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第52話・雨垂

 「アキコー、ごはんは?」


 梅雨の最中、じめつく空気をものともせず、ピュロスはいつもと変わらぬ調子で変わらないことを言っていた。

 明るい窓から外を見ながら、だった。

 …私のセーフハウスは、狙撃される心配があるのでもともと一般的な階層構造物(要するにマンションの類だ)に構えているものはほとんどない。

 今日入っているのはその数少ない部屋の一つで、一般的な2LDKのマンションになる。たまに、本当にごく希にだが、人並みの一日を過ごしたいと思った時などに利用する。早い話がオフを満喫したい時…になるのだろうが。


 「アキコー、ねー?おなかすいたってば」


 ……胃拡張の同居人が一緒だとあまり休暇を楽しむ、という空気にはならないのだった。そういえば以前もこの部屋で一晩過ごした時も大体同じようなことを言って私を困らせたものだが。


 「……と言ってもな。金が無い」

 「なんで?」


 長椅子のソファに寝転がっていた私の側で、頬杖ついてこっちを見上げてそう聞いてくるピュロスに顔を一瞥。読みかけの文庫本を閉じて体を起こすと、開いたスペースにいそいそと登ってくるピュロスはまあ可愛いと言えなくはないのだが。


 「お前が山ほど食うからだよ」


 ただでさえ乏しい財布を空にするのもコイツだ、と思うと呑気にそう思ってるばかりもいられないのだ。


 「アキコ、せいかつほご、ってのがある」

 「アホかお前は。そもそも税金も収めてないし住民票がどうなっているかも怪しい私が、そんな都合のいい待遇を受けられるわけがないだろうが」


 実のところ住民票どころか戸籍すら怪しいものだが。いや、神戸組にいた時期に戸籍くらいは用意されていたかもしれないが、実際その辺りどうなっているんだろうな。寬次に聞いたこともないし、だが警察に事情聴取くらいはされた身だしな。

 気にしても仕方ない。仮に戸籍、住民票が完備されていたとしても職業殺し屋、では役所に申請を出せるわけもない。

 などとつまらないことを考えていたら、ピュロスが失礼の上塗りをするようなことを言う。


 「おかねがないならはたらけばいーじゃない」

 「終いには叩き出すぞコラ。仕事をしていられる状況じゃないから収入が無いんだろうが。貯金を切り崩すにしても銀行じゃないんだから簡単でもないし、そうそう手をつけられる金でもない」

 「むー…」

 「最近クライアントの支払いが渋い上に警察の仕事に偏っていたから余計に、だよ。仕事道具の消耗も激しい。ケチれるところはケチらないとケリをつける前にこっちが干上がってしまう」

 「ピュロスはきょうにでもひあがってしまいそーだよ?」

 「少しは食う量を減らせ。私から言えるのはそれだけだ」

 「ぶーぶー!じどーぎゃくたいだーっ!!くいものよこせーっ!!」


 人聞きの悪いことを喚いてソファから飛び降り、体操くらいは出来そうな程度に広い部屋の中を駆け回る喧しい同居人である。そんなに騒いだら余計腹が減るぞ、と忠告してやろうかと思ったところに、息を切らしながら戻ってきて言った。


 「……ふひー、おなかすいてうごけない…」


 言わんこっちゃない。こうして静かにしているなら、丸一日飯抜きにしてもいいくらいかもな、と思いながら窓の外を見る。

 都内の西の外れ。雨の滴る空には高いビルも無い。そちらからこの部屋の中をうかがう事も出来ない。狙撃だのなんだのといった、物騒なことを気にする必要がないだけでも落ち着くものだ。もっとも、両隣と下の部屋も借り上げないといけない、という煩わしさはあるが、私だって人間だ。多少の安らぎを得るために金を払うことくらいするものさ。


 「……うー、うー…」


 と、放っておいたらカーペットの上にうつ伏せて妙なうなり声を上げているピュロスだった。

 まさか泣いてるんじゃないだろうな、と文庫本を手元に戻しながら眺めていたら、顔を上げてこちらを見上げ、「ピュロス、かわいそーでしょ?」だとさ。

 …だな。まあ私だって鬼でも悪魔でもない。それにメシを食ってるピュロスは鑑賞物としてはそれほど悪いものじゃあない。


 「…ありものしかないぞ」

 「つくるの?!」


 冷蔵庫の中身を思い出しながら立ち上がると、ピュロスは体を起こし一転して喜色に満ちた顔になる。外食なんぞする余裕は無いから自炊する他無いのだが、何が嬉しいのやら。


 「ああ。オフの日にレーションは私だって勘弁だ。だから作る。カレーと炒飯とどっちがいい?」

 「たべたことのないもの!!」

 「…お前なあ」


 材料なんざ僅かな豚肉とタマネギとジャガイモしか持ってきていないし、調味料だって塩コショウの他はカレールゥを置いてあるだけだ。それ以外のものなど作る余地がない。


 「金が無いから自炊にする、っつってるのに食べたことが無いもの、なんて注文に応えられるわけがないだろう。カレーをかけた炒飯にでもするか?」

 「そこはそれ、アキコのそーいくふー、ってのをみせてほしい」

 「無茶言うな」


 呆れながらもキッチンに向かった。エプロンは…残念ながら持ってきていない。仕方ない、と腕まくりをしながら、冷蔵庫を開けて今朝放りこんだ少ない食材を取り出すのだった。




