9.とある町でのひと騒動
それからも私たちは、様々な町をめぐっていた。森に囲まれた町や、大きな川の隣にある町。山を登った先にある町にも行った。初めての土地はどこも物珍しく、楽しかった。
そうして、また次の町にたどり着いた。しかしどうにも、雰囲気が良くない。周囲の人間に聞こえないように、かすかな声でエルにささやきかける。
「この町、治安が良くない気がするわ」
「ああ。俺もここに来たのは初めてだが、聞いていた以上にすさんでいるな」
「でも、そろそろ日が暮れるし、今から町を出るのもどうかと思うわ」
「なら今夜だけ泊まって、明日の朝一番にここを発とう」
「そうね」
シュテルンから降りて道を歩きながら、そんなことを小声で話し合う。
とびきり大きいシュテルンが人目を引いているのはいつものことだ。けれどこの町に入ってから感じる視線には、どことなく落ち着かないものを感じていた。
それはエルも同じだったらしく、りりしい目元をほんの少しつり上げて、辺りを警戒している。
「……注目されている? 凝視されているような……気のせいか、いや、だが……」
そんなエルのつぶやきにこたえるように、シュテルンも小さく首を振っていた。
大急ぎで比較的治安の良さそうな区画に移動し、できるだけ上等そうな宿をとる。それでもやはり安心はできなかったので、二人で一室を使うことにした。これはこれで落ち着かないけれど、仕方ない。
食事も部屋に運んでもらって、そこでとった。そこそこおいしかったけれど、ゆっくり味わえる雰囲気ではなかった。
「一応、備えておくにこしたことはない。いつでも出られるよう、荷物はまとめたままにしておいてくれ」
エルの指示に従い、荷物をすぐ近くに置いたまま眠りにつく。
明日の朝まで、何事もなければいいのだけれど。そんな心配と、でもここまでなんともなかったのだし、という楽観的な思いが、頭の中をぐるぐる回っていた。
馬のいななきが、眠りの海から私を引き戻した。驚いて目を開けると、隣の寝台にいるエルはもう身を起こし、荷物をかついで部屋から飛び出していった。シュテルンだ、と言い残して。
寝台の上で身を起こし、ぽかんと窓の外を見る。その間も、あわてたような馬のいななきが聞こえ続けていた。
あれがシュテルンなのかどうかは、私には分からない。けれど普段は冷静なエルがあそこまで血相を変えたのだ。きっと、シュテルンに何かあったのだろう。
急いで自分の分の荷物を持って、エルの後を追った。
宿の裏手に、馬小屋がある。そちらに向かおうとしたとたん、ものすごい勢いでシュテルンがこちらに向かってきた。その背には、なにかぼろきれの塊のようなものがのっかっている。
道のわきによけて、突進してくるシュテルンをやり過ごす。呆然としていたら、少し遅れてエルが走ってきた。
「馬泥棒だ! 済まないが先に行く! 目印を残していく!」
荷物を抱えているとは思えないほどの足の速さで、エルはそんなことを言いながら駆け抜けていく。先ほどのシュテルンに負けず劣らずの勢いだ。
とにかく、シュテルンとエルに早く追いつかなくては。それに、こんな夜遅くに女が一人で裏路地にいるのは危険だ。
そう思ったまさにその時、酔っ払った中年男性がよろよろと近寄ってきた。明らかに下町の住民だ。貧民街の者かもしれない。
「おう、姉ちゃんどうした? 道にでも迷ったか? 送ってやろうか?」
「結構です。連れと合流するところですから」
「まあまあ、そう言うなよ。俺と合流できたんだ、連れなんざどうだっていいだろう?」
この男の相手をするのは面倒くさい。それにこうしている間にも、きっとシュテルンとエルはさらに遠くに行ってしまっている。
「急いでいるんです。とにかく、私はもう行きますから」
「逃げんなって、なあ?」
酔っぱらいの横をすり抜けようとした時、腕をつかまれた。普通の娘なら、おびえおののくところだろう。だが、あいにくと私はそうではない。
「……先に手を出したのは、そちらですものね」
