病院や料亭に荷下ろしにきた走行機から、目を盗んで在庫品を頂いたりもしていたよ。そんな事をしていたからかな、どんどん太っていって今じゃこの有様さ」
その瞬間、ニック・ルーカスの記憶の糸に電流が走った。自分の得意先の料亭やその他の店からしょっちゅう食料品が盗まれるという事件が発生していた。
「父さん。もしやその店の中に〝ギデオン・パーカーの店〟はなかった?」
父、コスタス・ウェイは探照灯のように真ん丸な目をこちらに向けた。
「なんで知ってる」
「父さん……その店に荷下ろししてるの……僕だよ……」
「なっ……」コスタス・ウェイは頭を抱えた。
「あぁ。自分の息子の仕事を食い齧るなんて、父親失格だなぁ……何やってんだか」
「父さん、それはしょうがない事だよ! そうでもしないと父さんは生き残れなかった、こうして今日、会えなかったじゃないか! 自分を責める気持ちもわかるんだけど、僕に会いに来てくれたんだからそれで充分だよ父さん」
「…………そういってくれるのか。そんな立派な男になったんだな……ごめんな、面目ない、本当に。実はこの豚の仮面もな、玩具屋から盗んだものなんだ。これを被って通りで踊って小銭をもらって、少ない粥を買っていた。それだけじゃ足りないから、盗んだ食事や飲食店の廃棄品の肉の脂身なんかをもらって……いつも空腹で金もないはずなのに脂肪がついて今じゃこんな有様。許してくれ、ニック・ルーカス。本当に面目ない」
「もういいよ、いいからさ、父さん……」
目元をそっと指先で拭った。大きな身体の父親は、身体を震わせて嗚咽を漏らした。
(――神よ。我の罪を教えたまえ)
ずっと身の回りで起きていた不思議な事件は、全て父が犯人だった。とうに死んだと思っていた父が、自分のすぐ近くで必死に命を繋いでいた、その息遣いだったのだ。こんな惜しく、歯がゆい事が他にあるだろうか?
「僕、自分の家があるから。そこで一緒に暮らしていこう。会社の寮で狭いけど、あったかいし雨もしのげる。風呂にだって入れるし、食事も用意してもらえるよ」
「あぁ、息子よ……本当に、素晴らしい」
天を仰ぐ。神よ。神よ。神よ。これまでの苦痛に満ち溢れた日々に、ちゃんと終わりを設けていてくれた。私は救われた。ようやく、体中に潤いが、満ちた。
「二人で頑張って、生きていこうな」
* * *
「グストフ、ちょっと」
判子つきをしているところへ、僚友のプラウスキが呼びかけた。
「なに?」
いつにも増して難しい顔をしている僚友。こちらの内心を、読んだのだろうか。
「ちょっと、いいから」
「はい?」
「お前と話したがってる客が来てる」
声が裏返った。
「客? っていったい誰さ」
「ブガー主席」
「……え? なんだって?」
耳を疑う。ブガー主席議会長といえば、このギルドラド一帯を管轄する、事実上のの権力者だ。この人物の意向で、街の全てが動く。
「早く、会議室へ急げ。あんまり待たせるな」
どこをどう掻い摘んでも嫌な予感しかしてこない。
「し、失礼します」
会議室では長いテーブルの向こう側に先日、晴れて総督に昇進しばっちり正装したグラナ・グラレスと、件の重鎮ブガー・アチュート主席が大仰に腰掛けていた。
「おぉ。お疲れさん。君がグストフ……なんだっけ。ニールマンだっけ?」
「はい! えっと、あの、コールマンです」
「あぁ。そうそう。コールマン君、ちょっとここに座ってくれるかな?」
心臓がバクバク高鳴り、胃がせり上がってきた。吐きそうだ。
ブガー主席は呼吸音が荒々しい。何かの機械のようだ。
「さぁてと。君の上長であるグラナ総督から相談を受けたのだけれどね。君、どうにも最近、職務に怠慢があるようだけれどもねえ」
ブガー主席は大変な肥満体のため、普通に話すだけでも息が荒ぶっている。
「はい、えっと、それはどのような点で、でしょうか……」
救いを求めるようにグラナ総督を見やる。さっと目を逸らされた。
「職務内容としてはニホンジンらを捕らえて粛清にかかっていると聞いてはいるけど、どうにも君の担当する対象者だけ、粛清されている様子が見られないと現場から声が上がっているらしいよ? 複数の粛清官がそう言っているそうだ。君の僚友が、君に疑念の目を向けているという事だが、現時点で何か言いたい事はないかな?」
「……いえ、特には……」
まずい。吐きそうだ。いくらなんでも、こんな状況になるとは……受難だ!!
