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1.歌姫の日常

 明るく照らし出された舞台に、私の歌声が広がっていく。客席に詰めかけた紳士淑女たちはみな、うっとりとした表情を浮かべていた。


 最後の一節を、ひときわ高らかに歌い上げる。その余韻が消えるまで、誰も身動き一つしなかった。


 劇場に、沈黙が満ちる。そして次の瞬間、一斉に声がわき上がった。私の、歌姫クラリッサの歌を褒めたたえる、熱烈な歓声が。


 全力で歌い切った後の解放感に浸りながら、全身で歓声を受け止める。この瞬間が、私の一番好きな時間だ。


 けれどその時間は、長くは続かない。名残惜しさを追いやるように、私と客たちの間に幕が下りていく。幕が向こう側の音をかき消して、あたりはしんと静かになった。


「今日の公演も、大成功ね」


 誰にともなくつぶやいて、舞台袖へと下がっていく。その奥に続く、狭くて薄暗い通路を進む。古びた木の壁に舞台衣装を引っ掛けないように気をつけながら、軽やかな足取りで歩いていった。


 この通路は、劇場の倉庫に通じている。そこの屋根裏部屋が、私のすみかだ。


 私が身一つでこの町にやってきたのが十四の時。道端で歌って日銭を稼いでいたところをここの支配人に拾われて、気がつけばもう五年。粗末な屋根裏部屋は、私にとってはすっかり我が家のようなものになっていた。


 さて、これからどうしようか。差し入れのお菓子がまだたくさん残っているし、たまには夜空を眺めながらお茶にするのもいいかもしれない。そんなことをのんびりと考えながら歩いていたその時、不意に声がした。


「クラリッサ、今日も綺麗だね」


 私を呼び止めた甘ったるい声に、こっそりとため息をつく。心地良い舞台の余韻も、これで台無しだ。


 ため息を押し隠して、そちらに向き直る。そこには、花束を抱えた若い男性が立っていた。上質で豪華な服装は、こんなほこりっぽい場所には不釣合いだ。


「これは君への贈り物さ。今日も素晴らしい歌を聞かせてくれた、その礼だよ」


 彼はきざったらしく笑うと、手にした花束をこちらに差し出してきた。顔立ち自体はそれなりに整っているのに、この気持ち悪い表情のせいで台無しだ。そんな言葉を、いつもと同じように飲み込む。


「……ありがとうございます、ヨハン様」


 吐き気をもよおしそうになったが、精いっぱいしおらしい態度を取りつくろい、一抱えもある花束を受け取る。


 彼、ヨハンはこの町の近くに屋敷を構える伯爵家の跡取り息子で、とにかく美女が大好きだ。平民だろうが何だろうが、目についた美女に声をかけて回っていた。


 そして近頃彼は、こともあろうに私に狙いを定めてしまったらしい。私の公演は可能な限り見に来るようになってしまったし、その後はこんな風にちょっとした贈り物を持ってくる。


 これだけならただのまめな男と言えなくもないが、彼には裏の顔があった。かつて同じように彼に声を掛けられ、深い仲になった女性たちは何人かいた。けれどその全員が、じきに彼のもとから逃げ出すことになったのだ。


