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絆の花

◆Once upon a time◆


あるもりに魔法使いがいました。

 かのじょは絆をきらっていました。

 むだなものだとおもっているからです。


 だから、だれももりにはちかづかず、おそれるようになりました。

 もりの魔法使いのいかりをかえばころされると。


 そんな魔法使いのところにコトハナのネコがやってきました。

「キミはどうして絆はむだだというの?」

「あいまいでかたちがないくせに、人をおろかでみにくくさせるものだからだ。なにもいいことはない」

「ほんとうにそうおもっているの?」

 魔法使いはネコのいっていることが、よくわかりませんでした。

 それいがいにおもっていることがあるのでしょうか?

「ねえ、魔法使いさん、キミがほんとうにきらいなのはなに?」

 はて? ネコはなにをいっているのでしょうか?

 魔法使いは絆がきらいなりゆうをちゃんといっているのです。それいがいになにがいったいあるというのです。

「…………」

 だけど、魔法使いはうまくいえませんでした。

 けっきょく、じぶんでもよくわかってないからです。

「じゃあ、キミにこのコトバのタネをあげよう。きらいなのがわかったら……ほんとうにもとめているものがわかったらこえにだしていってみて。きっとステキなコトハナをさかせるよ」

 そういってネコは魔法使いにタネをあげました。


「わたしは絆がきらい。きらいにきまっている」

 いつもピリピリしている魔法使いはさらにピリピリするようになりました。

「ああ、キミはそう思うんだね」

「あなたはあんなしつもんをしたのに、ひていしないのね」

 魔法使いはすこしおどろきます。

 ほんとうにきらいなのはなに? と、ネコはきいてきたのだから、いまだに絆がきらいというじぶんにあきれるかとおもったからです。

「だってそれがただしいのはキミしかわからないだろう?」

 ネコは魔法使いのとげとげしたことばをひていせず、ただとなりにいてくれます。

 魔法使いはふしぎでしかたありませんでしたが、いやなきもちはしませんでした。

 そんなある日、もりにかいぶつがやってきました。

 むかし、じぶんをじゃましてきたネコをうらんで、こんどはたべてしまおうとおもったようです。

「あぶないからキミはたいせつなものをもってにげて」

 かいぶつがねらっているのはネコです。だから、ネコは魔法使いにじぶんからはなれてほしいといいました。となりにいないでほしいといいました。

「いやだ。そんなのいやだ」

 魔法使いはたいせつなものを、ネコのてをにぎりました。

「キミらしくない。これはきっとキミのいうむだなことだよ」

「むだじゃない。むだじゃないの」

 かいぶつはどんどんちかづいてきます。口を大きくひらいて、おそろしいきばをひからせます。

「わたしきづいたの。絆をしったら、いままでひとりだったじぶんがきらいになってしまうって、いつかまたひとりになってしまうのがこわいって」

 魔法使いはネコからもらったコトバのタネをにぎりしめます。

「でも、もっときらいなのはあなたをうしなうこと」

 なきながら、ふるえるこえで魔法使いはネコにうったえます。

「わたし、あなたと友だちになりたい……あなたとの絆がほしいって」

 すると、どうでしょう。

 魔法使いの手からつたがのび、青や白、ピンクのアサガオの花が咲いてひろがっていきます。

 きづけば、もりぜんたいに花が咲いていました。

 かいぶつはつたがからまり、うごくことができません。

 それから花を、ネコを、想いの力をおそれたかいぶつは、わるさをすることをやめました。

 そして、魔法使いはネコに想いをつたえ、友だちになりました。

 魔法使いは花をさかせたのです。

「ありがとう。ステキなアサガオの花だね。キミはコトハナを、絆の花をさかせたんだよ」

 ネコはうれしそうにわらって、そして、魔法使いにサヨナラを言います。

「それじゃあ、またね。ボクたちはたびにでるよ」

 サヨナラしても、はなれていっても、もうこわくはありません。

 絆が魔法使いとネコをつないでくれるからだいじょうぶ。

 そして、ネコはまたコトハナをひつようとしているひとのところへ、たびにいってしまいました。













 色とりどりの花がさくもりに魔法使いがいました。

 かのじょは絆を大切にする友だちおもいのしょうじょです。

 そして、きょうはかのじょの友だちがあそびにくる日。

 かのじょはしあわせに、たいせつなひととのじかんをすごすのです。


 これはアサガオのもりの、あるしょうじょの絆のおはなし。




◇三話 絆の花◇


最近よく昔の思い出を夢で見るようになった。

 友だちと遊んでいた頃の思い出。


 夢の中で必ず現れる自分の手を引く女の子。

 朝日に照らされたお花畑で遊んだり、夕暮れのオレンジ色に染まった放課後の教室で内緒話をしたり。

 大切な大切な記憶の一ページ。

 今日はその子との特別な思い出を見た。

 色とりどりのお花に囲まれた場所は夜に飲み込まれて色を失い、雑木林は大きな影の怪物になってわたしを襲おうとする。

 いつもの景色とは全然違う。まるで別の世界に紛れ込んでしまったみたい。

 迷子になりそうで怖いけれど、あなたがいるから大丈夫。

 ギュッとあの子の手を握る。

 小さくて、温もりのある手。

あの子の手を握っていればわたしは俯いていた顔を上げられる。

「ねえ、上を見て! お花が咲くよ!」

 ドン! 暗い世界を引き裂いて、大きな光の花が咲く。

 ああ、来れてよかった。あなたと見れてよかった。


 だけど、あなたはもうわたしの隣にはいない。わたしの手を握ってくれない。

 わたしはまた独り。

 ねえ、あなたはどこにいるの? あなたは約束を覚えているの?

 わたしの言葉は届かない。







◇◆◇

 蒸し暑さが残る夜の駅。

 夏休みが来たというのに世間は変わらず忙しく、街は人工の光で満たされていて、仕事帰りの大人や部活帰りの学生が疲れ切った表情で詩音の目の前を横切る。

 空を見上げても街灯のせいで星々は隠れていて、一面絵具で塗りつぶしたかのように真っ黒。唯一空を灯す光があるとするならそれは月だけだろう。

「神社なら星も見えるかな……?」

「何が見えるって?」

 街灯も家も少なく田んぼと雑木林で囲まれた神社、詩音にとっての秘密基地であるあの場所なら星も姿を現すだろう。

 思わずこぼれてしまった独り言を拾ったのは中学からお世話になっているクラスメイト。

「うわっ! 真樹、びっくりするんだけど……」

「ごめん、ごめんって。で、何か見えるの?」

「いや、星が見えないから神社なら見えるかなって言っただけ」

 神社という詩音の言葉からピクリと真樹は眉を動かす。含みのある笑みを浮かべて、詩音の肩に腕を回す。

「また、ヒーロー活動の話~? 詩音、なんだかんだ言って結構楽しんでいるでしょー。あーあ、最近相手にされなくてアタシさみしーなー」

 ヒーロー活動。詩音の幼馴染である空を中心に慈善活動やら、空の思い付きという名の変なことをやる謎の活動。

 そんなヒーロー活動を始めたことを詩音は真樹にだけは話していた。

「そんなくっつかないでよ。熱いって。それに会う回数で言うと真樹の方が多いじゃん」

 バドミントン部に所属していた真樹も大会が終わり無事に引退。休む暇もないままこうして夏休みが始まった今は詩音と同じ塾で基本毎日夏期講習を受けている。

 親は仕事で不在、兄は一方的に嫌っているため、詩音の普段の会話相手は自然と真樹だけになった。

 もちろんヒーロー活動中、空たち姉弟に話すことはあるが所詮は週一の集まり。数で言うとほとんど塾で会っている真樹の方が多い。

「でも、遊びじゃなくて勉強じゃん。久しぶりに詩音と遊びたいよ」

 だが、真樹が不満なのは一緒にいる回数ではなく一緒にいる内容らしい。

「ねね! せっかくだからさ、今度バドミントンやろうよ。ほら、いい気分転換にもなるし!」

 詩音の肩に回していた腕をどかし、真樹はバドミントンの素振りのフリをする。架空のシャトルに向かって左の人差し指で指差す独特な癖に詩音は笑みを溢す。中学一年生の時から変わらない真樹の癖。初めて見た当時のやりとりを思い出して懐かしさを覚える。

「いいね。受験のストレスを発散したいし、今度やろっか」

 無性に真樹とダブルスを組んでいたころが恋しくなって思わず賛成する。五年前までは今日みたいな蒸し暑い日に体育館で必死にシャトルを追いかけていた。

 風もない、うだるような暑さ。踏みしめると汗がぽたりぽたりと落ちて、キュッとシューズの音が響く。そして一瞬感じるラケットを振り抜く鋭い風。

 全身が風になったようなあの快感をまた味わいたい。

 かつてのダブルスのペアである真樹とそんな時間を共有するならもっと楽しいだろう。

 だから詩音は笑顔でその提案を受け入れたのだが、当の提案した本人は目を丸くして信じられないものを見たように動揺する。

「えっ!? 本当に!? 本当だよね!? 嘘じゃないよね!?」

 嬉しさ半分驚き半分といった感じで何度も真樹は確かめるように問いかける。

「本当だよ。嘘じゃないって! 大袈裟すぎるよ。そんな風にしつこく聞くとやる気なくなるんだけど」

「え〜! それはやだ! だって、前はなかなか誘ってもやってくれなかったから嬉しくなっちゃって……」

 そう真樹に言われて詩音は気づく。確かに部活を辞めて以降、何度か真樹に誘われたがやった記憶がない。

「なんだか詩音、変わったね。いや、変わったっていうより昔の詩音に戻ったみたい」

 だから立て続けに言う真樹の言葉につい反応してしまった。

「戻った? 昔の私に?」

 正直詩音は変わったつもりはない。実際、久しぶりに翼に再会した時は変わってないと言われた。戻る以前にそもそも変わってないのだから一体どこが昔に戻ったというのだろうか?

「なんだろ? 子供っぽくなったって感じ? あ、もちろんいい意味でね!」

「何それ? 全然良くないじゃん! ……私は早く大人になりたいのに」

 ムッと顔をしかめて不機嫌さを露わにする詩音を見て、より一層真樹は口元に弧を描き、詩音の頬を突く。

「時々大人っぽくて、考え事してる詩音も好きだけど、コロコロ表情変わる子供っぽい詩音もアタシは好きだな〜」

「もうっ! そんなこと言ってないで、電車が来たから早く乗ろっ!」

 真樹が言うように子供っぽくなったことが本当なら、それはきっと空たち姉弟に再会したのが原因だろう。あの姉弟、特に空は大人になろうとする詩音を掴んで子供へと引きずり戻そうとするのだから。

 だけど、それを認めたくない自分がいて、無性に照れ臭くて、恥ずかしくて、ただでさえ暑いのに詩音は頬を赤く染めて冷気漂う電車内に逃げるように駆け込んだ。






◇◆◇

 ホール、教室、畑、中庭の山、幼いころは大きいと感じていた場所は全て今見るととても小さくて、ミニチュアのようで、記憶に残っていた景色のずれから自分がまるで巨人になったのではと錯覚してしまう。

 詩音たちは今、ヒーロー活動の一環としてかつて自分たちが通っていた幼稚園にいる。

「空ちゃん、詩音ちゃん、翼くん、今日はお手伝いに来てくれてありがとうね。先生、久しぶりに会えてとても嬉しいわ」

 その幼稚園のホールで空、詩音、翼の三人は段ボール箱や百均で売っていそうな飾り道具を前に腰を下ろしていた。

 今回、空が見つけてきたお手伝い……もといヒーロー活動は夏祭りで行われる幼稚園の出し物のサポートである。

 町の夏祭りにはステージが設けられており、お昼には近辺の幼稚園や小学校、中学校、または地元の有志の人たちが何かしら発表している。

 詩音たちが通っていた幼稚園では毎年伝統の演劇発表があり、お手伝いとして詩音たちはその演劇に必要な道具を揃えたり、運んだり、セットすることになっていた。

「あたしも先生たちに久しぶりに会えて嬉しいです!」

 空はおっとりと話しかけてくる年配の女性、幼稚園時代の先生に明るく返事をする。

 今日は再来週の本番で使う舞台背景や道具の作成だった。いつもなら毎年使っているのをそのまま使い回しするのだが、だいぶ年季が入って壊れる危険があるらしく、新しく作り直すとのこと。

 空は前のヒーロー活動の一環で公民館に行った時、そのことを偶然ここに通う幼稚園児に聞いてお手伝いをすることを決意したらしい。

「だって、ほら、この演劇はあたしたちの代の時から始まったじゃん。だから、なんか、やりたくて」

「そういえば空ちゃんと詩音ちゃんたちの代から始まったのよね。なんだか懐かしいわ。たしか、この劇の脚本は詩音ちゃんのお母さんが描いた絵本をモデルにしたのよね」

 自然と全員の視線が詩音へと集まる。詩音はその視線の居心地の悪さから逃れるように目を逸らし、曖昧に答える。

「……あれ? そうでしたっけ? ずいぶん前過ぎて覚えてないです」

「あら、そうなの? 先生は今でも覚えているわ。引っ込み思案のあなたが、ママのつくった絵本をやりたい!って言った時、なんだかすごく嬉しかったの」

「へ~、詩音も可愛いとこあるじゃん! そっかぁ~。詩音が言ったからあの劇が始まったんだ……。あたし、あのお話なんだかすごく好きだったの覚えてるな~。たしか、名前はこと―」

