腐敗
この生活を始めて、いったいどれくらいの月日が経ったろう。
ようやく、ようやく目途がついた。
俺の今までの涙ぐましく呪われた日々――それも、ようやくおしまい。
ここまで生きてきてよかった。この為だったんだ。
ニック・ルーカス。我が息子。
二人で始めよう。始めるんだ。
そして、終わらせるんだ。
待っていてくれ。おまえの、居場所を突き止めた。
父さんは、もうどこへもいかないよ。
* * *
「座れ」
グストフは事務的に告げた。告げるというよりも、突き付けるように。
何か――
声の中の何かが、ボロボロと解れる。
少女は固い粛清椅子に腰掛け、顎を上げ、首を少し後ろに倒して目を閉じた。
どうして瞑目するのか。普通なら目を見張るところだが。そのしぐさが何を意味するのかは分からないが、妙なざわめきが胸の中でザバザバと暴れ出す。
指が縺れる。不思議な香りが鼻の中に流れ込む。身体に酸素が満ちていく。
目を逸らしつつ、なんとか固定具を装着し終えた。
「ねえ、国防さん」
陶器を金属の食器で叩いたような、静謐な声。
「私語を慎め」
「容疑者の主張も聞かないなんて、不公平でしょ」
ふと気になる。容疑者? なんだ、その言葉は。
「容疑者? お前は粛清対象者だぞ」
少女は大きな瞳を少しも動揺させず、毅然としている。
「国の憲法では、昔は裁きは公平に行われていたの。どんな凶悪な罪を犯した人間でも、一度は容疑者として、問われた罪が本当に罪として成立するのか、情状酌量の余地がないか、容疑者側に責任能力があるかどうかを公正な目で裁く。これが、本当の断罪の在り方なのよ」
……なんのことだか。
「とにかくお前は粛清対象者で、その容疑者には該当しない。上から粛清許可書も発行されてる。クアナ・シャルダンガル国治直筆の声明もちゃんとある」
「この国の法はね、貴方たちみたいな賢い人を洗脳するためのものなの」
「私語は禁止。粛清を始める」
グストフは、徐々に普段の冷静さを取り戻していった。
初めに感じた気持ちも、所詮ちょっとした気の迷いだったらしい。
馬鹿か。よくも弄んでくれたものだ。若いからって調子に乗っているな。
「優秀だよね。自分の疑問に背く力がすごい。そりゃ、国の職員になれるわけね」
「喋るな。喋るなと言ってるだろ!」
女に最も効く粛清方法は、まず爪や髪を傷つける事から始まる。どの国の、どんな人種でも女はやはり美容の生き物。それを傷つけるという事が一番、効果的だ。
まずは痛みより、精神を崩壊させるのが基本。自尊心を崩す。
髪をザンバラに切る為の悪魔のはさみ『羞恥の牙』を取り出し、振り向く。
(!?)
「どうして!! おまえ何をした!?」
少女は、自由の身で自分の真後ろに立っていた。確かに拘束したはず――
「粛清官さん、優秀だけど詰めが甘い。不器用だね。私を縛る時、下を向いてやるもんだからちゃんと金具がはまっていなかったの。ねえ、教えて。本当は私の事を粛清したくなんて、ないんでしょ? 絶対そうよ」
「…………」
「表情すら不器用なんだもん」
* * *
「よう。どうだい。あの小娘はどんな風に泣くかな」
詰所に戻ったところでグラナ隊長がいやらしく問うた。
「え。どんな風にって、なんです」
「シクシク泣くか? それともギャーギャー喚いたか? あっ。小便を漏らしたか?」
グラナ隊長は不気味なくらい楽しそうだ。腹がムカムカする。
「……まぁ、シクシク、ですかね」
「へっ。なぁんだ、ギャーギャー泣き叫べば面白いのに。黒髪のボケ共が。俺の女房を殺しやがった時、俺は奴らを根絶やしにすると誓った。奴らが苦痛でぶっ壊れていくのを見届けるのが、給金よりもおいしいんだよ」
たまたま部屋に来ていた文書整理課の人間と笑いあった。
それを見て、いっそう強い不快感を覚えた。
「自分、少し休憩もらいます」
グストフは詰所を出た。
(――何か、おかしい。自分は、初めて職務を放棄した――)
なぜ?
