31.道が交わる、その前の話
治安が悪いことで有名なとある町の、下町の細い路地、そこに積まれた木箱の陰。捨てられた毛布を幾枚も重ねた上に、ぼろぼろの布の塊のようなものがうずくまっている。
「ドミニク、食料を見つけてきたよ」
ゆっくりした足取りで、中年の男性が近寄ってきた。その手には、すっかり古くなったベーコンや、熟れすぎて腐り落ちる寸前の果物などが抱えられている。彼が着ているものも、ぼろぼろであちこちに穴が空いていた。
「ありがとう、オイゲンおじさん」
布の塊がもぞもぞと動き、立ち上がる。それは、ぼろ袋を被ったような姿の子供だった。髪も顔も黒く汚れているが、よくよく見ればかなりの美少年であることが分かっただろう。
まだ五歳のドミニクは、にっこりと笑って男性に駆け寄っていく。男性の手から食べ物を受け取って、手をつないで毛布のところに戻る。
「今日はごちそうだね、おじさん」
「ああ。酒場の掃除を手伝ったら、こんなにたくさんもらえたんだ。たくさん食べなさい、ドミニク」
そう言って、オイゲンは自分の分をドミニクに分け与えようとする。
「えっ、だめだよ。このごはんはおじさんが手に入れてくれたんだから、おじさんがたくさん食べないと」
ドミニクは差し出された分を突き返し、さらに自分の分をオイゲンに渡そうとする。
「分かった、分かった。だったらいつも通りに、半分こだな。食事のあとは、いつもの勉強にしよう」
「うん、わかった!」
無邪気に笑いながら、ドミニクはぺろりと食べ物をたいらげた。とても粗末な、というよりもむしろごみに近いものだったが、彼はとても幸せそうだった。
そんな彼を、オイゲンは目を細めて見つめていた。とても優しい、そして悲しげな笑みを浮かべて。
食事を終えた二人は、少し離れた空き地に来ていた。そこの隅にかがみこみ、拾った木の棒で、オイゲンがむきだしの土の上に文字を書いていく。その横では、ドミニクが真剣な顔で、文字を読み上げていた。
「ドミニク、今のところは『明日を』が正しいな」
読み間違えると、そうやってオイゲンが静かに正す。人気のない殺風景な空き地に、二人の声だけがひっそりとながれていた。
文字の勉強が終わると、次は算術の勉強だ。拾った小石を地面に並べて、オイゲンはあれこれと説明を始める。
一言たりとも聞きもらすまいとしているのか、ドミニクは幼い顔を引き締めて、食い入るような目で小石を見つめていた。
そうして勉強が終わり、二人は近くの木にもたれて空を見上げていた。心地良い疲れを感じながら、ドミニクがふと口を開いた。
「ねえおじさん。おじさんは、おれを拾ってしまってよかったの?」
それは、彼の心の中でずっとくすぶっていた疑問だった。親に捨てられ、たった一人でこの町の片隅で震えていた彼を、オイゲンはためらうことなく助けたのだ。
「おれがいなければ、おじさんはもっとたくさん食べられるし、もっと自由に働けるよ?」
その問いに、オイゲンは穏やかな声で答える。
「確かにそうだね。けれど私は、お前を守りたいと思ったんだ」
ドミニクは体をよじって、オイゲンに向き直る。
「お前は幼くて、けれどとても賢い。このまま物乞いとして一生を終わらせるには、もったいない。私は訳あってこんな暮らしに身を落としたけれど……お前には、日の当たる場所に出ていって欲しい」
オイゲンの言葉は少し難しくて、ドミニクはその全てを理解することはできなかった。けれど、ひとつだけ分かったことがあった。いつまでも、ここにいてはいけない。オイゲンは、そう言いたいのだと。
「強くなれ、ドミニク。知識を蓄えて、じっと機を待つんだ。このはきだめから飛び出していける、その時を」
「でも、それだとおじさんが……おれ、おじさんを置いていきたくない。一緒に行こうよ」
「私がいては、お前の足手まといになってしまう。お前はこれからどんどん育ち、強くなる。けれど私はどんどん老いて、弱くなるのだから」
「いやだ……おれ、おじさんと一緒がいい」
「だったら、迎えに来てくれ。立派な大人になって、私をここから連れ出してくれ。そうなる時を、楽しみに待っているよ」
「うん! おれ、がんばるよ!」
ドミニクが張り切った声を上げる。その頭を、オイゲンが優しくなでた。その顔は、まるで実の親のような、果てのない愛情だけが浮かんでいた。
そうして、この日のオイゲンの言葉は、ドミニクの心にずっと残り続けることになったのだった。
◇
国の北部に広がる荒野を、三人の人影が西へと歩いていた。大きな影が二つと、小さな影が一つ。フードのついたマントをしっかりと着込んでいて、顔は分からない。
影たちは、やがて大きな岩の陰で立ち止まった。背負っていた荷物を下ろし、てきぱきと野宿の準備を始めている。
