30.私たちは旅に生きる
「本当に、家に戻るつもりはないのか?」
「何度も言わせないで、エル。私はもうリート家の令嬢ではなくて、ただの歌姫クラリッサなの」
王都の宿屋、その一室。エルと私は、さっきからずっとこんなやり取りをしていた。
オスカー様が新たな王となってから、さらに一か月が経った。オスカー様はまだエルの手助けを必要としていたので、私たちはまだ王都に留まっていた。
といっても、さすがにもう王宮には泊まっていない。ドミニクやヘルガが居心地悪そうにしていたし、私もそろそろじっとしていることに飽きてきたのだ。書類仕事も、どうにか私が手伝わなくても済むくらいには減っていたし。
だから私たちは王都の宿に移り、三人で城下町をのんびりぶらぶらしていた。時折、大きな公園で芸を披露することもあった。
そうしていつもと同じように一日たっぷりと遊んで宿に戻った私たちを、やけに真剣な顔のエルが出迎えたのだった。
「あの夫婦が当主の地位を追い出されたこと自体は、良かったと思うのだけれど……」
窓の外を見ながら、小さくため息をつく。エルは私を見るなり、こう言ったのだ。リート家の当主が追放された、と。
私を呼び寄せようとしたり、私をルードルフ様に売りつけようとしたあの二人。豪華な生活を送ることしか考えておらず、民を大いに苦しめていたあの夫婦は、当主の資格なしとして追放されることになったのだそうだ。
そうして他のリート家の者たちは、次の当主は私がふさわしいと、口をそろえてそう言っていたらしい。なんとも見事な手のひら返しには、ただあきれるしかなかった。
「それはまあ、できることならお父様とお母様が大切にしていたリート家を守りたいとは思うわ」
私のぼやきに、エルは小さくうなずく。その後ろでは、ドミニクがはらはらしながら成り行きを見守っていた。ヘルガは関心なさそうな顔をしているが、視線が時々ちらちらとこちらに向いている。
「でも……リート家を守るのは私でなくてもいいと、そうも思うのよ。遠縁に一人、いい当主になりそうな人物のあてもあるし……。それに、今さら貴族の生活に戻れって言われても、ちょっとね」
「だが、君を必要としている人がいる」
「だから、私じゃなくてもいいって言ってるじゃないの」
やけに頑固なエルにじれて、ついつい強めに言い返す。
「だいたいそれを言うなら、あなたはどうするの? ルードルフ様は隠居されたし、もうあなたが旅をしている必要はなくなったでしょう? 国を立て直すのに人手も必要だし、オスカー様の手伝いをしたほうがいいんじゃないかしら」
この言葉は、ただの強がりだった。
今、エルはオスカー様を助けるために毎日王宮に出入りしている。夜になればまた会えるのに、毎朝彼と別れるのがとても寂しかった。彼が旅をやめてしまったら、どんなにか辛いだろう。
「……ああ。俺は、オスカーの力になろうと思っている。この国はいま、大きく傾いているから」
エルが静かに口にした言葉に、ドミニクが小さく悲鳴を上げた。ヘルガと手を取り合って、泣きそうな顔でエルを見つめている。
「……そう。寂しくなるわね」
それでも私は、リート家の当主になると言えなかった。あそこに戻れば、ドミニクやヘルガにもぜいたくな暮らしをさせてやれるだろう。王宮に戻ったエルと会う機会もあるだろう。
でも、リート家の中にはまだ敵がいる。平民の母を持つ私をよく思わない連中は、私が平民の子供を連れ込んだらさらに反感を抱くだろう。
今は手のひらを返して友好的な態度をとっているけれど、彼らはいつかきっと私たちに牙をむく。そんなところで、安心して暮らすなんて無理だ。
それに、ドミニクもヘルガも、自分の芸に誇りを持っていた。もちろん、私も。貴族の趣味として終わらせてしまうには、あまりにももったいない。
だから私は、このまま旅を続けていきたいと思っていた。ドミニクとヘルガも、同意してくれた。いつか、定住したいと思える場所が見つかるまで、気の向くままに進んでいこうと。
けれど、エルは自分の道を見つけたようだった。寂しいけれど、仕方がない。
「ほら、ドミニクもヘルガも、泣かないの。この国が良くなれば、私たちだってもっと安全に旅ができるようになるのよ。エルはそのために頑張ってくれる。離れていても、仲間なんだから」
声を殺して泣き始めた二人を、そう言ってなだめる。エルはそんな私たちを、黙って眺めていた。
その日の夜、寝静まった城下町をエルと二人で歩いた。よく晴れていて、いつも以上に星が綺麗な夜だった。
「こうやってあなたと歩けるのも、あと何度あるのかしら」
そうつぶやいた拍子に、うっかり涙ぐみそうになる。それをごまかすように足を速め、くるりとふりかえってエルに笑いかける。
「でも、この国のためだものね。王子としての責任を立派に果たすあなたを、誇りに思うわ」
「……君は」
不意に、エルが口を開いた。彼はもとからあまり口数の多いほうではないが、昼のあのやり取りから、彼はずっと黙りこくっていた。
「君は、俺を引き留めないのか。俺は、約束を破ろうとしているのに」
これからも、ずっと一緒。いつか交わしたあの約束を、エルはちゃんと覚えていてくれたのだ。
「そうね。私だって、あなたと一緒にいたい。でも、今の私たちはそれぞれ別のほうを向いている。だから、仕方ないの」
あ、まずい。ほんのちょっぴり、涙声になっている。お腹に力を入れてこらえながら、もう一言付け加えた。
