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7.思い出の中の名

 私とエルは黒馬に乗って、ひたすらに街道を駆け続けた。馬が足を止めたのは、辺りがうっすらと明るくなってからだった。


「あのヨハンという男が、追っ手を差し向けてこないとも限らない。街道のそばは危ない」


 エルはそう言って、街道から外れた森の中に馬を向けた。馬はやぶをかき分けるようにしてまっすぐに進み、やがて森の中の泉にたどり着いた。


「ここまでくれば、ひとまず安全だろう。夜に進んだほうが目立たないし、ここでひと眠りしよう」


 長い間馬に乗っていたせいで、すっかり体がこわばっていた。エルの手を借りて、どうにかこうにか地面に降り立つ。


「ありがとう、エル。こんなところに泉があるなんて知らなかったわ」


「俺も知らなかった。シュテルンは水場を探し出すのが得意なんだ。彼には幾度となく助けられた」


 その言葉に、黒馬が得意げにいななく。普通の馬よりもずっと大きく力強いこの黒馬の名前はシュテルン、エルの相棒なのだそうだ。


 走り疲れたのだろう、シュテルンはさっさと泉に近づき、ごくごくと水を飲んでいる。それを見ながら、エルと二人で休む準備を整えていった。


 幸い暖かい季節なので、準備といっても簡単なもので済む。木陰の乾いた地面に毛布を敷いて、そこに並んで座るだけだ。


 エルが持っていた干し肉と堅パン、それに泉の水で小腹を満たすと、急に眠気がやってきた。


「安心して眠るといい。何か来ても、俺が気づく。シュテルンもいる」


 その言葉に甘えることにして、毛布の上に横たわり目を閉じる。建物の外で眠るなんて久しぶりだ。実家を追い出され、ひとりさまよっていた日々を思い出す。


 頭をよぎる数々の悲しい思い出。にもかかわらず、不思議なくらいすんなりと意識が薄れていくのを感じた。


 エルがいてくれる。たったそれだけのことが、私を安心させてくれている。何があっても大丈夫だと、そう思えた。


 自分のことを忘れてくれるなと言いたげなシュテルンの鼻息につい微笑みながら、私はそのまま眠りについた。




 それから私たちは旅を続け、どんどん元の町を離れていった。


 ある程度遠くに行くまでは、できるだけ人目につかずに進もうと、私たちはそう考えていた。ヨハンが追っ手を差し向けている場合に備えて。


 しかし、一つだけ問題があった。並み外れて立派な体格のシュテルンは、どの町でも見事に目立ってしまっていたのだ。


 仕方なく私たちは、できるだけ人の少ない、さびれた街道を選んで進むことにした。食料など必要なものを買い出しに行く時は、どちらかが町の外でシュテルンと待っていた。


 当然ながら、何日も野宿が続いた。けれどこの旅は、ちっとも辛くはなかった。


 エルとシュテルンがいてくれるからか、毎晩ぐっすりと眠ることができた。それにエルは野宿に慣れているらしく、とても手際よく、おいしい食事を作ってくれた。旅慣れない私を気遣って、こまめに休憩をとってくれていた。


「星を見ながら眠るのも、素敵なものよね」


 そうして今夜も、毛布に寝転がって空を見上げる。星がきらめく深い空は、エルの目に似ているなと、毎日そう思う。


「君は、意外とたくましいな。普通の女性なら、これだけ野宿が続けば音を上げそうなものだが」


「あら、見くびられたものね。これでも私、子供の頃は野山を駆け巡っていたのよ」


 隣の毛布に座るエルに、いたずらっぽく笑いかける。その向こう側の草地で、マーガレットの群れが風に揺れているのが見えた。夜の闇にも染まることなく揺れる白い花に、胸がぎゅっと苦しくなる。


