たそかれ
夏の蒸し暑さにツツーと汗がながれた。吹き出物のひりつく頬をボリボリと掻き毟り、佐次郎は洟を啜る。
ズッシュと、掠れたような音に、喉からせり上がるのは鉄気を含んだ膿の味。
キーンと、遠鳴りが聞こえ、佐次郎は赤と紫の混じり合った様な空を見上げた。
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17時の鐘が鳴り、佐次郎はその手を止めた。汗が頬を伝い、ポタリ……と地面に黒い跡を作る。
要領の良い者は、この時間には既に帰り支度を整えており、だが佐次郎は、時間まで作業をしていない事の後ろめたさで、いつまでも早々に帰る事など出来ずにいたのだ。
道具を片付けて詰め所でモサモサと服を着替える。職人の中には汗にまみれた格好でも気にしない者も多いが、ただでさえ醜男である自覚の有る佐次郎は、少しでも周りに居る人達に不快な思いをさせない様にと、必ず着替えてから帰る様にしていた。
「お疲れさまでした」
「あ、はい」
20も年下の警備員に頭を下げ、工事現場を後にする。斜陽が目に煌き、思わず目を細める。ヌットリとした湿気を含んだ風が身体に纏わり付き、そのせいでまた汗が噴き出す。
チリリーンチリリーン。
ピクリと体が震えた。
甘い、仄かな甘い香りと幽かな汗の臭い。そして……風鈴の音。
『佐次郎……』
古い記憶。脳裏にこびりついたまま、剥がれ落ちぬ、甘美な……
デュウウゥゥン。
脳天から冷や水を掛けられた様に、背筋が凍った。あの、ジャズベースの低い、酷く低い音が聞こえた気がして、佐次郎は思わず足を止める。
何故一瞬でも忘れていたのだろう。風鈴の音と、ジャズベースの音は、一対ではないか。
カタカタと奥歯が鳴る。脂汗を滲ませた土気色の顔色に成った佐次郎は、小刻みに震えながらノロノロと埃にまみれたそこ、音が鳴ったと思しきビルとビルの隙間を覗き込む。
「……気の……せいか」
ほうっと小さく息を吐いた佐次郎は、安堵と共に、その隙間から漂うドブの匂いに顔を顰め、ヒリヒリと痛む吹き出物をボリボリと掻くと前を向いた。
ヒュッツ……
足元に飛び出したソレを見て、佐次郎は思わず尻もちをつく。
ヒュッと息を呑み、パクパクと口を動かすも、声が出ない。
大きさで言えば握りこぶしほども無いであろうその、薄汚れた不快感を誘うソレは、何かジタバタと蠢く、白くほっそりとした四肢を持つ何かを纏わり付くかの様に抱きすくめている様に思えた。
そして、飛び出して来たソレは、ゆっくりと振り向き、佐次郎に向かってニタリと嗤った。
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不吉な、膿の混じった様な消毒液の匂いで佐次郎は目を覚ました。薄汚れた罅の入った、元は白かったであろう天井から、視線を動かす。
自分以外誰も居ない、それは病室だった。
チリリーンチリリーン。
風鈴の音に佐次郎の肩がビクリと跳ねる。視線を泳がせると窓際に風鈴が吊るされた居るのを見て、ホッと胸を撫で下ろす。
だが、その窓辺に佇む白い四肢の黒髪を幻視し、佐次郎は目を細める。
「熱中症でした」
思わず振り向いた佐次郎に、いつの間にかベッドの横に立って居た、無表情な看護師がそう告げた。
驚きで口をパクパクとさせていた佐次郎は、「あ、はい」と、掠れた声でそう答えるしかなかった。
無表情のまま目を伏せた看護師は、そのまま音も無く踵を返すと、病室を出て行った。
青白い、どこか不吉な看護師だった。
******
病院を後にした佐次郎は、ノタノタと家路を歩く。
夏の蒸し暑さにツツーと汗がながれた。吹き出物のひりつく頬をボリボリと掻き毟り、佐次郎は洟を啜る。
ズッシュと、掠れたような音に、喉からせり上がるのは鉄気を含んだ膿の味。
キーンと、遠鳴りが聞こえ、佐次郎は赤と紫の混じり合った様な空を見上げた。
黒い鳥がうねりながら、赤紫の、血を思わせる様な空に染みを作る。
晴れ上がっているはずなのに、どこかどんよりとした、重苦しい。まるで、血の様な……
目を細めた佐次郎は、しかし、大きく頭を振る。
(思い出してはいけない)
一瞬頭を過った顔の陰に、佐次郎の鳩尾辺りが重く、苦しくなる。
ふと、見上げたビルに飾られた、クラシックな時計の日にちを目に映し、「ああ」と言う呟きが口から漏れた。
デュウウゥゥン。デュウウゥゥン。デュウウゥゥン……
耳鳴る。重く、低いジャズベースの音。何故今日はこんな事を思い出すのか?
