2.救いの手は突然に
私を殴ろうとしたヨハンの腕を、誰かがしっかりとつかんでいる。思いもかけない事態にぽかんとしながら、腕の主に目をやる。
それは涼やかな雰囲気の、若い男性だった。髪は夜空を写し取ったような綺麗な濃紺、目は瑠璃を思わせる深く鮮やかな青。長めの前髪がさらりと垂れている様は、不思議なくらいに色っぽかった。
「何をする! 離せ!」
「女性に危害を加えるのは感心しない」
その男性は、暴れるヨハンを片手だけで見事に制している。どことなくぶっきらぼうな口調ではあったが、同時に気品を感じさせる声だった。
彼は質素ななりをしていた。見たところ、旅の途中らしい。腰には細身の剣が下がっている。
ヨハンはまだもがいていたが、どうやっても男性の腕をふりほどけないと思ったのか、ようやくおとなしくなる。
「私は伯爵家の跡取りだぞ。その私にこんな真似をして、ただで済むと思うな、平民ふぜいが」
「爵位をかさにきて偉ぶる貴族は嫌いだ」
そう言い捨てて、男性はようやくヨハンの腕を離す。ヨハンは覚えていろよ、と捨て台詞を吐いて、人ごみの中に消えていった。
呆然とその姿を見送っていた私に、男性が声をかけてきた。
「……大丈夫か」
「ええ、ありがとう。助かったわ」
「これだけ人がいるのに、誰も君を助けに入らないとは。薄情だな」
「仕方がないの。あの人は、ちょっとね」
「態度だけは一人前の貴族の子弟といったところか」
彼のぶしつけな、しかし的確な言葉に思わず笑ってしまった。ちょっと失礼だったか、と思ったけれど、彼は気を悪くしている様子はなかった。
「それで合っているわ。ああ、恩人相手にまだ名乗っていなかったわね。私はクラリッサ。歌姫よ」
「俺はエル。旅人だ。それでは」
それだけ言って、エルは立ち去ろうとする。どうやら彼は、ヨハンにまつわる事情には全く興味がないらしい。その背中を、あわてて追いかける。
「待って、エル」
エルが足を止め、こちらを振り返る。何かまだ用があるのか、と言わんばかりに首をかしげていた。
「あの、助けてもらったお礼がしたいの」
「結構だ。大したことはしていない」
またこちらに背を向けようとするエルの腕を、とっさにつかむ。このまま彼と別れたくない。もう少しでいいから、一緒にいたい。なぜか、そんな思いがこみ上げてきたのだ。
「時間は取らせないから、お願い」
エルは戸惑いながらも、小さくうなずいてくれた。
それから私は、エルを連れて劇場のほうに向かっていた。といっても、今は劇場そのものには用がない。
私がやってきたのは、劇場の倉庫のすぐ裏手にある公園だった。公園の周囲にあるのは商店ばかりということもあって、夜はとても静かだ。
そのまま公園の中に入り、中央にある広場に足を運ぶ。そこに置かれた長椅子にエルを強引に座らせてから、広場の真ん中に立つ。
「歌姫クラリッサの心づくしの歌を、これより披露いたしましょう」
そう口上を述べて、優雅に大きなお辞儀をする。それから一つ息を吸って、歌い始めた。
いつも舞台では、広い空間いっぱいに声が届くように、迫力のある、華々しい曲をよく歌っている。けれど今目の前にいるのは、エル一人だけだ。
だから、もっとずっと静かな、しっとりとした歌を選んだ。声も張り上げずに、切々と思いを込めて歌う。
エルは切れ長の目元をほころばせながら、じっと私の歌に聞き入ってくれているようだった。そのことにほっとしながら、歌い続けた。
この町に、劇場に来てから五年。私はその間、多くの人々を歌で魅了していた。あっという間に、歌姫たちの中でも一番の声と言われるようになった。私の公演は、いつも満席だった。
そんな私が、たった一人の男性の反応を気にせずにはいられなかった。そのことが、自分でもおかしかった。彼は、あの最低男のヨハンから私を助けてくれた。彼とは、ただそれだけの関係なのに。
立て続けに二曲歌って、恐る恐る尋ねる。
「何か、聞きたい曲はないかしら? 知っているものであれば、そちらを締めくくりに歌うわ」