小声でそう言って、思い切り蹴りを放つ。全ての男性が、一番蹴られたくない場所だと断言するに違いない、その場所をめがけて。
「がっ!」
酔っぱらいは地面に倒れ、のたうち回っている。少々やりすぎたと思わなくもないけれど、今はとにかく先に進むほうが先だ。
「……お母様に教わった護身術が、まさかこんなところで役に立つとは思わなかったわ」
そんなことをつぶやきながら、路地を駆ける。やがて、分かれ道に行き着いた。エルは目印を残すと言っていた。さて、どれのことだろう。
幸い、さほど悩むこともなかった。片方の道の石畳に、ぼんやりと淡く緑色に光る小さな何かが落ちていたのだ。たぶんこれのことだと思う。
「あら、豆なのね、これ」
光る豆をつまみあげて、ポケットにしまう。そうして今度は、そちらの道を走り出した。
そうして目印を頼りにくねくねと走っていたら、町の外に出てしまった。遥か前方に、広々とした草原を走る大きな影が見える。そのすぐ後ろに見える小さな影は、たぶんエルだろう。
やがて、エルがシュテルンに追いついた。ありがたいことに、そのままそこで止まっている。懸命に足を動かして、どうにかこうにか彼らに合流した。
さっきまでシュテルンの上に乗っていたぼろきれの塊が地面に落ちていて、エルがその前に立ちはだかっている。シュテルンは涼しい顔で、遠くを眺めていた。
「はあ、やっと追いついたわ。ところでエル、それは何?」
「馬泥棒だ」
暗くてよく見えないので、荷物からランタンを取り出して火をともした。そうしてぼろきれの塊を、改めてじっくり見てみる。
驚いたことにそれは、まだ小さな子供だった。服と呼ぶのもはばかられるようなぼろ布を、何枚も重ねて着ている。
「……ごめんなさい、でもおれ、馬を盗むつもりはなかったんです。町から離れたら、馬を降りて逃げようって……そうしたら馬も、元の持ち主のところに帰れるかな、って……」
子供は肩を震わせながら、うつむいてつぶやく。見たところ、心から反省しているようだった。しかしエルは、冷ややかな声で子供を問い詰めている。
「……なぜ、町を出ようとした」
「エル、顔が怖いわよ。ねえあなた、どうして町を出たのか、このあとどうするつもりだったのか、教えてもらえないかしら」
にっこりと笑ってそう尋ねると、子供はおそるおそる顔を上げて私を見た。
泥やらなんやらでものすごく汚れているが、顔立ち自体はかなり整った男の子だ。なんとなく、事情のはしっこくらいは読めた気がする。
「おれ……あの町にいたら、いつか危ない目にあう気がして、ずっと怖かったんです。だからどうにかして逃げ出そうと、そう思ってて……でも旅をするお金なんて持ってないし、助けてくれる人もいないし……」
「君は孤児か。……見た目が優れた孤児は、確かにろくな目にあわない。まして、あのような町では」
エルが同情しているような声でそう言うと、子供は涙ぐみながらうなずいた。
「お願いします。おれを、どこか別の町へ連れてってくれませんか。次の町まででも、いいですから……」
地面に額をつけて頼み込む子供。隣に立つエルをそっと見て、目で合図する。エルも、力強くうなずいてくれた。
「顔を上げて。ええ、一緒に行きましょう」
そう言うと、子供がぱっと顔を上げる。安堵の表情を浮かべているところ申し訳ないのだけど、一つ確認しておきたいことがあった。
「でも、次の町であなたはどうやって暮らしていくつもりなの?」
「……あてはないです。ただ、今まで暮らしてた町よりは、危なくないかなって……」
「だったら、あなたが安心して暮らせそうな場所が見つかるまで一緒に行く、というのはどう? 私たちはあてのない旅をしているけど、それでもいいなら」
「ぜひ、お願いします! おれ、なんでもします!」
ようやく彼が見せた年相応の笑顔に、私とエルもつられて微笑んでいた。
シュテルンが、軽やかにいななく。どうやら彼も、新しい同行者を歓迎しているようだった。