「オレは、あの男と同じ年になったのか……」
目眩がした。思い出すと背筋に怖気が走るほどに嫌悪する。だが、ビルのガラスに映る顔は、確かにあの男と血が繋がっている事を肯定していた。
あの男は……父は……ジャズベースを良く弾いていた。
弦を爪弾きながら「女を抱くのと同じだ」等と口にするニヤついた貌が嫌いだった。
若い頃はバンドをやっていたと嘯いていたが、佐次郎にとってはどうでも良い事だった。下品で軽薄なあの男の事が、どうしても佐次郎は好きになれなかった。
姉が、支える様にあの男の横に立って居るのがどうしても我慢ならなかった。
チリリーンチリリーン。
優しい姉だったと記憶している。決して幸福とは呼べなかった少年時代にあって、彼女の記憶だけは標の様に光を放っていた。
チリリーンチリリーン。
デュウウゥゥン。
音は重なる。思い出してはいけない。
涼やかな風鈴と、重く低いジャズベースの音が重なる。
あの男と自分は同じ年齢になった。
あの貌が脳裏をかすめる。
美しかった姉が。醜かったあの男が。
音が重なる。
クラリと目眩がし、血の様な夕暮れの空の黒い不吉な染みが、ニタリ……と嗤った様な気がした。
******
佐次郎の父が死んだとき、彼は呆然とその死体の横で座り込んで居たと言う。
事件性は無かったらしい。
親子二人だけの生活だった為に発見が遅くなったが、しかし、彼の父は即死であり、仮に発見が早かったとしても助かりはしなかっただろう。
部屋の中は随分と荒れており、酒瓶があちこちに転がっていた。壁に開いた穴。砕けた酒瓶。
周囲の家の評判でも、彼の父は「質の悪い酔いどれ」と言う物だった。
結局は、酔っ払いが一人で暴れて足を滑らせ、打ち所が悪く即死した。ただそれだけの事だった。
だが、一カ所で立て続けに死人が出たとなれば、色々と勘繰りは出る。
曰く、『呪いの家』だと。
佐次郎の姉が自殺をしたのは、父が死ぬ2年ほど前だった。
台所で首を吊ったのだ。
この時、最初に彼女を発見したのも佐次郎だった。
チリリーンチリリーン。
******
膿の混じった様な消毒液の匂いで佐次郎は目を覚ました。
(ああ、あの時も風鈴が鳴って居た)
彼の姉は優しい女性だった。
チリリーンチリリーン。
ビクリとして振り返る。無表情な……姉が……
チリリーンチリリーン。
デュウウゥゥン。
音が重なる。
あの時……
すすり泣く様な声が、低い唸るような声が。
音が重なる。
白くほっそりとした四肢に纏わり付くかの様に抱きすくめる。
父が……ニタリと嗤う。
姉が自殺したのは、あの直後では無かったか?
無表情な看護師の青白い顔が真下にある。
覆い被さる様な体勢の佐次郎は、ここで初めて自分が看護師を組み伏せて居る事に気が付いた。
「ヒッヒッ」と言うすすり泣く様な声に、佐次郎は飛び跳ねる様に後ずさる。
無表情な貌が、彼を見据える。
チリリーンチリリーン。
白い四肢の黒髪の看護師が、しかし、嫌に熱の籠った瞳が……
佐次郎が病室を飛び出す。
チリリーンチリリーン。
あの、纏わりつく様な視線は。
デュウウゥゥン。
あの、ニタリとした厭らしい嗤いは。
チリリーンチリリーン。
デュウウゥゥン。
音が重なる。
悦んでいたからこそ、自殺するしかなかったのだと、今なら分かる。
生暖かい風が、佐次郎の身体に纏わり付く。
あの男と同じ年齢に成ってしまっていた佐次郎の身体へと。
チリリーンチリリーン。
デュウウゥゥン。
音が重なってしまう。貌が重なってしまう。
自殺した姉の貌と、事故死した父の貌と。
チリリーンチリリーン。
デュウウゥゥン。
あの、首を括ってパンパンに膨れた醜い貌と、厭らしく笑う醜い父の貌と、目的も無く、ただただ生きているだけの自分の貌と。
醜い、厭らしい、下劣で、無意味な。自分は同じだと、音が……
「うわあああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ」
佐次郎は耳を塞ぎながらそのまま病院からも飛び出し。
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ひどい衝撃と黄昏時の空。
血の様な赤紫の中に広がる黒い染み。
首を括った姉の膨れた貌と血だまりの中の父の貌はよく似ていて。
呪われた子供だと、蔑まれて、ただただ無意味に生きて来た男は、最期にニタリと嗤った。