「空ちゃん。思い出話に花を咲かせないで、早く作業を進めよう。私、この後に塾があるからできる限り進めたいんだ」

 苦笑いをしながら昔話をやんわり拒絶する。

 塾という存在がダメなのか、空は顔を引きつらせ大人しくなる。しかし、静かになる姉とは対照的に弟は詩音の話に食いついた。

「ねえ、詩音ちゃん。受験のことでちょっと相談したいことがあるんだけど……」

「いいけど、私、中高一貫だったから高校受験はしてないよ。それこそ聞くなら空ちゃんの方がいいんじゃないの?」

 もっともな正論で翼は少しうろたえるが、首を横に振り詩音に詰め寄る。

「姉ちゃんはバカだから当てにならないよっ! それに詩音ちゃんじゃないと意味がないっていうか……ほら、受験っていってもおれが聞きたいのは勉強の内容だから!」

「あ~なるほど。それなら確かに私の方が適任かもね」

 翼の説明に詩音は納得する。同時に彼がどんな高校を志望しているのか、あまり今まで話してこなかったことに気づかされる。

「ていうか、つーくんは志望校どこなの?」

「進学校に行きたいと思っているんだ。それに身内の人が通っていたところの方が便利そうだから……」

 それから翼は視線を詩音と空に一瞬だけ向けて、少し気恥ずかしそうに頬を赤く染めて呟く。

「詩音ちゃんが行っている高校の外部生として入学するか、ねーちゃんの高校に行きたいと思……って、る……」

「んふふっ、翼~、あたしの学校に行きたいのか~」

「空ちゃんが通う学校って確か公立だよね。私の高校は私立だから……第一志望は空ちゃんの学校になるのかな……? でも、空ちゃんが通う学校でしょ……?」

 空はめったに見せない弟の素直な言葉に空は喜びを隠しきれず、だらしないまでに口元を緩ませる。反対に、詩音は冷静で心配げな表情になって翼に確認する。たしか詩音の記憶が正しければ空はあまり勉学に勤しむタイプではなく、むしろ逆だったはず……。

「それって本当に進学校なの……? つーくん、大丈夫? 間違えていない?」

 実際、今までも空は勉強を避けているそぶりもあったし、よくよく考えると先ほど実の弟である翼から「バカ」だと言われている。

 詩音が高校受験に詳しくないとはいえ、とてもじゃないが空が通う高校が進学校とは思えない。

「ねえ、詩音! それ、遠回しにあたしのことバカって言ってるでしょ!? 言っとくけど、あたしの高校、ちゃんと進学クラスがあるからね! 結構有名な大学に行った人もいて、頭いいんだから!」

 どうだすごいだろと言わんばかりの得意げな顔。しかし、水を差すかのように翼は補足説明をする。

「確かに進学クラスは偏差値高いみたいだから、おれは行きたいと思ってる。でも、姉ちゃんは進学クラスじゃなくて、一般クラス。しかもその中でもドベのドベだから」

「あーなるほど。進学クラスっていうのがあるんだね。じゃあ、つーくんが志望校にするのも納得だ」

「ねえ、翼! 姉を敬う気持ちはないってわけ!? ちょっとくらいはいい顔させてよ!」

 見事に進学校ブランドをぶら下げアピールするも不発に終わり、空は駄々をこねるように口を尖らせる。

「……まぁ、それなりに姉ちゃんはすごいとは思うよ。ほら、ヒーローだし、かっこいいよ、うん。……バカだけど」

「確かに空ちゃんの行動力とか真っ直ぐなところとかは素敵だと思うよ。……勉強に関しては何も言えないけど」

「ふふん! なんてったってあたしは素敵でかっこいいヒーローだからね!」

 都合よく褒めている部分だけ聞いて、空は上機嫌に頬を緩める。

 しかし、本題から話が逸れたのと疑問が浮かんできたので、軌道修正するかのように詩音は問いかける。

「あれ? 空ちゃんが一般クラスってことは進学クラスのことについてつーくんに説明できなくない? ……ああ、でも進学クラスに友達がいれば分からなくもないか」

 進学クラスと一般クラスは一年生の頃から分かれていて、基本的な授業カリキュラムも異なる。同じ部活動などではない限り、交流する機会もない。

 だから一般クラスであり部活動にも所属していない空は進学クラスの知り合いなど……いや、いる。

 つい最近仲良くなった、でも昔からの知り合い。

「そういえば、思い出した。いるよ、進学クラスの友達」

 そもそも相手が空を友達と認識しているか怪しいところだが、空にとって一度でも会話が成立すれば友達。チャットのフレンド登録をしたら遊びに行ってもいいレベルの友達なのだ。

「詩音も知ってる子。トージョーさんだよ」

「トージョーさん?」

「ほら、昔、詩音とよく一緒にいた子。東条一華ちゃん」

 東条一華。空と同じ高校に通う進学クラスの才女。小学生の頃はよく詩音と行動していた少女。

 彩夢と詩音のことで悩んでいた時、空は一華に悩みを聞いてもらったことがあった。今までお互い存在は認知していたのだが、面と向かって話すのは初めてで、その時何かの縁ということで空は一華とフレンド登録した。

「そうだ! 偶然仲良くなったから遊びに誘おうかなって考えているんだけど、詩音も一緒に遊ぼうよ。久しぶりに会いたいでしょ?」

「…………」

 しかし、答えは返ってこない。詩音は固まったように動かない。

 僅かに呼吸のリズムが乱れ、首筋からうっすらと汗が浮かぶ。

 一華という少女の名前に詩音は少なからず動揺していた。だか、空にはそんな少しの変化は気づかない。

「とりあえず、あたしと詩音とトージョーさんで、チャットのグループつくっちゃうね!」

 詩音の無音の返事を賛成と捉えたのか、空は意気揚々とスマホをいじる。

 ピロンと軽快な機械音が詩音のスマホから聞こえたと思うとチャットのグループ招待通知が届いていた。

「よし、おっけ! グループつくったから後は予定を聞くだけっと……。ねえ、詩音、トージョーさんとどこに遊びに行く?」

「え……えと、あっと……」

 いつもより歯切れの悪い詩音に空は首を傾げるが、すぐに意識は別へと移された。

「ねえ、何勝手に遊びの話を進めちゃってるの!? おれは受験の話をしてたんだけど!」

 というのも眉間にしわを寄せた弟がたいして怖くもない顔で怒ってきたからだ。

 声変わりもして数年前と比べると男性っぽさが出てきたが、空にとってはヘタレで小生意気な可愛い弟であることは変わらない。

 空は翼の姉ちゃんなのでぷりぷり怒る弟にかまってあげる。

「なになに? 翼、仲間外れにされちゃって寂しかったの?」

「べっつに寂しくなんかねえよ!」

「はいはい、安心して。ちゃんとあんたの相手もしてあげるから……そうだ!」

 空は指をパチンと鳴らし、自身の思いついた名案に満面の笑みを浮かべる。

「せっかくだから、遊戯会のお手伝いが終わったら一緒に夏祭りみんなで行こうよ!」

 たしか小学生の頃も毎年みんなでこの夏祭りに行っていた。またあのときみたいに、昔に戻ったかのように、馬鹿みたいに、無邪気に遊びたい。みんなとなら間違いなく楽しくなる。

「みんなでって……おれと、姉ちゃんと詩音ちゃんと……ってこと?」

「そう! ……あっ、翼、もしかして一緒に夏祭りに行きたい子とかっていたの?」

 可愛い弟とはいえ、年頃の男の子だ。空が知らないだけでもしかしたら恋の一つや二つあるのかもしれ……いや、ないな。弟がいじめられていたことには気づけなかったが、弟の色恋沙汰には気づく自信はある。そして今まで翼からそういった色めき立った気配を感じたことはない。色めき立った気配とは何なのか? 例えば、そう、今みたいにやたら挙動不審になって頬を赤らめながら視線を詩音にちらちらと向けていたり……

「……え? 翼、あんた、もしかして」

 言葉にはしなかった。ただ、空は視線を詩音に向けた。それだけで翼に伝えるのには十分だった。

「ばっ、ばか! 何言ってんだよ! お、おれが好きなわけっ、ないじゃん……っ!」

「あれ~? あたし好きなんて一言も言ってないんだけどな~」

「あっ……! しまった……!」

 自分の失言に気づいても後の祭り。翼は知られたら一番面倒くさい相手に知られてしまい、頬をひくつかせる。

 空はヒーローでもあるが、恋愛やオシャレが好きな女の子でもある。思わぬタイミングで恋の迷える子羊を見つけてしまい、気分が高揚し饒舌になる。

「そっか、そっか~。もう、翼もそういうお年頃なんだね~。おねーちゃんもびっくりだよ~。しかも、相手が……」

「わー! わーっ!」

 思わず空が詩音本人の前で口が滑りそうになってしまうが、翼が声をかぶせてなんとか誤魔化そうとする。

 もうすでに一連のやり取りで察せられそうではあるが、話題の中心人物である詩音は心ここにあらずのようで幸いにも一ノ瀬姉弟のやり取りにも気づいていなかった。

「一華……遊びに行く……みんなでお祭り……」

 断片的に聞こえてきたワードをつなぎ合わせるように詩音は単語を羅列する。

 良かった、バレなかった。詩音本人に悟られなかった事実に翼は胸を撫で下ろす。

 翼は、自身の秘めたる想いを暴露しようとした姉を睨んで、同じことを繰り返さないようにと目で訴えた。

「そんなに睨まないでよ翼。ごめんって。……ていうか、そう、詩音、みんなでお祭り行くの!」

「そっか……みんなでお祭り……。……空ちゃん、じゃあ、私から声かけてみていい?」

「詩音から? 声かける? ……まあ、とりあえずオッケーだよ!」

 詩音の言葉の意図が掴めず、正直何について確認をとっているのか空は分からなかったが、あまりにも真剣で思い詰めた顔をするものだから思わず許可してしまった。

「ありがとう。……うん、私も空ちゃんたちみたく、頑張って一歩踏み出してみるよ」

 詩音がせっかく勇気を出して行動するみたいなのだ。ヒーローである空は邪魔をするような無粋なことはしない。

「頑張って! 何かあったらヒーローが力を貸すよ!」

 ありったけの笑顔で背中を押す。

 その後、席を離れていた先生が戻ってきて、会話は一旦別の話題へと移った。しかし、作業中も、翼との勉強会も、塾の夏期講習も、詩音はずっと心ここにあらずだったのは言うまでもない。




◇◆◇

「今度、サークルの合宿があるんだ」

「サークルってこの前言っていたボランティアサークルのですか……?」

 サークル。高校生の空にとって馴染みのない言葉を使う彩夢がどこか遠くに感じて、落ち着かなくて、そんな気持ちを誤魔化すようにサイダーを口につけた。口の中でカプセルが暴れ弾け、空の心を洗い流す。

 空と彩夢はいつもの待ち合わせである病院近くの公園の東屋ではなく、公園の隣にある喫茶店でお茶をしていた。

 夏本番真っ只中では木陰があろうとも、流石に東屋で会話に花を咲かせるのは厳しかったからだ。

「うん。といっても、今回は交流がメインの合宿だけどね」

 彩夢はアイスコーヒーが入ったグラスに手をつける。

 店内に流れる音楽も、テーブルに運ばれたケーキも、目の前にいる彩夢でさえ、空とは比べものにならないほど大人に見えた。

 いや、大人に見える、と言うのがそもそもおかしい。彩夢は五月に誕生日を迎えていたらしく、二十歳になり、世間一般では大人として認識される。その上、初めて出会ったあの日、未来に進むことを約束したあの日以降、彩夢は本当の意味で大人になってきていると空は感じた。もう過去に取り残された彩夢ではない、母を失った中学三年生から彼の時間はとっくのとうに動き始めている。

 大人になっていく彼が、知らない誰かと思い出を積み重ねていくことに胸が引き裂かれそうだった。

「たしか、男女合わせて二十人規模のサークルでしたっけ?」

「そう。合宿ではいくつかのグループに分かれて行動するよ」

 空は知っている。こういうイベントで男女が一緒にいれば何かしらの動きがあると。彩夢だって例外ではない。

 空は彩夢に並々ならぬ思慕を抱いていた。手紙で名前しか知らない間ですらその気持ちはあった。

今は数週間に一回、会って話しをするだけ。

たった話しをするだけだが、空にとって彩夢とのこの時間は確かな彩りをもって輝いていた。

 もちろん彩夢もそう思ってほしいと願っている。しかし、彩夢は空ではない。同じ気持ちだとは限らない。サイダーとコーヒーのように全然違う。

 合宿で、いつもと違う空間で、楽しい時間を共有したら、たちまちその思い出は特別になる。空との思い出も塗りつぶされてしまうかもしれない。それに、特別を一緒に過ごした相手は、特別な存在になりやすい。

 空はこの時間が特別を失ってしまうのも、自分じゃない誰かが彩夢の特別になってしまうのも嫌だった。

 空は彩夢の恋人でも何でもない。友人ですら怪しい。なぜなら彩夢とのこの関係に名前がついていないから。だから、彩夢に合宿へ行くなとは言えない。そんなこと言ってしまえば、彩夢に嫌な子だと思われてしまう。それだけは避けたい。空は彩夢の前ではヒーローであり、素敵な女性でいたい。

