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過去と未来の花

◇四話 過去と未来の花◇


 突然走り出して夜に消えた詩音を、翼は探していた。

 人の波に逆らって詩音が消えた方へと向かう。せっかく花火が上がっても一緒に見る人がいなければ意味がない。

 ああ、そう言えば六年前の夏祭りも詩音ちゃんと花火を見れなかったな……。

 夜空に咲く大輪の花を横目に翼は昔を思い出す。

 あの時も詩音は他の人の元に向かって翼の前からいなくなった。今回こそは一緒に見れると思ったのに。鼻の奥がツンとして無性に泣きたくなった。だけど、この年にもなって泣くのも、泣いた姿を誰かに見られるのも嫌で、翼は歯を食いしばって耐える。

 それにしても詩音はどこに行ってしまったのだろうか? 一通り露店が立ち並んでいるエリアを探す。

「まさか、帰っちゃったとか……!?」

 それはないと信じたい。仮に帰ってしまったとしても、翼は詩音に会えない。何故なら家がどこにあるかも知らないから。

 昔から詩音と会う時は決まって秘密基地の神社だった。たまに家で遊ぶとしても詩音は家にお兄ちゃんがいるからやだといって、いつも空と翼の家で遊んでいた。

 幼い頃から当たり前だと思って気にしていなかったが、もしかして自分は詩音のことをあまり知らないのではないだろうか?

 翼は駆けていた足を止める。汗が頬をつたってアスファルトに落ちた。

「おれは……」

 そういえばごくたまに話題にでる詩音の兄とはどういった人物なのだろうか?

 詩音が話すのを嫌がって何も知らない。

 そういえば親の話は?

 母親の話をよくしていたが、それも小学校高学年になってからは一切しなくなり、代わりに一華という少女の話をするようになった。

 クラスメイトは? 習い事は? 塾には行ってる? 放課後に遊ぶ時以外は何をしていたの?

「詩音ちゃんの何を知ってたんだ?」

 放課後一緒に遊んでた時はおしゃべりすることはあったけど、大抵は空と翼、姉弟の家での話だった。たまに違うことが話題に上がっても、学年が違う翼は分からないことだらけでいつも不貞腐れているだけ。

 翼は、放課後に姉と一緒に遊ぶ詩音しか知らない。

 だから、詩音が小学校卒業と同時に消えてしまうまで、翼は詩音が中学受験をしてたなんて気づけなかったのだろうか?

 そして、それは再会した後も変わらない。きっと前と同じように知らないままでいたら詩音はまた翼の前から消えてしまうかもしれない。昔は知らないままで良かったのかもしれないが、今は違う。翼は詩音と離れたくない。一緒にいたい。だからもっと詩音のことを知らなくちゃいけない。

 いつの間にか花火を咲かせなくなった夜空を睨みながら翼は頭をかく。

 その時だ。

「にゃー」

 どこかで馴染みのある鳴き声が翼の耳に届く。祭りの喧騒でかき消されてしまうはずなのにしっかりと翼はその声を捉えた。

「ハナ!?」

 鳴き声が聞こえた方、祭りとは正反対の静かな人影のない路地裏に黒くて小さな影が揺れていた。

 影は翼に背を向ける。今から詩音がいるところまで案内してくるとでも言うかのように。

 翼は見慣れぬ路地裏だったが、迷わず飛び込む。薄暗く足元もはっきり見えない。点滅する電灯とかろうじて見える小さな影を頼りに進んでいく。

「……って、あれ?」

 狭い路地を通り抜け視界が広がる。いつの間にかハナだと思っていた影は消え失せ、翼は見覚えのある道路にたどり着く。

 そして、見つけた。視界の端に詩音を捉える。

 電柱に寄りかかり、息を荒げ、俯いている少女がいる。詩音に間違いない。

 なんだか先ほどよりも様子がおかしいように見える。

「詩音ちゃん! どこいってたの!?」

 翼は駆け寄り詩音に声をかける。そして、息を呑んだ。

「つーくん……?」

 目の前にいる詩音は今にも消えてしまいそうなくらい危うさがあったから。

「……っ! 大丈夫? 何があったの?」

「つーくんは心配しなくていいよ。おねーさん、ちょっと疲れただけだから……」

 口元に笑みを浮かべるが、震える彼女の手は大丈夫ではないと言っている。

 ずるい。翼は唇を噛み締める。

 こういう時に限って子供扱いしてくる詩音が、自分をおねーさんと言ってくる詩音が、ずるい。

 でも、今は昔と違う。翼は詩音との関係に一歩踏み出すことを決意する。

 翼は詩音の両肩に手を置き、まっすぐと見つめる。

「詩音ちゃん、おれ、もう、詩音ちゃんが思うような子供のつーくんじゃないんだよ」

 今こんな状態の彼女にいうのは不謹慎かもしれない。けれど、詩音を想う気持ちは抑えられなかった。

「おれ、詩音ちゃんが好きなんだ。一人の男として見てほしいんだ。だから、心配しなくていいなんて言わないで。もっと……おれを、頼ってよ」

 ただの子供だった翼ではない。過去の関係を振り切って翼は新しい関係を求める。今の自分をこれからの自分を見てほしいと切に願う。詩音の服の袖を引いて見上げる翼ではない、同じ視点に立って見つめ合う翼を。

 街灯が静かに二人を照らす。揺れる影は曖昧で夏の夜に今にも消えてしまいそう。

 翼の言葉で詩音は目を大きく開いた。そして、フッと何かが抜け落ちたかのように、どこか安心したかのように、綺麗に笑う。

「ああ、良かった。つーくんだって未来を、これからを、大事にしたいよね」

「う、うん。おれだってこのままでいるのは嫌なんだ」

 照れもせずあまりにも完璧な笑みを浮かべて告白を肯定する詩音に翼は面食らう。むしろ今になって自分が言ったくさい言葉を思い出して赤面する。

「そっかぁ、そうだよね……。あのさ、つーくん……このまま二人で一緒に『大人』になろうよ」

 詩音は両腕を翼の首にまわし、自分よりも少しだけ高い位置にある翼の顔を引き寄せる。

「詩音ちゃん……?」

 詩音の熱い吐息が翼の頬を撫でる。詩音が何をしようとしているか翼でも分かる。分かってしまう。心臓が早く大きく暴れ始める。セミの鳴き声も、遠くで聞こえるはずの祭りの喧騒も、塗りつぶされる。そして、うるさい鼓動を抑えて翼も自身の顔を近づける。

 だけど、翼は見てしまった。光の灯っていない詩音の虚な瞳を。

 彼女の瞳に翼は映っていない。このまま彼女を求めてはだめだ。きっと後悔する。大人になってはいけない。彼女を大人にさせてはいけない。

「……っ! だ、だめ、だよ……! 詩音ちゃん」

 翼は詩音の両肩に手を置き、無理やり引き剥がした。

「どうして? つーくんは大人になりたくないの?」

「なりたいよ! 早く大人になりたいよ! でも、これはだめだよ! だめなんだ!」

 翼は叫ぶ。詩音の願いを拒絶する。

「それに、おれ、気づいちゃったんだ。おれはまだ詩音ちゃんについて知らないことが沢山ある。今も、過去も……だから、ねえ、教えてよ」

 翼が知ろうとしなかった過去を、空白の時間を、まだ詩音が見せていない今を、求める。

 もう一度翼は詩音に向けて手を伸ばす。伸ばして、求めて、願って、そして―届かない。

「後ろを振り返っちゃだめだよ……。つーくんは知らないままでいいよ」

 詩音は一歩下がり、手を後ろに組んで静かに笑う。街灯の照らす光から外れた彼女は暗闇に落ちる。

「つーくん、さようなら」

 一瞬だけ姿を現した詩音の手に翼は肩を強く押されて、よろめき、尻を地面に打ち付ける。

 暗闇にいるのに、光なんてないのに、あまりにも綺麗に言うものだからその言葉を遮ることも、急に伸びてきた手を躱すことも、掴むこともできなかった。言わせてはいけない、聞いてはいけないはずの言葉を翼は許してしまう。

「っ! まって!」

 闇に、路地裏に消えてく詩音を翼は追いかける。だけど、もう、そこには詩音の姿はどこにもいない。

「何やってんだよ……おれはっ!」

 何も掴めることができなかった手を翼は強く壁にたたきつけ、自分を恨んだ。






◆◇◆

 私は週に数回、病院に通っていた。お母さんのお見舞いのため。少しでもお母さんと一緒にいる時間が欲しかったから。

 私はお母さんがもう長くないのを知っていた。偶然、お母さんとお父さんが話しているのを聞いてしまったからだ。

 ただ、お母さんはいつものお母さんであることを望んだ。お兄ちゃんにも私にも隠し通せなくなるまでは黙っていたいとお父さんに言っていた。

 だから、私も今まで通りの何も知らない、けど、病院にいるお母さんを恋しく思うただの子供として接した。

 心残りしないように、お母さんがいない世界が来ても大丈夫なように、伝えられる時に伝えるべき言葉を伝えた。できる限りの思い出を作ろうとした。

 悲しみが薄れるように。苦しみが軽くなるように。後悔なんてしないように。

 大丈夫、私は前へ進める。大丈夫に決まっている。

 だって、ほら、涙も出てない。私は乗り越えたんだ。

 だけど、この痛みは何だろう?

「ぁ、ああっ!」

 私は頭を掻き毟るように抑え、呻く。

 誰もいない家、部屋の隅でうずくまる。つーくんと別れて私は逃げるように、隠れるように、守るように、家に戻った。

 明かりもない、静かで真っ暗な自分の部屋。この見えない暗さがせめてもの救いだった。今は何も目に入れたくない。

 ただ少しでも自分の中にあるドロドロとした焼け付くような熱さを吐き出さないと、壊れるような気がした。

 頭がガンガン鳴り響き、痛い。胸が張り裂けそう。じわりじわりと苦しくなっていく。私はこの痛みを知らない。だけど、この痛みは誰かに言われてから襲い始めた。

『悲しくないのはきっとその気持ちにふたをしちゃったからだよ』

 それはおかしい。

 だって、自分はお母さんの死を受け入れたはずだから。大丈夫になるために、悲しくならないために、慣れるために、お母さんと接してきたのだから。

 悲しいはもう私から消えている。

「私は大丈夫。大丈夫。大丈夫」

 言い聞かせるように、刷り込ませるように、言葉にする。

 こんな痛みは知らない。こんな痛みに構ってる暇なんてない。

「そうだ、私は何をやってたんだろう……」

 私は思い出す。本来やるべきことを。

「大人にならなきゃ」

 勉強して、大学に行って、就職して、働いて、自立をして。

 負担をかけないように、迷惑をかけないように、安心してもらえるように。

 時間は早く進んでくれない。でも、大丈夫な大人になるためにはやることはある。

 まずは邪魔になるものは忘れてしまおう。離れてしまおう。捨ててしまおう。

 そうすればすっきりする。気持ちが軽くなる。

「ああ、ほら、やっぱりこれで合ってるんだ」

 先ほどまで感じていた痛みは消えていく。

 自然と笑みが零れる。

 笑って、嗤って、ワラッテ。

 心が空っぽになって、軽くなって、楽になる。

 反対に身体はだんだんと重くなっていき、指一つ動かすのも億劫になってベッドに倒れこむ。

 本当はお風呂に入らなきゃいけないし、洗濯もご飯も明日の準備もしないといけない。

 でも、今日はいい気がした。だって体調崩したし、熱中症になったし。

「……あれ? どうして熱中症になったんだっけ?」

 熱中症になった事実は覚えているのにそうなってしまった原因が記憶の中から出てこない。ちくりと頭が痛くなる。

 うん、変に考えるのはやめよう。忘れるってことはきっとその程度のことだ。

 瞼が落ちるのと同時に意識も徐々に遠のいていく。私はそのまま意識を手放し、眠りに落ちる。


 もう、今はどうでもよかった。




◇◆◇

ボチャッ。

 何かが水に落ちる音が聞こえ、振り返った時、思わず彩夢は頭を抱えた。

 ズボンのポケットに入れていたスマホが海に落ちたのだ。

「あっちゃ~、彩夢、やらかしたな。動くか?」

「動かない……。これは完全に壊れたね……」

 現在、彩夢はサークルの夏合宿で、海に来ていた。

 今回は交流をメインとしたもので、彩夢は海岸でレクリエーションの準備をしていたのだったが、うかつだった。

 真っ暗になったスマホの画面に思わずため息が零れる。

「データとか大丈夫か?」

「うーん、特にバックアップとかしてなかったら大丈夫じゃないかも」

 買い換えて以降パソコンには同期していなかった。一部のデータは完全に戻ってこないだろう。

「まードンマイ。とりあえず、チャットには彩夢が連絡できなくなったこと伝えておくぞ」

「ん、ありがと」

 同学年の男子学生がさっそく伝えてくれているようで、この合宿期間の連絡事項系は彼に頼ろうと彩夢は考える。

 幸い、バイト先や家族の電話番号は覚えているから後で念のため連絡しておこう。

「てか、チャットの友だち登録もやりなおしか~? ったく、しかたねーな。もう一度友だちになってやるよ」

「はいはい、そうですね」

 友人の軽口を彩夢は適当に受け流す。しかし、たしかにそうだ。もう一度、連絡先を交換しなければいけないのか。

「ま、たまにはいいんじゃん? 人間関係のリセット。多すぎても結局連絡とらないし時間の無駄だろ? ほら、入学したばかりときの新歓で連絡交換した先輩なんてそうじゃん」

