25.あきらめなんかに負けない
リタが引っ張り出してきた紙切れ。それは、先日リタが届けてくれた、エルからの伝言だ。あれからずっと、お守りのようにしてポケットにしまい込んでいた。
『必ず、そこから助け出す。俺を信じて、待っていてくれ』
彼がただの一座の護衛であったなら、この状況をどうにかするのは難しかっただろう。けれど彼は、王位継承権を持つ王族だ。
きっと彼は、この王宮についても詳しいに違いない。普通の人間には思いつかない、思いついたところで実行に移すことなどできないような作戦を、実行することも可能かもしれない。
私はもう手詰まりだ。だからあと私にできるのは、エルを信じて待つことだ。胸の中で広がりつつあるあきらめの沼に、足をとられてはならない。
「……ええ、あなたを信じるわ、エル」
その日の夕方、使者がやってきた。陛下の求婚を受けるか受けないのか、最後の選択の時だと、そう言い渡しながら。
「お受けいたします。そう、陛下にお伝え願えませんか」
そう答えた私の言葉には、少しの迷いもなかった。エルは私をここから救い出そうとしている。だったら私は、陛下の敵意がエルのほうに向かないよう、エルが少しでも動きやすいようにするまでだ。
そうして、私は陛下と婚礼を挙げることになった。ごく内々の、こぢんまりとした式になるらしい。正式な日取りも、すぐに決まった。
エルを信じて待つと、そう決めた。けれどやはり、こうやって終わりの日が近づいていることを実感すると、恐ろしくてたまらなかった。
胸元を、そっと押さえる。そこの隠しポケットには、彼からもらったあの紙切れが大切にしまわれているのだ。あきらめるな。嘆くな。最後の一瞬まで、エルを信じるのだから。
そのまま窓辺の机に歩み寄る。そこには、前はなかった紙とペンが置かれていた。
私は陛下の求婚を受け入れてから、つつましく、穏やかに過ごしてみせたのだ。逃げる気も騒ぐ気もない、私はもう覚悟を決めたのだと、そう態度で分かりやすく示すために。
その結果、私に対する警戒がほんの少しだけ緩んだ。その頃合いを見計らって、私は「両親の墓前に手紙を供えたいから、どうか必要なものをそろえて欲しい」と頼み込んだのだ。
そうして、この紙とペンを手に入れた。あきれるくらい高級で、美術品と見まごうくらいに豪華絢爛な逸品だ。
ペンで自害することもなく、外に助けを求めるような手紙を書くこともない。陛下にそう判断してもらえるまで、従順なふりをしていたかいがあったというものだ。
机に向かい、まずは亡き両親あての手紙を書き上げる。
屋敷を追い出されて、歌姫として生きていたこと。そうして大切な仲間たちに巡り合い、とても幸せに暮らしているということ。どうかこれからも、見守っていて欲しいということ。どうか私が、また幸せをつかめるように。
手紙が検閲される可能性を考えて、詳しいことは書けなかった。でもお父様とお母様なら、きっとこれでも分かってくれるだろう。
「さてと、ここからが本番ね……」
そんなことをつぶやきながら、もう一枚紙を取り出す。たぶん彼らも、私が何枚紙を使ったかまでは調べないはずだ。もし調べられたら、書き損じをうっかり窓の外に落としてしまったとかなんとか、少々苦しい言い訳をしなくてはならないかもしれない。
ひとまずそんな可能性は置いておいて、私はさらに手紙を書き始めた。恐ろしく小さな字で、びっしりと。
私がここに押し込められてからの詳細、閉じ込められている状況、いつどこで婚礼が執り行われる予定になっているのか、などなど。この情報がエルの役に立てばいいなと、そんなことを思いながら。
二通目の手紙を書き終えると、それを細くたたんで紐のようにし、そっと結び目を作った。それから、服の間に隠れているリタに声をかける。
「リタ、お使いをお願い。これを、エルのところに届けて欲しいの」
おかしな話だけれど、私には確信があった。リタは私のお願いを、きちんと聞いてくれると。
そうして思った通り、リタは手紙をくわえると、そのままするすると窓から出て行った。軽々と地面にたどり着き、近くの森の中に向かっていく。その小さな白い体をじっと見送りながら、私は深々とため息をついた。
「リタが、うらやましいわ……私もここから、出ていきたい……来て、くれるのよね、エル……」
窓枠をつかんだ手に、力がこもる。彼のことを信じていない訳ではない。ただこうやって待っていることしかできないのは、やはり辛かった。
そうしてただひたすらに待ち続けて。とうとう、婚礼の日になってしまった。
私は用意された婚礼衣装に身を包み、侍女たちといかめしい兵士たちに囲まれて部屋を出た。行く先は、王宮の中にある聖堂だ。様々な儀式に用いられるそこで、陛下が私を待っているらしい。
エルは、きっと来る。いいえ、絶対に来る。だって彼は必ず助け出すと、自分を信じて待っていてくれと、そう言ったのだから。
けれどもう、終わりはすぐそこまで来ている。聖堂で誓いの言葉を述べてしまえば、私はもう陛下の妻になってしまうのだ。せめてもの時間稼ぎにと、ことさらにゆっくり歩く。周囲の人間たちに怪しまれない程度に。
途中、中庭にさしかかった。陛下の前で歌い、そして求婚を断って閉じ込められてから、初めて見上げる、さえぎるものの何もない青空。
足を止めて、空を見つめた。きれいに結い上げた髪に留められた白いヴェールが、そよ風になびいた。
今、エルはどうしているだろうか。ドミニクは、ヘルガは。それに、シュテルンとリタとルッツも。彼らも同じ、この空の下にいるはずなのに。
そんなことを思ってしまったせいで、涙がうっすらとにじんでくる。上を向いたまま、ゆっくりと瞬きをしてごまかした。
あの紙切れを忍ばせた胸元で、しっかりと手を組み合わせて。
そうしてとうとう、聖堂にたどり着いてしまった。馬車だって楽々通れてしまいそうなくらいに大きな両開きの扉を、兵士たちがゆっくりと開く。
その向こう、聖堂の真ん中に、陛下が立っていた。こちらは婚礼衣装ではなく、先日見たものとたいして変わらないいでたちだった。
「ああ、美しいなクラリッサ。さあ、ここまで来い」
陛下が見下すような笑いを浮かべ、こちらに手を差し出す。ついてきていた侍女と兵士は入り口のところで整列している。彼女たちを残し、一歩ずつ、ひどくゆっくりと進み出ていく。
けれど最後のあがきもむなしく、私は陛下のところにたどり着いてしまった。差し出された手に、自分の手を重ねようとしたその時。
聖堂の外が、急に騒がしくなった。私と陛下が思わず入り口のほうを見た、その時。
扉が勢いよく開かれ、そこから大きな影が飛び込んできた。それは驚くほど大きな、黒い馬だった。




