文字を食べる魚
「この魚は文字を食べるんだよ」
海へと続く白い道で、露天商のおじさんはそう言いました。
真夏の日差しがぎらぎらと輝いている中で、おじさんは白いシャツを着ているのに妙に黒く見えました。
わたしは水槽を覗き込みました。というか、水槽というより、大きなたらいにしか見えませんし、中で泳いでいるのも金魚すくいの金魚のようにしか見えません。
でも、魚たちは金魚のような赤ではなく、どれも真っ黒な魚でした。
「疑ってるんだな」
目深にかぶった麦わら帽子の下で、おじさんはにやりと笑いました。
「じゃあ、見せてやろうか」
おじさんは持っていた文庫本を静かに水につけました。途端に魚たちが本に群がって来ました。
しばらくしておじさんは、本を水から引き上げました。ページをめくってみると、本には文字がありません。
「な、本当だろう?」
おじさんは得意気に言いました。
さらにページをめくると、魚の一匹が水を泳ぐようにページの中を泳いでいました。魚はページの中をゆうらりと泳ぎながら、残った文字を食べていました。
おじさんはたらいの上で本を振りました。残った魚が落ちて来て、ぱしゃん、と音を立てました。
おじさんは紙と鉛筆を取り出し、わたしにさしだしました。
「これに何か書いてみな」
言われるままにわたしは、紙に適当な文字を書いて渡しました。おじさんはそれを魚のいるたらいの中につけました。
すると、一匹の魚が紙に近づいて来ました。その一匹が、さりさりとわたしの書いた文字を食べ始めました。
「こいつは、あんたの文字が好物だ。一番あんたに合う魚だよ」
おじさんは網でその魚をすくい、ビニール袋に移してわたしに差し出しました。袋の中で魚はわたしをじっと見ているように思えました。
それから、わたしの部屋に魚の水槽が増えました。確かに魚はそこにいて、その魚を受け取った時のことはよく覚えているのに、いつどこで手に入れたのかははっきり覚えていないのでした。
わたしはこの魚のことを、両親にも友達にも隠していました。魚をくれたおじさんに、魚のことは誰にも言ってはいけないと言われていたのもありますが、それ以上に理由がありました。
何故なら。
わたしが魚に餌として与えているのは、わたしが書いた文字でした。
「どんな秘密も隠しごとも、文字で書いてあるなら、こいつが食べてくれるよ」
この魚をくれた時、おじさんはそう言っていました。その通り、わたしが魚に食べさせているのは、誰にも言えない気持ちだったのでした。
高校の先輩。みんなの人気者で、とってもかっこいい人。地味で特別可愛くもないわたしが、先輩と釣り合うはずがないと思っていました。それでも、なけなしの勇気を振り絞って告白したのに。
「は? 俺がおまえなんかと付き合うわけないじゃん」
先輩は鼻で笑ってそう言いました。
叶うはずなんかないと思ってはいましたが、面と向かって言われるとやっぱり傷つきます。
その上、ずっと秘密にしていた気持ちはあっと言う間に皆の間に広まってしまいました。それでも先輩を完全にあきらめることは出来ず、わたしはぐるぐるした感情を抱えていました。
そんな先輩への想いをわたしはひたすらノートに書き記し、魚に食べさせていたのでした。
魚が文字を食べているのを見ていると、わたしの想いも少しずつほどけて行くような気がしました。
わたしはいつも、図書室で魚の餌になる文字を書いていました。図書室にはクラスの他の生徒はあまり来ないし、一人でゆっくり書けます。
それに、ここなら書く合間に本を読むことも出来ます。わたしは本を読むことも好きでした。
大体ここではいつも一人でしたが、いつの頃からか、一人の男子が図書室に入り浸るようになりました。
彼はいつでも何か絵を描いているようでした。本を取りに行く時ちらりと見てみると、とてもかわいい絵でした。
確か、隣のクラスの男の子です。ちょっと強面で、近寄りがたい雰囲気の彼でしたが、こんな絵を描くなんて少し意外に思いました。
「何書いてんだ? 小説?」
彼が声をかけて来たのは、突然でした。わたしはあわててノートを閉じました。
「ち、違うよ」