柔らかな月明かりの下では黒く見える目を細めて、エルが考え込む。息を飲んでじっと待っていると、彼はためらいつつも曲名を口にした。『銀雪の乙女』、と。
その曲名に、今度は私が目を丸くする。彼が口にしたのは、随分と昔に流行った、今ではあまり歌われない曲だったのだ。エルはまだ若いというのに、いったいどこでその曲を知ったのだろう。
「……やはり、知らないか」
「いえ、知っているわ。それでは、最後は『銀雪の乙女』を」
私がそう答えると、エルは驚いたように目を見張った。そんな彼に笑いかけ、ゆっくりと息を吸う。そうして、また歌い出した。
銀雪の乙女。それは、かなわなかった悲しい恋の歌だ。
雪の精霊が人間の男と恋に落ちるが、男は精霊を裏切って人間の娘と婚礼を挙げる。精霊は嘆き悲しみ、きらきら輝く雪の花となって消えていく。婚礼の場に舞い散る優しい吹雪を目にして男は後悔するが、もう精霊は戻ってこない。
私にこの曲を教えてくれたのは、母だった。最初にこの曲を聞いた時、あまりの悲しさに大泣きしたのを覚えている。精霊が可哀想でならなかった。男に腹が立って、たまらなかった。
でも今では、そんなに単純な物語でもないのだろうと、そう思うようになっていた。男が精霊を裏切ったのにも、何かやむにやまれぬ事情があったのかもしれない。そんなことを思うようになっていた。
私がそんな風に考えるようになったのは、両親の死とともに屋敷を追い出され、こうして歌姫となったからかもしれない。この世には、どれだけ望んでもどうしようもないことが存在するのだと、身をもって思い知ったから。
そんなことを考えつつ、静かに歌い上げる。歌っている途中、エルと目が合った。まっすぐなその視線に、不思議なくらいに心がざわざわする。何か大切なことを思い出せそうな、そんな感覚。
エルの目が気になって、歌に集中できない。今まで、こんなことはなかった。寒さも飢えも悲しみも、全部歌っている間だけは忘れられたのに。
結局何も思い出せないまま、歌が終わる。最後の一音が消えていくのにあわせて、そっと目を閉じた。
夜の公園に、しんと静寂が満ちる。少しして、拍手の音が聞こえてきた。
「見事だった。いいものを聞かせてもらった」
どうやら彼は、私の歌を気に入ってくれたようだった。それが嬉しくて、彼のそばまで歩み寄る。彼にもっと歌を聞いてもらいたい、そんな思いに突き動かされるまま口を開く。
「その、私はそこの劇場に住んでいて、ほぼ毎日舞台に立っているの。よければ、また聞きに来ない?」
「だが、君ほどの歌姫の公演なら、それなりに値が張るだろう」
「友人を呼べるように、券を数枚もらっているの。支配人のはからいなのよ」
そう言いながら、ポケットから券を一枚取り出す。そのままエルの手に押し付けると、彼はためらいながらも受け取ってくれた。
「ずいぶん、太っ腹の支配人なんだな」
「ええ。私の恩人なのよ」
エルはまだ気乗りがしない様子で、渡された券をしげしげと眺めている。
「あなたは旅人なのよね。だったら、あまりこの町に長居しないほうがいいと思うの。でもその前に、私の歌をもう一度聞きに来てくれたら嬉しいわ」
「長居……ああ、先ほどの貴族のせいか」
「ええ。彼があなたのことを逆恨みするかもしれないから。彼はこの町では悪い意味で有名なのだけれど、誰も止められないの。平民は口を出せないし、他の貴族にたしなめてもらおうにも、この町に来る貴族って、みんな多かれ少なかれ彼と似たようなものだから」
「俺は大丈夫だ。だが、気にかけてくれてありがとう」
そう言って、エルはこちらに笑いかけてきた。どこか無愛想な印象さえ与えていた彼の意外な表情に、思わず目が釘付けになる。それに気づいたのか、エルが照れ臭そうに目をそらした。
「……また、来る。今度は、舞台を見に」
やはりこちらを見ないまま、かすかな声でエルがつぶやいた。私の返事を待つことなく、そのまま足早に立ち去ってしまう。
夜の公園で、私は一人立ち尽くしていた。初めて舞台に立つ直前のように高鳴る胸を、ぎゅっと押さえたまま。