荷物から乾いた馬糞を取り出し、拾った小枝や枯れ草と合わせてたき火をおこす。火の回りに毛布を敷いて寝床を作り、風よけの布を岩の間に張る。空の革袋を手に、近くの泉へ水を汲みにいった。
そうして日が暮れた頃、三人は火を囲んで座る。フードを跳ね上げると、その下の顔があらわになった。
三人とも、同じ髪の色、同じ目の色をしていた。白に近い金の髪、薄い水色の目。その顔立ちも似通っている。おそらく彼らは、親子なのだろう。
「スープができたわよ。ヘルガ、火傷しないようにね」
若い女性がおっとりと微笑んで、スープを盛った木皿を子供に渡す。少し眠たそうな顔をした少女は、両手でしっかりと木皿を受け取った。
そうして三人は、和やかに食事をとる。若い男性が少女を見て、朗らかに微笑んだ。
「ヘルガ、お前ももう一人前だな。今日の公演は、お前のおかげで大成功だ。本当に、立派になって……父さんは嬉しいぞ」
「わたし、もう七歳。芸を覚えて当然。父さん、おおげさ」
少女が食事の手を止めて、男性をにらむ。しかしその表情は、どこか照れているようだった。
「おおげさじゃないわよ。私も嬉しいもの……私が初めてお客さんの前でリュートを弾いた時は、緊張で手が震えていたのよ。でもヘルガは、とても堂々としていて」
女性もにっこりとヘルガに笑いかける。両親の熱い視線を受けて、ヘルガが居心地悪そうに身をすくめた。
「肝がすわっていて、美しくて、リュートの腕も最高だ。俺たちの自慢の娘だよ」
「きっと、この子は有名になるわ。あちこちから声がかかるような、そんな楽士になる」
「父さん、母さん、恥ずかしい……」
ヘルガが止めるのもお構いなしに、両親の話はどんどん先へと進んでいく。
「ああでも、そうなったら貴族からもお呼びがかかってしまうかもしれないわね」
「そうだな。それはあまり……嬉しくないな」
「貴族は、駄目なの?」
ふと顔をくもらせる両親に、ヘルガが不思議そうに首をかしげた。そんな彼女に、両親は言って聞かせる。
「お前のリュートを聞いたら、きっと貴族はお前を抱え込もうとするだろう」
「そうなったら、あなたは貴族の屋敷で暮らして、主人とその客だけにリュートを聞かせることになるの」
「俺たちは、自分の音色に誇りを持っている。平民も貴族も、老人も子供も、みな俺たちの演奏に聞きほれる。音楽を楽しむ権利は、誰しもが持っているものなんだ。貴族たちに独占させていいものじゃない」
「私たちにも、幾度となく貴族から声がかかったわ。お抱えの楽士にならないか、って」
「全部断ったけどな。……もっとも、そうやって貴族のところにいたほうが、お前にいい暮らしをさせてやれたんだが」
「いらない。わたし、父さんと母さんがたくさんの歓声を浴びてるところ、好き」
少々申し訳なさそうな両親に、ヘルガはきっぱりと首を横に振ってみせる。両親はほっと安堵の息を吐いて、また和やかに話し始めた。
「お前も、たくさんの歓声を浴びていたぞ。親として、とても誇らしかった」
「そうだ、いいことを思いついたわ。ヘルガがもっと大きくなったら、私たち三人で旅の一座を立ち上げましょう。仲間を加えてもいいかもしれないわ。そうしてみんなで、あちこちを旅して回るの」
「人々を笑顔にしながら、か。想像しただけでうきうきしてくるな」
「……わたし、頑張る」
たき火の明かりに照らされたヘルガの整った顔には、珍しいことにとても嬉しそうな笑みが浮かんでいた。彼女も、両親の夢が叶う日を楽しみにしているのが明らかだった。
その夢が一度は失われること、そして少し違う形でかなうことを、この時のヘルガは知るよしもなかった。
◇
「ティル、こっちよ」
「まってよ、ヒルデ」
貴族たちの別荘がいくつも建っている、高原の別荘地。そこの明るい森の中に、そんな子供の声が響く。
先を行くのは、桃色がかった金の髪に、みずみずしい緑色の目の少女。彼女は、やや小柄な少年の手を引いて、どんどん森の奥に向かっていた。自信たっぷりな笑みが、その愛らしい顔に浮かんでいる。
遅れて続くのは、上品な少年だ。ほんの少し気が弱そうな彼は、夜闇色の髪と、美しい瑠璃色の目をしていた。
「こんなに奥に入ってしまって、だいじょうぶなの?」
「だいじょうぶよ。わたしはもう何度も、ひとりで来たわ。ほら、この木の後ろよ」
ヒルデが指さした木の根元には、頑丈な縄が結ばれている。彼女はそこに駆け寄ると、縄をつかんで木の後ろに回り込み、そこにある小さな崖を降りていってしまった。
「えっ……ここを降りるの?」