あんな小娘に、誑かされた? まさか。そんなちゃっちい(・・・・・)人間で国防が務まるか。
おかしい。おかしい。キャメロン総督の事、ケミトリの事、踊り豚の事、いろいろな事が一気に重なって正常な自分でない、だからこうなった――
「今日で五回目かな。ねえグストフさん。どうしてこの仕事をしようと思ったのか、話してほしいな、いい加減」
グストフは次第に正気を保てなくなった。
あれから十日。決して職務に背かないという己の中の禁忌を犯してからというもの、まるで土砂崩れのようにどうにも歯止めがきかない。あれよあれよという間に、本来の自分のペースや業務スタイルが崩されていくのだ。もっと不気味な事に、この粛清対象者と、全く(・・)意外に(・)懇意になり始めている。そしてそれは、まだグストフ本人ですら把握できずにいた。
「もとは医者志望だった。父親が立派な人間になれと自分を鞭打つタイプで、その考えに感化されてきた。うちはずっと父子家庭だったから、擁護される経験とかは無かった」
少女は、自分の話をとても嬉しそうに聞く。この少女の名前はカルハ・ミズコシといって、ニック・ルーカスと同い年の十七だそうだ。女のせいか、それともニック・ルーカスがもともと童顔なせいか、とても同い年に思えない。自分と同じくらいかと思った。
「お母さん、いないんだ」
「うん。自分が小さい時に暴漢に襲われて死んだ。犯人がまだわかっていないんだけど、刑事たちは黒髪族の仕業という事にして新聞を作らせた。だけど、おかしい。首都圏のあの警備の強い場所に黒髪族が入ってこられるはずなんてないのに」
カルハは伏し目がちに聞きこんでいたが、ふと目線を合わせた。
いやにドキリとさせる、鋭い視線。
しかし、その視線に妙に好感のような、なんとも説明のつかない好いものを感じた。
「その新聞は、どこが発行していたの?」
「新聞は政府の機関でやってるよ。国民の耳と目に入る情報だからね。俺なんかよりもっともっとお堅い人らが作ってる」
そういえば、錬生時代にどうやっても成績で抜かせなかった男がそこで働いているはず。
「……政府か」
カルハはポツリと漏らした。
「……ところで、そろそろ粛清しているという物的証拠がないと、さすがにまずい……だから何とか協力してくれないかな」
グストフはこの上なく苦々しい気持ちを押し殺し、告げた。
もう二年目になるグストフは一人で担当の粛清対象者を扱う事を任されているが、何かの拍子にこんなに無傷なカルハを見られたら一体どうなるか。スガナは特に危険だ。しっかりと対象者を痛めつけて粛清をしているか、ジリジリと尻の穴まで覗き込んでくるだろう。精神と肉体の両方を攻め抜かなければ、その深くに埋め込まれて根を張った貴重な証言や情報に手が届かない。それはよくわかる。
だがそれは同時に自らのそれも傷めつけ、腐敗させているという事に気付いてしまった今、自分はどこへ逃げ込んで安寧を呑めばいいのやら、天に問いたい。
「だ~か~ら、私は別にいいって言ってるでしょ? やりなさいよ」
口の端がピクリとする。胸の中で何かの液体が波立つ。
「いや、あの……だからその、物的証拠として」
この少女は、自分を痛めつける事を拒絶するどころか、むしろ歓迎だと言い張るのだ。
おかしな人間もいるものだ。理解できない。
「やればいいじゃない。髪を落とす? 指を落とす? それとも、私の胸に傷をつける? どうにでも刻んでみてよ。私、受け入れるよ」「っ…………」
なぜ、嫌がらない。
なぜ、怖がらない。
なぜ、怒り狂って泣き喚き許しを乞わない。
なぜ、この国防の鎖たる俺をそこまで困らせる。