 「アキコ、もしかしてりょうりのてんさい?」

 「おだてても食後のジュースしか出ないぞ」


 結局、カレー炒飯になった。味付けをカレールゥでするだけの簡単なアレンジだったから、それほど頭を使ったわけでもないし、手間がかかったわけでもない。

 なのに、ピュロスはえらく気に入ったようで、中華鍋いっぱいに作った炒め物の大半はヤツの胃袋に収まった。


 「ん、ジュースはもらう。ごちそーさまでした」

 「はいよ、おそまつさま」


 グラスにグレープジュースを入れて渡してやる。

 代わりに空になった皿を受け取り、自分の食器と一緒に流しに持っていく。

 洗い物は食べてすぐにやらないと後が面倒だが、多少は汚れを水で浮かしておかないとその汚れもなかなか落ちないものだ。

 水を張った洗い桶に食器を入れて、私も食後のジュースといく。


 「……しずかだねぇ」

 「……だな」


 居間のテーブルに差し向かいで座り、カーペットの上に直に座る。

 クッションだの座布団なんてものはこの部屋に無く、それでもピュロスは不満どころか満足極まった、みたいな表情の顔をテーブルの上に乗せて、今にも寝てしまいそうだった。

 爆発物や、隣から侵入される可能性があるから両隣に階下の部屋は空き室にしているが、そうでなくてもこのマンションは防音設備も行き届いていて静かなものだ。テレビの一台でも置いてあればピュロスも退屈を紛らすことが出来るだろうに、不思議とコイツはそういうものを要求しなかった。いやまあ、要求されても買い与えるつもりなど無いのだが。


 「……アキコ?」


 そうして窓外の雨空を眺めていたときだった。

 寝たと思っていたピュロスが姿勢を変えず、ただこちらを見上げて、どこか心細そうな声で話しかけてきた。

 こいつにしては珍しい口調に私は、なんだ、と窓から目を逸らさずに応じる。


 「これからどーするの?」

 「…そうだな…あのカマ男をなんとかしないと、落ち着いて稼業も続けられそうにない。どうにか正体掴んで黙らせたいところなんだが……」

 「そういうことじゃなくて。そういうこともあるけど、そういうことじゃなくて」

 「………」


 難しいことを言いやがる。多分、こんな風に非合法な仕事を繰り返している生き方でいいのか、とでも問いたいのだろう。

 けれどな、私は他の生き方なんか出来やしないんだ。そういう風に生まれたわけじゃないにしても、食っていくために仕方なくやってるわけでもない。

 自分に出来ることがあるというのは、そう悪いことじゃないと思う。安寧に暮らしている人間を食い物にしているわけでもないのだから、後ろめたいとも思っていない。

 なら、いいじゃないか。いつの日か、後ろからなのか正面なのかは分からなくても、どこかで刺され、あるいは撃たれ、きっと命を落とす。そんな最後があることを認めて生きていくことを謗られる覚えはない。それで、いいじゃないか。


 「……んー、じーちゃんがね、いってた。アキコは、にあわないいきかたをしているって」

 「……またあの野郎にしては知った風なことを言う」

 「そーじゃないよ。アキコはね、じーちゃんのとこにいて、しあわせだったよね?じーちゃんがそういってたよ。だから、またじーちゃんのところにいって、しあわせにもどったっていいんだよ?」

 「……」

 「アキコは」


 テーブルの上に乗せていた顔を上げ、ピュロスは見かけの年齢にそぐわない、妙に落ち着いた表情に改まって言葉を続ける。


 「そうさせられてしまっただけ。でもそれにいみがないわけじゃないよ。ピュロスがいったでしょ?アキコには、アキコにかんしゃしている子たちがいるから。アキコはじぶんのねがったとおりにいきてもいいの。しあわせになってもいいの。ピュロスは、そうおもう」

 「………別に私は無理しているわけでも嫌々生きているわけでもない。褒められた仕事じゃないのは確かだが…それでも、それなりにやりがいは覚えているさ。心配してくれるのはありがたいけどな」

 「ん。アキコがそれでいーならいーけど……でもね」

 「………」

 「アキコのこと、しあわせになってほしいっておもってるの、ピュロスだけじゃないからね。じーちゃんも、かんべぐみのおっちゃんたちも、みんなそうおもってるから」

 「ああ」


 それが分からないほど私は愚かでは無いつもりさ。メシの大食らい以外でならピュロスの存在にも感謝している。コイツがいるから、私は踏みとどまっていられるのだろう、と最近思える……踏みとどまる?……ああ、そうだな。この暮らしが永く続くものでもないことは分かっていて、それでも私は何かを望んでいる。出来れば違う生き方をしたいとも、どこかで考えている。


 「ね、アキコ」


 けれど、コイツが側にいてくれるのなら、どんな生き方をしていても、私は私でいられる。


 「ピュロスのこと、すき?」

 「……ああ。お前のことと、お前のいる暮らしを、私は愛している」


 身を乗り出し、顔を寄せてきたピュロスの唇に自分のそれを重ねながら、私はそう思ったんだ。




 私は暗殺者アサシン

 その業を背負い、けれどしかと生きている。

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