26.また、助けてくれた
広々とした聖堂の中を突っ込んでくる、とびきり黒い馬。もちろんあれは、シュテルンだ。
「済まない、遅くなった!」
シュテルンの背には、エルが乗っている。彼は手綱を取ったまま、大きく身を乗り出して腕を差し伸べてきた。
あの時と同じだ。劇場があったあの町で、ヨハンに迫られたあの時。いきなり目の前に割って入った大きな黒い影に、私はただぽかんとすることしかできなかった。
でも、今は違う。私はくるりときびすを返し、そのままシュテルンのほうに走っていく。重たくてひらひらした婚礼衣装も、まったく気にならなかった。
自然と、笑みが浮かんでいく。あの部屋に押し込められてから初めて、心から笑えていた。
そのままエルの手を、しっかりとにぎる。次の瞬間、私の体はシュテルンの背の上に引き上げられる。最初の頃、まだ二人きりで旅をしていた時のように、私たちは並んで馬に乗っていた。
陛下が軽蔑するような顔で、私たちを見上げて叫ぶ。
「エーレンフリート、貴様、のこのこと顔を出してくるとはな! ちょうどいい、今ここで捕らえてやろう。私の花嫁を奪おうとした、その罪で」
「……ルードルフ。俺とオスカーを罠にはめた貴方に、これ以上好き勝手させるつもりはない」
エルは陛下を名前で呼んだ。その言葉に、彼は王族なのだとようやく実感できたような気がする。
ほんの少しだけ彼のことが遠く思えて視線を落とすと、私を守るように伸ばされた彼の腕が見えた。いつもと同じ質素な服をまとった、力強い腕。
王族だろうが何だろうが、エルはエルだ。素直にそう思えてきて、小さな笑みが浮かぶ。
「貴様ごときに命令されるつもりもないな。兵よ、こやつらを捕らえろ!」
その叫びにこたえるように、聖堂の入り口から続々と兵士たちが姿を現す。
「思ったよりも数が多いか……仕方ない、突っ切るぞ」
「待って、エル」
エルは兵士たちの群れを強引に突破するつもりのようだった。でもそれでは、兵士たちに被害が出てしまうだろう。
陛下のことは大嫌いだけれど、その命令に従う兵士に罪はない。それに、シュテルンが怪我をしてしまうかもしれない。
だから私は、歌った。エルがいてくれるから、心からのびのびと歌うことができた。
大海原の美しさと荒々しさをたたえるその歌は、海の幻を呼び起こした。聖堂に満ちた海水が、大きく波打ちしぶきを上げる。
たちまち、辺りは大騒ぎになってしまった。海の幻に巻き込まれた兵士たちは、真っ青になって聖堂から逃げ出していく。
「こんな使い方があったとは、思いもしなかった」
歌いながら振り向くと、すぐ近くにエルの笑顔があった。ずっとずっと見たくてたまらなかった、愛おしい笑顔が。
泣き笑いに顔をゆがめながら、それでも歌い続ける。ひときわ大きな体のシュテルンは、私たち二人を乗せたまま悠々と聖堂を出ていった。盛大に水しぶきをあげながら。
そのまま私たちは、シュテルンに乗ったまま王宮の中を駆け抜けた。
中庭、回廊、外庭と、あちこちを大股に駆け抜けていく黒馬と、その上に乗った私たちの姿を、行き会った人々はぽかんとした顔で見送っていた。
無理もないだろう。そもそも馬が王宮の中を走っているだけでもとんでもないことなのに、その背に乗った私は真っ白な婚礼衣装だし、後ろのエルは平民そのものの身なりをしているのだから。
けれどそんな人々の視線も、まったく気にならなかった。目まぐるしく変わる景色を楽しむ余裕すらあった。
「助けに来てくれて、ありがとう」
背中でエルのぬくもりを感じながら、笑顔でささやく。返ってきたのは、申し訳なさそうな小声だった。
「いや、俺には、礼の言葉を受け取る資格はない。こんなにも遅くなって……心細い思いをさせただろう。済まない」
「……ええ、実はずっと……怖かった。このまま助けが来なかったら、陛下に嫁がされてしまったらって……」
そんな弱音をつぶやいても、泣きたい気分にはならなかった。むしろ、ようやくそんな不安を吐き出せたという安堵の気持ちでいっぱいだった。
「でも、あなたがくれたあの紙が、私を支えてくれたの。必ず助けに行くから待っていてくれっていう、あなたの言葉が」
「……そうか。あの言葉を書いた時、俺はまだどうやって君を救い出せばいいのか、見当もついていなかった。けれど、必ず助けるという思いだけはずっと胸にあった。君が俺を信じてくれて、嬉しい」
エルが手綱から片手を外し、そのまま私をそっと抱きしめてくる。微笑みながら、その腕に手をかけた。
「その思いだけで、十分すぎるくらいよ」
「そうか」
私たちは微笑みながら、しっかりと寄り添った。ここがシュテルンの背の上で、おまけに王宮の中だということすら忘れてしまうくらいに、穏やかに。