なぜ、俺を困らせられる。
「やっぱり出来ないの? もう……私は今、固定具にガッシリ縛り付けられて抵抗なんてまるで出来やしない。貴方に危害を加える事なんて何も出来ない。なのに、こんなか弱くて哀れな少女がまさか怖いの?」
「怖がってなんかいないだろ」
(――怖い。ケミトリも、カルハも、無抵抗なのにとても怖い)
「じゃあほら、やってよ。粛清するのが、生きる目的なんでしょ。あなたたちは」
――目的。
「何も抵抗しないから」
(――してるじゃないか)
「私は今、危害も加えられる状態じゃないし」
(――加えてるよ。十分、俺の中に)
「ねえちょっと粛清か」「カルハ、さん」
グストフは舌を噛んだ。十秒くらい、お互いに何も言わなかった。
「……なに?」
どうする。何を言うんだった。
「……今日は、この辺にしよう」
「もう終わりなの」
カルハを牢に戻し、薄暗い階段を一段ずつ昇る脚が、グラグラしている。うまく言い表せないが、足首の関節がちゃんと嵌っていない蝶番のように、グラグラと心もとない。
「あ、鍵もらうよ」
階段の踊り場で牢務のグレムに声をかけられた。
「お願い」
「うん。っていうか顔色悪いけども大丈夫? 二日酔いか何か?」
やはりどこか抜けているとしか思えないグレム・ハンドレーに適当に頷いておき、さっさと詰所へ向かった。
「……すごい……すごいぞ」
あの子の言っていることには、ちゃんと中身があった。
言葉だけの、お涙頂戴の命乞いや色目を使う者などゴマンとみてきた。しかし、あの子は他の連中と明らかに違うところがある。キャメロン総督から初めて講義を受けた時も、同じ感情を持った。たぶん、そうだ。覚悟だ。覚悟が、全身から瘴気として――気迫として自分を中毒にしようとギラついている。
「おう、お疲れ」
詰所には粛清課の全員が集合していた。非番の者も含め、みんな。
「お疲れ、みんな」
「ははは。疲れた顔して、よっぽど頑張ったんだな。よしよし。じゃさっさと始めるか」
始める?
ああ、そうだ。
「第三十三期の粛清成績発表会を始めます」
今日は、ここ半年間の成績発表を兼ねた慰労会だ。
「さあ、ちょっとビックリする結果でしてね。前回のトップだったグストフ・コールマン君が三位にまで降下しておりまして、代わりにプラウスキ・エーゲルホーファー君がトップの座に着きました。持ち前の腕っ節がいい仕事の秘訣かな。二位はダン・ジェダリンス君。冷静寡黙は良い仕事人の共通点だね。おめでとう」
グラナ隊長が威勢よく結果発表をする。拍手がザアッと沸き起こり、引くときはピタリとやんだ。微妙な沈黙が二秒ほど、挟まる。みんな言いたい事は同じだ。
――グストフはどうしたんだ――そう、みんなの顔に書いてある。
「グストフ君、どうした? ずっと成績上位だったのに。少し疲れがでてきた頃かな?」
グラナ隊長の嘲笑交じりのちょっかいも、マトモに取り合う価値がないとわかっているので意に介さなかった。胸がガラガラと不協和音を奏でる。
「ええ……」
一瞬、思案する。
「なんといいますか、少し気が緩みがちでした。明日からまた気合を入れ直して首位奪還を計りたいと思います」
グラナは表情は硬いまま、グストフの肩を軽く叩いて席に戻った。
問題は、この後の事だ。歯を磨こうと便所へ向かいかけた時、同席していた世話役のエリルが自分を呼びとめた。面と向かい合ってから、エリルはもじもじとしながらも、切り出した。
「ねえ、グストフ君。ちょっと付き合ってほしい用があるんだけど」
どぎまぎする。
「え? どうしたの急に」「ちょっと、来てもらえる?」