 たしかにそうだ。それにたまにそういった人たちからくる謎の勧誘にも辟易していた。

 しかし、

「どうやって連絡取ろう……」

 彩夢の脳裏に浮かんだのはひまわりのように元気に笑う少女。

 直接会えるようになってから彼女との文通は手渡しでやっている。

 だからあの花に囲まれた東屋に行けば会えるわけでもない。

 こんなささいなことで、こうも簡単に繋がりは切れかかってしまうのか。

「それは嫌だな」

 思わず本音が零れた。言葉がでてしまったことに彩夢は自分でも驚いた。

 過去に付き合った女性はいた。というより、さっきのでその連絡先もなくなってしまったのだろう。だけど、真っ先に彩夢が思い浮かべたのは空だった。

 恋愛よりももっと純粋で、友情のように気軽ではない。自分の妹と同い年の女の子。

 繋がりをこんなところで終わらせたくはなかった。もっと伝えたいことはあるし、彼女ともっと一緒に時間を過ごしたい。

 年下相手の、ましてや女子高生相手に必死になって馬鹿みたい。と、妹に言われてしまうだろう。だけど、まだ返せてないのだ。空は彩夢にたくさんのものを与えてくれた。彩夢を救ってくれた。一緒にいたいというのもあるが、彩夢はもらったまま、何も返せないまま終わってしまうのが嫌だった。

 彩夢は妹である詩音に頼ることを決意する。話しをした感じ、たぶん空と妹は幼稚園も、小学校も同じだろう。きっと面識もあるはず。普段ろくに会話もしていないが、背に腹は代えられない。

「しばらくは先になるかな……」

 彩夢は胸を痛める。

 もうすぐで母の命日がくる。その日が近づくにつれて、詩音は不安定になっていく。去年までは彩夢もそうだった。いや、情けない話、妹よりも酷かった。今は前を向けるようになって、大丈夫にはなったが。

 とはいえ、空について聞けるのはその日以降になるだろう。

 会えない時間を思うと憂鬱になる。

 空は彼女は恋人とも、友人とも言えない、でも彩夢にとっては大きな存在になってしまったのだ。




◇◆◇

 詩音が消えた。空は誰もいない神社の木陰で腰を下ろす。もう夏休み終盤。夏休みが始まったばかりのころはセミの声がうるさかったのに、今はひぐらしの声が鳴り響いている。夏祭り以降、詩音は姿を現さなくなった。文句を言いつつも、声をかければヒーロー活動のために神社に来ていたのに。既読のつかない一方通行の会話。チャットに連絡しても反応は一つもない。

 翼も夏祭りの後から様子がおかしくなっていた。どこかを見つめ、何か思いつめたように考えるようになった。

 詩音と翼の間に何かあったのかもしれない。夏祭りから帰ってきた直後に聞いてみるべきだったかもしれない。

 しかし、空にはそんな余裕がなかった。夏祭り、一緒にまわっていた彩夢から思わぬ真実を聞いてしまったからだ。

 彩夢は詩音の兄だということ。

 本来なら空は打ち上げ花火が終わった後に彩夢に告白するつもりだった。だけど、花火が上がる瞬間に彩夢からその事実を伝えられ、思考機能が停止してしまった。

 それはつまり詩音も母親を失っていることを意味している。

 詩音が母親を慕っているのを知っていたからこそ、より胸が苦しくなる。

 詩音は今までどんな気持ちで空たちと接していたのだろうか? どんな気持ちで彩夢について語る自分を見ていたのだろう?

 そんなことをぐるぐる考えている間に気づけば花火が終わり、家に帰っていた。

 知らなかったとはいえ、もしかしたら詩音に言ってはいけないことも言ったかもしれない。詩音を傷つけたのかもしれない。

 たしか彩夢が母親を亡くしたのが中学三年生の時と言っていた。空と詩音が中学一年生の時だ。つまり詩音が母親を失ったのは空たちの前から去った後。

 詩音と離れてしまった空白の時間が重く空の心にのしかかる。

 彼女は大丈夫だったのだろうか? 苦しくなかったのだろうか?

 空はいじめは経験したことがあるが、母親を亡くしたことがない。空の母親は今も元気に仕事も家事もこなしている。

 祖母を失ったことはある。大好きな人で、当時は悲しかった。けど、やっぱり親と子の絆とは違う。たぶん、自分も父や母を今失ったら耐えられないかもしれない。

家族仲が良い家庭だと思っている。子どものいじめに気づくことができないほど忙しくて鈍感な親だけど、空にとってはどうしようもないほど大切な家族だ。

愛されている、守られている自覚もある。

 父と母は当たり前で大きな日常のひとかけらだ。当たり前すぎて失うのが想像できない。

 空は失っていない。だから詩音の気持ちを理解できない。

 でも、理解できないからと言って諦めたらダメだ。気持ちに寄り添うことはできる。分かり合おうとすることはできる。

 空は決意を胸に立ち上がる。急がないと手遅れになる気がした。

 スマホを手に持ち、今度は彩夢に連絡を入れる。

 サークルの合宿から帰ってきてからちゃんと話そうと思って待っていたが、あれから一向に連絡がこない。もう合宿も終わっているはずで、連絡がきてもいいはず。だけど、空のメッセージには既読がつくようすがない。

 彩夢は空の想い人。だから好きな人には嫌われたくなくて我慢していたが、もういいや。

 空は既読がつかないメッセージをいくつも送る。

 詩音と幼なじみだったこと。最近詩音と再会したこと。この前の夏祭りで彩夢と話して、二人が兄妹だと知ったこと。詩音は大丈夫なのかということ。

 こんな長文を連続で送り付けたら重い女だと思われてしまう。だけど、早く詩音のことをどうにかしたかった。

「姉ちゃん、来てたんだ……」

 その時、馴染みのある声に呼ばれた。空は振り返る。

「翼……」

 いつもの生意気な弟は影を潜め、今日はなんだかしおらしい。彼もたぶん、詩音のことだろう。

 そうだ、せっかくの機会だ。あの夏祭りの時、翼と詩音の間に何があったのか聞かなくては。

「ねぇ、詩音と何があったの?」

 この感じ、既視感があると空は思った。

 小学校の卒業式以降、何度も神社に来ても姿を見せなかった詩音。空も翼も突然消えた詩音に戸惑うばかりで、途方に暮れることしかできなくて、やるせなさで胸がいっぱいになったあの頃と似ている。

「おれ、詩音ちゃんに、さよならって言われたんだ……」

 夏の終わりを感じる涼しい風が暑さの中に混じり、空と翼の肌を撫でた。

「途中で、詩音ちゃん、一華さんに会いに行くって走り出して消えちゃって……。でも、探したら見つかって、その時はどこかおかしかったんだ」

「えっと、どういうこと? 詩音、トージョーさんのところに行ったの? 断られたんじゃなかったっけ?」

「うん……。そのはずだったんだけど、突然」

 空が知らない間に色々と物事が進んでいたらしい。

 詩音の「さよなら」の言葉の経緯を、翼はぽつりぽつりと呟いていく。

「……それで、詩音ちゃんを見つけた時、おれ、告白したんだ」

「……えっ? 翼が? 詩音に?」

 空は頭が真っ白になる。彩夢が詩音の兄だと聞いた時も頭が真っ白になったが、今回は別の意味で頭が真っ白だ。

 詩音を心配しなければならないはずなのに、意識は翼の告白にもっていかれる。

 ヘタレだと思っていた翼はどうやらヘタレではなかったらしい。姉としてその事実は喜ぶべきなのだろうが、弟に先を越されたということにもなるため心境は複雑である。

「それで、詩音はなんて答えたの? フラれたの?」

「いや、フラれること前提で話さないでよ……」

「じゃあ、オッケーだったの!?」

 食い気味に空は質問する。恋愛話、しかも身内の恋愛だから気にならないわけがない。

 少しでも早く詩音に会わなければと思っていたのに、空の乙女心は暴走して止まらない。

 しかし、暴走機関車のように興奮する姉とは反対に翼は淡々と答える。

「オッケーだったのかどうかは分からない……。けど、詩音ちゃんに、一緒に『大人』になろうって言われた……」

 翼は、あの夏祭りの夜の、詩音の言葉を思い出す。

『そっかぁ、そうだよね……。あのさ、つーくん……このまま二人で一緒に『大人』になろうよ』

 首に絡みつく詩音の腕、頬にかかる熱い吐息。

 いつも一緒にいた、でも、いつもと違う幼なじみの女の子。

 彼女が何の理由があってあの発言をしたのか分からない。でも、あの発言が何を意味するのか翼でも分かった。

 できることならこのまま彼女を受け入れたかった。

 だけど、できなかった。

 彼女の瞳はどこまでも暗かったから。

「えっ? あの詩音が? ちょっと、翼、どういう……」

「姉ちゃん、詩音ちゃんをこのままにしちゃ、ダメだ」

 あらためて言葉にして、あの時を振り返って、翼は気づく。

 このままにしてはダメだと。

 全く同じではないけれど、翼にはあの暗い瞳に見覚えがあった。

 似ているのだ。ヒーローをやめると宣言した中学生の頃の姉の瞳に。

「姉ちゃん、おれ、詩音ちゃんとこのままさよならなんてしたくない」

 姉がヒーローをやめると言って、黙っていた頃とは違う。

 詩音が秘密基地に来なくなり、会えないまま何もしないで待っていた頃とは違う。

 もう二度と後悔なんてしたくない。

 勇気の花を咲かせた翼は、もう、言葉にするのを恐れない。

「分かった」

 だから、その真っ直ぐな言葉にヒーローは頷いた。

「次のヒーロー活動決まったよ」

 夏の太陽を背に、翼の大好きでかっこいいヒーローはニヤリと笑う。

「詩音を笑顔にしよう」




◆◇◆

 最近、また意味もなく外を眺めたりすることが増えた気がする。

 詩音は洗濯物をベランダに干している途中、ふとそこから見える田園風景に目をやった。

 随分と伸びた稲は風が吹くたび緑の波が揺れる。いつも見ている景色のはずなのに、時折懐かしさを感じてしまうのだ。

 足元をくすぐる稲の感触、水を含んだ緑の匂い、鳴り響く蛙やひぐらしの合唱。

 身体に染み付いた記憶は鮮明に詩音をあの頃へと引き戻す。

 しかし、振り返るといるはずの誰かがいない。そこに誰かいたのだ。いた気がするのだ。なのに、記憶からごっそり抜け落ちたかのように違和感だけが残る。

「うっ……」

 途端に記憶に霧がかかり、ノイズが頭の中で響き渡る。

 詩音は思わず頭を抱えてしゃがみ込む。胸が苦しい。息がうまくできない。

 ここ数日、詩音の身に起きている現象。原因は分からない。

 それだけではない。物忘れも激しくなっている。

 真樹と話した時、どこか会話に齟齬が生じていて、真樹は明らかに詩音に身に覚えのない過去の話をしていた。

 幸い忘れているのは日常生活の一部。生活に影響が出るほどのものや、受験勉強で覚えたものを忘れたわけではない。

 だから、大丈夫。問題は、ない。こんな些細なことで人に迷惑をかけたくない。

 詩音は立ち上がり、家事を再開する。

 洗濯物を干し終えたら今度は部屋の掃除。詩音は一階へと階段を下りる。

 そういえば、と、詩音はリビング前のキッチンで足を止める。

 気づいたら起きていた変化は自分だけではなく、周りにも起きていた。

 流し台の横には乱雑にお皿が積み重なっている。詩音の兄、彩夢が洗ったのだ。

 家事を手伝うことがほとんどなかった兄が積極的にやってくれるようになったことは詩音からしてみれば大きな変化だった。

 詩音が受験生になったということをやっと理解して負担を減らすために手伝ってくれているのか、それとも詩音が物忘れした記憶の中に理由があるのか……どちらにせよ、詩音にとっては喜ばしいことだった。