 なら、どうすればいい? そんなの簡単だ。特別な思い出を一緒に過ごせばいいのだ。誰かが彩夢の特別になる前に、空が特別になってしまえばいい。

「あのっ、その合宿っていつあるんですかっ!?」

 テーブルに身を乗り出して食い気味に問う。思い立ったが吉日。空は何としてでも合宿前に彩夢との特別な思い出をつくりたかった。

 心まで大人になっていく彩夢に振り向いてもらうには今のままじゃダメだ。なんとしても彼の世界に自分の色を刻み付けたい。

 空は翼とは違って控えめにいくつもりはない。とりわけ、恋愛においては。

「八月末にいくよ」

「じゃあ、合宿前に遊びに出かけませんか?」

「空ちゃんが行きたいならいいよ。どこに行く?」

 何も気づかない彩夢は無邪気に笑う。あたしの気も知らないくせにと心の中では悪態つくが、グッと我慢だ。空は何かちょうどいい思い出づくりができないか、必死で頭をフル回転する。

 八月になったばかりだから合宿までに時間がいくらかある。彩夢の予定と照らし合わせなければいけないし、空だってバイトの予定がある。今日、今すぐに決めてしまわないときっと機会を逃してしまう。

 しかし、焦れば焦るほど良いアイディアが浮かんでこない。どれも浮かんでくるものは幼く感じてしまうものか、特別になれるほどロマンティックではない。

 見つめてくる彩夢に気の利いた答えを言えるはずもなく、逃げるように空は視線を右往左往する。

「あ、花火」

 偶然にも運は空に味方した。

 目に留まったのは、お知らせ用に使われているであろうコルクボード。カフェの新商品を紹介しているだけでなく、町のイベント等をお知らせるポスターもコルクボードに張り出されている。

 そこに混ざっていたのだ、八月十五日開催予定の夏祭りと夜開催される花火大会のポスターが。

「花火大会か、懐かしいな」

 昔を思い出しているのか、あまりにも優しい瞳でポスターを彩夢は見つめる。

「行きましょう! 花火大会、一緒に!」

 絶好のイベントだ。空は確信した。祭り、花火、それだけじゃない。このイベントには彩夢と空のそれぞれの思い出が詰まっている。今の楽しい時間を共有するだけでなく、過去の思い出も共有することができる。同じ地元だからこそできること。サークルの仲間だって同じことはできない。

 今度は身を乗り出すのではなく、思わず空は立ち上がった。店内にいた他の客たちは驚いて空に目を向けるが関係ない。というより空は気づいていない。

 同時にグラスの中の氷が揺れてソーダの泡がいくつも上へと弾ける。

 彩夢も呆気にとられるが、あまりにも真剣に空が誘うのだから笑いがこみあげてしまう。

「あははっ! そんなに行きたいんだね。俺でいいなら、行こっか。一緒に」

「やった! 彩夢さんと花火大会一緒に行くの、すごく楽しみです!」

 喜びのあまり空は飛び跳ねる。しかし、一通り嬉しさを噛み締めた後、ここが店内だと思い出した。微笑ましく見てくる店員や他の客に気付いて、今更ながらに恥ずかしくなって風船が萎むように大人しく座る。

 その後は彩夢のバイトの時間が来るまで、花火大会当日はどうするか、夏休みはどう過ごしているのかなど他愛もない話に花を咲かせた。

 ソーダの炭酸が抜け切ってしまっても空の心は止まることなく嬉しさで弾けていた。

 時間になって彩夢と別れた後も空は暫く鼻歌まじりで蒸し暑いアスファルトの上をスキップしていた。

 しかし、軽い足取りはしだいに重くなり空の足は止まっていた。

 ぽたりと汗が落ちる。

「やっば、忘れてた」

 口元を引きつらせ、誰もいない道路に独り言。

 すぐ横の電柱にはカフェ同様、花火大会のポスターが貼られていた。

 空が忘れていたのはまさしくその花火大会について。

『せっかくだから、遊戯会のお手伝いが終わったら一緒に夏祭りみんなで行こうよ!』

 数日前、詩音と翼に言った言葉を思い出す。

 夏祭り。みんなで行こうと提案した夏祭りはまさしく彩夢と約束した花火大会と同じもの。

 味方だと思った運はどうやら少しいじわるだったらしい。

 いや、運のせいにするのは良くない。空が忘れていたのが悪い。

「ま、いっか」

 しかし、空は切り替える。

 きっと詩音と翼なら許してくれる。仕方ないなぁと、ため息つきながら、でも、笑って。むしろ翼は詩音と二人っきりになれる口実ができるのだから願ったり叶ったりだろう。

 もちろん埋め合わせはする。三人で遊ぶ約束をまたしよう。

 小学校の時、みんなで行った遊園地なんてどうだろうか?

 うん、それも絶対楽しくなる。

 思い出巡りをするのは嫌いじゃない。どちらかというと好きだ。

 空にとっては昔の思い出は大好きで溢れているから。

 同様に未踏の地へ飛び込んでいくのも好きだ。

 空がこれから大好きになるものがたくさん待っているから。

 さあ、今度は何をしよう? 何を約束しよう?

 軽い足取りで空は真夏の太陽に笑顔を向けた。






◇◆◇

 クーラーの効いた、鳥肌が立ちそうなまでの涼しい部屋。

 詩音は暖を取るかのようにハナを抱き抱えスマートフォンをじっと見つめていた。画面に表示されているのは電話のマーク。電話の相手は東条一華。

 ただ、電話のマークを押せばいいだけなのに、詩音はその一動作さえできずにいた。

 一華は詩音にとって親友と言っていいほどの存在だった。そう、「だった」のだ。

 小学校の卒業式以降、詩音は一華に会っていない。詩音が自ら連絡手段を断ったからだ。

 本来、詩音たちが通っていた小学校のメンバーは全員隣接する中学校に通う。親の都合、受験、そういった例外ではない限り、別れることはない。

 しかし、詩音はその例外だった。家族の意向で私立を受験し、別の中学校に通うことになったのだ。

 小学校の卒業式を迎えた日でさえ、詩音は誰にもその事実を伝えることはなかった。クラスメイト、幼なじみの空、そして親友の一華にも。

 卒業しても、四月には中学校で再会できると思っていたはずだ。詩音だけはそんな日なんて来ないのを知っていた。知っていて、黙っていたのだ。

 当時、詩音はスマートフォンなんてものは持ってなく、連絡手段はない。

 きっと、突然詩音が消えたと思っただろう。

 だから、これはある意味裏切り行為だ。恨まれていたって仕方ない。

『そっか……みんなでお祭り……。……空ちゃん、じゃあ、私から声かけてみていい?』

 でも、それでも、詩音はまた友だちになりたいと思ってしまったんだ。

 詩音はスマートフォンを強く握りしめる。一華に会おう、会ってもう一度向き合おうと決意した。そのために空からではなく自分から声をかけると言ったのだ。

 たぶん、空たちに感化させてしまったのだろう。

 翼や空、それに彩夢、目の前で彼ら彼女らの勇気を見て、頑張ろうと思えたのだ。

「空ちゃんたちもこんな気持ちだったのかな……?」

 しかし、踏み出せない自分がいる。詩音が思っていた以上に最初の一歩というのは怖いものだと痛感する。

 その上、詩音の記憶が正しければ一華の名前が今と昔で変わっている。

今、スマートフォンに表示されているのは東条一華であるが、最後に会った小学生の頃の一華は遠坂一華であった。たぶん彼女の家庭にも大きな変化があったのだろう。あまり良くない変化が。

 一華。大好きな名前のはずなのに、今は怖くてどうしようもない。

 どんなに当時は仲良くても一度疎遠になってしまえばその途切れた糸を結びなおすのはそれなりの覚悟がいる。特に途切れた原因が自分ならなおさら。

 仕方ないとはいえ、小学生の頃の詩音は向き合うこともせず諦めたのだ。今にも途切れそうな糸を自分の手で静かに切ったのだ。

 今さらになって自分が犯した罪の重さに実感する。

「んにゃあ!」

「って、あぁっ!? ハナ!?」

 詩音は柄にもなく声を荒げてうろたえた。それもそのはず、抱きかかえていたハナが暴れだして、肉球で電話ボタンを押したのだ。

 自分から飛び出す前に、後ろから突然押されて崖に突き落とされた心境だ。

 いつまでも画面と睨めっこしている詩音にハナも我慢できなくなったのかもしれない。

 電話の機械音が鳴り響く。軽快な音が鳴るたびに詩音の体内に流れる血は沸騰し、全身をくまなく火照らせる。先ほどまで寒いと感じていた部屋はとても熱く感じる。

 機械音が止まり、息づかいが聞こえた。

 この電話の向こう側には一華がいる。

 その事実だけで詩音は自分の心臓が風船みたいに膨らんで弾けてしまうのではないかと錯覚した。

『はい、一華です』

 どこか大人びた、だけど、懐かしい声が耳の奥深くまで響く。同時に堰を切ったかのように彼女との思い出が脳裏に駆け巡った。

 授業中にこっそり手紙交換をしたこと。昼休みに図書室の端っこで一緒に本のページをめくったこと。放課後に下校時刻ぎりぎりまで残って教室で内緒話を囁き合ったこと。

 どうして今まで忘れていたんだろうと思わざるを得ないほど眩しく鮮明に思い出はきらめきを放つ。

 詩音は空から一華の名前を聞くまで彼女の存在を忘れていた。あんなに大好きだったのに。

「一華、私、詩音だよ」

『……』

 情けないくらい声が震えている。震えてしまうのは今まで逃げてきた時間の重さのせいだ。

「空ちゃんに教えてもらったんだ。……勝手にごめんね。でも、どうしても一華に会いたくて……」

 ハナがいるのがせめてもの救いだった。もし、いなかったら臆病な自分が表れてスマートフォンを投げ出していた。膝の上で転がるハナの温もりに少なからず勇気をもらう。

「一華、元気だった? 家族、とか大丈夫?」

 当時、一華はあまり家族との関係が上手くいっていなかった。名字が変わったのだって、そう。でも、久しぶりの話題として暗めのものを選んでしまったことを、口にしてから後悔する。

『……約束、覚えてる?』

 しかし、返ってきた言葉は質問の答えではない。ぶっきらぼうなその声は記憶の中の一華と比べて冷たさを感じる。

「約束? なにそれ?」

 一華の言う約束に、詩音は身に覚えがなかった。

 きっと必要な記憶の欠片はまだ足りていない。詩音はまだ何かを忘れている。

『……噓つき』

 ため息とともに吐き出された声は詩音の心を抉った。誰かに伝えるにしてはあまりにも小さな声で、もしかしたら無意識に出た言葉だったのかもしれない。

 聞こえていた息づかいが遠くなる。一華はスマートフォンを耳から話したのだ。

 その行動が何を意味しているかは明白。詩音は必死になって叫ぶ。

「一華、切らないで! どうしても、私、一華に会いたいの。……また一華の友達になりたいの! お願いっ……!」

『今さら会いたいなんて勝手すぎる。……もう、切るね』

 せめて、きっかけをつくらなければ。藁にも縋る気持ちで伝える。

「八月十五日の夏祭り、一緒に行こっ……! 連絡まっているか―」

 プツッ。

 冷房の音だけが部屋に響く。重苦しい空気が詩音の肩に腰を下ろした。

 たった数分話しただけなのに、詩音は限界だった。

 ベッドに上向きに倒れ、腕を額に当てる。膝の上でくつろいでいたハナは驚いて逃げ出した。

 勝手に電話ボタンを押して引っ掻き回したくせに薄情なやつだなぁ、と心の中で悪態つくが、人のことを言えないなと苦笑いを浮かべる。

 勇気を振り絞って奮闘する空や翼を応援してはいた。しかし、詩音はどこか他人事のように思っていたのだと気付く。

「こんなに、苦しいんだ」

 みんなすごいなぁと自嘲気味に笑いを浮かべた。

 伝えるべきことを伝える。伝えるべきでないことは伝えない。

 今までの詩音の発言はこの信念に基づいていた。

 だから、自分の我儘を言葉にするのは怖かった。矛盾してて、勝手で、誰かに頼るから。伝えるべきことではないから。

 そうやって避け続けてきた結果がこれだ。

 空だったら、一緒に行けるまで電話をかけ続けていただろう。でも、詩音は空ではない。

 東条一華と記載された電話履歴。

 もう一度かけ直すことはないまま、詩音は表示画面を暗くした。





◇◆◇

 親友だった子から電話がきた。

 塾から家に帰宅したばかりで、疲れきった体を回復するため少しだけベッドに横になっていたら突然スマートフォンが鳴ったのだ。

 最初、電話相手の名前を見た時、目を疑った。

 野原詩音。

 嘘つきで憎らしい人。

 わたしが彼女を一番必要としていた時、彼女は目の前からいなくなった。何も言わずに。

 家も、学校も、どこもわたしにとっては心休むところなんてなくて、唯一、あるとしたら彼女の隣だけだった。

『約束、約束だよ』

 あの日、幼いあの子は言った。

 ずっと一緒だって。

 約束したんだ。

 わたしは胸元を握りしめた。一度だって忘れたことはない大切な約束。忘れたくても忘れられない約束。

 あの子は約束を破った。

 中学校の入学式で、あなたがいないことを知った時、わたしがどれほど絶望したか分かっているのだろうか?