そう言って、寮棟の端っこ、滅多に人が通らない旧階段にまでグストフを連れ込んだ。
「用ってなに? こんなところで……」
エリルはこちらを向くと、俯きがちだった視線をつと合わせてきた。
女性独特の、感情の殻が開いた、鋭利ながらも暖かい目つき。
無意識に、弛緩していた全身の筋肉がスッと筋張る。
「ねえグストフ君……何か悩んでるでしょ。私にはわかるんだからね」
言われた瞬間、グラグラと眩暈が襲う。眼球がズキリと疼き、膨張したような感覚。
「え、いや急にそんなこと」
相手の魂胆が見えないというのは、本当に恐ろしい。
「私、伊達に世話役をやってるわけじゃないの。若いし経験も少ないけど、だけどこの仕事を誇りに思っているからこそ、分かる。聴こえるの、グストフ君の心の悲鳴」
眉間にぐわっと皺が寄る。
「私に打ち明けて。私はその為にここで給金をもらっている。グストフ君は、ここで黒髪族たちを粛清して国の統治に直に貢献する事で生きがいを感じてるでしょ? だったら、私のこの気持ちもわかるよね。私はこうして、みんなの悩み」
「わかった、わかったからちょっとだけ待ってくれ」
いったん、時間を止める。訳もなく笑いが漏れる。
「俺の事を心配してくれてるのは十分に分かったけど別に人の世話になるほどじゃないよ。確かに今はちょっとナーバスになっているけども、こんなの三日もすれば直るから。元来、俺はそういうタイプで」
いや まったく 違う。
俺はなんで、こんなに嘘をついている? どうしてこんなに、スルスルと嘘が出てくる?
本当の俺は、どんなだっけ?
「私が気付いている限りじゃ、あの事故の前からだけど。もう軽く一月は同じ状況よ。これじゃ、ちょっと憂鬱、とは言えない。立派な〝疾病〟だと思うけどな」
胸の中の酸素が一気に無くなる。
「それは……色々な事が一気に重なったから仕方ないのかも。恩師が自殺して、それからすぐに事故に遭ったんだ、誰だって心が病むだろ」「ちがう」
エリルは全く、視線を逸らさない。
人の心の中から、真っ赤で艶光りするグロテスクな中身が覗く、あの感覚。
「あなたは、自分の事を信じられなくなってる」
はっきり、そう言った。
「………………」
返す言葉もない、とはまさにこの状況だ。
「あなたは真面目すぎるし、有能すぎるからこそ、そこまでいける。でもだからこそ、もっと力を抜かないと、そのうち切れてしまう。どんなに頑丈な鎖でも、力をかけ続けると必ずいつか切れるでしょ。壊れないものなんてこの世にないの。こういう事はあなたが一番わかっているはず、どうして私なんかに説教されるほど落ちぶれてしまったの?」
「お、落ちぶれたなんて縁起の悪い言い方しないでくれるかな。もういいよ。少し休むから。成績が下がって格好悪いところを見せてごめん。だけど、俺も人間だからさ」
口の端にどんどん力が込もっていくのをなんとか抑え、立ち去ろうとした左腕をしっかりと掴まれた。心臓がどきりとする。その腕をぐっと背中側に引っ張られたかと思うと、真正面から抱きついてきた。呼吸が止まり、脳が弾けた。数秒間、何も考えられずそのまま固まっていた。そっと視線を下ろしたとき、こちらを見上げる二つの丸い何かが視界に揺れる。
唇が塞がる。すごく柔らかい。不気味なほど柔らかい。甘い香りがする。目の前に、長く、少し湿った睫毛が。自分が今、どうなっているのか。
それを冷静に見ようとして、叶わない意識が溺れて噎せ返る。
「女に嘘をつこうとする方が、悪い」
エリルは顔を離すとニイッとよくわからない笑みを作った。両目の白目が無くなり怪しく黒光りするその笑顔を、こちらは顔を引きつらせ、ただただ愕然とするしかなかった。