「そうか。グストフ君。君は以前から上長の命令に論駁を加えるような、そういう事がたびたびあったそうだけども、もしかして、もしかして……この仕事が気に召さないとでも言いたいのかな? ん? どうだい」
ドキン、胸が波打つ。おえぷ、と喉が波打つ。
「い、いえそういう事はありません、やりがいある事です、とても」
「……あそう。それは結構だ」
ブガー主席は、仕草や表情、佇まいの全てが何か、餌を求める家畜のように見える。
「だがそう言われて、分かったよと引き下がれないんだ。何にでも前兆というものがあってねえグストフ君。たとえば大きな自然災害が起こる前、動物たちは揃って住処を離れるそうだ。野生の勘というものだ。そしてもちろん我々人間にも、その勘はまだ鋭敏に備わっている――優秀な者は、特にそうだ。いい勘をしてる」
「どういう事かわかるか。日頃の行いが悪すぎるという事だ。心当たりあるだろう」
グラナ総督が低い声で被せてくる。まるで尋問の構図だ。
「ぇえ……あの、はい……わかっています」
全く頭が回らない。
「こうして今日、私がここに来るだけの事があったという事だし、それくらい君の携わっている仕事は気を抜く事が許されないんだという事を今一度、認識してほしい。国の最重要機密を扱う部署にいるんだからね。国防の要ともいえるわけだし、特に一級塔となるともう誰がどう考えても冗談や言い訳は許されないんだよ。いいかい? 私がまたここへ来るとき、その時はきっと、君がここを去る時だ。君に一週間の出勤停止処分を下す事にした。一週間なんて、なかなかとれる時間じゃないから、この機会によーく自分と向き合っておくようにな」
何度も何度も息継ぎをしながら、ブガー主席は言い終わった。顔中に玉汗が光る。胸ポケットから扇子を取り出し、ガサガサガサッと勢いよく扇いだ。
「厳重注意だぞ。おまえ、この若さでそれはゆくゆく自分の首を絞めるという事がわかるか? 査定。内申。給金。おっかないぞ?」
うるさいな、なんなんだ。そこまで攻めてくれるな。しかしその言葉にぶら下がった糸を辿っていくと、他ならぬ自分自身が普段、そのたもとを握っている事に気付かされ、これはもしや、天変地異の信号が灯った、地獄の使者が嗤っているような気がして悪寒に身を震わせた。
「重々に気を引き締めて職務に邁進していきます……」
「うむ、うむ。そうだ、うむ」
口も脳味噌もカラカラになった若きエリートを残し、ブガー主席は会議室を後にした。
* * *
ワッカー秘書の操縦する上物の走行機は、一軒の飲み屋の前で停止した。
「二時間後にここだ。それまで席を外してろ」
「はい。かしこまりました」
足取りは軽い――ここは馴染みの店である。普通の飲み屋とは少し違う。
「ようこそ、お疲れ様です。今日も一発、やっちゃいますか?」
ガリガリに痩せた小柄な男が出迎えた。ひどく醜い顔をしている。不吉なぎょろり目に濃い髭、ひどい出っ歯。そして似合わない正装。
「ああ、そうしようかな。午後の予定を丸々放り投げてきてやった。やってられないからな」
小男はヒヒヒ、と気味の悪い笑いを漏らして何度も頭を下げた。
「さぁて今日も、ぶっ放そうか」
「いい女が入ってるんですよ。見なせい、この若いの」
滑舌の悪い小男が案内した先には、手足をぐるぐるに縛られた若い黒髪の女がいた。
「これは、いくつだ」
「はい。それがなんとなんと、この早熟具合に驚くなかれの十五歳!」
「――最高じゃないか」
ブガーは舌なめずりをした。
「いつもの、使いますか?」「もちろん」
店主は先端をコンロにかけ、高温に熱した鉄棒をブガーに渡した。
少女の悲鳴が店に響き渡る。
「ところで、あの女と子供はどうした」
「へえ、もうたんまりと稼がせてもらえましたよ。色髪をしているクセに中身は黒髪族の血が入っているぬいぐるみなんて今まで無かったもんでねえ。六十万クルンは儲けてますぜ」
「はっはっは。こりゃあ旦那が浮かばれんな」
「へへへへへへ。お客のルサンチマンもまたいい燃料になって、燃える燃える! 税金でいいもの食ってきたからこんないい身体になれたんだろうって、まさしくその通りですからねえ」
「当然の報いさ。もとから乗ってはいけない軌道に乗ってしまっていたんだから。いつかは落ちる、タイミングが今にずれ込んだだけだ。おかしなところなんて何もない」
「へへへへへ。間違いねえです、へへへへへへ」