 ……ただ、兄の雑なところは相変わらずではあるが。

 詩音は洗い残しであろう泡のついた皿を再度洗い流す。

「今日はお庭も掃除しよ……」

 皿洗いを終えた詩音は思い出したかのように呟く。

 ずっとほったらかしにしていたため、庭は雑草が生え散らかった目も当てられない惨状になっている。塾に行くまで少し時間があるから進めなければ。

 できれば数日後までには外を含め、家をきれいにしたかった。

 なぜなら詩音が心待ちしていた人が帰ってくるのだから。

「お父さん、早く帰って来ないかな?」

 詩音は微笑みながら父の帰還を心待ちにする。

 少しでも綺麗な状態で父との時間を過ごしたいし、褒めてもらいたい。

 毎年、誕生日のときは家族で過ごすため、出張で忙しい父は時間の合間を縫って帰ってくる。今年は彩夢がサークルの仲間たちに祝ってもらうからと拒否をしたため、彩夢の誕生日のときは父も帰ってこず、詩音は心底兄を恨んだが、自分の誕生日は違う。

 何を父に話そうか。学校のこと塾のこと家のこと。

 あと、報告はしたけれど、父が家にいない間、飼い始めたハナにも会わせてあげたい。

 最初は兄の我儘で猫の面倒を見る羽目になっていたので乗り気でなかったが、今はもう愛着も湧いてしまい、ハナとの生活が当たり前になっている。父も「新しい家族に会うのを楽しみにしているよ」とチャットで言っていた。

「あれ、そういえばハナは……?」

 さっきまでリビングで寝転がっていた気がするが今はいない。でも、詩音に名前を呼ばれたのは聞こえたようで、どこからか鳴き声が聞こえてくる。

 近くではないからリビング内にはいない。聞こえてくる方向的に和室だろうか?

 和室に向かうといた。いつものように積み上げられた洗濯物の中……ではなく、その奥。

 仏壇の前にハナがいた。

「ああ、そうだ。こっちの準備もしなくちゃだね」

 ヒヤリと温度のない声が詩音から零れた。

 父がこの時期に帰ってくるのには詩音の誕生日以外にも、もう一つ理由がある。

 九月は詩音の生まれた月だけでなく、彩夢と詩音の母の亡くなった月でもある。

 こちらも毎年家族でお参りをしている。

「夏休みなんて一生終わらなければいいのに」

 早く九月になって父に会いたかったはずなのに、気づけば詩音は矛盾を口にしていた。




◇◆◇

 なんだかいけないことをしているような気がして、翼の緊張が止まらなかった。

「翼、何ビビってんのさ! 受験当日じゃなくて、説明会だぞ?」

 仲の良い友人に背中を叩かれ、翼は曖昧に笑う。

 翼が緊張している原因は友人が言ったようなことではない。別の理由からきている。

「いや、知り合いの学校だから、なんか変な感じになって……」

 そう、ここは詩音が通っている高校。翼は詩音の高校の学校説明会に参加していた。

 もとから詩音の通う高校は視野にはいれていたが、別の目的で訪れることになるとは思っていなかった。

『学校説明会で詩音を見つけるか、詩音をよく知る人を見つけてきて!』

 翼は、姉が自身に言ってきた言葉を思い出す。ただ説明会に参加するのではない。詩音を見つけるか、見つける手がかりを探さなければいけないのだ。

 見ると、誘導係や受付を在校生たちがやっている。もしかしたらこの中に詩音がいる可能性だってある。

 しかし、初めての場所で、たった一人のいるかいないかも分からない知人を見つけるのは骨が折れる。誰かに聞くのが手っ取り早いだろう。

 詩音は中学からの在校生だから顔も広いはず。

「すぐに見つけるから、待ってて詩音ちゃん」


 ……そう思っていたのだが、翼の予想以上に詩音探しは難航した。

 純粋に学校説明会に参加してきた友人に合わせながらだと行動範囲が大幅に狭まり、思うように動けない。

 友人の目を盗んで、やっと校内を歩く在校生に話しかけることができたかと思えば、見事に全員が詩音を知らないと口を揃えて言う。

 校内案内も終わり、あとは自由行動。一通り見終わった友人は飽きてきたようで、もう限界だった。

「や〜っと電話通じたと思ったら、詩音体調崩してたの!? 最近、根詰めすぎ! 塾でも言ったけど、勉強もほどほどにね!」

 しかし、偶然、天が翼に味方したのか、帰ろうと下駄箱で靴に履き替えていた時、聞き慣れた人物の名前が裏から聞こえた。

「ごめん、ちょっと先行ってて。トイレ行ってくる」

「あっ、おい。一ノ瀬!?」

 これが最後の頼みの綱だった。翼は適当な理由を言って、声がした方へと向かう。

 聞き間違いではないと信じたい。人違いではないと信じたい。

 翼は下駄箱から入ってすぐの廊下で、一人歩いていた女子生徒に話しかけた。きっと先程の声はこの人のはず。

「あのっ! すみません!」

「ん? どうしたの? 迷子になっちゃったのかな……?」

「……いや、そうじゃなくて。先輩」

  まだ入学も決まったわけでも、受験に合格したわけでもないのに、先輩と呼ぶのは違和感がある。ましてや相手はたぶん自分が高校生になった時にはもうこの学校を卒業している相手なのだから。だけど、そんな些細なことを気にしている余裕は翼にはなかった。

「今、シオンって言っていましたよね……? もしかして、詩音ちゃん……野原詩音さんを知っていますか?」

「おっ? なになに? 詩音に年下の彼氏~? あっ、アタシ詩音の親友の橘真樹! よろしくね〜!」

「えっ……!? よ、よろしくお願いします。てか、いやっ、詩音ちゃんの彼氏とか、そうじゃなくて、あのっ……おれ、一ノ瀬翼っていうんですけど……」

「一ノ瀬翼?」

 真樹の「詩音の年下の彼氏」という発言で翼は狼狽えてしまうが、どうにか沸騰して混乱している脳を無理やり動かして話しを進めるために自分の名前を告げる。

 しかし、翼が自身の名前を名乗った瞬間、冗談めいた口調でおどけていた真樹の様子が変わる。

「ねえ、あんたって詩音とヒーロー活動してたっていう一ノ瀬翼?」

 とげとげしい口調、目を細めて翼を睨む。その豹変ぶりに翼は思わず一歩後ずさる。

「は、はい」

「……もう、関わらないで」

「……えっ?」

「もう、詩音に関わらないであげて。これ以上、詩音に過去を思い出させないで」

 真樹が翼に向ける瞳には敵意が宿っていた。後悔と悲しさが混ざった明確な怒りは翼に噛み付く。

「ど、どういうことですか!? ちゃんと理由を言ってくれないとおれだって困ります」

「じゃあ、理由を言えばいいの?」

「それは……」

「詩音はずっと苦しんでるの」

 震える声が翼と真樹の沈黙に響く。

「苦しんでるって……。もしかして、詩音ちゃんのお母さんのこと……?」

「そこまで知ってんなら言わなくても分かるでしょ?」

 分かると言えば分かる。でも、翼は全てを知っているわけではない。翼は自身の母を亡くしたばかりの詩音を、それからどうなってしまったのかを知らない。だからきっと真樹と翼の「分かる」は違う。

「……教えてください。おれは小学生の頃の詩音ちゃんしか、知らない。あなたの知ってる詩音ちゃんはどんな人だったんですか?」

 翼の知る詩音はお姉さんぶって自分を子供扱いしてくるけど、隣で一緒に笑ってくれる優しい女の子。だけど、真樹の知る詩音は全然知らない人なのかもしれない。翼には見せてくれなかった姿を真樹は知っているのかもしれない。

 知りたい。知らなくちゃいけない。

 翼の眼差しは真樹を貫く。

「……マイペースで、でも、ちゃっかりしているところもあるよく笑う子」

 ぽつりと真樹は呟いた。

「アタシ、詩音とは同じクラスだったけど、席は離れていて、入学したばかりのときはお互いのこと知ってすらいなかったと思う」

 話すのは翼の知らない出会いの話。

「だから、アタシが詩音を知ったのは……友だちになったのは部活の時」

 バドミントン部に入部した詩音と真樹は同じクラスだからという理由だけで、ペアを組まされた。

「同じクラスって言っても親しいわけでもなかったから正直、最初は気まずくて嫌だったんだ。ほら、詩音って大人しいから何を喋っていいか分からなかったの」

 でも……と、真樹はあの頃を思い出して笑う。

「詩音、すっごいキラキラした笑顔でバドミントンをやっていたの。楽しくてしょうがないって感じで」

 ああ、この子は本当に好きなんだな。その姿を見ているうちに自然と真樹は詩音に心を開いていた。

「アタシ、詩音とならどこまでも強くなれる、強くなりたいって思ったりしてたんだ」

 そう、思っていたのだ。

「だけど、詩音は部活をやめたの」

 夏が終わるころ、詩音は真樹と一緒に立っていたコートから去ってしまった。

 きっかけは、理由は、その時初めて聞いた。

「……ねぇ、あんたは詩音が泣いたことを見たことある?」

 なんでペアなのに、相棒なのに、教えてくれなかったの? 詩音は本当にそれでいいの? 自分にできることはないのか?

 言いたいことは沢山あった。沢山あったはずなのに。

「アタシは、ないの。一番辛かったはずなのに、あの子は笑ってたの」

 真樹は何も言えなかった。

 無邪気な眩い笑顔ではない。歪な今にも崩れそうな笑顔を真樹に向けていたのだ。

「苦しそうに笑ってたの」

 いっそのこと、泣いてほしかった。それなら涙を拭うことぐらいならできた。少しでも辛い気持ちを背負うことができた。

「だけど、アタシは何もできなかった」

 その歪さを前にして、真樹は何をすればいいのか分からず、見なかったことにした。大丈夫ではない詩音を見なかったことにした。

 ごめんと笑って部活をやめる詩音に何も言えなかった。

「アタシは詩音の苦しみを取り除くことはできない。けど、遠ざけることはできるから」

 逃げ出してしまった真樹ができることは大丈夫だと振る舞う詩音を肯定することだ。振る舞えるように害あるものは遠ざけるだけだ。

「大丈夫じゃないのに、無理して大丈夫なフリをする詩音をアタシはもう見たくないの」

 もうこれ以上、彼女が壊れていくのを見たくない。

「だから、お願い。もう、詩音に関わらないで。詩音に過去を思い出させないで」

 真樹は涙ながらに翼に言った。

 年上なのに、とか。初対面なのに、とか。関係なかった。

 真樹は泣かない親友の代わりに、不甲斐ない自分を恨み、泣いた。

 もし、少し前の翼だったら、目の前の少女の想いの強さに、涙に動揺して、首を縦に振っていただろう。

 だけど、今は違う。

「ごめんなさい。それは無理なお願いです」

 翼にも譲れないものができた。譲れないものを譲れないと言葉にできるようになった。

「おれは詩音ちゃんが好きです。詩音ちゃんと過ごした時間をなかったことにはしたくない」

 二人しかいない静かな廊下に翼の声が響く。

 同時に微かに真樹の息をのむ音も翼は聞こえた。

 翼の真正面からの断りに怒っているのか、悲しんでいるのか、迷っているのか分からない。

 ただ真樹は瞳から涙を零したまま表情を変えずに翼を見つめる。

 こんな時、姉だったら、あのヒーローなら、なんて言うだろうか?

