おはようございます。どちら様ですか?
書きたいこと詰め込んでたら、思ったより長くなってしまった…
「…い、お…!ぉい、起きろ!」
「ん…」
アナーヒアを揺り起こす、男性特有の低い声に、ゆっくりと瞼を開く。
次の瞬間、まだ光に慣れないぼやけた視界いっぱいに入ってきたのは、瞬くルビーのような瞳だった。
「きれい…」
「おはよーさん、ねぼすけ。悪いけど、魘されてたからな。起こさせてもらったんだ」
「あ、あの、はい。おはようございます…」
あの悪夢から起こしてくれたことに感謝しつつも、反射的にあいさつを返したアナーヒアに対し、よし、返事が出来て大変よろしい。と残し離れて行ったその男性は、寝起きであるアナーヒアの視界には、少々暴力的だった。
濡羽色の腰まで届く艶やかで長い髪に、ルビーのように紅く煌めく瞳。更に、程よく鍛えられてはいるが、無駄な脂肪が一切ない細身の身体からは、バランスの取れた四肢がすらりと伸びている。身長も、国内では珍しく、アナーヒアよりも頭一つ分程高く2メートル近くある。
しかし、そんな美しい体を持ちながら、彼は自分の外観には無頓着の様だった。
長い脚をぴっちりと覆う黒いスキニーパンツに、黒いシャツ。アナーヒアの寝ていたベットの側に置いてある木でできた簡素な椅子の背もたれには黒いローブが掛けてあることから、彼が上から下まで真っ黒ということが分かる。しかも、長く、しかし若干癖があるのか、所々跳ねている黒髪は無造作に耳の上辺りで纏められていた。装飾品といえば、左耳に紫の宝石でできたシンプルなデザインのピアスが付けられているくらいだ。
(今までこんなに綺麗な人見た事無かったわ…身なりはいったん横に置いて、だけれど)
どうやら、アナーヒアは彼に助けられたようだ。
首だけ動かしてぐるりと部屋を見渡すと、少し手狭な室内だが、簡易的なチェストと、アナーヒアが横たわっているシングルサイズのベット、椅子とテーブルのセットがあるのが見えた。窓から差し込む光を見るには、昼過ぎ頃なのだろう。暖かな空気が、小さな部屋を満たしていた。
アナーヒアがそれらをぼんやりと眺めていると、振り返った彼は水差しからコップに飲み物を注ぎ終えたようで、なみなみと注がれたそれを差し出してくる。
「ほら。取り敢えず飲め。声、聴けたもんじゃねー」
「あ、りがとうございます」
そういえば、喉が痛むとありがたくコップを手に取ろうとして、やっと、全身に力が入らないことに気が付いた。どうにか首あたりまでは動かせるが、他は酷く倦怠感があり、思うように体が動かせない。
「ん?…あぁ、悪い。気が付かなかった」
どうにかして体を動かそうと、四苦八苦しているアナーヒアを見て、彼は心当たりがあるのか一つ頷くと、アナーヒアの体の下に腕を滑り込ませて、コップを口元に寄せてくれる。
「ほら」
「すみません…」
本来ならば、男性に手ずから飲み物をもらうのは、些か抵抗があるが、背に腹は代えられない。ひとまず一言入れてから、そっと口を付けると、柑橘系の爽や一先ずが喉の奥を通り抜けて行った。
「すごく、おいしい…です」
「そりゃよかった。」
暫くの間、コクコクとアナーヒアが果実水を喉に通す音だけが聞こえる。
「さて、と。落ち着いたか?」
どうにかコップ一杯分を飲み干したアナーヒアを、彼はもう一度寝台に横たえると、傍にあった椅子にどさりと腰かけた。
「あの…はい。すみません、何から何まで」
「んー。いや、いい。ただの興味本位だからな」
それに、と続ける。
「何か、理由があったんだろ?」
あんなにボロボロになって。
(そうだ、私、無理矢理引きずられて、忘却の森に…)
ふと、あそこにいた理由を思い出した。途端に呼吸が浅くなり、体が芯から冷え、震えるのが分かる。
忘却の森というのは、国境付近にある魔物が住むとされる森、エマルクの森の別名だ。一度入れば二度と出てこられないといわれ、入ってしまった人は、いつの間にか人々の記憶から、生活から忘れ去られてしまうという意味でつけられたらしい。アナーヒアはその入り口に無理矢理運ばれて、中に向かって突き飛ばされたのだ。
(そんなにも、メアリーは、私を、憎んでいたの…?)
呼吸が早くなる。力なく抱いていた両腕に爪が食い込んで痛い。
「…!おい、落ち着け!ゆっくり息を吐くんだ!」
彼は慌てて椅子から立ち上がると、アナーヒアの体を再び抱き起し、背中を擦る。すると、混乱し、激しく脈打っていた心臓が静まっていくのを感じた。
「けほ、カハッ…ひゅ、」
「ゆっくりでいい…そう、落ち着け」
トントン、と彼の大きな手のひらが背中を撫でるたびに、暖かい物が体に染みわたっていく。
(あったかくて…まるで、魔法、みたい)
「大丈夫か…?」
そう言ってアナーヒアを覗き込んだ彼の形のいい眉は、心配げに潜められていた。もう大丈夫だと伝えるために、アナーヒアが首を縦にコクコクと振ると、更に眉間の皺を深くしてしまう。
「そんな顔色で大丈夫なわけねーか」
そう一言呟くと、空いていた右腕を一振りし、どこからともなく毛布を取り出した。どうやら、彼は本当に魔法が使えるようだ。今使ったのは、おそらく、異空間などを用いた魔法なのだろう。いつか、興味本位に開いた魔法書に系統別に記してあったのがアナーヒアの記憶の端を掠めた。
「わぁ…」
初めて見る魔法の系統に、思わず先ほどのことも忘れて見入ってしまう。
「ん?あぁ、珍しいのか。そうだな、最近は魔法を使える奴らがどんどん減ってきてるからな」
少しは落ち着いたな。彼はそう言いながらフワリとアナーヒアに毛布を掛けると、そのまま、アナーヒアの二の腕をする。
「ほら、ゆっくりでいい。力を抜け。痛いだろ…ん。このまま休んでいいから」
ゆっくり、ゆっくりとほどけるように抜けていく力に、抗う事無く息を吐く。
こんなにも、誰かの、しかも初対面の異性の前で落ち着くことができたのは、初めてかもしれない。なにせ、実の父にも長い間虐げられて来たのだ。ましてや、今回忘却の森に無理矢理に引きずってきたのも、騎士団の男性だったのだ。
(でも…この方は、今までの男のひととは違うと思うわ)
ひと時でもいい、違うと信じたくて、夢から覚めないようにアナーヒアは瞳を閉じた。