振られた先輩への未練をぐちぐちと書き込んでいるなんて、知られたくありません。
「あ、ごめんな、いきなり声かけて。いつもここで何か書いてるから、気になってさ」
彼は笑いました。
「そう言う君こそ、ここでいつも絵を描いてるよね。何描いてるの?」
「これか?」
彼はスケッチブックを開いて見せてくれました。繊細に描かれた、動物や妖精や子供たちがそこにいました。とても素敵な絵でした。
「俺、絵本作家になりたいんだ。クラスの奴らには冷やかされそうで隠してるけどな」
彼はパラパラとスケッチブックをめくりました。よく見ると、絵には短い文章が添えてあります。
「絵はこの通りなんだけど、話がいまいち上手く行かなくてさ。小説を書いてるんなら、アドバイスしてもらおうと思ったんだけど」
彼の笑顔は、陽だまりのように明るく優しい笑顔でした。程なく、わたしと彼は絵本や物語について話し合うようになりました。
気がつけば、魚の餌に先輩のことを書くことは少なくなっていました。代わりに、彼のことを書いて食べさせることが多くなっていました。
もしかしたら、わたしは彼が好きになっているのかも知れない。でも、先輩に手ひどく振られた記憶が、わたしに二の足を踏ませていました。
わたしは彼への気持ちを魚に食べさせることで、蓋をしていたのでした。
ある日の放課後。ふと妙な予感がして授業に使ったノートを開くと、書いたはずの授業内容が消えていました。
……まさか。
ページをめくると、いつの間にか魚がノートを泳いでいました。と、魚はぱしゃんと飛び跳ね、床に移りました。
そのまま、魚はすいすいと床の中を泳ぎ、教室を出て行こうとします。
まずい。魚を逃がしてしまったら、学校中の文字を食べてしまうかも知れません。どうやって魚を捕まえたらいいのかわかりませんが、とにかくわたしは魚を追いました。
時々ぴょこんと跳ねながら廊下を泳ぐ魚、周りの人にぶつかりそうになりながら、それを追うわたし。
(この方向は……)
わたしは悪い予感がしました。この廊下は、よくわたしが通っている道です。
思った通り、魚の行き先には図書室のドアがありました。
「ダメ! そっちはダメ!」
図書室には文字があふれています。本の文字を片っ端から食べられてしまったら、大変なことになってしまいます。
わたしの言葉もむなしく、魚は図書室の中に入って行ってしまいました。わたしも続いて図書室に飛び込みました。
いつもの席に彼がいました。
「お? どうしたんだよ、血相変えて」
魚は彼の方へ向かっています。彼の絵本の字を食べてしまうつもりかも知れません。
「その、魚! 捕まえて!」
「魚?」
彼が怪訝な顔をした時。
ぱしゃん。魚が大きく跳ねました。床から、机へと。
「ああっ!」
魚はわたしの目の前で、彼のスケッチブックにぴょんと飛び込みました。
「どうしよう……」
わたしは彼と一緒にスケッチブックを覗き込みました。
魚は。
スケッチブックの中で、ほろほろと溶けるように形を変えて行きました。
魚から、水に落とした墨のように。それからさらに徐々に姿を変え、ついには文字の形になりました。
「好きです」。そう読めました。
ご丁寧に、その文字はわたしの書いた字とそっくりでした。わたしの文字を食べ続けていたからかも知れません。
それを読んで、彼は驚いた顔でわたしを見ました。
「これって……?」
「わたしの、正直な気持ち、です」
思い切って、わたしはそう言いました。顔が赤くなっているのが、自分でもわかりました。
彼はにっこりと笑いました。
「俺も、君が好きです!」
それから何年かして、彼とわたしは二人で絵本を出しました。彼が絵を描き、わたしが文章を書いたのです。あの魚との日々は、図らずもわたしの文章力を引き上げていたようでした。
内容はもちろん、文字を食べる不思議な魚の話です。
あの時のスケッチブックは大事に取ってありますが、文字に変わった魚はもう二度と魚として動くことはありませんでした。
それでも。
今でも時々、わたしの書いた文字が知らぬ間に欠けてしまうことは るのでした。
最後の一文は、誤字ではありませんからね。