ここは『虐待BAR』と呼ばれる闇の風俗店の一種。闇ルートから買った黒髪族の女や子供を虐待して楽しむのだ。意外と裕福な層の客が多く、常連の中には立派な職業に就いている者もいる。お忍びもお忍び、影すら踏まれてはいけない地獄の一丁目。
世にもおぞましい汚?のような言葉の数々と、徹底した暴力を箱詰めにした酒場は紫煙が濛々と立ち篭め、鞭の音や黒髪族の泣き声、客の嬌声などで混沌としている。
店にとっては神様も同然のブガー主席は己の地位を鼻にかけ、ここで庶民の年収の約四倍の金を遣い、十六人の女を孕ませ、奪った命の数となると店の人間も把握できていなかった。
街の経済が斜陽に見舞われると、必ず集団心理の中にたとえようもない鬱憤のようなものが立ち篭め、人々は破壊的な嗜好を求めるようになる。法外な利率と天文学的に揃いの悪いギャンブル、貞操観念という言葉の存在しない男女の低俗な営み、心身を蝕む一時の夢を見せる嗜好品の数々、下品な書物や動く絵……。この国の文化は、自分より弱いものを虐げる事で人々の活気を、非健康的かつ非建設的に引き出すおぞましいやり口で運営されている。
庶民には、軽い暗示でよかった。
上層部になればなるほど、確かな実感が必要だった。
目に見えた報酬と景色が無ければ、鞭を振るう蛮勇と垢に塗れた肉欲を掻き立てられなかった。汚しに汚して、そこからさらに自ら汚れていってさえもらえば、甘い汁がドクドクと滲出して、快適に、潤滑をして再び富を射出してくれるのだった。永久に回り続ける機関があるとするなら、その土台の元では、恐ろしい弱肉強食――それも本来の姿を大きく逸脱した――が繰り広げられている。それが歴史であり、国家であり、人生である。
きっかり二時間後、ワッカーが舵を切る高級走行機が店の前につけた。
* * *
ニック・ルーカスは愛機の舵輪を思いきり回した。
だいぶ腕っぷしも鍛えられてきたようで、それは方向転換をするたびに実感する。
なんでも積み重ねだ。単純だが、それしかないようである。
父親と初めて鍋屋で食事を共にし、その帰り道にまさかの、迷ってしまった。
「この辺りはよく知らないんだよね」
「荷運びって、町中を走り回るんだろ? 仕事では通らない地区か?」
ウトウトとしかけていたコスタス・ウェイは低い声で息子に問う。
「うん。普段はもっと南の方ばかりで、そこに得意先も重なってるから、この辺りの地理はわからない。荷運びだと決まったルートを通る事が多いからね。もっと街中を知ってるのは荷運びより、たくしの操縦士かな」
前照灯が見慣れない走行機を照らし出し、思わずブレーキを踏み込む。
「おっと驚いたな……こんなところに。見ろ。これ、国の重鎮が乗るやつだよ」
父が色めき立った様子で前方を指差す。
「なんでそんなこと分かるの?」
「ほら、よく見てみろ、前のところ」
よく見ると、機関部に国旗が嵌め込まれていた。
「本当だ! でもどうしてこんなところに国の重鎮が居るわけ?」
「さあ……それは父さんもわからんなぁ」
「ちょっと隠れて観察してみない?」
ほんのちょっとした好奇心。その場での思い付きで、軽弾みにした事だった。
「いや、やめた方がいい」
「いいから、いいから」「いや、よすべきだ」
渋る父に構わず大きなゴミ箱の陰に愛機を停めると、機関を止めた。シンと静まり返る。やがて店の扉が開き、大男が店の主人に見送られて出てきた。側近のような黒服も見える。
「あれだ。ブガー主席」
ちょっと嫌な感じがした。父に似ている。人相こそブガー主席の方が凶悪だが、相当な肥満体である点はそっくり酷似している。
「おい待てよ。あそこって、アレじゃないか」
父が驚いたような声を出した。
「アレって何?」
「虐待BARっていってな、黒髪の子供や女をいじめて金をとる場所だよ。違法なんだが国防の目をかい潜って営業しているらしい」
「じゃあ、そこに取り締まりで入ったってこと?」
「……いや……」
むしろ、その逆だ。コスタス・ウェイの鋭敏な嗅覚は感じ取っている。これは暗部だ。あの主席議会長はお忍びでこの違法風俗店に出入りしている。あの男の趣味なのだ。
「と、父さん?」
「ん? ああ、もう関わらない方がいいぞ。ここで見た事は、絶対に人には言ってはいけないぞ。お前の心の中に、そっとしまっておくんだ。わかったか」
「……う、うん」
二人はブガー主席の走行機が去るのを見届けてから、そっと家路についた。