 あの子は約束を忘れた。

 今日、あなたがわたしの言葉に身に覚えがないと戸惑う姿に、わたしがどれほど怒りと悲しみを抱えたか分かっているのだろうか?

『一華、切らないで! どうしても、私、一華に会いたいの。……また一華の友達になりたいの! お願いっ……!』

 無責任な言葉。でも、友達に、親友に、戻りたいと思ってしまう自分もいた。

 それくらい野原詩音という少女はわたしにとって大きな存在になっていたから。

 詩音と出会って詩音の隣で過ごした時間よりも、詩音がわたしの隣からいなくなった時間の方が長くなってしまった。けど、彼女の存在感は日に日に大きくなるばかりだった。

 彼女との思い出が、言葉が、居場所のない世界での心の支えだったから。

 もし、詩音がまた現れたら、今度はわたしの手を引っ張って息の詰まるこの世界から外へ連れ出してくれるかもしれない。今度は勝手に一人で行ってしまうのではなくて、わたしも一緒に行けるかもしれない。

 ありもしないことに期待して、虚構の未来に夢を見ていた。おかしいのは分かっている。分かっているけど、そうでもしないと独りぼっちのわたしは今を頑張れなかった。

 詩音との思い出は相当美化されているのかもしれない。本当は詩音にとって大したことない出来事だったのかもしれない。

 だから、久しぶりに彼女の声を聞き、言葉を交わしたとき、嬉しさと同時に悲しさがわたしを襲った。

 また、約束を破られるのが嫌だった。

 また、約束を忘れてしまう詩音を見るのが嫌だった。

 また、詩音がわたしの隣からいなくなってしまうのが嫌だった。

 せっかくの友達に戻れる最後のチャンスを、差し出された糸をわたしは反射的に引きちぎったのだ。

「詩音……」

 どうして今になってあの子が電話してきたのか分からない。どんな気持ちであの子はわたしに電話してきたのか分からない。

 だから、知りたい。だから、会いたい。

 矛盾した気持ちから現実逃避をするかのようにわたしはそっと目を閉じた。



◆◇◆

 詩音はわたしと違って体の弱い子だった。

 彼女はお父さんの病院に週に数回通っていた。心配げに詩音を見つめる看護師さんたちの様子から、彼女は普通の子と違うんだと幼いながらに悟った。

 それなのに彼女は笑顔を絶やさなかった。強い子だと思った。

 わたしとは正反対。

 わたしは笑顔になれるほど余裕のない、すぐに泣いちゃう弱い子だ。

 悲劇のヒロインになった気がして、落ち込んでいた。わたしなんかよりも詩音の方がよっぽど悲劇のヒロインみたいな立場なのに、わたしの前では弱さも涙も見せたことがない。

 毎日が仕方ないとでも言うかのように笑顔を絶やさなかった。

『一華ちゃんだよね?』

 あの日、詩音は病院近くの公園の隅っこで泣いていたわたしに声をかけた。

 同じ小学校に通っていたし、たぶん今まで同じクラスになったこともあると思う。

 だけど、たぶん、わたしはあの時、野原詩音という女の子に出会ったんだ。

 俯いていたわたしの心を拾ってくれたんだ。

 それが、すごく、すごく、嬉しかったの。



◇◆◇

「ごめん! 花火大会、一緒に周れなくなった!」

 あまり冷房が効いていない蒸し暑さが残る幼稚園のホール。詩音が姿を現すや否や、空は手を合わせて謝った。

 来週に控えた夏祭りの演劇発表。舞台準備のボランティアとして空と翼と詩音の三人は先週から幼稚園に週一程度で顔を出していた。

「え〜と、どうして周れなくなったのか聞いても大丈夫かな……?」

 詩音はとりあえず聞いてみることにする。翼に視線を送ると肩を竦めて苦笑いを浮かべていた。どうやら彼は先に家で聞かされていたのかもしれない。

 もう一度視線を空に戻して、彼女が理由を話すのを待つ。

「彩夢さんとデートすることになって〜」

 どうやらただの惚気らしい。

自分たちの思い出の行事を彩夢に奪われることに腹立たしくもあるが、空に何を言っても無駄だろう。恋は盲目。特に空はそれに当てはまりそうだ。

「はぁ……ちょっと納得いかないけど、空ちゃんにとっては重要なんだよね……?」

 恋する乙女は世界で一番敵にしていけない。

 詩音は恋愛に無頓着ではあるが、学校の友人、真樹は恋多き乙女であるから、その恐ろしさを知っている。

「うん……! 彩夢さんがサークル合宿に行く前になんとかしなくちゃいけないの!

「それが、花火大会ってこと?」

「だって、ロマンチックだし、告白するには絶好のイベントじゃん!」

「「え?」」

 しれっと発言する空に詩音と翼は言葉を失う。

 静かになるホールとは正反対に、外から聞こえてくるセミの鳴き声がうるさくなる。周りで劇の舞台準備をしていた園児の保護者たちの視線が集まるのを感じた。

「そう、あたし、花火大会の時に、彩夢さんに告白しようと思うんだ!」

 照れも隠しもない、力強い光を目に宿して空は大胆不敵に笑う。

「こっ、」

「告白ぅ!?」

 その場にいた全員の心を代弁するように詩音と翼は空が放った爆弾を口にした。

 彩夢に対する想いに薄々感づいてはいたが、白昼堂々と他にも人がいる中で宣言するとは思わなかった。

 詩音以上に翼が動揺している。金魚のようにただ口をパクパクしている。どうやら告白することは聞いていなかったらしい。

「姉ちゃん、告白って……まじ?」

「まじ! てか、翼もせっかくのチャンスなんだし、告白しちゃえば?」

「なっ……!」

 やっと放心状態から抜け出して、開けていただけの口から言葉が出る。言葉がやっと出てきたというのに、姉の追撃によって今度こそ思考停止になる。

 目に見えて分かるくらいに顔を真っ赤にする翼を見て詩音は内心驚く。まだ翼は恋愛は早いと思っていたが、どうやら違うらしい。反応っぷりを見ると、彼にも想い人がいるのだろう。というより、自分は邪魔になるのでは?

「つーくんも、まぁ、色々大変そうだし。今回は発表会のお手伝いが終わったら解散する?」

 一華にも断られ、空にも断られ、翼にも断られそう。それならいっそなかったことにしてしまえばいいのだと詩音は気持ちを切り替える。

 しかし、翼は律儀なことに詩音の提案に反対した。

「姉ちゃんは予定を入れちゃったけど、おれはそんなことしないから! ……誘ったのに一緒に行かないなんてなんか嫌じゃん!」

「う〜ん、そっかぁ……」

 そこまで真剣に考えなくてもいいのに……という言葉はグッと飲み込んで、曖昧に笑う。

「ほ、ほら、ていうか、話してないで作業しよ! 準備できるの今日と本番前しかないんだから!」

 無理やり翼は話を終わらせる。言及してほしくない様子なので詩音も触れずに作業に没頭しようとする。

 だが、ふと詩音は思い出した。一華を誘うと言ったこと、結局断られてしまったこと。

 空は彩夢と行くことになってしまったが、もともとみんなで花火大会行こうと言った発案者だ。そして、翼は詩音と一緒に行くことになってる。

 断られたことを話す必要があるだろう。

 しかし、色恋沙汰にうつつを抜かしている空を見て、彼女に相談をするのは得策ではないと判断する。きっと今の彼女は自分のことで精一杯だし、こんな恋愛脳状態の空に相談するのも気が引けた。

 そうなるとこの場で頼りになるのは一人しかいない。

「つーくん」

「な、何? 詩音ちゃん」

 百面相しながら一人作戦会議を開催している空を無視して、詩音は翼に体を寄せる。

 あまり悩み事を大声で話すタイプではないし、再度同じ話題に触れる抵抗もあり堂々と話すのも避けたいため、詩音は翼の耳元にこっそり話しかける。

「花火大会のことなんだけど……」

「……っ!」

 詩音の声が翼の耳をかすめたかと思うと磁石が反発するように翼は詩音から距離をとった。

「あ、いや、ご、ごめん。えっと……聞こえるからこのまま話して……」

 そんなに近づかれるのが嫌なのだろうか。思わぬところで翼の反抗期を目の当たりにしてしまい、詩音は少し悲しさを覚える。

 空に対しては思春期特有の嫌悪感をたまに見せることがあったが、まさか自分も同じ対象になろうとは……。

 仕方ない。本当ではないとはいえ、詩音は翼のもう一人のお姉ちゃんなのだから。

「大丈夫。それで……花火大会に一華も誘うって話、結局無理だった」

「誘う? 誰が、誰を?」

「え? だから、私が一華を、だよ」

 しばらく翼は考える素振りを見せた後、詩音の伝えた意図に気づいたようで、ため息をついた。

「そっか、詩音ちゃん、他の人も誘う予定だったんだ……」

「うん、みんなでお祭りって空ちゃんと話してたじゃん」

「あー、そうだね。そうだったんだね。なんとなくわかっていたけどさ……!」

 不貞腐れている翼の様子を見て、詩音は申し訳なくなる。よくよく考えてみると翼は一華と面識がない。

 空と詩音は一華を知っているが、翼は噂でしか存在を知らない。年齢も性別も違う、共通点も少ない翼が蚊帳の外になってしまうのは容易に想像できる。

 一華に会いたいという気持ちが先行して、翼への配慮が足りなかったと詩音は反省する。

「ごめん、つーくん。嫌だった……?」

「一華さん……は、嫌じゃないけど……気持ちが空ぶった感じで、もやっとした」

 でも……と、翼は言葉を続けた。観念したかのような苦笑いを浮かべて。

「どうしても詩音ちゃんは一華さんと行きたかったんだよね?」

 翼には申し訳ないと思っている。結果的には一華に断られてしまったので、誤魔化すことはできる。だが、翼の言葉は紛れもない事実だったので、詩音も苦笑いでしか返すことができなかった。

「これじゃあ小学生の頃と同じだね」

「小学生の頃?」

「うん、おれが小三で、詩音ちゃんが小六の時も同じことがあった」

 そんなことがあったのだろうか? 正直、覚えていない。詩音は首を傾げる。

 霧のようなモヤがかかっていて、せっかく姿を現した思い出も霞んで見える。そんな感じだ。

「あの時も詩音ちゃんはお祭りに一華さんを誘いたいって言ったんだ」

「一華とお祭り……?」

「でも、その時も断られちゃったみたいだったけどね」

「そう、だったんだ……」

 詩音にとって一華との時間は大切だったはずなのに、翼の話す出来事は記憶に残っていない。しかし、身に覚えはあった。映像としての記憶はないが、心に染み付いた悲しさが思い出される。

 一緒に行きたかったのに。一華も行きたいって言ったのに。

 悲しい気持ちをわざわざ思い出しても良いことなんてない。蓋をしなければ。

「それでも、詩音ちゃんは……」

「つーくん、そんなことよりさ、せっかく二人で行くんだから何を買うかとか、どこまわるかとか決めよーよ」

 翼の話を多少強引ではあるが遮って話題を逸らす。

 たぶん、気づかないだけで、今回のように忘れてしまった思い出たちが沢山ある。人間だから忘れてしまうのは仕方のないことなのかもしれないけど、詩音は大切な思い出まで霞んで見えなくなってしまってるのだとここ最近気づいた。

 だけど、うん、大丈夫。

 忘れてしまっても、いずれ思い出す。仮に忘れてしまっても、何か問題が起こるわけではない。

 だから、今はいいや。

 笑顔を貼り付けて、詩音は話題に花を咲かせた。




◆◇◆

 一番が「普通」でないといけなかった。

 わたしの父は聡明で、真面目で、何でもできる人で、優しくて、いつも周りの人たちに頼られ、慕われていた。

 そして、この町の病院の院長で、沢山の人の命を救うすごい人。

 わたしは父が大好きだった。大好きだったから苦しかった。

『どうしてこんなところをミスするの?』

『ねえ、一華、なんでもっと頑張らないの? このままじゃ、お父さんに呆れられてしまうのよ?』

『そっちにしないでこちらにしなさい。こちらの方ならあなたが一番を取れるわ』

 わたしはすごい父の恥ずかしくない娘でなければならなかったから。

 父の娘であるためには、わたしは一番を取らなくちゃいけない。ミスはだめ。良い子じゃないと。

 それができなければ、父に見放されてしまう。

 だから母は毎日毎日わたしのために注意してくれた。わたしが怠けないように、頑張れるように。

 普通になるため頑張った。沢山努力した。だけど、わたしは普通になれなかった。

 一番を取り続けることはできなかった。

『ねぇ、お母さん! わたし、コンクールで銀賞とれたよ!』

『ああ、また、銀賞? どうして金賞までいかないの?』

 とても悲しそうに嘆く母。自分にとって嬉しかったはずのものがひどく醜く見えた。

 少しでも自分は頑張ったと満足しちゃいけない。だって、そうじゃないと否定された時、とっても胸が痛いんだ。

 ……ねぇ、わたしはいつになったら普通になれるの?




