彼の名前を教えてもらいました。
次にアナーヒアが目を覚ましたのは、月光の注す夜になってからだった。
大分体の調子も良くなり、自分でも起き上がれるようになった。
「ほんとによく寝るよなぁ」
気を失うように眠ってしまったアナーヒアに対し、特に何か言うこともなくジッとこちらを観察する彼に、若干の気まずさと羞恥心を覚えるが、気にしたら負けだと自分に言い聞かせるようにして顔を上げる。
「本当にすみません。それで、あの…ここはどこなのでしょうか?あと、貴方は一体…」
先ほど彼自身も述べていたように、今では魔法を扱える人は昔に比べて大分減ってしまったようで、過去に魔法使いが多かったと記録が残っているのは、200年ほど前のことらしい。
実際、アナーヒアの故国であるソイーユ王国もその頃にとある力の強い魔法使いの尽力によって建国されたと歴史書に残っている。絵本にもなっていて、子供も知る王国の常識だ。
というか、忘れていたが、そもそも彼の名前すら知らないのだ。
「ん?俺の名前…?そういえば、お互い名乗ってなかったな」
薄暗い室内は、彼が指を一振りしただけで暖かい光に包まれる。
(私が起きるまでこの暗いままの部屋にいたのかしら…?)
外はもう大分月が昇り、窓から差し込むのも月明りだけだった筈だ。今更ながらこの中で何をしていたのだろうとアナーヒアも考える。
「さて…俺の名前、だったか。俺はトート。『ハルフレッド・トート』だ。」
「ハルフレッド・トート…トート様」
噛み締めるように何度も繰り返す。心の中でも三回ほど。しっかりと彼が私の中に、記憶に残るように。
「『様』なんて仰々しい敬称いらねーよ。呼び捨てでいい」
「でも、恩人様を呼び捨てにするなんて…」
できません。と続けようとしたアナーヒアにかぶせるようにして、トートは首を振る。攻防が続くこと5分。先に折れたのはトートだった。
「じゃあほら、様以外で。それならまあいい」
「様以外…ですか…」
トートはうーんと唸るアナーヒアを前に、1つ溜め息を落とすと苦笑いを浮かべる。しかし、敬称をどうにか考えるのに必死なアナーヒアはそれに気が付くことはない。
それからまた5分ほど経っただろうか。アナーヒアがあっと声を上げる。敬称1つにいったいどれほどの時間をかけるのか。トートの顔に浮かんだ苦笑がさらに深くなったのは言うまでもない。
「さん。トートさんなんてどうでしょうか」
「さん、ね…まあいいだろ」
さて、俺の敬称も決まったことだし、あんたの名前を教えてくれないか。そう続けたトートに、アナーヒアは1つ頷き、姿勢を正す。
「申し遅れました。わたくし、リン…、いえ、もう違いますね。そう、アナーヒアと申します。ただのアナーヒア。アナ、とでもお呼びください。それと、トートさん、先ほどは助けていただき、ありがとうございました」
深く、頭を下げる。
「おう。別に見返りが欲しくて助けた訳じゃないからな。そんなにかしこまらなくても大丈夫だ。…にしても、アナーヒアね。なるほど、いい音だ。うん。これからよろしくな、アナ」
アナーヒア。私の名前はそんなにも鮮やかだっただろうかと記憶を振り返る。
アナーヒア自身、名前というものは個々の識別のために用いるのであって、そこまで重要な物でもなかった筈だ。
(なのに、どうしてだろう。トートさんに呼ばれるたび、アナーヒアという音が、呼称が、大切な物のように感じる)
よく分からない感情を抑えつけるように、意味がないと分かりつつも、心臓の上を無意識に押さえてしまう。
(暖かい…)
アナーヒアが初めて名前に意味を見出した瞬間だった。
投稿ボタンを押していなかった…ので、この時間になりました。
0時にもう一度投稿します。