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第44話・残香

 「……………いや、何でもなにも、四六時中あいつが私にひっついているんだから、匂いくらいつくだろーが」


 私に後ろ暗いところなどない。

 仕事に失敗して逃げ出した後、悔悛に塗れた闇の中でピュロスに抱かれ、抱いたことは別に悪いことじゃない。どーいのうえ、だ。だからなにもわるくない。


 「……そぉかあ?」


 …だというのに何故なんだ。

 皺だらけの顔を鹿爪らしく歪めながらこっちを睨む寛次の視線から、目を逸らしてしまうのは。


 「………いや、ちげぇな。コイツは一緒に並んでいるだけでくっつく匂いじゃねえよ。なんつぅか……」

 「お、おお!そういえば腹が減ったなぁー。ああ、ケン坊がなにかメシつくってくれるんだっけかぁ。じゃあ私もご相伴にあずかぐぇっ?!」


 やおら立ち上がって場を後にしようとしたところ、いつも以上に素早い動作で畳に転がされた。ついでに背中に乗られ、腕を逆方向に捻じり上げられていた。


 「いでぇぇぇぇっ!く、クソっ何しやがるジジイ!」

 「何しやがる、じゃねえよ。おめえいつから娘に手を出すド腐れに成り下がった?ああん?」

 「出してねえし娘じゃねえし!何から何まで間違ってやがる!いいから離せあででででッッッ?!」

 「話になんねえなあ。おい、明子?仕事が出来ない身体になりたくなけりゃあ……分かってんだろうな?」


 私のこともあってか、寛次は子供に暴力を振るう者に容赦が無い。というかその私に対してもこの扱いなのだから、根本的に子供が大事なのであろう。平時ならそれは美徳というか極めて常識的な大人の態度というものだが、いろいろ誤解が積み重なった末にこんな目に遭わされるのでは常識の方を恨みたくなる。


 「ちょっと待て!いい加減洒落にならんから力を緩めろ!」

 「うるせぇ。ピロ坊に悪さするってぇなら娘とて容赦はせんぞ。それともアレか、育て方を間違えたってんなら親娘並んで共に腹かっさばいて、お天道様にお詫びするか?ああ?」

 「いででででッ…だっ、だったらピュロスに聞いてみやがれってんだ!私は潔白だっつーの!」

 「おお、いいぞ。なんせピロ坊は儂に一番懐いとるからのう。おめえに酷い目に遭わされてるというなら、儂の養女としてひきとって幸せにしてやらんとなあ~」

 「シンミリ言いながら力込めるなクソジジイぃ!!」


 もういい加減、骨の軋む音が耳に響くようになってきた。あとミリ単位で曲げたらいけない方向に力を加えられたら廃業の危機だ。プロレスごっこじゃあるまいし、畳を動く方の手の平で叩いてみても離してくれるわけじゃない。こうなったら一か八か、身体を入れ替えて……と思ったところに、いつの間に戻ってきたのか、すっかり見慣れた姿が襖を開け、現れ聞き慣れた声で、訊いてきた。


 「…なにしてんの?アキコ…と、じーちゃん」

 「ちょっ、ちょうどいいッ!おいピュロス、このボケたジジイに私の潔白を証言してくれぇっ!!」

 「けっぱく?なんのこと?」


 いや、そんなかわいく首を傾げてる場合じゃない!事情を説明するのももどかしく、必死に腕を伸ばして助けを求める私を、ピュロスは何か遊んでいるのかと誤解してなのか、しゃがみこんで私の頭を撫でていた。よしよし、とかそんな具合に。いやそれどころじゃなくてだなっ!


 「おう、ピロ坊。じーちゃんはお前さんの味方だからの?怖がらんで正直に話すがええ。明子に、なんかいやぁなこととかされとらんか?ん?」


 そして寛次はそんなピュロスの様子に、こちらからは見えないが間違いなく目を細めて、声色だけは優しげに尋ねていた。おい、頼むぞピュロス、迂闊なことを言うんじゃないぞっ?!


 「ピュロスが?アキコに?いやなこと?………うーん」


 いや待ておい、そこで考えこむなっ!タイミングとしては最悪だろーがっっ!!

