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4.危機は静かに忍び寄る

 それからもエルは、時折公演を見に来てくれるようになった。


 それだけでなく、私がお休みの日などは、あの公園で待ち合わせて、町を一緒に歩くようになった。買い出しを手伝ってもらったり、一緒に食事したり。それはとても楽しい時間だった。


 少々ぶっきらぼうではあるが、飾らずまっすぐな彼の態度や言葉は、普段歯の浮くようなお世辞に取り囲まれていた私には、とても心地良いものだった。


 ヨハンはあの日以来、何も言ってこない。以前はしつこく私の公演を見に来ていたのに、それすらなくなった。それがなんとも不可解で、恐ろしい。


 彼はきっと私とエルのことを恨んでいる。多くの人間の目の前で、彼に恥をかかせたから。そして普段の彼はとても直情的で単純ということもあって、頭にきたならすぐ行動に移す。


 そんな彼が、どういう訳か沈黙を貫いている。どう考えても、絶対におかしい。警戒はしておいたほうがいいだろう。


 ふうとため息をついた私に、横からおずおずと声がかけられた。


「あの……クラリッサお姉さま、体調でも悪いんですか? なんだか暗い顔ですけど」


 声の主は、くすんだ赤毛をおさげに編んだ、小柄な少女だ。両手をもじもじと組み合わせながら、上目遣いにこちらを見てくる。


「ああ、いえ、大丈夫よ。ちょっと考え事をしていただけだから」


 彼女はベティーナ、歌姫見習いだ。いつか舞台に立てるように、今は私が彼女を鍛えている。


 とても熱心に歌を練習しているから、きっと将来はいい歌姫になるだろう。そして、私にとてもなついてくれている。かわいい後輩だ。


「だったらお姉さま、明日一緒に遊びにいきませんか? 歌のけいこでもいいです。お姉さまと過ごしたいです、私」


 ベティーナはにっこりと笑って、私の腕に手をかける。申し訳ないなと思いながら、そっと肩をすくめた。


「ごめんなさい、先約があるのよ」


 すると、ベティーナは一瞬目を見張った。笑顔から悲しそうな顔に、そして不満そうな顔へとくるくると表情を変えていく。


「……もしかして、あのエルって人ですか」


「ええ、そうよ」


「……あの人と知り合ってから、お姉さまはずっとあの人のことばかり。もっと私のことも構ってください」


「彼は旅人だし、じきにこの町からいなくなってしまうの。だから、今だけは我慢してもらえるかしら、ベティーナ」


「お姉さまはこの劇場一番の、この町一番の歌姫です。あんな得体の知れない旅人と仲良くする必要なんてありません。お金も名声も持ってないですもの、あの人」


 ふくれっつらで、ベティーナはそう言い放つ。苦笑しながら、首を横に振ってたしなめた。


「そんなことを言っては駄目よ。余りある富でチケットを買う貴族。一生懸命蓄えたお金でチケットを買う平民。どちらも、私たちの歌を愛してくれる大切なお客様なのだから。差別するものではないわ」