「縄のとちゅうにいくつも結び目があるでしょう? そこをしっかりつかんで、崖に足をかけながら少しずつ降りるの。……怖いなら、とびおりたほうが楽かも。わたしも前は、そうしてたし」
「が、がんばってみる」
ティルはおじけづいているようだったが、縄をつかんでからの動きは速かった。特にヒルデが手助けする必要もなく、すんなりと崖の下にたどり着いた。
「やるじゃない、ティル」
「こういうの、初めてだったけど……おもしろいね」
「そうでしょ?」
そんな風にきゃあきゃあとはしゃぎながら、二人はさらに森の奥に進む。じきに、開けた場所に出た。
「うわあ……」
初めてこの場所にやってきたティルが、歓声を上げる。そこは、小さな草地だった。両側には深い森、そして正面には青々とした空が一面に広がっている。どうやらそちらは、崖になっているらしい。
「すごいでしょ。お父様に地図を見せてもらった時に、ここに崖があるって気づいたの。だったら見晴らしがいいんじゃないかなって、そう思ったのよ」
「おれも、ここに崖があるのは知ってたけど……行ってみようなんて、思わなかった。ヒルデはすごいね」
そんなことを話しながら、二人は草地に並んで腰かける。万が一にも崖から落ちることのないように、崖からたっぷりと距離をとって。
「空が、きれいだなあ……」
「あのね、ここでしばらく待っていると、もっとすごいものが見られるのよ」
ヒルデのその言葉に、ティルがぱっと顔を輝かせる。
「そうなの? いったい何?」
「ふふ、内緒。おやつでも食べて、ゆっくり待ちましょ」
いたずらっぽく微笑みながら、ヒルデが肩にかけたかばんからリンゴを二つ取り出す。
それから二人は、リンゴをかじりながら仲良くお喋りをしていた。日々の色々な出来事を、しかし具体的な名前は一つも出さずに。
この国の貴族の子供は、自分の素性をうかつに明かしてはならないと、そう言い聞かされて育つ。余計なもめごとに巻き込まれないために、そんな風習があるのだ。幼い間だけ名乗る幼名のしきたりも、そんな風習にのっとってできたものだ。
だから二人は、ヒルデとティルというお互いの幼名と、そして二人ともが貴族の子供であるだろうということしか知らなかった。
「あっ、ほら見て」
楽しげに話していたヒルデが、まっすぐ前を指さす。ずっと隣のヒルデの方を見ていたティルが、そちらに目をやって微笑んだ。
「本当だ、すごいね。こんなにきれいな夕焼け、初めてだ」
「そうでしょう? 初めてこれを見たとき、ぜったいにあなたに見せなきゃって、そう思ったの」
二人は立ち上がり、雄大な夕焼けを一緒に眺める。しっかりと、手をつないで。
どちらも、何も言わない。ただ、目の前の風景だけを見つめていた。
「……ねえ、ティル」
「どうしたの、ヒルデ」
「わたしね、もうすぐ別荘を出て、お屋敷に帰るの。だから、もうあなたと会えなくなっちゃう」
その言葉に、ティルは弾かれたように隣を見る。自分よりほんの少し高いところにある、可愛らしい少女の顔を。いつも元気で、笑みの絶えなかったその横顔は、泣き出しそうにゆがんでいた。
「……また、会えるかな。この森でなくてもいいの。おとなになってからでもいいの。また、あなたに会いたい。また、一緒にこうやって遊びたい」
そう言っている間にも、ヒルデは鮮やかな緑色の目から、ぽろぽろと大粒の涙を流していた。
ティルは小さな手を伸ばし、ぎゅっとヒルデを抱きしめる。
「おれたちが大きくなって、本当の名前をなのれるようになったら、また一緒に夕焼けを見よう。ほかにもたくさん、すてきなものを見よう。だからもう、泣かないで」
「うん……約束だからね。やぶったら、怒るからね」
「だいじょうぶだよ。おれたちはぜったいに、また会うんだから」
小さな二人はしっかりと抱き合ったまま、約束だと繰り返し口にしていた。そんな二人を、沈みゆく夕日が優しい赤色に染め上げていた。
それから十年以上の時が経ち、クラリッサたちは気ままに旅をしていた。
クラリッサは雌馬の、エルはシュテルンの手綱を取り、並んで歩いている。その両脇を、ドミニクとルッツ、それにヘルガが歩いていた。ヘルガのえり巻きからは、リタがちょろりと顔をのぞかせている。
「……最初の約束、ちゃんと守ってもらったわね」
目を細めて、クラリッサはつぶやく。彼女の視線の先には、地平線に沈みゆく夕日の姿があった。
「いや、まだ約束は途中だ。これからももっと、素敵なものを見ていこう。ずっと、君と一緒に」
二人は顔を見合わせて、同時に微笑む。その手には、そろいの指輪が輝いていた。
ここで完結です。読んでくださって、ありがとうございました。
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