「ほら。そういう余裕の無いところがダメなんだよ。経験ないんでしょ? いい仕事をするには余裕が大事なのに、全く違う方向にばかり頑張っちゃって。ここでそろそろ、考え方を変えるべきよ。じゃないとあなたも恩師の二の舞になる、絶対に」
エリルはなぜか楽しそうだ。緩慢で、純白で、甘美な言葉を並べながらも、グストフのしっかりと締められたベルトを緩め、ズボンのホックに手をかけた。
抗え。
跳ね除けろ。
拒絶せよ。
理性はそう怒鳴るのに、肉体はなぜか拒否しようとしない。
「真面目君に一番効く薬は――」
エリルはグストフのズボンを下ろした。ベルトに装着された沢山の装備品が、床に当たって耳障りな音を立てる。それが何か、叱咤のような合図の役割を果たした。
「やめろよっ!」
エリルを突き飛ばし、すぐにズボンを上げる。
「冗談じゃない! 君がそんなに軽薄な人間だったなんて、本当に失望したよ! 今まで優しく看病してくれてたと思ったら、俺をそこら辺の放蕩者みたいに思ってたのか?」
グストフは、緊張が解けたと同時に込み上げてきた怒りを思い切りぶちまけた。
エリルは俯いたまま、嘲笑のこもった声で応えた。
「……へえ。よく言うよねえ。じゃあ、そこにあるその短剣は何なのかな?」
エリルはベルトを指さした。かつて低俗な遊びの賞品としてもらった卑猥な品物。
プラウスキに突っ込まれたあと、何かの役に立つと思い装備しておくことにしたのだ。
こんな物でも、僚友に評価されているものならと思い直して……
「はあ? これが、なんだよ」
「矛盾してる。どうしてプロの女の人は受け入れたのに、私はダメなの? ひどい」
「あれはまた話が別だ! 人の過去に言及するな、誰にもそんな資格ないだろ」
その場から去る。もう有無を言わせない。ベルトを押さえながら駆け出した時、背中から今までに聞いたことないくらい、黒い感情の嘶きが響いた。
「あの黒髪の女に惚れたんでしょー!」
廊下中に反響する。汚くて、妖艶で、剥き出しの、若い女の笑い声。
立ち止まり、振り向いた。
「…………!」
壁の陰から覗いていた二つの大きな瞳が一瞬、自分を捕らえた後、さっと闇に引っ込んだ。
始まりは数奇だった。たまたま人員の関係で、普段はまず行かない外勤に回され、そしてたまたま、銃撃戦の中で神々しく佇む姿を目撃し、さらに自分がその粛清担当になった。
なにもかも――一切合切すべてが異常事態であり、事件。
そして、今回のこと……。グストフは自らの中の安定・安寧・安心、それら己のよりどころが頑丈なツルハシでがっつがっつと削られていくような感覚に襲われ、とめどない眩暈に呻いた。いったい、自分にはこの先、このような重い不幸が降り注ぎ続けるんだろうか。
ずっと、自分はこうして悩む運命なのだろうか。
嫌な予感が、そしてはっきりしたそれが、どんどんと心の中で膨張していった。
* * *
「お前、身体はなんともないのか……これはいったい……なぜ」
ジンはカルハの細い腕を見て息を呑んだ。
「大丈夫ですよ。私の担当の粛清官、私に手出しできないみたいですから」
涼しそうに、それでいて何でもないような素振りで答えた。
「粛清官が手出しできない? そんな訳あるか。俺なんか、もうどれだけ痛めつけられたか。見てごらん、ほら」
ジンが袖を捲ると、痛々しい内出血の跡や、針金か何かを巻き付けた跡のようなもの、沢山の固まった血液があった。それだけではない。大腿部の銃創は、知らぬ間に国防が治療していた。どうやら生かさず殺さず、これからたっぷりと苦しめていくつもりらしい。