 ことさらに明るくそう言い聞かせると、ベティーナは頬をふくらませたまま無言でうなずいた。


「分かりました。……でもやっぱり、寂しいです」


「ごめんなさいね。だったら明日の夜、帰ってから一緒に歌を練習しましょう。それならどうかしら?」


 そう提案すると、ベティーナはようやく笑ってくれた。






 そんな風にベティーナと色々あったりしたが、それでも平穏に日々は過ぎていた。


 エルはしばらくこの町に滞在すると言っていた。いつここを発つかは、まだ決めていないらしい。


 困らせたくはなかったので引き留めはしなかったけれど、どうか一日でも長くここにいてと、こっそり祈らずにはいられなかった。


 そもそも彼のことを気にし始めたきっかけは、彼がヨハンから助けてくれたことだった。


 そして彼が子供の頃の大切な友達に似ていることに気づいて、さらにその思いは強くなっていった。


 けれど今では、そういったことを抜きにして、彼と一緒にいるのが楽しいと思えるようになっていたのだ。


 気がつけば、休みのたびに彼と会うようになっていた。今日も私は、彼と一緒に遊びにいく約束をしている。


「この編み込み、彼は気に入ってくれるかしら……」


 出かける前に鏡をのぞきこみ、もう一度身だしなみを確認する。鏡に映るのは、緑の目の生き生きとした女性。その桃色がかった金髪は、耳の上で凝った形に編み込まれている。


 鏡の前でくるりと回って、小さくうなずく。それから大急ぎで、部屋を飛び出した。




「遅くなってごめんなさい、エル」


「そう待たされてはいない、気にするな」


 いつもの待ち合わせ場所である町の広場に駆けつけると、既にエルがたたずんでいた。通り行く人々が彼をこっそりと憧れのまなざしで見つめ、そのまま立ち去っていく。


 彼は見た目が整っていて、気品もある。ただ立っているだけでもとても絵になるのだ。けれど同時に、どことなく他人を拒むような、そんな雰囲気も漂わせている。


「身なりを整えるのに、ちょっと手間取ってしまったの。この髪型、その……どうかしら?」


「ああ、よく似合っている。本当に君は、綺麗な髪をしているな」


 肩で息をしている私に、エルは静かに笑いかけた。ゆったりと落ち着いた笑みに、ちょっぴり見とれてしまう。


「ありがとう。頑張ったかいがあったわ。それじゃあ、行きましょう。待たせた分、何かおごるわ」


「だから、気にしなくていいと言っている」


 笑顔でそんなことを言い合いながら、二人並んで歩き出す。下町のほうで旅芸人の一座が芸を披露しているので、それを見にいくのだ。


 旅芸人は、その名の通りあちこちを旅しながら芸を披露する人々だ。遠い異国の歌を知っている者もいるし、中々に勉強になるのだ。だから、彼らが来ている時は、積極的に見に行くことにしている。


 途中の店で軽く食事にして、大急ぎで下町の広場に向かった。そこには既にたくさんの人たちが詰めかけていて、旅芸人たちの歌や踊りなどに歓声を上げていた。


 そこに近づいた私たちに、人々の目が向けられる。その視線に、うっすらとではあるが嫌なものを感じた。辺りにはにぎやかな音楽が流れ、熱気にあふれているというのに、背筋がひやりとしたように感じた。


 エルもそれには気づいたようで、瑠璃色の目をわずかに細め、首をかしげていた。




 芸を見終えて、なんとなく落ち着かない気分のままエルと別れる。劇場に戻った私を出迎えたのは、いつになく厳しい顔をした支配人だった。


 どうしたのだろうと様子をうかがう私に、支配人は重々しい声で言った。


「クラリッサ、お前は自分の行いについて言うべきことがあるのではないか」


 エルと会っていることをとがめられているのだろうか、と思った。しかし彼はあくまでも友人だ。そう説明したところ、支配人は苦虫をかみつぶしたような顔になった。


「……その旅人の件ではない。実は、お前が歌ではなく、お前自身を売り物としているという噂が立っているのだ。つまり、お前の体、だな」


「それは全くのでたらめです!」


 いったい何をどうしたら、そんな噂が立つのだろうか。そもそも最近は、エル以外の男性と二人きりになったことはない。それにエルと会う時だって、余計な誤解を生まないように、常に周囲には気を配っていたのに。


「でたらめであろうが、真実であろうが、私の答えは一つだ。クラリッサ、お前にはここを出ていってもらう。……お前は最高の歌姫となっただろうに、残念だよ」


 生まれた家を追い出された私が、支配人に拾われたのが五年前。この五年の間に何人もの歌姫が、同じような理由で解雇されていくのを見た。


 支配人は、私たちが自分の芸以外のものを売り物とすることを許さない。たとえそれが、噂でしかなくとも。


「そのような噂が広まってしまった、その時点でお前は私の劇場で歌うにはふさわしくないのだよ」


「……はい」


 こうなってしまったら、どんな弁解も意味はない。私はそれを知っていたから、ただ静かにうなずくことしかできなかった。




 ふらふらと、屋根裏の自室に向かう。私はもう、ここを出ていかなくてはならない。ぼんやりとしたまま、数少ない持ち物をまとめ、荷造りを済ませた。


 どこへ行こう。これからどうしよう。呆然としながら廊下を歩いていると、いきなり何かが抱き着いてきた。


「……ベティーナ……」


「お姉さまがここを出ていくことになったって、聞きました。……私も、一緒に行きます!」


「一緒にって、もう私はあなたの指導役ではないのよ。それにあなたは、まだここにいられるのだし」


「お姉さまのいない劇場なんて、興味ありません!」


 そう叫んで、ベティーナは私を抱きしめたまま泣き始めた。彼女の温もりが、混乱したままの心にゆっくりと染み渡っていった。

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