◇◆◇

 暑苦しいまでに照りつける太陽。焼け付くアスファルト。鳴り響く蝉の声と、同じように賑わいを見せる人々。

 いつもは閑散としている駅前の通りはこの日ばかりは活気で溢れていた。

 駅の通りから数分歩くとひときわ混んでいる場所が一つ。この日のために設置された舞台ステージが役場前の中庭に鎮座していた。

 夜のメインイベントは打ち上げ花火であるが、昼のメインイベントはこのステージで披露される有志たちの発表。地元の幼稚園や小学校、中学校も有志とて気合の入れた発表もするので、地域を見守る高齢者たちや発表者たちの親戚にとっては花火よりもこちらがメインなのは過言ではない。

 そのどちらにも属さない空、詩音、翼の三人は、最初こそは当日の熱量の違いに戸惑っていたが、園児たちの発表が目前になった頃にはその活気になじんでいた。

「はい、これで大丈夫だよ」

「ありがと、おねーちゃん!」

 荷物運びや舞台道具の設置など一通り大きな仕事を済ませていた詩音は舞台裏で園児たちの衣装を着る手伝いをしていた。

 詩音に衣装を着るのを手伝ってもらった女の子は嬉しそうに鏡に映った自身の姿を見る。

 黒いワンピース、肉球模様の黒い靴下に尻尾と猫耳。

 太陽の熱を沢山吸収しそうななんともきつそうな衣装ではあるが、「黒猫」役の女の子はいたく気に入っているようで、終始笑顔を浮かべている。

「おい! つばさ! みろよ! かっこいいだろ!」

「翼って呼び捨てにすんなよ! お兄ちゃんって呼べよ! って、うわっ、剣をこっちに向けるな!」

「わ~! 二人とも可愛い~! 王子様とお姫様だよ!」

「えへへ~おひめさまだ~」

「かわいいんじゃなくて、かっこいいだよ!」

 翼も空もそれぞれ衣装を身にまとった園児たちとやりとりをしている。

 騎士の姿をした男の子にプラスチックの剣でつつかれている翼。王子様役とお姫様役の男の子と女の子をギュッと抱きしめる空。

 他にも園児たちがいるが、翼と空が相手をしているのはこの劇で負担のある……言わばメインの役を担当している園児たち。もうそろそろ本番が近づいているが、緊張している様子もなく今の自分の姿に目をキラキラと輝かせている子供たちに詩音はほっと胸をなでおろす。

 自分の時はあまりの緊張で泣いてしまい、周りに迷惑をかけてしまったから、自分の二の舞を踏む子はいなさそうで一安心する。しかし、もう一人主役がいないことに気づく。物陰にうずくまっている子が一人。

 黒い大きな帽子に黒いローブ。これまた夏には厳しい格好をしているのにも関わらず、魔法使い役の女の子は青い顔をしていた。

 ああ、これはまずいな。そう思って声をかけようとするが、黒い影が詩音の目の前を通り過ぎた。

「いこう! いっしょならこわくないよ!」

 影の正体は黒猫役の少女だった。彼女は魔法使い役の女の子の手を握り、引っ張り上げる。

「う、うん!」

 ああ、もう、きっと大丈夫。わざわざ自分が手を貸す必要もなかったと微笑む。

 子どもは単純だ。あっという間に笑顔になっている。羨ましい。

 そういえば自分が緊張したときは誰に手を差し伸べてもらったんだっけ?

 思い出そうとするが、思い出せない。

 まあ、いっか。詩音は諦めて黒猫役の子に話しかける。

「さっきは魔法使い役の子に声をかけてくれてありがとうね」

「ん? どうして?」

 少女は詩音の感謝の言葉が通じていないようだった。たぶん彼女にとってこの行動は当たり前のことで、わざわざお礼を言われるほどの行為ではないのだろう。

「それより、おねーちゃん、これにあう?」

 自分の姿をしっかりと見てもらおうと少女は詩音の前でくるりと一回転する。

「似合っているよ」

「やったぁ~!」

 猫ではなくウサギのように跳ねては喜びを体いっぱいで表現する。

 もちろん少女の黒猫の姿はとてもよく似合っている。しかし、黒猫は他の登場人物と比べて衣装も派手ではない。特にメインの役たちと比べたらとても地味な方だ。

 幼い子にとって黒猫の衣装は物足りないのではないだろうか?

「黒猫は好き?」

 だからつい不安と疑問が混ざり合って聞いてしまった。この役に不満はないかと。

 だがそれは無用な心配だった。

「うん! だいすき! だってくろねこは、たいせつなおもいをとどけてくれるんでしょ?」

 花を咲かせることができない子供たちに「言葉の種」という特別な種を届けて花を咲かせるお話。

「黒猫」はその「言葉の種」を運ぶ影の主役だ。

 少女は、幼いころの詩音と同じ理由を口にした。黒猫役をやった詩音と同じ理由を。

『わたし、くろねこになっておもいをとどけたいの!』

 初めて一生懸命に言葉にした詩音のわがまま。そのわがままが今もこうして誰かの想いを繋げている。

「きょうね、おしごといそがしいおとーさんがみにきてくれるの!」

 大好きな話を沢山の人に届けたくて、大好きな人にその姿を見てほしくて、

「このげきがおわったらね、おとーさんとおかーさんにいつもありがとってつたえるんだ!」


 ありがとう、大好きって伝えたんだ。


 ぐらりと視界が歪んだ。目の前の景色とは別の景色が交互に入れ替わる。

 なぜか黒のワンピースの胸元を掴んで必死で息を整えようとする自分。心配そうに見つめる友だちや慌てる大人たち。自分の手を握る、自分よりも少し大きな力強い手。

 この景色は何? この手は誰? 心臓をつかまれたようで息が苦しい。呼吸の仕方が分からなくなる。

「そう……なん、だ。頑張ってね」

「ありがとう! がんばるね!」

 現実との境界線が完全に分からなくなる前に無理やり言葉を続けて少女を見送る。

 だけど、これ以上は耐えられなかった。

 きっとこのままいたら、この劇を見てしまったら、もっと自分はおかしくなるような気がした。

 そうだ、見なければいい。きっとこれは熱中症だ。早く休憩しなければ他の人に迷惑がかかる。だから、見なくてもいいんだ。

 取り込み中の空や翼にバレないようにふらふらな足取りでステージから離れる。

 チャットですぐ戻ると伝えれば大丈夫だろう。ヒーロー活動のお手伝いは完了しているし、舞台を見なくても屋台や花火を見れれば問題ない。

 しかし、詩音は自身の軽率な行動に後悔することになる。

「うっわ……」

 ちょうどいい休憩場所がないか探そうと顔を上げると、予想していなかった、会いたくなかった人物が目の前にいたからである。




◆◇◆

 お父さんはわたしにもお母さんにもきっと期待なんてしてない。前にお母さんがそう言っていたから。

 実際にお父さんはわたしたちに一切干渉してこない。

 でも、わたしはお父さんの居場所が、病院が、わたしが知っている場所の中で一番心地よかった。

 何より病院はわたしより辛い思いをしている人が沢山いるから、わたしはまだ大丈夫な方なんだって思うことができたから。

 お父さんはただ何も言わず、そこにいることを許してくれる。わたしを否定しない。

 お母さんだってわたしが友だちと遊ぶのは嫌がってたけど、病院に行くのは喜んでくれた。今のうちに医者の仕事を知るのは将来に役立つって。

 今思うとだいぶ歪な子ども時代を過ごしたと思う。しかし、わたしにとってはこれが普通だったんだ。これでも平和だったんだ。

『ねえ、一華を受験させましょうよ』

 お母さんがおかしくなり始めたのはたぶんこのときから。

 小学校五年生の時、お母さんがふとそんなことを口にした。

『良い学校に行けば今後の一華のためにもなるわ。私なら一華を合格されることはできるはずだし、なんだって頑張るわ』

『一華がやりたいのなら、いいんじゃないのか? 一華のことに関してはお前が一番よく知っているだろう?』

『ええ、私が一番良く理解しているわ。一華も受験をしたいと思っている』

 わたしは受験の話なんて今初めて聞いたのに、受験したいと口にした記憶もないのに、なぜか母の中では、わたしが受験することは決まっていた。

 母は父に向けていた顔をわたしに向け、ひどく冷たい笑顔を表面に貼り付けてわたしに命令する。

『今の学校での成績で満足してはダメよ、一華。これからはもっと上の人たちと戦わなきゃいけないから、最低でも今の学校では一番を取り続けなさい』

 ……でも、わたしは一番を取り続けることはできなかったし、受験もしなかった。

 たぶん、そのせいで父と母はよく口論するようになり、夫婦仲も手遅れになるほど険悪に、わたしが中学に通う頃には離婚してしまった。

 お母さんに腕を引かれ、お父さんの前から立ち去った。

 もう、病院にも行けない。



◇◆◇

 世界がほんのり頬を赤らめる夕暮れ時、ただ朱く染まるだけの駅前は、屋台や提灯の灯りでいつもとは違う姿を見せ始めていた。夜を楽しむ準備をしているのだ。

 今日だけは子供だって夜遊びするのを許される。

 だけど、この人には子供だと思われたくない。

 紺から鮮やかな青と水色の花が咲き乱れる浴衣を見に纏い、ほんのりと化粧で大人を装う。

 空は待ち人がいる場所へ下駄の音をカランと立てた。

「彩夢さんっ!」

 声が思わず跳ね上がる。

 ああ、せっかく大人っぽくしたのに台無しだ。

 いくら心の中で思っても高鳴る気持ちは止まらない。

「空ちゃん、めっちゃ可愛いじゃん」

 空に気づいた彩夢は開口一番にそう言った。自然に百点満点の言葉を口にできるなんて慣れているとしか思えないけど、今、彩夢が空だけを見ているのならそれでいい。

 準備を頑張ってよかったと心の中で強く思う。本当は幼稚園の演劇発表の手伝いの後、準備をするために家に帰宅するのを諦めていた。というのも、詩音が体調を崩したから。

 演劇の準備中に体調を崩した詩音は発表会中、いつのまにか姿を消し、どこかで休憩していると空たちにチャットで連絡してた。

 最初は詩音が心配で彩夢との待ち合わせまで一緒にいようとしたが、詩音に断られ、自分のことはいいから準備に集中しろと怒られてしまった。

 代わりに翼が詩音の元へ行っている。先ほどグループのチャットを見たところ、無事に合流したことが伝えられていた。「体調良くなったし、私たちもこれからまわるよ。空ちゃんも楽しんでね」とのことだ。

 それならお言葉に甘えてこちらも楽しもうではないか。

「それじゃあ、行こっか」

 彩夢は空に手を差し出す。

「……人混んでるし、離れたら大変だから、空ちゃんが大丈夫だったら、手、繋ぐ?」

「繋ぎますっ!」

 自分よりも大きくて力強い手を空は握る。握ってさらに鼓動が早くなった気がした。自分のうるさいくらいの鼓動が聞こえてしまうんじゃないか。そんな心配さえしてしまうほど。

 ふと、彩夢の手提げ鞄を目にやった時、鞄の中から今日の昼ごろに配られていたはずのお祭りのパンフレットが見えた。

「もしかして彩夢さん、結構早くから祭りに来てました?」

「バレた? ちょっと用事があってね。でも、屋台とかはほとんど見てないよ」

 何の用事があったのだろう? 気になって空は問いかけようとした。しかし、彩夢はどこか遠くを見ながら優しい笑顔で思い出を口にした。

「俺も地元だからさ、よくここの祭りに家族と来てたんだよね。だけど、母さんが入院するようになって行かなくなったから、屋台とか神輿とかなんか色々懐かしくなってくるよ」

「あっ……なんか、思い出させちゃってすみません……」

 彩夢の母親は亡くなっている。空は彩夢と距離を近づけるためこの祭りに誘ったが、もしかしたら空にとって祭りは楽しい思い出でも、彩夢にとって祭りは母を思い出す苦しいものなのかもしれない。自分の浅はかな行為で彩夢を傷つけてしまったのかと思い、胸が痛んだ。

「謝ることじゃないよ。むしろ感謝してる。ちゃんと楽しかった思い出もあったんだって気付けたから」

 だけど、彩夢はもう弱くない。空の心配をよそに彩夢は微笑む。

「それに、今度は空ちゃんとの思い出の一つになるから俺は嬉しいよ?」

 本当にこの人は、ずるい。不意に嬉しい言葉をくれる。きっと自分の一つ一つの言葉や行動でどれほど空の心を揺さぶっているのか分かっていない。

 頬が熱くなるのを空は夕日のせいにする。

「じゃあ、次は空ちゃんの番! 空ちゃんはどんな思い出があったの?」

 これ以上考えるとどんどん自分がおかしくなってしまう気がしたので、彩夢の問いかけに気持ちを切り替える。

「あたしは弟と幼なじみの女の子とよく行ってました!」

 親の許可が下りた小学校の中学年ごろから空は翼と詩音と毎年お祭りに参加していた。

「……あ、でも、そういえば、最後に行った小六の夏祭り、いつの間にか幼なじみはいなくなってて、結局弟と二人でまわったんですよね」

 だけど、最後にみんなで行ったお祭りはいつもと少し違っていた。

 そもそも祭りが始まる数日前、詩音はあと一人誘いたい子がいると声を上げていた。引っ込み思案で大人しい詩音が誰かを誘うなんて珍しくて、いったいどんな子を誘いたいんだろう? と、すごく興味を持った記憶がある。

 その相手が一華だった。

 空にとって一華は頭も良くて運動もできて毎月の全校朝会では毎回賞をもらってステージに立っていた言わば「天才」だった。

 そんな天才と詩音が交流あったことに空はまず驚いた。一華はいつも勉強してる真面目で怖くて近寄りがたいイメージだったから、より一層、詩音からその名前を聞いたときは人違いかと思ってしまった。

