6.歌姫は旅に出る
いきなり目の前が真っ暗になり、近づきつつあったヨハンの姿が見えなくなる。
何が起こったのか分からずにぽかんとしていると、少し離れたところからヨハンの怒鳴り声が聞こえてきた。
「またお前か! 何度私の邪魔をすれば気が済むのだ!」
「彼女は俺の友人だ。友人の危機を見過ごすことはできない」
ずいぶんと上のほうから、エルの声がする。今一番、聞きたかった声が。うっかり涙ぐみそうになるのをこらえて、二人の話に耳を澄ませる。
「私は彼女に話があるのだ。その馬をどけてもらおうか」
「手下を大勢引き連れて取り囲もうとするなど、まともな話だとは思えない」
馬、という言葉に、ぱちぱちと目をまたたく。目の前が真っ暗になったのではなく、夜の闇に溶け込むほど黒い馬が、私とヨハンの間に立ちはだかっていたのだ。そしてエルは、その馬にまたがっていた。
私の視線に気づいたのか、馬が小さく鼻を鳴らしてこちらに顔を向ける。額に一房だけ白い毛があるほかは、どこもかしこも真っ黒だ。とても優しい目をした、驚くほど大きな馬だった。
「まともな話だとも。彼女は劇場を追い出され、行く当てがなくなった。だから私のもとに来るようにと、そう命じていたところなのだ。分かったらさっさと、消えてなくなれ」
「……彼女の噂のこと、そして彼女が劇場にいられなくなったことについては聞いた。だが、その後どうするかは本人が決めるべきだ。誰かが命じていいものではない」
「お前、見たところ旅の傭兵か何かだろう。平民の分際で、私に逆らうな!」
ヨハンがさらに激しく怒鳴り散らす。しかしエルは、少しも動じなかった。なんと彼はそのままヨハンを無視して、私のほうに向き直ったのだ。
「クラリッサ、君はどうしたい。見たところ、彼についていきたくはないようだが」
「ええ、もちろんよ。……どこか遠くへ、行こうと思ったの。この町を離れて、別の場所でやり直そうって」
最初にそう言いだしたのはベティーナだった。けれど私にも、そうするしかないと分かっていた。
「私には歌があるし、もともとこの町の生まれでもない。戻るべきところもない。だから、出ていきたいのよ。……ヨハンのところには、行きたくないわ」
「分かった。だったら、力を貸す」
その間も、馬の向こうでヨハンがぎゃあぎゃあ叫んでいるのが聞こえ続けていた。けれどがっしりとした黒い馬と、エルの腰の剣を警戒しているのか、回り込んでまで私に近づこうとはしてこない。
ヨハンはそういう男だ。自分より弱い者に対してだけ、偉そうにふるまうことができる。
「……助けてくれるの? ヨハンににらまれたら、面倒よ」
「関係ない。俺ももう、この町を出るつもりだから」
見ると、馬の腰には彼のものらしき荷物がくくりつけられている。そしてエルもいつもの服の上から、厚手のマントを羽織っていた。
「よければ、一緒に行かないか。どこでも、望みの場所まで連れて行ってやれる」
そう言って、彼は馬の上から手を差し出してきた。こちらに向けられた目は、彼の背後にある星空と同じようにきらめいている。その輝きに吸い寄せられるようにして、彼の手を取った。
エルは柔らかく微笑んで、私を引っ張り上げた。私は自分の荷物を抱えたまま、エルのすぐ前に座る。
まだ生家にいた頃、父と一緒に馬に乗ったことを思い出す。何年かぶりの馬の背に、懐かしさがこみ上げてきた。
「おい、クラリッサ! こちらへ降りてくるんだ!」
「お断りしますわ。私、しつこい殿方は苦手なんです」
ヨハンを見下ろしながら、静かにそう答える。彼は私を引きずり降ろそうとしたのか、腕を伸ばしかけた。
しかしエルににらまれでもしたのか、びくりと手をひっこめた。彼の後ろにいる手下の者たちは、どうしたものかと困惑しているような顔をしている。
顔を動かして、反対側でへたりこんでいるベティーナを見た。彼女は涙にぬれた目で、まっすぐにこちらを見上げている。
「ベティーナ、あなたのしたことを許すことはできない。だから、あなたと一緒に旅をすることもできないわ」
「……お姉、さま……」
「だから、あなたはここに残りなさい。あの劇場で、立派な歌姫になるのよ」
「でも、お姉さまがいないのに……」
「必要なことは、もう教えたわ。あなたはいい加減独り立ちしたほうがいいだろうって、ずっとそう思っていたの」
ベティーナの大きな目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。彼女は彼女なりに、私のことを思ってくれていたのだろう。そう感じたから、もう一言だけ付け加えた。
「……そしてあなたがこの町一番の歌姫になったら、その時はあなたの歌を聞きに来るわ」
呆然とするベティーナに小さくうなずきかけてから、背後のエルに声をかける。
「私は、もう心残りはないわ。いつでも出発できる」
「そうか。ならばしっかり、つかまっていてくれ」
エルがここからどうするつもりかは分からなかったけれど、言われるがまま、馬のくらにしっかりとしがみつく。
次の瞬間、馬が大きく跳ねた。私とエルの二人を乗せたまま、馬は周囲の男たちを飛び越えるように高々と跳ね上がったのだ。助走すらせずに。
宙に高々と舞い上がったその時、石畳に呆然と座り込んでいるベティーナと目が合った。彼女は泣きそうな目で、私だけをじっと見つめていた。
そうして私たちを乗せた馬は、ものすごい勢いで町を飛び出していった。最初に私とベティーナが目指していたのとは、真逆の方向へ。
「あら、こちらに進むの? この先、しばらく町はないわよ。それどころか、旅人もあまり通らないし」
「だからこそだ。噂を運ぶのは人だ。君はきっと、噂の届いていない新たな地での出発を望んでいるのだろう?」
「ええ、その通りよ。根も葉もない噂とはいえ、できることなら離れてすっきりしたいわ」
「ならば、人のあまり通らない街道を通って、より人の交流が少ない地方に向かったほうがいいと思ったのだが……他にどこか、行きたいところがあるのか?」
この道を行けば、私の生家からはどんどん離れてしまう。
もうあそこには戻れないと分かっていても、そこから遥か遠くに旅立つのは、少し心細かった。だからこそ私は今まで、子供の足でもなんとか生家にたどり着ける距離にある、あの町で暮らしていたのだ。
そんな感傷を胸の奥にしまいこんで、大きく首を横に振る。
「いいえ、行く当てなんてないわ。どうせなら、あちこちふらふらしてみたいと思っているの。行く先々の街角で歌えば、路銀は稼げるだろうし」
「そうか。ならばひとまず、この町を離れよう。その後どうするかは、おいおい考えればいい」
「ええ、そうしましょう」
エルに触れている背中はとても温かい。手綱を握っている彼の手は、私を守るように伸ばされている。背中越しに、彼が笑っているような振動が伝わってきた。
生まれ育った家を追い出され、ようやく見つけた居場所も出ていくことになった。それなのに、私の胸の中には明るい光が満ちていた。真っ暗な夜も、先の見えない旅も、少しも怖くなかった。