「橘先輩、もう一度キラキラした笑顔の詩音ちゃんを見たくはないですか?」

 姉を思い浮かべていたら自然と言葉が出ていた。

「……え?」

 真樹の瞳が揺れた。表情が崩れた。

 ああ、そうだ。方法は違っていたのかもしれないけど、きっとお互い願っていることは同じ。

 翼は姉である空と同じように、屈託ない笑顔を浮かべて言った。

「一緒に詩音ちゃんを笑顔にしましょう」




◇◆◇

 空は自室でベッドに腰をかけながらスマホを睨みつけていた。

 部屋にいくつも置いてあるぬいぐるみたちの中から、黒猫のぬいぐるみを抱きしめる。なんとなく、ハナを彷彿とさせるため思わず手に取ってしまった。

「次こそは……」

 腕に力が入り、くしゃりとぬいぐるみが崩れる。

 空の見つめる先、画面には東条一華と表示されたチャットのアイコン。もう何十回目になるのだろうか? 空は電話マークのアイコンを押す。

 今頃、学校説明会で翼が詩音を見つけるため、奮闘しているのだ。姉である自分が何もしないで大人しく待っているわけにはいかない。

『ねぇ、一ノ瀬さん。こっちも用事があるんだからそんなに電話してこないでよ』

「トージョーさん! 詩音と連絡とれる!?」

『話しを聞きなさいよ。……って、詩音?』

 やっと繋がった電話。空は食いつくように一華に問いかける。

 詩音を最後に見たあの日、翼が言っていた。詩音がおかしくなったのは、東条一華に会うと言ってどこかに行った後だ。

「詩音が夏祭り以降から連絡取れなくなったの! あの日、詩音はトージョーさんにも会ったって聞いたけど、何か知らない……?」

 電話の向こう側から息をのむ声が聞こえた。

『……あなたは詩音の……詩音のお母さんが亡くなったことを知っていたの……?』

「それは……」

『知らなかったのね』

「いや、知ってるは知ってる。ただあたしは夏祭りの時、彩夢さん……詩音のお兄さんに教えてもらったの」

 でも、詩音の口からは聞いていない。彩夢から知ったのも本当に偶然だ。

 もし、彩夢と言花の猫の話をしなければ、空は知らないままだった。

 それくらい詩音は空たちに気づかせることなく、普通に振る舞っていた。

 ……それくらい詩音は隠すのが上手だったのだ。

『そう……。たぶん、わたしは詩音に言ってはいけないことを言ったの。だから、連絡取れなくなったのもわたしのせい。一ノ瀬さん、ごめんなさい』

「トージョーさんは詩音のお母さんのことを知ってたの?」

『知らなかった。でも、それが言い訳をしていい理由にはならない』

 詩音が話さなかったとはいえ、知らなかったとはいえ、一華の何気ない言葉が意図せずナイフのように詩音の柔らかい部分を裂いたのだ。空にとっても他人事ではない。気づかないうちに詩音を傷つけることを言っていたかもしれない。

 しかし、だからといって何もしないのはダメだ。

「なら、今度は詩音を笑顔にしよう」

『……えっ?』

 できることを見つけるのだ。ヒーローは逆境でこそ力強くあるんだ。

「あたしもね、もしかしたら詩音を悲しませたかもしんない。でも、かも、だから分かんない。詩音が傷ついたものも、詩音を傷つけたものも、何も分かんない。分かるのは詩音が今、苦しんでいること」

 大切な人が苦しんでいるのならヒーローがすることは決まっている。

「苦しんでいるなら、その分、笑顔にしよう。笑顔にして、苦しい気持ちを軽くしよ」

 空は友だちとして、相棒として、ヒーローとして、あらためて気持ちを固める。一華を説得するための言葉がいつの間にか揺れていた自分の心に背中を押していたようだ。

『……分かった。わたしも詩音を笑顔にしたい。あの子の笑顔を見たい』

 そして、一華の心も動かした。

『言っとくけど、いくら一ノ瀬さんが詩音の幼なじみでも、詩音を笑顔にしたいって気持ちなら、わたし、負けるつもりないから』

「……ん? これ、あたし喧嘩売られてるの?」

『さぁ? ご自由に受け取ってくれてかまわないから』

「ん~……たぶんそーいう喧嘩ならあたしじゃなくて弟の翼に売った方がいいかも」

『そうなの? 覚えておくわ。……それで、詩音のことだけど、わたし、先にやらなくちゃいけないことがあるから、それが片付いたらまた連絡するね』

「うん、分かった。連絡待っているね」

 電話の切れる音が聞こえたと同時に、寝たままであるが、拳を握りガッツポーズをした。

 できることはやったし、成果はあった。翼の方はどうなったか分からないが、少なくともこれで進展はあった。

 だが、最後らへんは緊張が解けたからなのか、一華から少し圧を感じるようなことも言われた。面倒だったから弟に押し付けるような感じにしてしまったが、まあ、いいだろう。

 一歩前進したことを嚙み締めつつ、空は翼が学校説明会から帰ってくるのを待つのであった。




◇◆◇

「電話はもう大丈夫なのか?」

 アンティーク家具で装飾され、喧騒から切り離されたかのような落ち着きのあるカフェ。客層は紳士淑女という言葉が似合う成人男性、成人女性と、年齢層が高めではあるが、一華は浮かぶことなく馴染んでいた。

「うん、大丈夫だよ。待たせちゃってごめんなさい、お父さん」

 というのも、目の前に座っている父に一華は幼い頃からよく連れて来られていたからだ。

「詩音と言っていたが、もしかして野原さん家の娘さんか……?」

 目の前で話しをしていたから嫌でも耳に入るだろう。しかも、直前まで話していた話題ならなおさら。

 一華は今日、二つの用事があって父と会う約束をした。その一つが詩音のこと。

「そう、野原詩音について話してたの。ねえ、さっきも言ったけど、どうして詩音のお母さんが亡くなったこと教えてくれなかったの……?」

 詩音の母は、一華の父の病院で診ていて、そして亡くなった。

 一華は何も知らなかった。知らされてなかった。

 というより、詩音がよく病院に訪れるのは詩音自身が大きな病を患っているのだと勘違いしていた。今思うとあれは母親のお見舞いに来ていたのだろう。

「患者の個人情報……特に病名や生死などは話すべきものではないだろう。それに、一ノ瀬さんが亡くなった時……一華は、君たちはもう家にいなかったから話す機会なんてなかった」

 中学に入学してすぐの頃、一華の親は離婚し、一華も病院に行くことはなくなった。

 たしかに知る機会はなかった。

 だが、事実を述べられたからと言って納得できるわけではない。

 一華の表情を見て不服なのに気づいたのだろう。父は意識を逸らすために話題を少しずらす。

「それで、一ノ瀬と言っていたが、もしかして電話の相手は一ノ瀬さんところのお孫さんか? お姉さんの方は一華と詩音さんと同い年で、同じ小学校だっただろう?」

「お孫さん……? 一ノ瀬空っていう子だけどお父さん、知っているの?」

「ああ、やっぱりそうか。その子の祖母がうちの病院に通っていたんだ」

「おばあちゃんが通ってただけで、その孫も覚えているってこと?」

「もちろん。自分が今まで診た患者さんのことは全部覚えているさ。一華だって話したことあるだろう?」

 そんなの覚えていない。当たり前のように言う父の姿に一華は少し胸が痛くなった。この人と自分の頭の出来の違いをあらためて思い知らされる。一華が努力してやっとできるものも、父にとっては普通のことなのだ。

「……ああ、すまない。どうやら今のは私の基準だったみたいだね。でも、うん。一華が全ての患者さんを覚えていなくても、一ノ瀬さんは流石に知っていると思うな」

 ただ、父は自分が他と比べて突出しているという自覚はあるらしく、気づいたらフォローするようにはしている。そのフォローが、優しさが、より相手を惨めにさせているという自覚がないようだが。

 凡才の気持ちが分からない天才。故に、最初から期待というものをもっていない。

 それが家庭を歪ませた要因の一つだろう。

 母親の期待という重圧から解放された今だからこそ、一華は気づく。

 母は、きっとこの人に期待されたかったのだ。一華を育てて、一華を優秀な子に育てて、一華を通して、自分も褒めて、期待されたかったのだ。

「そんなに有名な人だったの?」

「有名もなにも、中学受験を拒否していた一華を母さんが無理やり受けさせようとしていたことがあっただろう。あの時、強制するのはやめろっていきなり怒鳴りこんできたおばあさんがいたろ?」

「……あっ、あの人だったんだ」

 一華は思わぬ出来事と繋がって驚く。一華の両親が離婚するきっかけの一つにもなった中学受験。病院によく一華と母が来ていたから噂にもなっていたのだろう。噂を聞きつけた空の祖母……一華にとっては名前も知らない老人が突然、自分の母に向かって「受験なんかさせないでもっと自由に遊ばせろ」と叫んでいたのを覚えている。

 自分の気持ちを代弁してくれて嬉しいとか、突然怒鳴って怖いというより、何が起きたのか分からずただただ混乱していた記憶がある。

「思い出しただろ?」

「うん」

 なるほど、一ノ瀬空も破天荒で奇行が目に付く少女ではあったが、あれは祖母譲りだったのか。一華は一人で納得する。

 珍しく一華の反応も、話の食いつきも良かったからだろう。一華の父は口元をほころばせながら話を続ける。

「これも院内では話題になっていたから話して大丈夫だろう。一ノ瀬さんは野原さんとも交流があったらしく、ひと騒動起こしたことがあるんだ」

「詩音のお母さんと、一ノ瀬さんのおばあさんが?」

「ああ……。といってもこれは過程はどうであれ、良い話でもあるけどな」

 ことの始まりは一ノ瀬祖母が行方不明になったことから始まった。

 いつもは病院での検査が終わったら夕方ごろまでには帰ってくるはずなのに帰る気配が一向になくて、家族が心配になり、病院に電話をかけたらしい。

 しかし、病院にも一ノ瀬祖母は見当たらず、一同総出で捜索することになったようだ。

 手当たり次第、思い当たる場所は探したが、発見されず、警察に捜索届をだすと決まった時、現れたのだ。

『なに、あんたたち、こんな夜遅くまでうろついてんだい』

 泥だらけになった一ノ瀬祖母が病院の受付待合所に来たのだ。

「それが詩音のお母さんとどう繋がっているの……?」

「どうやら、一ノ瀬さんは野原さんに花を見せるために山に行ってたらしいんだ」

「花を、見せるため?」

「そう。野原さんがもう病院から出るのも難しくなってきた時、一ノ瀬さんに山で見かけた花畑をもう一度見たかったことを話したんだ」

「それで、山に?」

 一華が聞くと、父は苦笑いをしながら頷いた。

「山から花を運んで病院近くの公園に植えようとしたんだよ」

 公園までなら詩音の母も見に行けるだろうとスコップ片手に運んできたのだ。

 結局は花畑のような花々を見せることは叶わなかったが、詩音の母は嬉しそうに笑っていたらしい。

「きっと、来年、再来年……いつになるか分からないけど、自分の子どもたちがその景色を見れるならこんなに嬉しいことはない。……って」

 一華は記憶の中の詩音の母を思い出す。確かにあの優しい人なら、たとえ自分がその時にはいなくても、嬉しいと微笑むことができる気がした。

「……っと、すまない。かなり話が逸れたな。それで、もう一つ大切な話があるんだろ?」

 話しがひと段落ついて、一華の父は本題に入る。

 空気が少しぴりついた気がして、一華も自然と背筋が伸びた。

「うん。そのことなんだけど―」

 そうだ。ここからが勝負所。父の目をしっかりと見て、緊張で声が多少上ずりながらも一華は話しを進めた。




◇◆◇

 夏休みが終わり、またいつも通りの日常を詩音は過ごしていた。

 学校が終われば、塾か家。特に誰かと会うわけでもない。

「ねえ、詩音。……詩音っ」

 ホームルームが終わり、クラスメイト達が思い思いの時間を過ごし始めるのをただ眺めながら、机の置いてあるノートやプリントをリュックにしまっていた。

「ねぇ、詩音ったら!」

 座っていた椅子を引かれ、そこでやっと後ろから聞こえてくる声に気づき、振り返ると不機嫌な顔をした真樹がいた。

「……あ、ごめん、真樹。考え事してた」

「考え事って……最近無理してるでしょ?」

 どうやら真樹の不機嫌はなかなか気づいてくれなかったことではないらしい。

 ずいっと詩音に詰め寄って、両手で頬をつねる。

「ひょんなことないほ」

 そんなことないと口では言っているつもりだが、真樹が詩音の頬で遊んでいるせいでうまく口が回らない。

「ほんと?」

「ん、んー!」

 頭を上下に振って詩音は肯定する。その後、真樹はジッと詩音を見つめ、そして、手を放した。視線を教室全体に向ける。ぽつりぽつりとクラスメイトが教室から出ていくのを確認してから、真樹は声を小さくして言った。

「……まぁ、でも、考え事をしちゃうのは仕方ないか。だって、明日、だもんね」

「……うん」

 明日は夏休みが終わって最初の休日。だけど、詩音にとってはその日だけは別の意味が込められている。

「中一の時だったからもうけっこう前だね」

「そうだね……」

 明日で詩音の母が亡くなって五年の月日が経つ。

 もう、母のいない日常が詩音にとっては当たり前になっていた。当たり前になってしまった。それがよいことなのだと詩音は思うようにしている。過去に引っ張られてしまうのはいけないことだと、かつての兄を見て学んだから。

 だから、過去を見るわけにはいかなかった。

「……そういえば、詩音。この前の学校説明会、一ノ瀬翼くんに会ったよ。詩音の幼なじみの子でしょ? ほら、友だち登録しちゃった」

 だけど、真樹が過去の欠片を詩音に突きつけた。

 今、詩音が向き合いたくない者の一人、一ノ瀬翼の名前を口にした。

「どう、して……?」

 真樹のスマホには翼の名前とアイコンが表示されている。

「詩音に会いたいんだって。会って、伝えたい言葉があるんだって」

 違う。そういうことではない。

 詩音は混乱する。真樹は詩音が過去を拒絶するのを知っていた。いや、知っているだけでない。それを受け入れ、協力してくれた。

 今までずっと詩音の触れてほしくない繊細なところは避けて接してくれていたし、他者が踏み込もうとするときは誤魔化してくれた。

「翼くんに会ってあげなよ」

 なのに、どうして今さら?