「……なんだか、昔のことを思い出したわ」


 ゆっくりと起き上がって、静かに息を吸う。心のおもむくまま、歌いだした。『銀雪の乙女』を。エルも、そしてシュテルンも、じっと私の歌に耳を傾けていた。


 最後の一声の名残が、夜の闇に吸い込まれるようにして消えていく。ほうと息を吐いてから、ぽつぽつとつぶやいていった。


「この歌、私にとっては大切な思い出の歌なの。子供の頃の友達に、よくせがまれて歌ったわ」


 返事をするように、シュテルンがぶるると鳴く。エルは何も言わない。


「……私にマーガレットをくれた子がいたって話したのを、覚えているかしら? その子なの。あなたと同じ、綺麗な瑠璃色の目をしていた」


 そう言いながら、そろそろとエルのほうを見る。彼は涼やかな目を見張って、私をまっすぐに見つめていた。珍しくも、動揺しているようにも思える。


「……クラリッサ。その子の、名は?」


 やがて、エルがためらいがちにそう言った。ちょっと緊張するものを覚えつつ、素直に答える。


「ティル、よ」


 私の答えを聞いて、エルは素早く身を起こし、こちらに向き直った。


「まさか、とは思っていたが」


 そろそろと、エルは言葉を続ける。驚きと、喜びとがその瑠璃色の目に浮かんでいた。


「ヒルデ、君だったのか」


 この国の貴族は、子供の頃は幼名という別の名を使う。だからティルと遊んでいた頃の私は『ヒルデ』と名乗っていた。


 ティルは明らかにどこかの貴族の子供だったし、きっと彼も今は違う名で暮らしているのだろうと、そう思っていた。


「……え、もしかして、あなたがティル?」


 エルはやけに品があるけれど、その身なりはどこからどう見ても平民のそれだ。だから私は、彼を見てティルを思い出すことはあっても、当の本人だとは思うことはなかった。


「ああ。色々あって、今はこうして放浪の旅に出ている」


 どうやら彼は、そのいきさつを語りたくはないようだった。しかしそれは、私も同じだった。幸せな子供の頃の私を知っている彼に、その後の不幸を知られたくはなかった。


「そうだったの。実は私もあれから色々あって、歌姫になったのよ」


 だから必要以上に余裕を見せて、優雅に微笑んでみせる。


「……そうか。大変だったようだな、お互いに」


 エルはそう答えて、苦笑する。どうやら彼も、私の事情をせんさくしないでいてくれるらしい。


 ほっと安堵のため息をつきながら、にっこりと笑う。


「それにしても、びっくりするような偶然ね。十年以上も前に、ひと夏一緒に遊んだだけの私たちが、こんなところで再会して、一緒に旅までしているなんて」


「そうだな」


 それから私たちは、熱心に話し込んでいた。クラリッサとエルではなく、ヒルデとティルだった頃の思い出話を。真夜中過ぎても、ずっと。それくらいに、話は尽きなかったのだ。


「それにしても、あなたはすごく背が伸びたのね。あの頃は、私のほうが大きかったのに」


「君も、綺麗になった。かつての君は、とても活発で少年のようですらあった。だから、気づくのが遅れた」


 何年も歌姫をやっていた私は、褒め言葉にはすっかり慣れてしまっていた。けれどエルの短い言葉は、どんな褒め言葉よりも胸を打った。


「ふふ、ありがとう。……ねえ、エル。こうしてせっかく、ヒルデとティルが再会できたんだし……一つ、提案があるのだけれど」


 エルは小さくうなずいて、言葉の続きを待っている。


「その、あなたは特に目的のない旅をしているのよね。私も似たようなものだから……これからもずっと一緒に、旅をしない?」


 エルは何も言わない。夜空を切り取ったような目が、少しだけ見開かれた。


「二人でそれぞれお金を稼ぎながら、あちこちの町を回るの。子供の頃と同じように、あなたと一緒に色んなものを見たい」


 相変わらず、エルは無言のままだ。その沈黙が落ち着かなくて、つい喋りすぎてしまう。


「私、ティルと遊んでいてとても楽しかった。こうやってあなたと過ごすのも、やっぱりとても楽しい。それに、今度あなたと別れたら、もう二度と会えないかもしれないし……だから、その……」


「ああ。そうしよう」


 私が口ごもっていると、エルはふんわりと、花が開くような笑顔を見せた。普段は無口で涼やかな、ちょっと近寄りにくい雰囲気の彼だが、そうしていると驚くほど親しみやすくなる。


「……あの町で君に会った時からずっと、思っていた。君ともっと会いたいと、君の歌をもっと聞きたいと。だから俺は、あの町にだらだらと長居していた」


「そう、だったの……」


「そして、君に行く当てがないと聞いて、喜んでしまった。それなら、俺が同行し続けても不自然ではないだろうと」


「もう、エルったら……それならそうと、言ってくれれば良かったのに。さっきの提案をするのに、私がどれだけ勇気をふりしぼったことか」


 生まれ育った屋敷を追い出され、町の劇場で暮らしていても、それでも私の根っこのところは侯爵令嬢だった頃のままなのだ。


 ひとりきりになってしまったとはいえ、旧知の間柄とはいえ、それでも同い年の男性に、一緒に旅をしませんかなどと誘うのはとんでもなく恥ずかしい、勇気のいることだったのだ。


「ありがとう。昔から君は勇ましいところがあったが、今回はそれに助けられた」


「勇ましいって、それは褒めているの?」


「もちろんだ」


 勇ましいだなんて、子供ならともかく、大人の女性にかける褒め言葉ではない。けれどエルの言葉は、すとんと胸の中に落ちてきた。


「ふふ……ありがとう。さあ、そろそろ寝ましょう。積もる話はまだまだあるけれど、これから時間はたっぷりあるのだし」


「ああ。おやすみ、クラリッサ」


「おやすみなさい、エル」


 小声であいさつをかわして、もう一度毛皮の上に横たわる。夜空の星は、今日はひときわ鮮やかに見えた。

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