 しかし、詩音から聞く一華は空の知る天才ではなく、一華というただの女の子だった。

 この夏祭りを機に自分も一華と仲良くなれたら素敵だな、そう思えるほど。

『いいよ! 一華ちゃんも一緒行こー!』

『えぇ、人増えんのー?』

 弟の翼は不満げではあったが、一華も誘うということで決まった。

 だけど、結局、一華は来なかった。

『おうちの勉強が忙しくて行けないんだって』

 詩音が無理して笑っていて、悲しんでるなぁって一目で分かったから、その分祭りを一緒に楽しんでやろうと意気込んでいた気がする。

 だというのに気づけば詩音は消えていて、弟もふてくされていた。

 当時は結局、姉弟と二人でまわる羽目になったが、今回は違う。

「でも、今日のお祭りで弟とその幼なじみが一緒にまわるんですよ!」

「へぇ、弟君もやるねぇ、デートじゃん」

「そうなんですよ! 帰ったら弟に色々訊こうと思ってます」

 今回、空は彩夢と、翼は詩音と一緒に夏祭りの時間を過ごす。そして何よりあの頃と大きく異なるのは、翼が詩音に対して恋愛感情を持っているということ。

 久しぶりで、前とは違う夏祭り。違うけれど、さみしくはない。たぶん今までで一番胸がときめく夏祭り。

 だから、めいっぱい楽しもう。

 揺れる提灯、賑わう屋台、すれ違う多くの人々、そして手に伝わる彩夢の熱。

 一つ一つを噛み締めながら空は下駄の音を響かせた。





◆◇◆

 お父さんと離婚してからお母さんは前よりも一番をわたしに求めるようになった。

『一華、もう私にはあなたしかいないの。誰も支えてくれる人なんていないの。もう、わたしを裏切らないわよね? 私はあなたの幸せを思っているの。だから、一番になりなさい』

 わたしの両肩を掴み、縋るようにわたしを見つめる母。母の手はあまりにも力がこもっていて、指がわたしの肩に食い込んで痛い。でも、この痛みはわたしがつくってしまったようなものだ。虚ろなお母さんの瞳にはきっとわたしは映っていない。

 もしわたしが一番を取れるようになったら、お母さんはわたしをちゃんと見てくれるかもしれない。お父さんが戻ってきてくれるかもしれない。

 そんな淡い期待もどこかで抱いていた。現実を受け止めたくなくて、夢を見てしまっていた。

 一華という名前が、一番という呪いが、わたしを蝕む。

 もう、詩音はわたしの隣にいない。

 もう、病院に行くのも許されない。

 心や休める居場所なんてなくて、頑張ることしかできなかった。

 でも、もっともっと頑張らないといけないみたい。

 一番に固執すればするほど息が苦しくなって緊張して遠ざかっていく。

 下がる順位、取れなくなる賞状。

『もっと頑張りなさい、一華。頑張った分だけ数字が教えてくれるから』

 頑張ってないからこんな数字になってしまうんだ。こんな結果になってしまうんだ。

 ああ、頑張らなくちゃ。頑張らなくちゃ。頑張らなくちゃ。

 ……たまに、ふと考えてしまう。もし、詩音がわたしの隣にいてくれたら、どんな温かい言葉を伝えてくれるんだろうって。

 胸元を強く握りしめる。

 高校三年生になった今でも、わたしは彼女の影を追っている。




◇◆◇

「詩音ちゃん、体調大丈夫?」

 日が暮れて提灯が夜を彩り始める頃、翼は役場の休憩室で休んでいた詩音に水が入ったペットボトルを渡していた。

「うん、大丈夫。それよりこの時間まで寝ちゃってごめんね……。空ちゃんは、ちゃんと家に戻った?」

「気にしないで、俺は平気だから。あと姉ちゃんは詩音ちゃんを心配してて、家に帰るの渋ってたけど、無理矢理帰らせたよ。たぶん、間に合った」

 昼の園児たちによる演劇発表の時、詩音は体調を崩し、そのまま役場の休憩室に行き、体を横にしていた。空と翼にも連絡していたため騒ぎになることはなかったが、せっかくの時間を無駄にしてしまった。

 彩夢とまわる予定があった空は準備のため渋々帰宅。翼は詩音が体調を回復するまで付き添っていた。仕方ないとはいえ二人には気を使わせてしまったと詩音は罪悪感で胸を痛める。

「そっか、間に合ったみたいなんだね、良かった」

 空の邪魔をしなかったのがせめてもの救いだ。彩夢にまで迷惑をかけてしまったらそれこそ申し訳なくて、頭が上がらない。翼から受け取ったペットボトルの水を飲み干し、ぼんやりとしていた脳を覚まさせる。

 頭ももう、だるくない。

「じゃあ、行こっか」

 立ち上がって背伸びをし、窓から見える祭りの賑わいに目を向ける。神輿を担いでぶつかり合う大の大人たち。その傍らではりんご飴やかき氷などを片手にはしゃぐ子どもたち。異国情緒溢れる食べ物や、花屋さんの出張露店など、普段は見かけない変わった出店まで立ち並んでいる。クーラーのきいた部屋にいるというのに熱気が伝わってくる。

「え? 行くって?」

 もちろん中には詩音と同い年くらいの学生もいる。屋台の食べ物を口いっぱいに頬張る少年たちや、着飾って華やかな景色を思い出に残そうと自撮りする少女たち、まだぎこちなくとも次第に祭りの熱に浮かされてお互いの手をしっかりと握り始めるカップル。

「行くって、お祭りデートだよ」

「なっ……!」

 祭りの熱が移ってしまったのか、詩音もいつもはあまり自分からは口にしない冗談で翼をいじる。

「ははっ、つーくんの片想いの子に見られないといいね〜」

「だからっ、片思いの相手なんてっ……!」

「はいはい、おねーさんは分かってるよ~。その時は何とかするから、とりあえず行こっか」

 詩音は翼の腕を引っ張り、外へと向かう。小学生の頃は幼い翼を迷子にさせるわけにもいかずしっかりと手を握っていたが、さすがにこの年では抵抗がある。いくら自分が姉のような存在でも、本当の家族でもない、好きな子がいる思春期の男の子の手を握るのはちょっと違う。罪悪感と言葉にするのが正しいだろう。でも、露骨に距離を置くのも相手を傷つけるだけ。だから、連れまわす時は手ではなく腕を引っ張るようにしよう。

 役場の自動ドアが開き、熱風と一緒にソースの香りや、和太鼓の轟きが翼と詩音を襲う。幼い頃に見た夏祭りの景色と重なった。

 霧のようにぼやけていた思い出がまた一つ、ビー玉のように確かな形をもって光る。

 まだ髪の毛がショートで少年のようだった空を先頭に駆け出すあの頃の自分たち。足が遅くて今にも泣きそうな翼の手を握って人の波をかき分ける。

 昔の映像がフラッシュバックし、思わず詩音は握っていた翼の腕を離し、呆然と立ち尽くす。

 たぶん、今のは初めて三人で、子どもだけで祭りを楽しんだ小学四年生の頃の夏祭りの記憶。たしか当時はまだ翼が小学生になったばかりで、身長も小さくて、途中から空と交代でおんぶしていた気がする。

「詩音ちゃん! 行こ!」

 今度は翼に腕を引っ張られて詩音は追憶の旅から強制帰還する。

 自分とあまり変わらない背丈。女子の割には背の高い姉がいるからきっと彼はまだまだこれからも伸びるだろう。さすがに今はおんぶはできないなと感傷に浸るが、逆にまだ今の彼にはおんぶに近いこと、つまり自分を抱えて運ぶようなことはできないだろうと苦笑いを浮かべる。

 うん、この距離感がちょうどいい。詩音は姉離れし始めていた翼との距離を再度把握し、満足した。





◆◇◆

 八月十五日。その日はわたし、一華にとって特別な日だった。

 終戦記念日やお盆という死者を奉る日でもあるが、わたしにはそれとは異なる特別も含まれていた。

 しかし、生を支える医者の家系であるため、死者を奉る以外の特別は許容されなかった。

 だから、わたしはいつも通り帰宅する。それはお父さんとお母さんが離婚した今でも、そう。

 いつも通り夏期講習に参加して、いつも通りの時間に帰る。特別なことなんて何もない。そうやってずっと育てられてきたから。今日だってそのつもりだった。

「お帰り」

 だが、返ってきた声はいつも通りのお母さんの声ではなかった。

 落ち着いた男性の声。聞き覚えのない、初めて聞く声。お父さんでもない。

「えっと……どちらさまですか?」

 自分の家だというのに今すぐここから離れたくなった。

「君が一華ちゃんだね」

 リビングの食卓の椅子に座るのは少し哀愁漂う笑顔が印象的な男性。でも、その笑顔が怖い。その笑顔の意味を知りたくない。

「あら! 一華帰ってきたの?」

 キッチンの奥からお母さんが現れる。いつもより機嫌がいい。

「今日ね、一華にとって特別な日だからこの人に来てもらったの」

 子どものようにはしゃぐお母さんの笑顔は、お母さんにとって良いことで、わたしにとってはあまり良いことではないとわたしは知っている。

「今までまともにお祝いしていなかったじゃない? そしたら、この人がせっかくだからお祝いしようって」

 わたしの意思も価値もほとんど、全て、お母さんが決めている。

「私も一華にとって素敵なサプライズになると思って賛成したの」

 お母さんはそれがわたしの幸せに繋がると信じて疑わないから。

「ねえ、一華。この人は一華の、新しい、お父さんよ」

 でも、わたしにはもう限界だった。

「……」

 頭が真っ白になって固まるわたしにお母さんは柔和な表情で、本当に幸せいっぱいの声で言う。

「一華、もう、一番も目指さなくていいのよ。お母さんね、再婚しようと思うの。一華のお父さんになる人は、この人は、一華が一番になれなくても、ちゃんと一華を見てくれる素敵な人なの」

 何に限界なのかは自分でもよく分からない。分からないけど、わたしの目の前に転がっているはずの幸せはひどく残酷なものに見えた。

「……わたし、帰る」

「「え?」」

 だから思わず、お母さんの前だというのに背を向けて逃げ出してしまった。

 帰るってどこに? ここが家のはずなのに?

 二人が呆然としているうちにわたしは玄関に駆け出して、ローファーをはきなおす。

 ああ、もうここはわたしの帰る場所ではない。

 後ろからお母さんの叫び声が聞こえる。聞こえるけど、わたしの足は止まらない。

 ドアを開けて外へ飛び出す。暗くて怖いはずの夜がわたしを受け止める。

『八月十五日の夏祭り、一緒に行こっ……!』

 ふと、この前突然電話をしてきた詩音の言葉が頭の中で響いた。ああ、たしか六年前も同じように自分は苦しくなって抜け出したんだ。あの時も自分は詩音の誘いを断って、でも抜け出して見に行こうとして、迷っていたら詩音が会いに来てくれた。そして約束したんだ。詩音がわたしに大切なものをくれたんだ。

「詩音……っ!」

 約束したあの場所に行けばまたあなたに会えるだろうか?

 会えるわけない。だって自分から吊り下げられた最後のチャンスを引きちぎったのだから。

「会いたいよ……っ」

 分かっている。そんなのありえないって。でも、分かっているけど、願わずにはいられなかった。





◇◆◇

 あらためて二人っきりで行動すると気づかされることがある。

 隣で歩く翼を横目で見ながら詩音は昔と今を照らし合わせる。

 まずは変わったところ。当たり前と言えば当たり前だが、目線の位置だ。昔は自分を見上げていた翼は、今はほぼ同じ身長。何か詩音に伝えたいとき、腕を軽く引っ張り気づいてもらってから話していたが、今はわざわざする必要がない。

「詩音ちゃん、たこ焼き買いに行っていい?」

「うん、いいよ。私も食べたいから一つもらってもいい? あとで私が食べ物買ったらあげるから」

「分かった。じゃあ、割りばし二個もらってくるね」

 翼は詩音に向かって振り向き、視界に入る。それだけで目が合い会話が成立する。

 逆に変わらないこともある。昔から空と三人でいる時は基本会話が止まらなかったが、翼といる時は無言の時間が多い。

「はい、たこ焼き」

「ありがとー」

 買ってきたたこ焼きを二人で黙々と食べる。食べ終わった後も何か会話をするのではなくきょろきょろと露店を見て回る。出てくる言葉といえば感嘆詞くらいだ。しかし、詩音にとってはこの適度な沈黙が心地よかった。

「あ! かき氷! よし、私はメロン味買うからつーくんにもあげるね!」

 夏の熱気で火照った体を内側から冷ましたいのと、純粋に甘味を口にしたかったため詩音は目に映ったかき氷の看板に引き込まれる。

 買って、スプーン型のストローでかき氷を掬って一口食べる。ヒヤリと口の中で甘い氷が解けていく。今度は少し多めにとって翼に向ける。

「はい、つーくんも。あーん」

「えっ!」

「ん……?」

 突然狼狽え、動揺する翼を見て首をかしげる。そして自分の行動を振り返って気づく。小学生の頃はよくやっていたが、さすがに今の年でこれをやるのは無理があった。

「ああ、ごめん。ストロー、もう一本もらってくるね」

 人や周りの変化には柔軟な方だと思っていたが、案外そうではないかもしれない。詩音は少し反省する。翼に対する接し方が幼い頃のようになってしまうことが多々あるのだ。その頻度は再会した当初より増えている。

「いや、詩音ちゃんが気にしてないなら、別にいーよ」

 ひっこめようとする詩音の腕を取ってそのまま自分の口に翼は運んだ。

 少女漫画だったらときめいていたのかもしれないが、幼い頃の翼を知る詩音は思わず感動してしまう。つーくんもそれなりに大胆な行動を取れるようになったのだなと。

 しかし、よく見ると翼は目を合わせようとしなくなり、挙動不審になり始めた。思い切ってやったはいいが、後々になって羞恥心が襲ってきたらしい。

「あははっ! つーくん、照れてる! かわいいな~」

「照れてないって!」

「身長は私と同じくらいになっちゃったけど、つーくんは相変わらずつーくんだね」

 詩音の言葉に翼は苦虫を噛み潰したような表情になる。詩音にとっては誉め言葉のつもりで言ったが、どうやら翼はそうではないらしい。

「ちょっとはおれだって大人になったと思うんだけど……それなら詩音ちゃんだって同じだよ」

「同じ?」

「久しぶりに詩音ちゃんに会ったときは変わってないなって思ったんだけど、途中でやけに冷静な、大人になってる姿を見ちゃって、ちょっと遠くに行っちゃったような気持ちになってたんだ」

 詩音は早く大人になりたいと常に思っている。自立して、早く一人でも生きていけるようになりたいと。だから、翼の言葉にその想いが行動として出ていたことに納得する。

「でも、やっぱり詩音ちゃんはおれが知ってる詩音ちゃんだ」

 ……だから、次の翼の言葉に疑問を持つ。やっぱりって何なのだろうか? 翼の知ってる詩音とはどんな詩音なのだろうか?