「あなたが約束を覚えていてくれた。それだけで十分よ」
言い終えたその時、目の前が真っ暗になった。さっきまで見えていた星たちも、町並みも、何も見えない。
「いずれお前は国を背負う者となるかもしれない。俺は、そう言われて育った」
彼の声は、不安定に揺れていた。
「ルードルフに追われて旅をしていたが、それでも俺はこの国の危機を見て見ぬふりはできなかったんだ。だから旅の間も、情報を集め続けた。そしてこれからは、オスカーを助けていかなくてはならない」
すぐ目の前から、エルの声がする。私は彼に、きつく抱きしめられていたのだ。
「けれど、俺は……君のそばを、離れたくない。今までと同じように、君たちと旅をしていたい」
いつになくなめらかに、エルは話し続ける。腕の力が、強くなっていく。
「せめて君がリート家に残ってくれれば、多少なりとも近くにいられると思った。けれどどうやら、それも難しいようだ」
そろそろと腕を伸ばし、エルにすがりつく。にじんできた涙を、さとられないように。
「……体が二つあればいいのに。王族としての義務を無視できたなら良かったのに。そんなことを、思わずにはいられない」
「エル……」
「君が、好きだ。まだティルと名乗っていた小さな俺は、君に恋をした。そうしてエルと名乗って君と再会した俺は、また君を好きになった。立場も名前も、何もかも変わっていたのに、俺の目には君しか映らなかった」
「私もよ、エル……本当は、あなたと離れたくない。でも私も貴族の娘だったから、あなたが逃げられないのも、よく分かる」
誰もいない街角で、私たちはただしっかりと抱き合っていた。
それから数日後、私たちは王都を発つことにした。あまり長くここにいては、別れが余計に辛くなってしまう。
荷物を運ぶための馬を一頭買って、三人で宿を出る。
「さあ、私たち『銀雪の一座』の新たな出発よ。こうなったら、国中に名声をとどろかせてやりましょう。オスカー様が堂々と招待したくなるような、そんな一座になってやればいいんだから」
明るくそう言ったものの、ドミニクとヘルガの表情は晴れなかった。ルッツはドミニクを気遣うように尻尾を垂らして足元を歩いているし、リタはヘルガのえり巻きから顔をのぞかせ、ヘルガをじっと見つめている。
そんな様を見ていたら、私まで泣きたくなってしまった。少しわざとらしく笑みを作りながら、一生懸命に軽やかに歩く。
王都を離れたら、次にエルに会えるのはいつになるのだろう。王宮を訪ねていけば、きっと面会は許されるだろう。でも旅を続ける私たちがまた王都に戻ってくるのがいつになるかは、分からない。
歩きながら、自然とそんなことを考えていた。そのせいで、さらに気分が暗くなる。
私たちは無言で、城下町の門をくぐっていった。まさに、その時。
「そこの一座、待ってくれ!」
そんな叫び声と共に、大きな黒い影が突っ込んできた。私たちの馬のすぐ横で、その影が止まる。
「シュテルン!」
ドミニクとヘルガが、同時に叫んだ。私たちの目の前で、エルがシュテルンからひらりと降りてくる。
「済まない、遅くなった。良ければ、俺も連れていってくれないか。護衛くらいならできる」
「エル……どうして、あなたがここに?」
呆然としながらそう問いかけると、彼は周囲を確認して、声をひそめた。
「オスカーに、命じられた。国のあちこちを回り、ひそかに民の暮らしぶりや、領主の統治の手腕について調べてくれ、と。そのためには、君たちと共に行動するのが一番だ」
その言葉が、少し遅れて頭の中に入ってくる。つまりエルは、これからも一緒にいてくれるのだ。しかも、王族としての責任を果たしながら。
「嘘……信じられない……」
「そう思うのも無理もない。これは、オスカーが一方的に言い出したんだ。しかも昨夜、突然に」
きっとオスカー様は、私たちのことを思ってくれたのだろう。私たちが一番幸せになれる方法を用意してくれた。王族としての使命に縛られているエルの背中を押してくれた。
「……ありがとう、ございます」
城下町の奥のほうに高くそびえる王宮を見ながら、深々と頭を下げる。すぐに何のことだか察したらしいドミニクとヘルガも、同じように頭を下げていた。
「改めてよろしくね、エル。今度こそ、ずっとずっと一緒よ。二度も約束を破ったら、許さないんだから」
満面の笑みを浮かべながらそう言って、彼に手を差し伸べる。エルも優しく微笑みながら、私の手を取った。
「ああ。何があろうと、俺は君のそばにいる。次は、迷ったりしない。何があろうと」
私とエルは手をつないで、ゆっくりと城下町から出ていく。
すぐ後ろでは、泣き笑いで大騒ぎしているドミニクとヘルガの声もしていた。どうやらシュテルンは、私たちが買った馬のことが気に入っているらしい。そういえばシュテルンは雄で、新しい馬は雌だったか。
「ふふ。それじゃあ、いきましょうか」
つないだエルの手のぬくもりが、涙が出るくらいに愛おしくてたまらなかった。胸を張って、大切な人たちと共に、歩いていく。
空は高く澄み渡って、心地良い風が髪をなびかせる。隣には、エルの笑顔。
屋敷を追い出された時とも、町から逃げ出した時とも違う。胸の中には、ただ喜びだけが満ちていた。
これが、私たちの新たな門出だ。それを祝うかのように、白い鳥の群れが、青い空を悠々と飛んでいった。