 彼女たちは口をそろえて、ヨハンが紳士的なのは上っ面だけだ、その本性は粗暴で傲慢な、最低な男なのだと主張した。


 人を人とも思わないような言葉を平気で口にするし、機嫌を損ねようものならすぐに平手が飛んでくる。彼は、そんな男だったのだ。


 そうして彼女たちの言葉は、この町に住む若い女性たちの間にあっという間に広まっていた。


 何があっても、ヨハン様に近づいてはいけない。もし声をかけられても、深入りしてはならない。それが、私たち女性の共通認識になっていた。


「どうしたのかな、クラリッサ。君の麗しい顔に陰が差しているようだけれど」


 やけに芝居がかった口調で、ヨハンが笑いかけてくる。彼の話を聞き流しながら考え事をしているうちに、うっかり憂鬱な気分が顔に出てしまっていたらしい。


「いいえ、少し疲れただけですので。どうぞ、おかまいなく」


「そうか、それなら良かった。なら、これから食事に付き合ってくれるね?」


 言葉は優しく、しかし有無を言わさぬ強引さを込めて、ヨハンはにっこりと笑う。


 彼はこうして、何かにつけ私を食事に連れ出そうとしていた。彼は一応この劇場の上客の一人だし、あまりつれなくする訳にもいかない。客商売の悲しいところだ。


 三回のうち二回はどうにかこうにか理由をつけて逃げ回っていたが、つい先日、同じような申し出を断ったばかりだ。今日はあきらめて、彼に付き合うほかないだろう。


 ああ、なんてついていない日なんだと思いながらうなずく。着替えのためにいったん彼と別れ、また歩き出した。自然と足取りが重くなっていくのを感じながら。




 それから少し後、よそいきの服に着替えた私はヨハンと向かい合って食事にしていた。


 劇場の近くにある上品なその料理店は、高価な代金にふさわしく味は素晴らしいのだが、ヨハンといると食べた気がしない。そのことも、なんだか損した気分になってしまう。


「君は、食べる姿も美しいね。仕草の一つ一つに品があって、素晴らしいよ。とても平民だとは思えない」


 ヨハンは高慢な貴族の例にもれず、平民を見下している。教養もなく礼儀作法も知らない下賤な連中だと、彼はよくそんなことを口にしているのだ。


 けれど、と心の中だけで笑う。私の出自を彼が知ったら、いったいどんな顔をするだろうか。


 私はクラリッサ。本当の名は、クラリッサ・ヒルデ・リート。リート侯爵家の当主だったお父様と、平民だったお母様との間に生まれた。


 お母様の身分のせいで親戚たちの風当たりは強かったけれど、両親は私のことをとても愛してくれた。あの頃の私は、とても幸せだった。


 けれど私が十三の時、両親が相次いで亡くなった。父の一族の者たちは、身分の低い母から生まれた私を後継ぎとして認めず、着の身着のまま放り出した。持ち出せたのは両親の形見と、銀貨のつまった袋が一つだけだった。


 そうしてそれから、私はごく普通の平民として生きてきた。そんな私からすると、貴族も平民も大差ないように思えてならなかった。ちょっとばかり生活や風習が違うだけの、同じ人間なのだと。


 だから平民を特別さげすむ気持ちもなかったし、今の自分の立場を恥じることもなかった。貴族だろうが、平民だろうが、私は私だ。


 私のそんな考えをもちろん知らないヨハンは、相変わらず上機嫌で話を続けている。自慢話が七割、歯の浮くような褒め言葉が三割。どちらも、あいまいな笑顔を浮かべてうなずいていればやり過ごせる。


 頬が引きつりそうになるのをこらえながら、目の前の料理に集中した。




 そうして食事を終え、料理店を出る。それではまた、と別れようとしたその時のことだった。


 ヨハンはおもむろに咳払いをすると、やけにもったいをつけて懐から何かを取り出した。どうやら、貴重品を収めるための革の小箱らしい。


 彼は小箱を開け、中身をこちらに見せてきた。なんだか、やけにきらきらしている。


「君に、これを受け取って欲しい。我が家の当主の妻に、代々伝わるブローチだよ。君のエメラルドの瞳には、この赤がよく似合うだろう」


 卵ほどの大きさのブローチの中央には、あきれるほど大きなルビーが留め付けられていた。街灯の弱い明かりの下でも、ぎらぎらと強い光を放っている。


 これはかなりの値打ちものだ。少なくとも、ほいほいとその辺の女に贈っていいものではない。というか彼は、当主の妻に伝わる、とかなんとか言っていたような。


「まあ、なんて素晴らしい……私などにはもったいないものです。このようなものは、ただの平民でしかない歌姫には不釣り合いですわ」


 こんな恐ろしいもの、絶対に受け取る訳にはいかない。ヨハンが何を考えているのか分からないけれど、これを受け取ってしまったら、間違いなく面倒なことになる。


 だから必死に主張した。私は平民で、そんなものをもらっていい立場ではありません。どうぞそれは、将来の奥方様のためにとっておいてください、と。


「遠慮しないでくれ。私は君を、妻に迎えたいと思っているのだから」


 ブローチを見た瞬間から感じていた嫌な予感が、見事に的中してしまった。どうしよう、それだけは絶対に嫌だ。


 なんとかこの場をやり過ごさなくては。ああでも、きっと彼はあきらめずに何度も追いかけてくる。彼の性格を考えれば、私から色よい返事をもらえるまで、しつこく付きまとってくるだろう。


 ヨハンの興味が誰か他の女性に移ってくれれば、と思ったが、それは望み薄のように思えた。


 彼の人となりとその行いは、この町ではよく知られてしまっている。女性たちは彼に目をつけられないよう、みな必死に逃げ回っているのだ。次のいけにえが、そう簡単に見つかるとは思えない。


「……申し訳ありません。その申し出は、お受けできません」


 仕方なく、きっぱりとそう答える。たぶんそれが、一番すっきりと片を付ける方法だろうと考えたからだ。


 ヨハンの顔がこわばった。そこに、じわじわと怒りの色が広がっていく。彼は小箱を乱暴に懐にしまい込むと、そのまま右手を振り上げた。


 あ、殴られるのだなと思った。けれど、それで彼との縁を断ち切れるのなら、別にそれでもいいだろう。自分でも不思議なくらい冷静に、そんなことを考えていた。


 ぎゅっと目をつぶって肩をすくめ、殴られる衝撃に備えて身構える。ここは大通りで、周囲に人はたくさんいる。でも、ヨハンの怒りを買ってまで私を助けてくれる人はいないだろう。


 けれど、予想していたその瞬間はいつまで経ってもやってこなかった。


 恐る恐る顔を上げると、振り上げられたヨハンの手をつかんで止めている、誰かの腕が見えた。

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