「……ひどい事をしますよね」
「ああそうさ。ひどいよなあ! こんな事をして、これまで何百、何千という黒髪族がここで殺されていったんだぞ? 俺も日に日に粛清がエスカレートしているから殺されるのも時間の問題だ。それなのに、粛清官が手出しできない訳なんてないだろう!」
ジンは取り乱した。何をどうやっても、ここから生きて出られる方法はない。あまりにも厳重すぎる。もはや罪人扱いを超え、邪悪な魔物のような扱いを受けているのだ。無理だ。
「ジンさん」
「なんだ」
「その傷を見てから言うのもおかしいですけど、私、やっぱり捕まって正解だったのかもしれないです。安心して。時間はかかるかもしれないけど、私たち、絶対に助かるから」
「正解ってお前な、そろそろいい加減にしないと……」
愕然とするジンの背後で、扉が開かれた。
小馬鹿にしたような表情の大柄な男が、片足にだけ体重を乗せて立ちふさがる。
「さぁて始めよっか。どうした、待ちくたびれたかな?」
ジンは絶望の表情を浮かべたまま、担当粛清官らに引きずられていった。
「ほら、自分で立って歩けこのおっさん!」
プラウスキは力任せにジン・サカベの身体に繋がった鎖を引いた。
「仕事が多いんだから協力してもらいたいねえ! 早く歩きんさい!」
日に日に、抵抗する力も失っていくのはどの粛清対象者にも共通している事だ。
最初こそ暴れたり、牢の扉を開けた時に無理やり脱走を試みたりするが、それも無理と悟ると魂を冷凍するようになる。人間は本当に絶望すると、苦痛にすら無関心になるらしい。
「おーい、ちょっとジェダリンスさんよう。あんたも少しは手伝えよほらぁ!」
粛清室の扉に凭れかかって煙草を吸っているジェダリンスは、こちらをチラと見て気怠そうに姿勢を直すと重たい扉を開けた。その扉の音を聞くと、粛清対象者は全力で暴れ出した。
「こら暴れるなっての! っくそ、おいベンデル! 早く抑えろ! 水はあとから汲めばいいだろ! ほんとに何度言っても段取りの悪いったらもう……」
水が一杯に入った桶を両腕に下げたベンデルは大声で呼ばれ、オドオドと駆け寄ると力任せにジンの腕を捕らえた。足はジェダリンスが持ち、やっとの事で粛清椅子に固定し終えた。うんざりするようなため息が漏れる。
「ま~ったく……コレだよ。さすが族長ともなると往生際の悪さが半端じゃないなぁ。どっかの誰かさんみたいだ」
プラウスキがいやみったらしく言うと、二人も口端を少しだけ動かした。
「始めるぞ、エーゲルホーファー」
ブーツの爪先をコツコツと床に打ち付け、息を整える。
「任せた」
「……お前は今日、何を担当する」
「俺か? 俺はちょっと呼ばれてるから席を外すぜ」
ジェダリンスは目の色を変えた。
「おいどういう事だ。何も聞いてないぞ。じゃあ誰が記録をやるんだ。こいつは重要参考人でもあるぞ。あのコールマンが扱ってるようなペーペーの若造なんかじゃないからな」
「ああはい、それならこの子がきち~んとやるから、それで堪忍な」
プラウスキは表情一つ変えず、ベンデルを指差した。その先で、肥満体のベンデル・マクゴフが大きな体を隅っこに置いて佇んでいる。ジェダリンスの眉間に一瞬、皺が寄る。
「俺が成績を上げられないようにしたいっていう訳じゃ」
「いや違いますから、はやく始めてやりなさいなもう。急がないと……旬が過ぎますよ」
プラウスキは軽い足取りで部屋を出かかると、ベンデルの肩をつついて、耳打ちした。
「また、やられないようにな」
強張った顔のベンデルを背に、どこかへ駆けていった。