最新版稲作の道
タイトル的に多分まだ完結じゃないから続とかやると思いますが、これこそが今最新の学説からのまとめた意見です。
ええーっと、ずっと問題になっていた半島に陸稲があったか?ですが、結論から言えばありました。じゃ早期の水稲は間違いなのか?と言うとこれも違っていて、以前書いたと思いますが、水田は大きく分けて2段階にわけて日本に伝わっています。実際この2通り日本でも見つかっています。菜畑遺跡辺りで早期の水田がとか聞いたことがあると思います。
粗放水田と言って自然の地形をそのまま利用した今の水田とは全く違うものです。何故それが不完全なものかと言うと、たまに水不足に陥ることが多々あるからです。なんだそれ過去の事見てきたように語りやがってと、だから科学の力なんですよ。米粒に水不足に陥ったとき独特の特徴が出るそうで、炭化米からこれが分かるそうです。
立地条件も良いのになんでこの特徴が出てるの?で水管理とか自然任せだからです。今の水田とか、水の調整を人間がやってますからね。今の常識だと考えにくいけど、水稲でも陸稲でもどっちでもいいやって形で半島から日本に来たと。
どっちも正しかったんですよ。じゃそれ熱帯ジャポニカ?温帯ジャポニカ?だとまだ分かってないんです。ただ海ルートが完全になくなったわけじゃなくて、早期の半島の陸稲のルートも存在していたと判明しました。なんで唐突に南部で最古の水田が見つかったのか?の答えはこれです。
はっきり言えば、運です。確率的に陸稲の方が立地条件から多いそうです。ただその中で都合の良い条件だと粗放水田での水稲栽培をするだけだそうです。陸稲ルートももっと調査すれば立地条件が良い場所があるのかもしれません。ただとりあえず見つかってないので陸稲は陸稲で、良い条件の場所が見つかりそこでもプラントオパールが発見されればそっちは水田栽培だとなるわけです。
水稲と陸稲が別々に伝わったんじゃなくて、場合によっては同じ稲の栽培方法が違ったってだけです。これが温帯か?熱帯か?は分かっていません。ただ言えるのは、日本は温帯ジャポニカが伝わる前に畑作と熱帯ジャポニカが伝わっていた可能性が高い点です。ただこれも海ルートできたか?は分かりません。
分かってるのは、半島で畑作で雑穀の1つとして稲が栽培されていた。立地条件が良ければ水田で水稲栽培をしていた。菜畑でも全く同じことをしていた点です。海ルートも否定しませんが、普通に熱帯ジャポニカも陸ルートがメインであった可能性も十分あります。
じゃ何故半島に熱帯ジャポニカがなくなってしまったのか?実際あるのですが、かなり後の時代の満州経由の陸稲だと分かっていて、この時期のものじゃないです。
これについては畑作での雑穀の1つで、どうもあまり向いていたと思えない点。その後の陸稲って陸稲向きに品種改良された可能性はありますね。これは専門的なので分かりません。あまり向いているものじゃなっかったので雑穀から外れた可能性は高いです。次に水田ですよね。ここで遺伝集団も違っていたという私の説が生きてきます。
この集団が奇妙なのは、漁労について全く特別な集団で、稲作頑張りすぎて、漁労がおろそかだったのが、魚の骨の量から分かっています。今の稲作に近いので、労働量が半端ない。漁労もやりつつってのが出来なくなったのだと思います。後からこの集団が使っていたのが温帯ジャポニカだったんだろうなと見ています。
おそらく半島に熱帯ジャポニカはあったんだろうけど、相対的な量の違いから絶滅してしまったのじゃないか?と。陸稲の方も後からやってくる陸稲向きのコメによって絶滅してしまったかと。あくまで推測でしかないですよ。海ルートで着た可能性に言及してる人も多いので。
ただ陸稲で半島を渡ってきた可能性が出てきたので、熱帯ジャポニカであった可能性はとても高いです。
温帯ジャポニカについてですが、新しく竜山文化の頃の遺跡から山東省で温帯ジャポニカ熱帯ジャポニカと共に見つかったんですよ。圧倒的な熱帯ジャポニカの中の一部に温帯ジャポニカがあったそうです。何かしらの理由で、これらの中で灌漑式水田には温帯ジャポニカばかりが埋め尽くされてしまったと見ています。
一番簡単なのは、寒冷化によって温帯ジャポニカ以外が勝手に排除された可能性です。満州ルートで韓国の熱帯ジャポニカがあるように、陸稲の方が寒さに強いみたいです。水田専門集団に向いていたのは温帯ジャポニカであった可能性は高いです。
半島南部なのか?日本におそらく熱帯ジャポニカが先行してきたのは事実だと思うが、そのルートはどっちも可能性が有るって事です。
ただこれをもって山東省、渤海付近が温帯ジャポニカのルーツだとは言えないのですけど。とりあえずそれなりに推測を超えて現物が古い時代に見つかったと。新石器早期の水田跡からそっちがそうだった可能性は高いのですが、ヒプシサーマルの時期はややこしいので、扱いにくいというのもあります。
ついでに過去のこの時期の稲作についても、これらもやはり水不足の特徴が出ていたので、おそらく陸稲だっただろうと見られています。以前書いたのですが,河南の黄河文明の遺跡で稲作があったのは分かっています。それが水稲だたのか?陸稲だったのか?鯉の養殖があり、水が豊富だったのは分かっています。
立地条件的にはありなのですが、実際水不足の兆候を示し、雑穀栽培の跡が見られることから、おそらく陸稲だったろうと見られています。決定的ではないし、やはり条件によっては水稲として栽培していた可能性も高いです。
これらの話の肝は、同じ稲が栽培方法が異なるってだけです。そのどちらも半島のものは根拠をもって推測を超えて決定されています。両方あるんです。
追記:
熱帯ジャポニカが半島から先行して伝わったという私が良く紹介する宮本一夫さんの研究があります。基本稲に関してはこの人の話を見ておけば、おかしな説に惑わされないと思います。この研究では、半島の銅剣や土器などと共に熱帯ジャポニカが大半を占めるコメ粒が見つかったという報告があります。先行して熱帯ジャポニカが来ないと全部?大半?熱帯ジャポニカなんて遺物が出ることはないはずです。後直接の海ルートではなく、半島の南部から伝わったのが分かるのが、他のモノとセットで見つかったからです。1つの文化としてまとめてきたと見て良いと思います。