『なんだか詩音、変わったね。いや、変わったっていうより昔の詩音に戻ったみたい』

 前に高校の友人である真樹に言われたことと重なる。翼の知る詩音と真樹の言う昔の詩音は同じだろうか?

「ってか、そろそろ花火が始まる時間じゃん」

 思考の海に鎮まりかけようとしたとき、翼の言葉に我に返る。

「ほんとだ。一緒に見るのも小六ぶりだから、楽しみだね」

「何言ってんの詩音ちゃん。最後の夏祭り、おれたち花火一緒に見てないよ?」

 しかし、翼の指摘によって詩音は記憶の海に放り込まれる。

 何を言っているのだろうか? 小六の最後の夏祭り、詩音は一華を誘うのに失敗して結局は空と翼の三人で祭りを楽しんだはずだ。もちろん、祭りの締めである花火だって―

「……あれ? そういえば、私、最後に行ったとき、つーくんたちと一緒に花火を見た記憶がない」

 でも、詩音には花火を見た記憶が確かにあった。手を伸ばせば届きそうなほど大きな花火を詩音は誰かと一緒に見ていた。

「……思い出した」

 鮮明にハッキリと写真のようにいくつもの記憶の一ページが脳裏に現れる。

 花火を見たのは駅前でも、神社でもない。沢山の花に囲まれている場所。

 隣にいるのは大好きで大切な親友。

 その場所を詩音は知っている。その子を詩音は知っている。

「つーくん、本当にごめん! 後で戻って来るから、私、行かなきゃ……!」

「ちょっと! え? どこに!?」

 思い出してしまったら勝手に体が動いていた。

 いないって分かっているはずなのに、止められなかった。

 だって今日はあの子にとって特別な日。特別な日だけど、あの子はまた独りで泣いているかもしれない。

「あの子の……一華のところに!」

 それに詩音はまだ何も伝えてない。

 だから、伝えに行かなきゃ。




◆◇◆

 一番になれないわたしは一華という名前が嫌いだった。

 名前に相応しくない自分が嫌いだった。

 名前を見る度、名前を呼ばれる度、一番という呪いがわたしを苦しめるんだ。

 一番のハナになれ。

 そんな願いをわたしに込めないでほしかった。

 ……だから、詩音に出会った時、あの言葉を言われた時、心が軽くなったんだ。涙が出ちゃうくらい嬉しかったんだ。

『たった一つの花なんて素敵だね。いつも頑張ってる一華はきっと一華にしか咲けないキレイな花を咲かせるよ!』

 わたしの名前に呪い以外の意味を教えてくれたから。

 大嫌いなわたしを、少しだけ好きになれることができたから。

 わたしはあなたと一緒にいたいと思えたんだ。

 あなたにとっての唯一になりたかったんだ。

 でも、どうして、

「突然、いなくなっちゃったの……?」

 なりたかった唯一さえも失って、一番すらも求められなくなって、もう、何も残ってなくて、このまま、いっそ、枯れてしまいたかった。




◇◆◇

 そうだ。思い出した。八月十五日の夏祭り。あの時も一華に声をかけて最初は断られたんだ。

 でも、本当はこっそり一華は花火を見に行こうとしてて、私はみんなから抜け出して、一華に会いに行ったんだ。

 私は走り出す。一華がいるかもしれない場所に。

 人波をかき分け、一秒でも早くあの場所へ向かう。

 揺れる提灯。屋台から漂う芳ばしい香り。カランカランと鳴る下駄の音。

 記憶の中の君が姿を現す。

 零れてしまった思い出たちが、捨ててしまった思い出たちが、詩音の前に現れる。

 蛍のように朧げに光る月。

 いつもより不気味で静かな住宅街。

 カエルの鳴き声が木霊する田んぼ。

 ここではないどこかと繋がっていそうな踏切の向こう側。

 あの頃の夏の夜の匂いが頬を撫でる。

 知ってる場所の知らない景色に見惚れたり、恐怖したり、その一つ一つの感情が蘇る。

 あの子との大切な思い出たちを拾い集め終わったとき、詩音は病院に来ていた。

 いや、正確には病院近くの公園。

 色とりどりの花に囲まれた東屋。

 沢山の人の思い出が詰まった場所。

 空にとって、彩夢と未来を夢見た場所。

 彩夢にとって、母の面影を感じてしまう場所。

 たぶん、知らない内に、覚えていないだけで、詩音にとってもここは色んな思い出が散りばめられている場所なのかもしれない。

 だけど、今、強い光を宿して詩音の記憶を独占するのはあの子との思い出だった。

 あの子と出会った場所。

 あの子と遊んだ場所。

 あの子と約束した場所。

 大切な約束。忘れてしまった約束。

 だから、思い出さなきゃ。

 だから、会わなきゃ。

 きっとこの場所で最後に残った思い出のカケラを持ったあの子がいる。

「見つけた」

 自分にしか聞こえない小さな声で詩音は呟いた。

 公園の中央、花々に囲まれた東屋。

 そこには膝を抱えた少女と寄り添う猫の影があった。

「ねぇ、あなたも独り?」

「にゃあ」

 影たちは夜に紛れて内緒話をする。

「今日ね、わたしにとって特別な日なの」

 とっておきを話すように囁くように。

「……だからなのかな? お母さんがサプライズしてきたの」

 でも、それは少女にとって苦しいサプライズだった。

「新しいお父さんだって。お母さん、再婚するんだって」

 特別な日をまともに祝ってくれなかった親の、初めてのサプライズは、少女の心を抉るナイフになった。

「もう、一番を目指さなくてもいいんだって」

 今までずっと頑張っていた少女に全てを否定する言葉を贈った。

「自分がどうすればいいか、分かんないよ……!」

 絞り出して出た感情は空虚だった。

 だから、少女は思い出に縋った。

「……ここはね、わたしにとって特別な場所なの」

 胸元を強く握りしめ、特別な日の特別な思い出を語る。

「あの子と出会った場所、あの子と遊んだ場所、あの子とおしゃべりした場所……あの子と約束した場所なの」

 思い出を一つ一つ思い出すたび瞳から静かに涙が流れる。

 その思い出の中に一つ、親友が大切に語った猫のおとぎ話を思い出す。

 塞いでいた本当の想いを黒猫に託す優しいおとぎ話。

「……頑張れないよ。独りは嫌だよ、寂しいよ」

 何年も抱えていた吐き出してはいけない本音が零れ落ちた。

「詩音と別れたくなかったよ……! お父さんと別れたくなかったよ……!」

 手遅れだけど、言葉にせずにはいられなかった。

「お母さん、ちゃんとわたしを見てよ……!」

 願わずにはいられなかった。


「もう、独りになりたくないよ。誰か、一緒にいてよ……!」


 泣き虫で独りぼっちの女の子は絆を求めた。誰かと繋がれる確かな絆を。独りにはならない温かな絆を。

「一華」

 気づいたら詩音は名前を呼んでいた。

 夏の夜のどこか涼しさが混ざった風が吹き、雑木林が揺れる。詩音を隠していた雑木林の影は月明りによって消えていく。

「詩音……?」

 まるで夏の夜の幻影を、幽霊を、見ているかのように一華は呆然とする。

 だけど、幻影でも、幽霊でもない。詩音は、今、確かに一華の目の前にいる。

 詩音は両手で一華の頬に触れた。触れる肌の温もりから一華は会いたかった親友がここにいるのを実感する。

「本当に詩音がいる……」

 もっとちゃんと見たいはずなのに視界が歪んで、ぽろぽろと涙が溢れ出す。

 そんな一華をあやすように詩音は自身の額と一華の額を重ねる。それは、詩音がよく泣いていた幼い頃に母親が必ずやってくれたおまじない。

 かける言葉はどうしよう?

 大丈夫? ううん、違う。

 会いたかった? ううん、それも違う。

 ああ、そうだ。今日、彼女に会ったら何を言えばいいかなんて初めから決まってた。

 六年前の夏祭りと同じ。何年経っても変わらない祝福の言葉。

「一華、誕生日、おめでとう」




◇◆◇

「一華、誕生日、おめでとう」

 六年前と一言一句変わらぬ言葉。頬に触れる詩音の手の温もりも、優しい表情も、あの頃の思い出と重なり一華は涙が止まらなかった。

 わたしの隣で笑うあなたは確かにここにいる。

 その事実だけで一華は心の底から安心し、今度は詩音に想いを吐き出す。

 だけど、また突然消えてしまうのが怖くて詩音の手に自分の手を重ね、しっかりと握る。

「ねえ、詩音、どうして、どうして、わたしの隣からいなくなっちゃったの……?」

「……家の事情で他の学校に行かなくちゃいけなかったの。黙っていなくなってごめんね」

「わたし、詩音がいなくなっちゃった後、苦しかったの。お父さんとお母さんが離婚しちゃって。全部、わたしのせいで……」

「大丈夫、もういなくならないよ。大丈夫、一華のせいじゃないよ」

 家の事情って何? なんで黙っていたの? 聞きたいことは山ほどあるはずなのに詩音の優しい声に溶かされて全部どうでもよくなる。

 ただ、今は自分の中にある悲しい気持ちを、嫌な気持ちを、全て出してしまいたい。

「わたし、頑張れてなかったよ。けど、頑張ろうって思うことができないの」

「一華は頑張ってたよ。ただ、今は疲れちゃってるだけ。ゆっくり休まなきゃ、また頑張ろうって思えないよ」

「わたしが一番になれなかったからダメだったの? お父さんとお母さんは離れちゃったの?」

「ダメじゃないよ。ちょっとすれ違っちゃっただけだよ」

「一番になれないわたしはいらない子なの?」

「いらない子じゃない。それに、一番にならなくていいよ。一番は誰でも替えがきくけど、唯一は違うの。一華だって、そう。代わりなんていない大切な存在だよ」

「わたしは、詩音にとって、唯一なの……?」

「当たり前じゃん。だって一華は『たった一つの花』でしょ?」

 ぐちゃぐちゃになった糸のように絡まった心を詩音は一つ一つほどいていく。締め付けていたものが無くなり心が楽になっていく。

「ねえ、一華。半分こしよう? 私は一華の全部はきっと無理だけど、半分こなら一華の苦しいを背負えるよ」

 詩音は一華ではない。一番を求められたことはないし、親が離婚しているわけではない。全てを理解することはできない。だけど、理解できなくても、一緒にいることはできる。隣で手を握ることも、気持ちを共有することもできる。絆として詩音と一華を繋げる。

 その時だ。

 ドンッッッ!!