 ノイズが頭の中でなり始める。うるさい。うるさい。

「詩音、今までごめんね。たぶん、アタシができることはこれだけだから」

 詩音は気づけば手で耳を抑えていた。だけど、真樹はその手を取り、何も言わずただ抱きしめた。

 今までの詩音の歪さを見ないふりしてきた、肯定してしまった真樹は、翼たちのように手を差し伸べることもできない。

 できることはこれだけ。

 真樹はまわしていた腕を戻し、リュックを手に取り、ドアへと向かう。

 そしてふと足を止めて、背中を詩音に向けたまま言った。

「そういえば、結局、夏休みにバドミントンやらなかったね。夏休みは終わっちゃったけど、今度こそやろうね」

 呆然とする詩音を残して、真樹は教室から去っていった。





◆◇◆

 苦しくて、息が止まりそう。

 水の中にいるみたいで、見えるのに、聞こえるのにどこか世界がぼんやりとしてる。

「お母さん……?」

 ぼやける視界の先、ひどく懐かしい姿が見えた。

 病院の一室。その部屋にいるのはもう会えない大好きな人。

 おかしい。この人は詩音の思い出たちと一緒に遠ざけたはずなのに。

『だめね……。彩夢にあんな苦しそうな思いをさせちゃうなんて』

 なんで? お母さんは悪くない。悪いのは酷いことを言うお兄ちゃん。

『詩音、あなたまで苦しそうな顔をしないで』

 だって、お兄ちゃんがお母さんを傷つけたんだよ? お母さん、もうすでにぼろぼろなのに、傷つけたんだよ?

『ほら、お母さんは大丈夫よ、詩音。ね、笑顔になって?』

 お母さん、知ってる? 私、もう中学生なんだよ? お母さんが思うほど子供じゃない。お母さんが大丈夫じゃないことぐらい知ってるし、分かるよ。

『……もう、彩夢も詩音も大事なところは黙っちゃって。あの人に似ちゃったのかしら?』

 お父さんに似てないよ。私はちゃんとお母さんに伝えるべきことは言葉にしてるよ。

『プロポーズの時も大変だったのよ。ずーっとあの人黙っちゃって』

 ほら、やっぱり似てない。大切なことは私、ちゃんと言うもん。

『似ているわ。少しでも罪悪感や後ろめたさがある大事なことは言えないところ』

 …………。

『でも、あの場所があの人に勇気を与えてくれたのかしら? 最後はちゃんと、想いを伝えてくれたわ。プロポーズの場所、幼い頃は二人でよく遊んでいた場所だったの。土砂崩れで今は立ち入り禁止になっちゃったけど』

 もう、そこには行けないの?

『ええ。……だけど、ほんとに、できるのなら、またあの景色を見に行きたかったわ』

 お母さんが見に行きたかった、けど、見に行けなかった場所。

もう、叶うことはできない一方通行なお願い事。

 そうだ。それなら行かなくちゃ。

 水の中に沈んでいた意識が少しずつ浮かんでくる。

 瞼を開けるとオレンジの光が目に入ってきた。自習中に寝てしまっていたのだろう。夕日が世界を紅に染めていた。教室には誰もいない。

 なぜ、あんな夢を見ていたのだろうか?

「真樹があんなこと言ったからだ」

 詩音が拒絶していたものを真っ向から突きつけてきたからだろう。

 そのせいで少しずつ、少しずつ気にしないようにしていた綻びが目につき始めてきた。

 ハナと出会ってから起きたこと、幼なじみ、兄の変化、夏休み……。

最近のことであったり、もっとずっと前のことであったり、いつの時のか分からないものも、断片的な映像として突然脳裏で再生される。

 胸が苦しくなって、頭も痛くなる。だけど、もう止まらない。

 よろつきながら机の物を片付けて、詩音は家に帰ろうとする。

 ……いや、違う。

 行き先は家ではない。

『またあの景色を見に行きたかったわ』

 父と母の思い出の場所。

 行かなきゃいけない気がする。思い出さなきゃいけない気がする。

 どうしてそう思うのか、詩音は自分でもよく分かっていない。だけど、突き動かされるように、勝手に体が動いていた。



◇◆◇

 学校から帰宅した一華は思いつめた顔で立っていた。

 ドアの先、リビングからは母と男性が談笑し、穏やかな時間を過ごしている声が聞こえてくる。

 男性は一華の父親ではない。母の再婚相手。

 明日から休日。それに合わせて、再婚相手の男性がこの家に住む準備を終わらせるのだ。もう、ここにいるということはたぶん今日からこの家の住人になるのだろう。

 良い人だとは思う。この人のおかげでいつもピリピリとしていた母が憑き物が取れたように落ち着いたから。あんな温かい表情をする母を見るのは久しぶりだった。

「あら、一華、お帰りなさい」

「一華ちゃん、お帰り」

 ドアを開けると二人は笑顔で一華に声をかけてくる。

 絵に描いたような温かい家庭だとは思う。

「ふふっ、この人ったら、明日からなのに我慢できなくて仕事が終わってからそのままこっちに来たみたいなの」

「こら、一華ちゃんの前でばらすのはやめてくれよ。恥ずかしいじゃないか」

 たぶん、一華がずっと望んでいた空間なのかもしれない。

 ……だけど、やっぱり違うのだ。

「ねぇ、話したいことがあるの」

 一華は目を合わせないようにしていた母の瞳を見つめて言った。

 これから一華が言おうとするのはこの温かな空間を壊してしまうものだろう。ごめんなさいの気持ちでいっぱいになる。でも、これは一華にとっては必要なことなのだ。

「その人がお母さんと結婚するは別に構わない。だけど、その人がわたしのお父さんになるのは、ごめん、無理です。だって、わたしのお父さんは一人だけだから」

 声が震える。目頭が痛い。息をする度、言葉にする度、怖いという気持ちが心臓で叫ぶ。

 これはたぶん付けが回ってきたのだ。自分の気持ちを飲み込んで、言葉にしないで、ただ従っていたぶんの付けが。

「お母さん、わたし、お父さんのところに行くね」

 自分の言葉を受け取ってもらえないかもしれない。理解してもらえないかもしれない。

「お母さんはもちろんお母さんだよ。でも、わたしはお母さんの新しい家族にはきっとなれない」

 こんなことを言ったら失望されてしまう。見捨てられてしまう。ダメな子だと思われてしまう。

 怖い。怖くて仕方がない。

「お母さんはお母さんの道を進んで。わたしは今度は自分の意思でわたしの道を選ばせて」

 でも、どうしてだろう? 心が少しずつ軽くなっていく。

「大丈夫。お別れじゃないから。わたしがお母さんの子供であることは変わらないから。親子の絆はなくならないから」

 自分自身の言葉を口にする度、一華を縛っていた言葉たちが解けていく。

「だから、だからね、お母さん」

 一華は母の目を見て、自身の気持ちを、想いを、言葉にする。

「ありがとう。またね」

 母に背中を向けて、一華はリビングを出る。最後の言葉を口にし終わった時、母は泣き崩れたように見えたが、振り返るわけにもいかなかった。振り返ったら、母の顔を見たら、決意が揺らいでしまう。

 スクールバッグを肩にかけてスリッパからローファーに履き替える。

 荷物は他にない。喫茶店で父と話した時から準備はしていた。

「一華ちゃん!」

 玄関のドアノブに手をかけたところで声をかけられた。

「母のことはよろしくお願いします」

 一華は振り返り、母の夫になる男性に頭を下げる。

「一華ちゃんは僕と家族になるのが嫌だったのかな……?」

「そういう聞き方はずるいと思いますよ。……でも、そうですね。さっきも言ったようにわたしの父と母は世界で一人だけです。新しい家族の一員になることはできません。そこにはわたしの居場所はないです」

 顔を上げて男性の問いに答える。同時になぜだか分からないが父を思い出して泣きそうになった。喫茶店で疲れた目をしながら、でも僅かに嬉しそうに口元をほころばせ、一華と話す父を。

「それに、最近気づいたんです。母だけじゃなくて、父も案外寂しがりやってことに」

 泣きそうになりながらも一華は笑顔で言った。

「ああ、君たち家族はみんな寂しがりやだったんだね……」

 男性は一華の顔を見て、頭を搔きながら、諦めたような困ったような笑みを浮かべた。

 もう、彼は一華を止めることはしないだろう。

「それじゃあ、行ってきます」

 そうして一華は玄関を出た。外は茜色に染まっていて、帰る時間だよと知らせてくれる。

 でも、帰る場所はもうここではない。

 自分の家だった場所から出た時、一華は不思議と心が落ち着いていた。

 でも、ここでゆっくりしている暇なんてない。

 胸元を握りしめて、次のやるべきことに意識を向ける。

「詩音、わたし向き合ったよ。詩音がいたからできたんだよ。だから今度はわたしが―」


 詩音の隣に行くね。




◇◆◇

 俺の妹は、詩音は、よく掃除をする。よく捨ててしまうんだ。

 母さんが亡くなってから父さんは仕事に熱中するようになり、妹は家のことを全部するようになった。

 ……分かっている。俺は何もしてこなかったってことは。

 俺は妹と違って母さんの死を実感できなくて、あの病室から置いてけぼりになってたんだ。

 本来なら現実を受け入れて前に進まなくちゃいけなかったのに、家族を支えなくちゃ、妹を守ってやらなくちゃいけなかったのに、それができなかったんだ。悪い兄でごめんな。

 それで、そう。家事を一人でするようになってから妹は家を、特に自分の部屋を掃除するようになったんだ。

 家族共有の場所はただ綺麗になってたからいい。問題はあいつの部屋だ。綺麗になるのでは、ない。簡素になってきたんだ。

 ゴミとかだけじゃない、思い出まで捨てるようになったんだ。

 最初は幼い頃に買ってもらったぬいぐるみ、お人形とかだった。成長して未だに昔のおもちゃを持っているのが恥ずかしくなったのかと思ってた。実際に自分もそうだったから。

 でも、違うと気づいたのはその後だった。

 大切な手紙を全部捨てようとしたのだ。掃除をして見つけるたびに必ず。

 学校でもらったもの、習い事でもらったもの、友達にもらったもの……その中には母さんの手紙も。

 これはダメだ。いくらあいつにとってゴミになったとしても、捨ててはいけないって強く思った。

 だから、俺はこれでも兄だから、あいつの「お兄ちゃん」だから、こっそり手紙を抜き出して隠したんだ。また手紙の言葉があいつの心に届くまでずっと。

 俺だってもう病室に取り残されてた頃の俺じゃない。

 夜、誰もいない家の中、立ち尽くしていた俺は玄関を飛び出した。

 詩音が帰ってきていないのだ。連絡さえもつかない。嫌な予感がした。

 明日は、俺たち家族にとって忘れられない、忘れちゃいけない日なのに、詩音はこのまま忘れてしまうんじゃないかと……いや、詩音自身消えてしまうんじゃないかとそんな気さえした。

 一人じゃできないこともあるって知っている。誰かがいるから前に進めたり、後ろを振り返ったりできる。

 なあ、詩音。そろそろ振り返ってもいいんじゃないのか? お前はもう十分頑張ってきたんだ。お前は信じてくれないかもしれないけど、しっかりお兄ちゃんがお前の分の未来を支えるから。