その間も、シュテルンは上機嫌に駆けていた。心地良い風とエルの温もりに目を細めていたら、後ろから小さな声がした。
「……もうひとつ、謝っておくべきことがある。君を助け出すのがここまでぎりぎりになったのには、訳があったんだ」
心底申し訳なさそうに、エルがつぶやく。
「ただ君を助けるだけでは意味はない。きっとルードルフは、逃げる俺たちをどこまでも追い詰めてくる。だから、俺は協力者を説得しに行っていた。問題を、根本から絶つために」
「協力者? 誰なの?」
「今はまだ言えない。けれどじきに、明らかになる」
そう答えたエルの声は、ほんの少しだけ楽しそうだった。けれど彼はまたすぐに、いつも通りの落ち着いた口調に戻る。
「そうして俺は、協力者とともに作戦を練った。その結果、君を助け出すのはこの日、ひそかに婚礼が行われる寸前と決まったんだ。万が一にも作戦がもれないように、君と連絡を取ることもできなかった。本当に済まない」
「いいのよ、あなたはちゃんと約束を守ってくれたのだから」
「……ただそのおかげで、君の美しいドレス姿を見ることができた。君の苦しみを思えば、こんなことを言うなんて許されないと、そう思うが」
「あら、こんな時に冗談?」
「……いや、本心だ。その、とてもよく似合っている」
「分かってるわ、ちょっとからかっただけ。褒めてくれてありがとう」
そんなことを話しているうちに、王宮の正門のところまでたどり着けた。
門が閉まっていたら、跳ね橋が上げられていたらどうしようと思ったのだけれど、門は開きっぱなしで、跳ね橋も下ろされている。その周囲には、王宮の兵士ものとは違うなりをした兵士たちの姿があった。
あれはいったい、どこの兵だろうか。こんなところで、何をしているのだろうか。そういえば、王宮の正規兵の姿が見えない。
こっそりと首をかしげていると、エルは彼らに片手で合図して、一気に城門を駆け抜けた。次の瞬間、驚くべき光景が目の前に広がる。
跳ね橋の向こうは、とても大きな広場になっている。前に通った時は一面の石畳だけが広がっていたそこに、ものすごい数の兵士たちがずらりと整列していたのだ。さっき城門のところで見た兵士たちと、同じ服装だ。
そしてその先頭に、見覚えのある人物が立っていた。重装備の兵士たちを従えたその人は、かつて陛下に見せられた絵画にいた、三人目の人物だった。確か名前は、オスカーだったか。エルや陛下と同じ、先王陛下の甥の一人。
エルは彼の前でシュテルンを止めて、私に手を貸して地面へと下ろしてくれた。と、重装備の兵士たちの後ろから、ドミニクとヘルガが駆け寄ってくる。二人とも、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「良かった……良かったです……もう帰ってこないんじゃないかって、おれ……」
「ドミニク、泣かない。クラリッサ、無事に帰ってきたから」
「ヘルガだって、泣いてるじゃないか……仕方ないだろ、おれ、嬉しくて、ほっとしたんだから……」
「うん、わたしも同じ。ほっとした」
子供たちのそんな声に、助かったのだという実感が改めて押し寄せてくる。嬉し涙をこらえながら、子供たちの肩をぽんぽんと叩いていた。
そして隣では、エルがオスカー様と話し込んでいた。
「どうやら無事に救い出せたようだね、エーレンフリート」
「ああ。オスカー、協力に感謝する。…………ここまで緊張したのは、生まれて初めてだ」
「はは、僕はやるべきことをやっただけだよ。結果として、君と目的がだいたい一致しただけだから。そんなに恐縮しなくてもいい」
そんな二人を眺めていたら、オスカー様がふとこちらを見た。
「君が、クラリッサだね。リート侯爵家から追い出された、正当な後継者の」
「はい、いかにも私がクラリッサ・ヒルデ・リートにございます。ですが……もう、リート家に未練はありません。今の私は、ただの歌姫クラリッサです。こちらのエルや仲間たちと一緒に旅をして、芸を披露する。その生き方に、誇りを持っています」
自信たっぷりにそう答えると、オスカー様はふふと小さく笑った。
「そうか。……エーレンフリート、君は素敵な女性と出会えたんだね」
「ええ、まあ」
照れているのか、エルは短く答えてそっぽを向いてしまった。
オスカー様は楽しそうに笑うと、不意に顔をきりりと引き締めた。穏やかでおっとりとした雰囲気が、一瞬で消え去り、そして王者の風格がその全身からただよう。
「さて、これで人質も無事に取り返した。ここからは、僕たちが頑張る番だね」
オスカー様は王宮のほうに向き直り、よく通る声で告げた。
「全軍、王宮へ向かって前進! 目的は、無血開城だ!」




