5.失意の歌姫と事の真相
ベティーナは自分の部屋にかけこむと、すぐに荷物を持って戻ってきた。彼女もまた、私物はほとんど持っていない。それにしても、少しばかり荷造りが速すぎるようにも思えた。
そうして二人で劇場を出て、町のはずれのほうに向かって歩き出す。
もう日はほとんど沈んでいて、辺りは夜の闇に包まれ始めていた。通りに面した店では、軒先につるしたランタンに火を入れている者たちの姿がちらほら見えていた。
「とにかく大急ぎで町を出てしまいましょう、お姉さま。隣町なら近いですし、今からなら深夜までにはたどりつけます。そこでゆっくりと旅支度を整えて、どこか遠くへ行きましょう。二人一緒に」
この町と隣の町とをつなぐ大きな街道には、警備の兵士がいつも巡回している。だから女性二人で夜に移動しても、さほど危険はない。けれど、弱気なベティーナの口から、こんな提案を聞くことになるとは思わなかった。
劇場を追い出されてしまった以上、どのみちこの町を出ていくつもりではあった。どこか噂の届かない遠くへ行って、そこで一からやり直そうと思った。
十三の時に両親を失って、生まれ育った家を追い出された。あの時の絶望に比べれば、これくらいどうということはない。私はもう、一人でも生きていける。
けれどその前に、一つだけやり残したことがあった。
「あの、ちょっと待ってもらえるかしら。この町を出ていく前に、エルに一言あいさつをしておきたいのよ」
いずれ、彼はまたどこかに旅立ってしまうだろうと思っていた。いずれ、別れがくるのだと分かっていた。でもそれが、まさかこんな形で来るとは思いもしなかった。
あまりにも唐突な別れになってしまうけれど、どうしても最後にもう一度だけ、彼に会いたかった。もう一度だけ、彼の声が聞きたかった。
しかしベティーナは、眉間にしわを寄せて首を横に振る。
「駄目ですよ。早く出ないと隣町に着くのが遅くなっちゃいます。この町にはお姉さまの悪い噂が流れちゃってますから、ここに長居するのは良くないです」
「でも、今会っておかないともう二度と彼には会えないから……」
「会わなくていいんです。そもそもあの人のせいで、悪い噂が立ったようなものなんですから」
「確かに私は最近、彼とちょくちょく会っていたわ。でも変な噂が立たないよう、出入りする場所には気をつけていたのに」
「でも、こうして噂は立ってしまいました。これ以上、あの人に会っては駄目です」
路上で言い争う私たちを、通行人たちは冷ややかな目で見ている。以前とはまるで違う態度に、思わず口ごもる。
もう、エルの耳にも噂は届いてしまったのだろうか。そんなことをふと考えて、立ちすくんだ。
そんな私の腕を引っ張って、ベティーナが歩き出そうとした。しかしその時、嫌な声が聞こえてきた。
「おや、私にはあいさつしてくれないのかな、愛しいクラリッサ」
きざったらしく言いながら、ヨハンがこちらに近づいてくる。こんな時に彼に出くわすなんて、なんてついていないのだろう。
「……どうしてあなたが、こんなところに」
「そろそろ君が劇場を追い出される頃合いだろうと踏んだのでね、君を出迎えるために待ち構えていたのだよ。それと」
やけにゆっくりと、ヨハンは目を細める。なんだかとても、嫌な感じだ。まるで獲物をいたぶる猫のような顔で、ベティーナを見すえている。
「噂を広めた張本人が、澄ました顔で君のそばにいるのが気に食わなくてね」
その言葉に、つられて隣のベティーナを見た。彼女はまっすぐにヨハンを見つめたまま、かたかたと震えていた。
「……ベティーナが、噂を広めた? まさか、そのようなことが」
「ああ、クラリッサ。君は本当に純粋で、人を疑うことを知らないのだね。こんなにも早く噂が広まり、あっという間に劇場を追い出されたなんて、おかしいとは思わなかったのかな?」
「それは……」
口ごもった私に、ヨハンは得意げに言う。
「私はこの町のあちこちに手下の者を放ち、日々情報収集にいそしんでいるのだよ。ほかでもない、君がいる町だからね。君の全てを、知っておきたかったのさ」
つまり彼は、使用人を町にやって私のことを色々と探っていたのか。薄気味悪さに思わず顔をしかめたが、彼はまったく気にしていない様子で話し続けている。
「だから私には、噂の出どころは分かっている。君のことをうとましく思っていた他の歌姫だ。君の歌と美貌は素晴らしいから、ねたむ者がいるのは当然だな」
うっとりと言ってから、ヨハンはベティーナに向き直る。
「だがその噂をあちこちに広めて回ったのはお前だろう、ベティーナ? 町のあちこちでこそこそしていたのを、手下の者が見聞きしていたぞ」
ヨハンの言葉を、ベティーナは否定しなかった。彼女はただじっとうつむいている。
「……だって、お姉さまをあの男に取られてしまいそうだったから……この町を出ることになれば、きっとあいつと離れられるって」
消え入りそうな声でそう言って、ベティーナは泣き崩れた。ヨハンはそんな彼女を虫でも見るような目で眺めている。やはり、この男は嫌いだ。
「まったく、おろかな娘だ。だがまあ、私としても好都合だった」
ヨハンの目が、すっと私に向けられた。冷たくてじっとりとした目に、吐き気を覚える。
「君が劇場を追い出されたとなれば、もう誰も君を守ってはくれない。悪い噂の立った元歌姫など、どうなろうと誰も気にしないだろうからな。だから私は、噂がどんどん広がっていくのをただ待つだけでよかった」
そんなことを言いながら、ヨハンが近づいてくる。彼の目には、もうベティーナは映っていないようだった。
遠くのほうから、彼の手下の者らしき男性たちが何人も近づいてくるのが見えた。やけに統制の取れた動きで、じりじりと私を包囲しようとしている。
怖い。彼が何をするつもりなのか、分からない。私がどうなってしまうのか、分からない。
いつもなら、彼はたいしたことをしてこなかった。先日殴られかけた、それくらいで。でも今の私には、何の後ろ盾もない。支配人も、歌姫としての名声も、もう私を守ってはくれないのだ。
「さあ、クラリッサ。私と一緒においで。不名誉な噂の立った君は、もうここではやっていけない。か弱い女性の君が、誰の助けもなく遠い地で一からやり直すなんて、大変だろう?」
荷物をしっかりと抱えたまま、彼から逃げるように後ずさる。
しかしヨハンは薄気味の悪い笑みを浮かべて、両手を広げてさらに迫ってくる。もう私は逃げられないのだと、確信している表情だった。彼のすぐ後ろには、手下の者たちがずらりと並んでいた。
これではもう、逃げられない。
「私なら、君の力になってあげられる。私だけが、君を助けられるんだ。……いつぞやのように私を拒むなど、許さないからな」
いつか見た、強い怒りの色がヨハンの目に浮かぶ。駄目だ、なにがなんでも逃げなくては。そう思っていても、足が動かなかった。
震えながらヨハンを見すえていた私の目の前に、いきなり大きな何かが割り込んできた。