 だから、お願いだ。もう「忘れる」なんてしないでくれ。




◇◆◇

『詩音が消えた』

 夜遅く、寝ようとベッドに向かっていた翼を起こしたのは一つのメッセージだった。

 橘真樹。そのメッセージを送ってきたのは詩音の高校のクラスメイトである彼女から。

 真樹は中学からの仲の良い友人だけでなく、同じ塾に通っている共通点もあるため、保護者同士で家の連絡先を教え合っていたのだ。

 それで、今日、真樹の家に電話があったらしい。

『詩音のお兄さんから連絡があったの。翼くんは詩音がどこにいるのか心当たりない?』

 学校、墓地、病院、東屋のある公園。心当たりがあるところには電話で連絡したり、実際に行ったみたいだったが、詩音の姿はなかったようだ。

 翼は急いで姉の部屋に向かったが、ドアノブを握る前にドアが勢いよく開いた。

「翼っ! 詩音が行方不明だって!」

「あぶなっ……って、そう! 詩音ちゃんが消えたみたいで……え、なんで知ってんの?」

『それはわたしが聞きたいわよ。今の声が例の弟さん?』

 翼の問いの反応を示したのは空ではなく、別の人物からだった。声が聞こえた方は空が握りしめているスマホから。どうやら電話の相手が答えたらしい。

「そ、あたしの弟の翼。で、トージョーさん、詩音が行方不明ってほんと?」

『ええ、本当よ。さっき、詩音のお兄さんがわたしの父の病院に来たの』

「わたしの父の病院……?」

「ああ、翼はトージョーさんのことよく知らないもんね。トージョーさんはうちのおばあちゃんがお世話になっていた病院の院長さんの娘さんだよ」

「……あ、じゃあ、詩音ちゃんのお兄さんがきたってことは」

 詩音の母が亡くなった病院でもある。全てを言わなかったにしろ、翼の言葉の意味を察したのか不機嫌な声色で一華は棘を吐く。

『言っておくけど、わたしは詩音のお母さんが亡くなってたのを知ったのは夏祭りの時。それまでずっと知らなかったわ。……お父さんの子供なのに、詩音の親友なのに』

「なんか、ごめんなさい……」

『やめてよ。謝られると、むしろより一層、惨めになる』

 どうやら触れてはいけない部分に触れてしまったようで、翼の背中に冷や汗が流れる。

 しかし、そんな翼の心境を悟ってくれたのか、それともただ本人の意思なのかは不明だが、空気の流れを変えるかのように空が口を開く。

「あたしだってこの中じゃ詩音と一番付き合いが長いけど、知らないことだらけだったよ。っていうか、昔からだけど、詩音はあんまり自分から話すような子じゃないし……でもね」

 空は笑う。きっと電話の向こう側に一華も声で伝わってしまうだろうと思うくらい快活に笑う。

「あたし、トージョーさんが詩音の特別な友だちっていうのは知ってる。だから、トージョーさん、今までの詩音ならどこに行きそうとか、関わりのある場所ってわかったりする?」

 眩しいなと翼は思う。空の言葉はいつだって俯いた心がつい顔上げてしまいたくなる魔法がかかっているのだ。

 たぶん、一華も魔法にかかってしまったのだろう。行き詰っていた思考が動き出して、見過ごしていた出来事が頭をよぎった。

 つい最近あった、何気ない父との会話を。

『……もしかしたら、山に行ったのかも』

「山?」

『先日、父からこんな話を聞いたの。詩音のお母さんが最期にもう一度行きたかった場所があったって』

「それが、山?」

『ええ、でも、詩音のお母さんの体調ではもう行けなかったの』

 叶うことがなかった母親の心残りの場所。もし、そんな場所があると詩音が知っていたら、彼女はそこにいてもおかしくはない。

『その山には詩音のお父さんとお母さんが幼い頃に遊んでいた花畑があるらしいの』

「トージョーさん、どこの山とかそういうのは聞いてないの?」

『それは聞いてなかったわ……』

 山といっても、この町は田んぼだけでなく、いくつかの山にも囲まれている。けっして一つではないから、どの山にいるのかもわからない。仮に分かったとしても例の花畑がどこにあるのか知らなければ意味がない。

『でも、あなたたちのおばあさんがその話を聞いて、実際に山に行って花を持ってきたとも聞いたけど、覚えてないの?』

 しかし、手がかりならあった。

 意外なところで祖母の名前があがり、空と翼は思わずお互いを見る。

 そんなの知ってる? 知らない。言葉を交わさずとも分かるくらい。

『……似たような話くらい聞いたことないの?』

「山に行ってクマと戦ってきた話なら聞いたことあるけど……」

 山というワードで思いつくエピソードならこれしかない。突飛で奇天烈な祖母の強烈な思い出。

 だが、そんな摩訶不思議な出来事も翼は直接見たわけでもない。他者から聞いた話だ。それに祖母は嘘は言わないが、嘘も否定しない人だった。小さなことではあるが、それに翼は何度も引っかかったことがある。今回も同じだとしたら?

「姉ちゃん、もしかしてクマじゃなくて、花を取りに行ってたんじゃないの?」

「……え?」

 泥だらけになった祖母がスコップ片手に山から帰ってきたと大声上げながら帰宅したのを覚えている。近所の人に祖母は山でクマと何をしていたのだと聞かれたのも覚えている。自分が見たことと聞いたことが混同して、噂を事実だと思っていたのではないか?

「……もしかしたら、おれ、その場所分かるかもしんない」

 翼は祖母に尋ねたことがある。どうやって山でクマを見つけたのだと。

 ニヤニヤしながら祖母は冒険譚のように事細かく山の中でどう進んで、最後帰ってきたのかまで話してくれた。今思うと肝心のクマは出ていなかった気がする。

 怖がってクマに遭遇したくなかった翼は注意深く聞いていたから薄っすら記憶の隅に祖母の話が残っている。

 あれが本当は花畑の道のりなら、翼は行けるかもしれない。

「おれ、今から行ってくる」

 翼は急いで自室に戻り、パジャマとして着ていたハーフパンツを脱ぐ。ティーシャツを脱ぐ時間も惜しいのでそのままワイシャツを羽織って制服に着替える。一瞬で着終えて、玄関に向かうと、後からパジャマ姿のままの空が駆けてきた。

「ちょっと翼! 今何時だと思ってんの!?」

「だからだよ! こんな夜遅く、詩音ちゃんをほっとくわけにもいかない!」

「ああ、もう! お父さんとお母さんにはあたしから何とかうまく、説得しておく! これからあたしはトージョーさんと合流するからその後、あんたに電話かける。山にいる間は何が起こるか分かんないから電話は繋いだままにねっ!」

「分かった!」

 父と母が何事かと寝室から出てくる音が聞こえてくる。きっと二人が気づけば本格的に止められてしまうだろう。姉に心の中で感謝しつつ、翼は飛び乗るように自転車にまたがった。

 祭りの時と比べると涼しくて、でもまだ熱が残った風。どこからかコオロギの鳴き声も聞こえる。秋が近づいて来ている。でも、まだ夏は終わっていない。

「ふざけんな! おれはもうこれ以上後悔したくないんだ! もう二度と何もできないまま終わりたくないんだ!」

 翼は何も知らないまま、何もできないまま、失ったことがあった。

 ヒーローとして前を走り続ける大好きだった姉。

 そんな姉がボロボロになっているのを知らずに攻めて、裏切られたと勝手に思って嫌ってしまっていた。

 助けることも何もできずに気づいた頃には手遅れで、姉はヒーローをやめてしまった。

 でも、今回は違う。

 翼は今、詩音が傷ついていることを知っている。

 昔とは違って気づくことができた。

 だからやることは決まっている。

「俺が絶対見つける……っ! 見つけて詩音ちゃんの想いを、言葉を引き出すんだ」

 ペダルを力強く蹴って、翼は夏の夜に飛び込んだ。




◇◆◇

 頬に温かな感触が伝わり詩音は目を覚ました。

 目に映るは暗く生い茂った木々たち。わずかに木々の間から月明かりが零れているが、暗い。秋に近づいてきているからなのか、山の中だからなのか、夏の夜にしては、蒸し暑くなく、むしろ涼しいくらいだ。

 そう、詩音は山にいる。

山といっても登山とかいったそんな仰々しいものではない。なだらかな山で頂上には観光スポットである灯台が建っている。観光客のため、灯台までの道のりは舗装されているから、幼稚園児でも気軽に登れるそんな山だ。

 といってもそれは詩音が生まれてくる前までの話。

「イタッ……!」

 体はところどころ痛い。花畑を探している途中で、足を滑らせそのままどこかに落ちて気を失っていたらしい。

 この山は土砂崩れによって一部立ち入り禁止になった。お金をかけてまで直すほど観光地としての利益はなく、そのまま放置。かつては町を照らしていた灯台も今はただの廃墟、舗装された道も人が通るのには危険なところもある。

 詩音の目的地はそんな人が通らなくなった道の先にあるものだった。

「にゃあ」

 また頬に温かな感触。

 詩音は横目で声をした方を向くと、夜より暗い黒の一点が目に入る。

「ハナ……」

 なんでここにいるのか、詩音を見つけに来てくれたのか、ただの猫の気まぐれなのか分からないが、ハナが詩音の頬を舐めている。

「あーあ……もう何時になっちゃんだろ……?」

 上半身を起こして、周りを見渡す。ハナがいるから他に人がいるのだろうかと思ったが誰もいない。聞こえてくるのは風と虫の鳴き声だけ。まだ夜が明ける様子はない。

 登り始めた時はもうすでに夜だった。だとしたら相当遅い時間なのだろう。時間を確かめようとスマホを探すが、見当たらない。落ちた時にスマホもどこかにやってしまったのだろうか?

 今ごろ騒ぎになってたりして。

「いや、もしかしたら誰も気づかないかも」

 詩音はハナを抱き寄せ、柔らかく温かい毛並みに顔を埋める。

 最近は少し話すようになったとはいえ、兄とは一言も言葉を交わさない日だって当たり前のようにあった。兄は自分のことをうるさい家政婦ぐらいにしか思ってないのではと考えてしまう日もあったぐらいだ。

 父が家に帰ってきてようやく気づいてもらえるだろうか? それとも父にも友人の家とかに泊まったのかと勘違いされて終わってしまうだろうか?

 勝手に思考が暗い方へと一人歩きしてどんどん胸が苦しくなる。

「……って、そもそも自分からここに来たのに何やってるんだろ」

 ああ、もう、ぐちゃぐちゃだ。

 逃げたい。でも、何かが変わるかも。

 思い出しちゃダメ。向き合わなきゃ。

 気持ちも記憶も土砂降りのように流れ込んできて、壊れてしまいたくなる。

「にゃあっ!」

 全ての流れを断ち切るようにハナが一等大きい声で鳴いた。

 深い海に思考が沈んでいた詩音は引き上げられる。

 引き上げられて、気づいた。誰かが来ていることに。

「ハナがいるんだ。それなら、全部、言葉にして、ハナに聞いてもらおうよ」

 月光が木々の影に隠れているものを照らす。

 詩音の瞳に映ったのはいつも自分を見上げていた小さな弟……ううん、違う。

「つーくん、どうして……?」

 いつの間にか自分の背を超していた幼なじみの年下の男の子だった。

「心配だからきたんだよ。そんなことより、詩音ちゃん、前におれに言ったよね。言葉にするのが大事なんだよって」

 いつかの雨の日、再会して間もない翼にかけた詩音の言葉。今度は翼が詩音に伝える。

 膝をついて詩音に目線を合わせた翼は、ハナを両手で捕まえ、掲げて笑った。

「仮に、仮にだよ。詩音ちゃんが言葉にしたいのは、我慢しなくちゃいけないことでも、悪いことでも、相手はハナだから。気にしなくていいよ。ハナは猫だからさ、告げ口できないから!」

 にゃあ、と、翼に同意するようにハナも鳴き、詩音の腕に飛び込む。

「ほん、と……?」

 震えた声で詩音は聞き返した。

 どんな言葉であれ、きっと詩音はずっとその想いを抱えていた。誰にも言わないで隠していた想いをさらけ出すのはとても怖くて勇気がいるのを翼は知っている。

「ほんとだよ。詩音ちゃん、おれは詩音ちゃんが想いを抱えたまま苦しんでいるのを見たくない。そっちの方が辛いよ。それに、詩音ちゃんはおれよりずっと勇気のある女の子だ。ちゃんと言葉にできるよ」