 一つの光が夜空を駆け抜け、満開の花を咲かせた。

「花火だ!」

 詩音は瞳を輝かせながら夜空を見上げる。一華もつられて俯いていた顔を上げた。

 いくつもの彩りをもった光の花が次々と世界を照らす。

『一華、どんなことがあっても、私たちはずっとずっと一緒だよ。約束! だから、はい、これ!』

 一華は六年前の約束を思い出した。あの時も、花火が夜空に咲き誇っている時に約束して、証をもらったんだ。

 だけど、あの頃と違って一華は離れることを知っている。

 だから、新たな約束をしよう。確かな絆をつくろう。

「詩音、わたしにとってもあなたは唯一なの。だから、約束して。離れてしまっても、繋がってるって。独りじゃないよって、忘れないで」

「うん、約束。繋がってる。忘れないよ」

 詩音は強く一華の手を握り締める。大丈夫だよと伝える。

 握り締められた手を、詩音の真っ直ぐな瞳を見て、一華は決心する。

 六年前に詩音がくれた約束の証を返しても大丈夫だと。証がなくたって繋がることはできると。

「あのね、詩音。詩音に返したいものが―」

「にゃ~!」

 しかし、先ほどまでおとなしくしていた黒猫がテーブルの上で騒ぎ始めていた。そのすぐそばには小さな紙袋がある。

「あーやっぱり一華の隣にいたのハナだったんだ。てか、勝手に触らないで! 空ちゃんと違って私はちゃんと渡したいんだから!」

 この黒猫をどうやら詩音は知っているらしい。慣れた手つきで黒猫を抑えて紙袋を手に取る。

「渡すって?」

「誕生日プレゼントを! はい、一華! 開けてみて!」

 詩音は紙袋を一華に渡す。その中身を取り出してみると、入っていたのは花のブーケ。

「これは、朝顔?」

「そ! 朝顔!」

 青と紫の朝顔が花火に負けないくらい鮮やかに咲き誇り、朝顔のツルや白く小さな花々が控えめに彩っている。

「でも、なんで朝顔……?」

「前……と言っても小学生の頃、一華が嬉しそうに話していた花だったから」

「嬉しそうに?」

「うん!」

 いつもは親の話になると暗い顔をしていた一華が、その時だけは心の底から喜んでいるような笑顔を見せていた。

 それが詩音にとっては印象的で、自分まですごく嬉しくなった記憶がある。

 だから、一華の元へ向かう途中、偶然花屋を見つけた時、手に取ってしまった。

「この公園で朝顔を見つけた時、一華が言ってたの。幼稚園生の頃、自分が育てた朝顔の花をお父さんとお母さんにプレゼントしたら、すっごい喜んでくれたんだ! って」

 詩音の言葉で一華は思い出す。幼稚園で初めて花を育てて、どうしても親にプレゼントしたくて、先生に助けてもらいながらブーケを作ったのだ。

 それを両親に渡した時、母はギュッと一華を抱きしめ、父は優しい笑みを向けてくれた。

『まあ、一華! 素敵な花をありがとう。お母さん嬉しいわ』

『一華、ありがとう。こんな綺麗な花は初めてだよ。まるで、この花は一華だな』

『わたし?』

『ああ、一華は自分の名前の意味を知っているか?』

『ううん、しらない』

『一番のハナになれ。そう願いを込めたんだ。一華は父さんにとって一番のハナだ。だから、これから一華が出会う大切な人たちの心の中で一華が一番のハナになることを祈ってるよ』

 一華という名前が、一番という呪いがかかる前の一華が忘れてしまっていた思い出を詩音が花開かせる。

 自分を、一華自身を、見てくれた。

 あの人たちの中では自分は一番のハナであり、唯一だった。

 大好きだった人たちとの大切な思い出。

「そっか、わたしにもお父さんとお母さんとの嬉しかった思い出があったんだ……」

 何も無いわけではなかった。温かくて優しい思い出が見えなくなっていた絆を見せてくれた。それだけで十分だった。

「苦しいだけじゃなかったんだ……」

 もしかしたら父や母の中では一番の意味が昔とは違うかもしれない。一華の意味が変わってしまったのかもしれない。

「大丈夫だよ、一華」

 だけど、大丈夫。

 絆は繋がっているから。

 いつの間にか花火は終わり、一華たちを照らすのは月明かりだけ。色とりどりのお花に囲まれた場所は夜に飲み込まれてまた色を失い、雑木林は大きな影の怪物になる。

 怖くは、ない。

 自分の手を握りしめてくれる詩音の温もりが、一華が独りではないと教えてくれる。また、頑張ろうと思うことができる。

「わたし、頑張るよ。今度はわたしの意思で頑張りたいんだ」

 一華は誰に言われるまでもなく、顔を上げた。花火の光には負けてしまうけれど、月と沢山の星々の光が夜を静かに灯している。

 見えなくなっても、変わってしまっても、これから新しい絆の在り方を見つけていけばいい。

「にゃあ」

 小さな夜の影が一華に飛びついた。ハナだ。ブーケと詩音の手を握っていて両手がふさがっていたから、一華の代わりに詩音が片手でなんとかハナをキャッチする。詩音の腕の中に収まったハナは器用にも体を動かし一華の頬を舐めた。

「私だけじゃなくて、ハナも応援してるってさ」

 また詩音は自身の額と一華の額を重ねて、微笑んだ。どうやら自分が気づかないうちに瞳から涙が零れていたらしい。だけど、これは悲しい涙じゃない。

「……うん、ありがとう」

 震える声で、でも、一華は心の底からの笑みを浮かべた。





 夏の夜のとばりが降りる時、

 猫に祝福されながら、少女たちは絆の花を咲かせた。









「俺、母さんが亡くなる前に、宝箱をもらったんだ」

 もうすぐ花火が始まる直前、河川敷で待機している時、おもむろに彩夢はそんなことを口にした。

「宝箱ですか?」

「母さんが元気だった頃、大切そうに母さんがくれたんだ。もしかすると、その時から母さんは自分の死期を悟っていたのかもしれない」

 母がまだ入院せず、通院していた時、中学に入る前の小学校を卒業する頃に贈られた。それは両手を広げたくらいの大きさの花の柄が彫られている木彫りの宝箱だった。

「そう、だったんですか……。中身は何が入っていたんですか?」

「中身は、分からない。鍵がないんだ」

 自嘲気味に彩夢は笑う。

「いつか鍵は現れるから、分かる日が来るから、その日まで待っててほしいって」

 母が亡くなり、母の影を追っていた頃は、いつまでも現れない鍵の存在に苛まれていた。

「だけど、今はもう別に現れなくってもいいかなって」

「どうしてですか?」

「宝箱じゃなくても母さんが残したものは沢山あるから。このお祭りだって、そう」

 彩夢は空に微笑む。空に、前に進む勇気をもらっていなかったらこんな風に考えることすらできなかっただろう。

「残したもの……?」

「言花の猫って知ってる?」

 それは空にとって身近なおとぎ話だった。

「空ちゃんと集合する前に、あそこのステージで幼稚園児たちがやっていた劇なんだけど、俺、祭りに早く来たのはその劇を見ようと思ってたからなんだ。……まあ、途中で体調崩した妹と遭遇して見れなかったけど。っていうか、前、空ちゃんも言花の猫について話していたから、もしかしてあの幼稚園出身かな?」

「言花の猫! 知ってるも何もあたし、今日、そこのお手伝いをしていたんですよ!」

「えっ! そうなの?」

 自分にとって身近なおとぎ話がどうやら彩夢と繋がっていたようで、空は思わず気持ちが跳ね上がる。

「それに、あたしたちの代から始まったんですもん!」

 しかし、彩夢は空よりも年上。仮に彩夢が同じ幼稚園出身だとしても、彩夢の代はこのおとぎ話を知らないはず。

 だってこのお話は詩音の母がつくった話だから。

「まじか! じゃあ、俺の妹と、もしかしたら知り合いかも!」

「彩夢さんの妹?」

「そう、この言花の猫って、母さんがつくった絵本を妹が劇でやりたいって騒いで始まったんだ」

 それはよく耳にした友だちの話。

 今日も一緒にいた友だちの大切な過去の話。

「…………え?」

 空は頭が真っ白になる。

 彩夢の話はおかしい。そんなのありえないから。

「彩夢さん、彩夢さんの妹さんって名前なんですか……?」

 だって、詩音のお母さんが死んだと聞いてないから。

 だって、詩音はお母さんが大好きだから。

 ドンッッッ!!

 視界の端で光の花が燃える。





「詩音。野原詩音だよ」

 野原彩夢は微笑みながら妹の名前を口にした。









「わたし、詩音がうらやましかったんだ」

 夏草に寝転がり、星を見ながら一華は隣で同じように寝ている詩音に話しかけた。

「うらやましかった? どうして?」

「ちゃんと自分を見てくれる親がいたから。詩音のお母さんがすっごい優しかったの覚えてるんだ」

「そう、だったんだ……」

 詩音と出会ったばかりの頃、病院で詩音と詩音の母が一緒に歩いているのをよく見かけて、その度に詩音の母は詩音だけでなく一華にも温かい言葉をかけてくれた。自分とは違う温かな家庭に何度羨ましいと思ったことか。

「でも、いざ親が再婚するってなったとき気づいたんだ」

 しかし、皮肉にも今日、気づいてしまった。

「やっぱりわたしは自分の親がどうしようもなく好きだってこと」

 どんな形の家庭でも、一華にとっては大切なものだったと。

「だから、すごく悲しかったし、嫌だったんだ」

 それが再婚によって新しく書き換えられてしまう時、手遅れになってしまう時、気づいたのだから。

「伝えられるときに伝えていけば大丈夫だよ。だってまだお父さんとお母さん、いるんでしょ?」

「何言ってるの詩音。どんなに頑張ったってどうしようもないこともあるの。詩音はまだ何も失ってないから分からないかもしれないけど、これだけは譲れない」

 詩音の両親は夫婦円満だったらしいが、一華の場合は違う。心が離れてしまったら戻らないのを一華は知っている。

 新しい絆を築くことに決意した一華ではあるが、やはり失ってしまったものを埋めることはまだできていない。

「それに後悔しないように全力を尽くしたって、悲しいものはどうしようもなく悲しい」

「悲しくないよ」

「ううん、悲しくないのはきっとその気持ちにふたをしちゃったからだよ」

 知らないからこそ、詩音はそんなことが言えるのだ。失ってないからこそ、悲しくないって言えるのだ。そう、思っていた。

「…………じゃあ、私は、本当は、悲しかったの?」

 詩音の今まで聞いたことのない、かすれた、消えてしまいそうな声を聞くまでは。

「え?」

 一華は寝転がっていた体を起こして詩音に顔を向ける。しかし、それよりも早く、詩音は壊れた人形のようにぎこちなく立ち上がり、ここではないどこかを見つめながら一人でぶつぶつと呟き始める。

「ううん、違う。悲しくなんてない。だって、だって、ちゃんと言いたいことは全部伝えた。残りの時間もちゃんと大切に過ごした。お兄ちゃんとは違う」

 頭を抱え、髪をぐしゃぐしゃにかきむしり、そのまま顔を手で覆い隠す。

「悲しくない。苦しくない。私は乗り越えた。お兄ちゃんとは違ってちゃんと未来に向かって生きてるもん」

「詩音……?」

 一華の言葉を一音一音聞き逃さないように耳を傾けていた先ほどの詩音とは違う。誰の言葉も聞こうとしない、いや、聞くことができない。

「約束したもん。大丈夫だって」

 吐かれる言葉も誰かに届けるためのものではない。自分に言い聞かせるためのもの。自分は大丈夫なのだと思い込ませる詩音にとっては魔法の言葉。


「お母さんが死んじゃったって、私は大丈夫だったもん」


 それが、一華には呪いの言葉にしか聞こえなかった。

「っ!」

 一華は息を飲む。言葉が出なかった。何か言わなくてはいけないと分かってはいるがのどに言葉がつっかかって吐き出すことができない。

『何言ってるの詩音。どんなに頑張ったってどうしようもないこともあるの。詩音はまだ何も失ってないから分からないかもしれないけど、これだけは譲れない』

 つい先ほど放ってしまった自分の言葉が重くナイフのよう一華に突き刺さる。どこかに行ってしまいそうな詩音の手を握らなければいけないはずなのに、体は伸びた草に絡まってしまったみたいに動かない。

「し……おん」

 どうにか発せられた音は陳腐で言葉にすらなってないと思われるほど。無論、相手に届くわけがない。ただ詩音が目の前で壊れていくのを見ることしかできない。

「お母さんの余命があと少しって聞いた時も、お兄ちゃんがお母さんにひどいこと言った時も、お兄ちゃんのせいで受験しなくちゃいけなくなった時も、卒業してみんなとさよならした時も、お父さんが仕事で家にいないのが当たり前になった時も、部活を続けられなくなった時も、お母さんが亡くなった時も…………私は大丈夫だった。だって伝えるべき言葉は伝えてきたもん」

 母の余命を聞いてから起きた悲しかったはずのこと、苦しかったはずのことはとっくの昔に全部乗り越えた。母のいないこれからを進めるように、後悔しないように、精いっぱいできることはやった。だから、今さら悲しいなんて、苦しいなんて、ありえない。

「ぁ、あっ…………」

 だけど、この痛みはなんだろう?

 母の笑顔が、声が、姿が、思い出が、脳裏に蘇る度に頭がガンガン鳴り響き、痛い。胸が張り裂けそう。詩音はこの痛みを知らない。

 だめだ、前に進めなくなる。ダメになる。忘れなきゃ、過去を全部。

「……詩音っ!」

 腕をつかまれた。振り返ると同い年くらいの女の子とハナがいる。真っ直ぐ自分を見つめる女の子。一緒にいたいけれど、つかまれた腕を振りほどかないといけない気がした。そうしないと痛みがどんどん強くなるから。

 自分はなんでこんなところにいるのか、目の前の女の子は誰なのか。身に覚えがあるくせに痛みで思考も視界もぼやけて機能しない。

「ごめん、なさい」







 だからその手を払って詩音は逃げ出すことしかできなかった。

 涙一つも零れない。

 悲しいも、苦しいも、分からない。







 いつまで経っても降らない雨に花々は「また」しおれていく。

 詩音は勇気の花も、愛の花も、絆の花も、全て、全て、受け取った言花たちを枯らしてしまった。





















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