 ぎこちないながらもハナごと詩音を抱きしめて、翼は勇気の花を詩音に贈る。

「……私、大丈夫じゃ、ないよ」

 そうして出てきた言葉は悲鳴だった。

 腕の中のハナを抱きしめ、体を翼に預けながら、詩音は抑えていた想いを吐き出した。

 大丈夫。そう言い続けたのは大丈夫だと思い込みたかっただけ。

 本当は大丈夫なわけなかった。

 母の死から、母の死期を聞いた時から悲鳴を抑えていた。

 必死で取り繕った言葉が崩れて、弱気でぼろぼろな言葉が姿を見せる。

 言っても母の死は変わらなかったから。

 周りがそれを許してくれなかったから。

 もういない母。

 母の穴を埋めるため忙しい父。

 自分のことでいっぱいいっぱいの兄。

 頼れる人なんていない。自分が強くならなくちゃいけない。

 詩音は強くならなければいけなかった。

 泣き虫なままの詩音ではいられなかった。

「お母さん……私、もっと一緒にお母さんといたかったよ。もっとお母さんの作るごはん食べたかった。もっとお母さんの声を聞きたかった。もっと沢山の思い出をつくりたかった……!」

 後悔しないように悲しまないように沢山の時間を一緒に過ごすようにした。沢山の伝えるべき言葉を伝えた。だけど、やっぱり無理なのだ。

「苦しいよ……私、お母さんがいなくなってずっとずっと苦しかったんだ」

 痛みはずっと続けば慣れてしまう。その痛みを見ないフリしてしまえば感じることもないのかもしれない。

 でも、自分が傷ついていることに気づいてしまったら、見ないフリができなくなってしまったら、火傷のようにじわりじわりと心を蝕む。

 痛いのだ。どうしようもないほど、痛むのだ。

 とめどなく溢れる痛みを、叫びを受け止める者は、いた。

『なら、今度はわたしが、詩音が大丈夫になるまで、一緒にいてあげるよ……!』

 必死な少女の声が詩音を抱きしめた。

 大丈夫。詩音が自分に言い聞かせていた魔法の言葉。詩音が誰かに言われたかった寄り添う言葉。

 瞳から涙が零れた。

 痛いのは変わらない。でも、雪が解けたみたいに温かくて、雫がぽろぽろ流れていく。

「一華……?」

 大好きな友人の名前を口にする。

 詩音の目の前には翼以外誰もいない。でも、この声を聞き間違えるはずがない。

『そうだよ! 詩音、わたし、一華だよ!』

 声は翼から聞こえる。

 翼はワイシャツの胸ポケットからスマホを取り出す。画面には通話のマーク。どうやら通話越しに一華が聞いていたようだ。

『もう、わたしは大丈夫になったから。詩音のおかげで大丈夫になったから!』

 目には見えなくとも確かな絆があることを、見えなくなっていた大切なものを絆が思い出させてくれるのを一華は知っている。

『……だから、一緒にいる。詩音が大丈夫って思えるまで、わたし、一緒にいる』

 一華は大丈夫を沢山伝える。今、この場で詩音を抱きしめられない代わりに想いを言葉に乗せる。絆の花を詩音に贈る。

「うん……あり、がと。いちかぁ」

 幼子みたいに舌足らずな声を上げて詩音は泣きじゃくる。

 今まで我慢したものを吐き出すように。

 目の前でそれを見ていた翼は思わず微笑んだ。笑っているのが詩音にばれたら恨まれそうではあるが、口元がほころぶのを止められなかった。

 幼い頃、姉である空に振り回されて詩音と一緒によく泣いていたのを思い出したから。

『翼、詩音を見つけてくれてありがとう。最後にもう一仕事いいかな? 詩音を連れて戻ってきて。公園で待ってるから』

 電話の向こう側で姉の声が聞こえた。どうやら、話し手が変わったようだ。

「分かった。こっちこそ、ありがと、姉ちゃん」

『あんたに素直にお礼を言われると調子狂うわね……。詩音、安心して、あたしは、あたしたちはそんなことで詩音をひとりになんてしないから。第一、相棒のピンチの時こそヒーローは強くあるものだしね』

 愛は時として大切な人のためなら何だってできる力を持っているのを空は知っている。

『詩音、ほら、笑って。また、一緒にたくさんの人を笑顔にしよ?』

 空は精一杯の笑顔で背中を押し、愛の花を詩音に贈る。

『ということで、あたしが伝えたいことはこれで全部! 最後にこの人に代わるね』

 そう言って空の声が遠くなる。電話の向こう側で何かやり取りをしているようだが、上手く聞こえない。あっちには誰がいるのだろうか?

『……詩音』

 男の声が聞こえた。詩音にとって大っ嫌いで、憎くて仕方なくて、でも、どうしようもなく大切な家族の声だった。彩夢だ。

「お兄ちゃん……」

 ずるいと思った。

 今さらこんな時に優しい声で自分の名前を呼ぶなんて。

『今まで辛い思いをさせてごめん』

 恨み言はたくさんあった。許せないこともたくさんあった。

『信じてもらえないとは思うけど、今度は俺が詩音が守ろうとしたものを守るから、詩音が我慢したものを背負うから』

 だけど、どうして今、こんなに嬉しいと思ってしまうのだろうか?

『詩音、過去も、受け取った言葉も、大事な想いも、もう捨てようなんてしないでくれ』

 過去を振り返ることができるように、彩夢は未来の花を詩音に贈る。

『じゃあ、待ってるから。早く帰ってこいよ』

 ぶっきらぼうな声を最後に電話は切れた。同時に腕の中で大人しくしていたハナはするりと離れていく。

 温もりが離れて名残惜しくはあるが、大丈夫だった。

 詩音は目を閉じて深く息をする。

 湿った土と緑の匂い。木々の葉が風で擦れる音。

 詩音は立ち上がり翼に顔を向けた。その笑顔は無邪気な子どものようだった。

「つーくん、帰ろっか」

 目元は涙で赤くなり、制服も土や草木で汚れていて、翼以上にぼろぼろなはずなのに、なぜだか翼の瞳にはその笑顔が今までで一番眩しくて綺麗に見えた。


 詩音の中で蕾が芽生えていた。降らない雨は降った。

 もう枯れることはない。




◇◆◇

 通話が切れた後、空、一華、彩夢たちの間に流れる沈黙を破ったのは一華の父だった。

「心配なのは分かるけど、落ち着いて座りなさい」

 病院の待合室で空たちは電話をかけていた。病院といっても夜遅くなので、待合室にいるのは空と一華、彩夢、一華の父、あとは受付で待機しているスタッフくらい。

気休め程度にしかならないが一華の父は自販機で買ったお茶のペットボトルを三人に渡す。

「ありがとうございます。……あの、今さらですが、こんな夜遅くにご迷惑をおかけしてしまいすみません」

 受け取った彩夢は深く頭を下げた。

「謝ることじゃないさ。故人の命日なんだ。残された側にとっては気持ちが弱くなってしまう日でもおかしくはない」

 それに……と、一華の父は視線を自分の娘へと向ける。

「詩音さんは娘の友人であり、私が診た患者のお子さんだ。父として、医者として手を貸さないわけがない」

 微笑む父親を見てなんだか気恥ずかしくなった一華は顔を背け、誤魔化すように話題を空に振る。

「そんなことより、一ノ瀬さんも平気なの? ご家族に了承はとったの?」

「すっごい怒られたけどまあ、なんとか。でも、翼も後で怒られると思うなぁ……。っていうか、彩夢さん! どうして、連絡をくれなかったんですか? それこそ詩音のことで大変だったんですよ!」

「いや、ごめん……。合宿の時にスマホを壊しちゃって、データごと飛んで……。でも、言花の猫を知っているなとは思っていたけど、まさか空ちゃんが昔、詩音と一緒に遊んでいた子だったなんて……」

 不思議な繋がりがあるものだと素直に驚く。彩夢は行方不明になった詩音を探しに病院に来て、そのまま落ち着くようにと待機させられていた。院長の娘である一華が詩音の友人だったらしく、何やら誰かに連絡しているなとは思っていたが、その相手が空だとは思いもしなかった。待合室に空が姿を現した時は夢でも見ているのではないかと疑ってしまった。

「俺自身のことといい、妹のことといい……空ちゃんには助けてもらってばかりだ。ほんと、ありがとう」

 彩夢は空の手を両手で包み、お礼を言う。しかし、相手は幼なじみの兄と発覚したとはいえ、告白しようとしていた想い人。空はそれどころではない。

「そっ、そそそそそんな! 別に大したことないですよ! ほ、ほらぁ、約束したんですし、そろそろ病院のとなりの公園にいきませんか!?」

 空の動揺に色々察してしまった一華は怪訝な目で彩夢を見る。幼い頃、ごくまれに詩音が兄の話しをしていたが、そのどれもがろくでもないものだったのであまり良い印象がないのだ。しかし、それは幼少期の頃の話だし、今がどうなのかは分からない。何より、人様の恋愛は関わらないに越したことはない。もし、詩音だったら首を突っ込んでしまいそうだが、対して交流のない空には関わるつもりもない。

「あ、そうだ。一ノ瀬さん、ちょっとお願いが」

 しかし、用事を一つ思い出し、空を呼び止めた。

 暗い公園に行くのだ、今のうちに明るい場所で済ませておこう。

 一華は背中を空に向け、後ろ髪を持ち上げた。すると、髪に隠れていたネックレスのチェーンが姿を見せる。

「これ取ってくれない?」

「ネックレス? どうしたのこれは?」

「昔、詩音にもらったの。ずっと一緒にいるための約束の証としてね」

 六年前、一華の誕生日の時、詩音は母からもらったという自分の大切なものを約束の証として一華に渡したのだ。

 証という目に見えるものがなくても、確かな絆が繋いでくれるのを知った。だから本来の持ち主に返すべきだと思ったのだ。

「これは……鍵?」

「うん、鍵」

 ゆっくりと首からネックレスを取る。チェーンの先、一華の胸元に隠れていたものは鍵だった。

「何の鍵かは分からないけど、詩音がお母さんにもらったんだって」

 母からもらった何に使うかはわからない、でも大切なもの。空はその話に聞き覚えがあった。

『俺、母さんが無くなる前に、宝箱をもらったんだ』

 それは夏祭りで彩夢が空に話した思い出の話。

『中身は、分からない。鍵がないんだ』

 開けることもできない、心残りと不安だけが膨らんでしまった母の形見。

『いつか鍵は現れるから、分かる日が来るから、その日まで待っててほしいって』

 もしかして、いつか現れるはずだった鍵はこれなのではないだろうか?

「彩夢さんっ!」

 違うかもしれない。けど、期待してもいいんじゃないだろうか?

 空は鍵のかかった宝箱の持ち主の名を呼んだ。




◆◇◆

 なぜか黒のワンピースの胸元を掴んで必死で息を整えようとする自分。心配そうに見つめる友だちや慌てる大人たち。

 これは夢なのだろうか?

 曖昧な意識の中、詩音は思う。

 だって、みんな顔がぼんやりとしておかしいはずなのに見覚えがあるのだ。

 ああ、そうかこれ演劇発表の時のだ。

 言花の猫。

 お母さんが描いた絵本を演劇でやりたいって言って、そしたら本当にやることになって、いざ本番になったら緊張して体調悪くした情けない思い出。

 お父さんもお母さんもきっと観客席で楽しみに待っているのに、私は怖くて、逃げ出したくなって、そんな自分が嫌で消えたくなった。

 でも、どうしようもなくなった時、手を握られたんだ。

 自分の手を包む、自分よりも少し大きな力強い手。

『詩音、おかあさんにこのげき見せるんだろ? そのためにがんばってきたんだろ?』

 心細くて泣き出してしまいそうな自分の心をすくい上げてくれたのはその手だった。

『だいじょうぶ。だいじょうぶ。詩音ならできる。だっておれの妹なんだろ? 安心しろ! 兄ちゃんがいるから。だいじょうぶだから』

 いつもはこ憎たらしいその笑顔も心強くて、安心して、私は大丈夫になれたのだ。

 ……ああ、そうか、あの手はお兄ちゃんの手だったんだ。





◇◆◇

「詩音ちゃん、起きて」

 名前を呼ばれて詩音は瞼を上げた、目に映るのは翼の背中だ。

「寝てたでしょ?」

「……ばれた?」

「うん、ばれてるよ」

 思わず詩音は盛大なため息をついた。寝るつもりはなかった。

 それに、だ。寝て疲れが取れた冷静な頭であらためて自分の行いを振り返ると、羞恥でいっぱいになり、身悶えるようにぐりぐりと自身の頭を翼の背中に押し付ける。

「あーあ、今日一日でつーくんにギャン泣きしてるところ見られるし、おんぶされるし、そのまま寝ちゃうしで、面目丸つぶれだよ……」

「おれは珍しい詩音ちゃんをたくさん見れてよかったけどな」

「それ、逆の立場だったら言える?」

「……言えないね」

 詩音は翼におんぶされる形で山を下っていた。滑り落ちて気絶した時に足をひねっていたらしく、その状態で歩くのは時間がかかる上に危険だということで今に至る。

 しかし、だ。まさか翼におんぶされる日が来るとは思ってなかった。幼い頃は詩音が翼をおんぶしていたこともあったからなおさら。

 あらためて翼はもう詩音にとって小っちゃい弟ではなくなったのだと思い知らされる。

「……はぁ、つーくんも男の子だったんだね。というか、身長伸びた?」

「何言ってんの。おれは昔から男だよ。あと、身長も伸びたよ。そろそろ姉ちゃんも追い越すかも」

「え、空ちゃんも!?」

「成長期の男子中学生を甘く見ないでもらえますか~? っと、着いたから詩音ちゃん、自転車、ここに座って」

 山の麓に着き、翼は詩音を降ろして、近くに止めていた自転車を引いてくる。

「あれ、ハナ?」

「んにゃあ~」

 自転車には先客がいた。バスケットから黒猫が顔をひょっこり覗かせる。

「ハナは最初から一緒に山を降りてたよ。詩音ちゃんがおれの背中で寝てるから静かにしててくれてたんだよ」

「そうだったんだ、ありがとね、ハナ」

 詩音はハナを撫で、翼が自転車に乗ったのを確認した後、荷台に座る。

「それじゃあ、公園にいくよ」

「はーい、おねがいします」

 翼が地面を蹴り、ペダルをこぐと夜風が詩音たちを包んだ。

 田んぼの稲が風で波打つ音、鈴虫の夜をこだまする音、自転車をこぐ息遣いの音。

 夜は真っ暗で、照らすものは空からの小さな光たちと心もとない自転車のライトだけなのに、怖くはない。静かに、でも、たしかに優しい音が夜が寂しくならないように奏でている。

 忘れない。もう忘れてしまうものか。と、詩音は思った。

 この特別な夜を、苦しくて愛おしかったこの時間は誰にも、自分にさえも奪わせない。

「つーくん、私、今日のこと忘れないよ」

「うん、おれだって忘れない」

「何度も、何度も、これからの未来で思い出すよ」

「ほんと、また忘れちゃったりしない?」

「忘れない。お母さんと過ごした思い出も、お兄ちゃんに手を握ってもらった思い出も、つーくんと空ちゃんと一緒に遊んだ思い出も、一華と約束した思い出も、全部」

 詩音は自分に言い聞かせるように呟く。無意識のうちに翼の腰にまわしていた腕の力を強めた。

「そっか、それなら安心だ」

 だんだんと公園に近づいて来ているのだろう。周りの景色が見覚えあるものに変わってきた。

「というか、詩音ちゃん。山の花畑を見ないで帰ってきちゃったけど、大丈夫だった……?」

 結局、父と母の思い出の場所にはたどり着くことはなくここまで来てしまった。母が見たかった景色を見てはいない。

 何かが変わるかも、詩音の壊れそうな心を繋いでくれるかもしれない。そんな想いで向かっていた。

 でも、もう、大丈夫だった。

「うん」

 大切な思い出の場所は詩音にだってある。

「私の花畑はここだから」

 自転車が止まり、公園につく。東屋を中心に秋の花々が咲き始めていた。

 ハナはバスケットから抜け出して、秋の花々に飛び込んでいく。

 そういえば、と、自転車から降りた詩音は翼に声をかける。

「つーくんの告白の返事、結局まだちゃんとしてなかったね」

 ガシャン!

 ちょうど降りる途中だった翼は不意の言葉に動揺し盛大に自転車と一緒にバランスを崩して倒れる。

「しっ、詩音ちゃん!? えっ、今このタイミングで言うの!?」

「うん、そうだよ」

 この際痛みなど気にしている余裕は翼にはなかった。顔をりんごのように赤くし、目を白黒させる。

 そんな翼の様子を愉快そうに詩音はくすりと笑みを零し、少しでも倒れた翼の視線に合わせるように腰を下ろした。そして、目を閉じ深呼吸。

「あのね、つーくん、」

 瞼を上げ、翼を見つめる。

 ……まさに詩音が返事の言葉を口にするその時だった。

「詩音……!」

「わっ、一華」

 翼が起き上がるよりも先に、一華が詩音に飛びついた。

「よかった……。よかった、詩音……詩音」

 もう離さないとばかりに詩音を強く抱きしめ、一華は何度も詩音の名前を呼ぶ。

 名前を呼ばれる度、詩音は応えるように頷く。

 そんな目の前で繰り広げられる光景を取り残されたように見る翼。なんとも絶妙なタイミングで詩音を奪われ、どうにかして取り返せないものかと頭をひねるが、今までずっと詩音との時間を占領していたのと、今この瞬間この二人に割って入ったら一華に一生恨まれそうな気がして肩を落としながら諦めた。後から来た姉が優しく肩を叩いてくるのがより一層切ない。

 自転車で少し冷えた詩音の体に、一華の体温はちょうどよかった。詩音が見えて思わず駆けながら来たのだろう。ドクドクドクと、心臓の脈打つ音が早いのが伝わってくる。詩音が抱きしめ返すと今度は一華は自身の額を詩音の額に付けた。

 それは詩音の母が泣き虫だった詩音にやってくれた大丈夫のおまじない。

「詩音、大丈夫?」

「大丈夫。大丈夫じゃなかったら、一華が一緒にいてくれるんでしょ? なら、平気」

 額を離し、詩音は公園を見渡した。

「にしても、すごいね。夏とはまた違う花が一面咲いてる」

 特に目を引くのは薄紫の花だ。どの花よりも多く咲き誇っている。

「山に行かなくったって、ここには詩音の花があるよ。だから詩音、これからは山に行くんじゃなくてここに来ればいいのよ」

「私の花?」

「そう、詩音と同じ名前の花。一ノ瀬さんのおばあさんが昔、山から持ってきたの」

「おばあちゃんが山からもってきた時は少しだけだったけど、年々時間をかけて増やしていったみたい。もしかしたら、今はもう詩音のお母さんが見たかった花畑と同じくらい咲いているんじゃない?」

 詩音と一華が会話をしていたら空も加わってきた。

 紫苑の花。自分の名前の由来にもなっていると昔、親から聞いたことがあったが、こうして一面咲いているのを見るのは初めてで不思議な気持ちだった。

「公園のすぐ横にある川では俺の名前の由来になった花も初夏に咲くらしいぞ」

「あ、お兄ちゃん」

 空の後ろから彩夢も姿を現した。少し気まずげに目を逸らし、後ろに何かを隠したのを詩音は見逃さなかった。

「ねえ、今、何隠したの?」

「えっと……、ごめん。これ、先に読んだ。たぶんほんとは一緒に読むべきものだったと思う」

 兄の目をよく見ると赤くなっていた。声も鼻声になっているし、泣いたのだろうか?

 詩音も人のことを言えないくらい目元も赤いし鼻声ではあるが、兄をそうさせたものには興味があった。

 彩夢が詩音に差し出したもの、彼の手に握られているものに視線を向けると詩音は驚きで目を見開いた。

 絵本だ。

 詩音が幼い頃、何度も何度も読んだ大切な思い出の絵本。

 でも、その絵本は記憶のものとどこか違う。違うのだ。

「これは……?」

「母さんが最後に俺らに残したもの。言花の猫の続きだ」

「なんで、今になって……?」

「絵本を入れていた箱が今までずっと鍵かかってたんだ。それがさっき開いたんだ。まあ、また今度詳しく話すから、とりあえず、今は読んでほしい」

 彩夢にお願いされ、詩音は絵本を開く。

 懐かしい文字、懐かしい絵。一つ一つの母の影が残っていて、もういないのに記憶の中の母が優しい声で絵本を読み始めた。








 名前もないある町にね、言花の猫っていう猫さんがいたの。

 猫さんはね、誰かの想いが詰まった言葉の種を届けにいくの。

 悲しいことや、嬉しいこと。些細な願いや、溢れる愛。一つ一つの想いがその言葉の種には息づいて、芽吹くのを待っている。

 そしてね、長い旅を得て、猫さんはその言葉の種を必要としている人に届けるの。

 すると、言葉の種は美しい言の花を咲かせるの。

 その言の花はね、どれ一つ同じものはないの。

 勇気の花、愛の花、絆の花、過去や未来の花まであるの。

 その言葉の種に込める想いによって、咲かせる花は色も形も意味も変わっていくんだ。

 ……そんな言花の猫さんのお手伝いをする男の子と女の子がいたのです。

 仲良しなお兄さんと妹。

 猫さんだけじゃ言葉の種を届けに行くのは大変だから二人が手伝うのです。

 男の子が沢山の言葉の種を運んで、猫さんが案内をして、女の子が言葉の種に宿った想いを伝える。

 すると、ほら、素敵な言の花を咲かせる。

 二人と一匹は旅をして、言の花を咲かせていくのです。

 とある村では勇気の花が咲き、俯いていたナイトが大空を見上げるようになりました。

 とある王国では愛の花が咲き、自分勝手なお姫さまが愛すること知りました。

 とある森では絆の花が咲き、独りぼっちだった魔法使いに一緒に笑い合える友だちができました。

 だけどね、旅には終わりがあるの。

 猫さんは男の子と女の子に言います。

「さよならの時間だよ」

 どこかでお別れの鐘の音が響きます。

 二人はお別れをしたくないと泣き出してしまいます。言葉にならない想い溢れた涙が零れ落ちます。

「僕は言花の猫。僕は言葉の種を届けて、言の花を咲かせるために生きている。だけど、君たちは違う」

 二人には帰るおうちがあります。二人には二人の過去があり、未来があります。

 交わることはあっても、同じではありません。

「また、未来で会えるよ。その時は君たちへ言葉の種を届けるよ」

 でも、永遠のお別れではありません。猫さんは約束をします。

 また未来で交わった時、二人だけの言花を贈ることを誓います。

「苦しくなったら過去を振り返って僕たちとの旅を思い出して。君たちのおかげで咲いた言花たちと笑顔になった人たちがいたことを忘れないで」

 ただ、いつ来るか分からない未来に苦しくなってしまう時があるかもしれません。

 だから、魔法の言葉を贈るのです。猫さんが二人の前から消えても大丈夫なように。

「俺、会うのを待ってる。また一緒に言の花を咲かせよう」

 男の子は未来に夢を見て、

「私も、忘れないよ。何度も思い出すから」

 女の子は過去に想いよせました。

 そして、言の花の猫さんは二人に別れを告げて、またどこかの町に誰かのもとへ言の花を咲かせに旅立ちました。


 ねえ、言花の猫さん。

 今日はどんな言葉の種を届けるの? どんな言の花を咲かせるの?





◇◆◇

 詩音は絵本を読み終える。

 先ほど十分と言えるくらい泣いたはずなのに、視界が涙で滲んでいた。

 初めてあの絵本を読んでもらった時の同じワクワクやドキドキが蘇って嬉しいに決まっている。だけど、涙が止まらなかった。

 真っ先にこの気持ちを伝えたい人はもういないのだから。

 顔を上げると紫苑の花々が目に映る。母が遺した思い出のひと欠片。

 思わず詩音は笑った。思い出が詩音の涙を拭ってくれた。

 そして、温かな手が詩音の手を握った。今も一緒に時を刻む人。

 まだ悲しい気持ちは消えないけれど、もう、大丈夫だった。

 夜空のカーテンが少しずつ閉じてゆき、太陽が姿を現す。

 詩音は母に、忘れようとした過去に、過去もそしてこれからの未来も一緒に過ごす大切な人たちに向けて呟く。












「ただいま」















 想いが込められた言花の花束を抱え、自身の言花を、過去の花を咲かせて、詩音は微笑んだ。













 日が昇る。秋の風が暑さをさらっていく。

 ……もうすぐ思い出を詰め込んだ夏が終わる。

 言花の猫と再会した少年少女たちは、自分たちの力で言の花を咲かせることができる。

 もう、自分たちの力で想いを伝えることができる。

 だから、今日もまた彼らは、彼女たちは、沢山の想いがこもった言の花々を咲かせた。












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