 暴れようとする私を、老人とは思えない体重と重心のかけ方で抑え込む寛次の、殺気じみた気配がむくりと沸き上がるのを感じる。ヤバい。早いところ誤解を解く証言をしてもらわないと、廃業どころか腕が千切れる。


 「………アキコはねー」


 いかん…呼吸が浅くなってきた…意識も霞みかけてくる中、呑気なピュロスは、夢見るような表情で私を見下ろしながら言う。


 「……アキコはねぇ、じーちゃん。ピュロスのことをねえ、とぉっても……やさしくだいてくれたよ?……ちょっとはげしかったけど」

 「…………………」

 「…………………」


 ……背中に感じていた殺気が消えた。寛次が、本気で殺しにかかった時のクセだ。こいつは、人間を壊す時、感情というものを完全に、消し去る。

 つまり。


 「死ねや、ガキ」

 「ちょっ?!」


 シンシア・ヴァレンティン。またの名を権田原明子。享年三十。



   ・・・・・



 「がははははは!そいつぁ悪かったな!」

 「……ちっとも悪いと思ってねえだろうが」


 地酒のいいのが入ってきた、ということでやけに上機嫌な寛次は、ケン坊がこさえた肴を猪口の燗酒で流し込みながら大笑いしていた。今朝上がったばかりの真鯵で作ったぬた、というのであれば、さぞかし酒も進むだろうよ。

 こっちは酒なんてぇ気分じゃないから、大人しく和食の膳を口に運んでいる。元板前というケン坊の腕は相変わらず見事なものだから、味に文句は無い。無いのだが、それを素直に楽しもうという気分にはとてもなれない私は、苦虫噛み潰したような顔つきで箸を動かすだけだ。


 「アキコー、せっかくごはんおいしいのに、むすーってしてたらもったいないよ?」


 傍のピュロスは、銀鱈の西京漬の骨を器用にとりわけながらそんなことを言う。

 というかお前が言い方間違えた…ああいや、別に間違ってはいないが空気を一切読まない発言かましてくれたせいだろうが。

 とにかく、あの夜の出来事は…。


 「にしてもなんだな。あの権田原明子が…子供の胸に取り縋って泣いていた、なんてぇ話は広めちゃあなんねえなぁ〜。渡世人としての鼎の軽重が問われちまわぁな」


 ということにしておいた。私の面目とか色々なものが台無しなのだが、寛次を納得させるために敢えて汚名を甘受しておく。


 「トセイニン?てなに?」

 「ヤクザもんのことだよ。っつうか私はヤクザじゃない」


 あとヤクザに鼎の軽重とか関係あるか。


 「ふむん。でもアキコはじーちゃんの娘だよね?だったらやくざでもいいんじゃない?」

 「お前なあ…言葉の意味解って言ってないだろ」

 「ううん?アキコはじーちゃんの娘。ちゃぁんとピュロスはわかってますよーだ」

 「ワハハハ!おい明子よ。ちっとはピロ坊の素直さを見習わんかい!」


 何が楽しいのか、寛次はさっきから顔が崩れっぱなしだ。どれだけ酒が入っても心根の底に冷えたものを抱えていることを隠さないこのジジイが、だ。なんとも珍しいこともあるものだ。


 「で、そん時明子は何て言ってたんだ?」

 「うん、アキコはねー、ピュロスのことをしょうがいあいします、ってゆってくれた」

 「どさくさ紛れにとんでもない虚言を吹き込むんじゃない!本気にされたらどうすんだっ!!」

 「あっはっは、そうかそうか。とうとう明子も身を固める決心がついたかぁ…こいつぁ目出度い。おーいケン!あと三本ばかり燗つけて来いや。この際大人になった記念だ、二人まとめて酔いつぶしてやるわい!」

 「お前未成年に何するつもりなんだ!」

 「ん?代わりにお前が呑むか?儂はどっちでも構わんぞ」

 「いい加減にしろこの酔っ払いがぁっ!!」


 ごはん冷めちゃうよー、というピュロスの常識的な発言など聞き入れることもなく、非常識な大人二人の諍いは、ケンが追加で持ってきた燗の徳利がきっちり三本、空になるまで続いたのだった。




 「お嬢、酒くせぇですな」

 「うるせえなあ…無理矢理呑まされたんだよ」


 宴会だか喧嘩だか分からない晩飯のあと、私は広い庭を見渡せる縁側に出て酔いを覚ましていた。

 ピュロスは数少ない若い連中に連れられてこの屋敷のどっかで遊んでいるのだろう。


 「双六をする、とか言ってましたな」

 「子供の遊びとしちゃあ真っ当だな。麻雀でも仕込むかと思ったが…ごっそさん」


 空になった湯呑みを清三の手に押しつける。水出し玉露、なんて洒落たものがこの屋敷で出てくるとは思わなかったが、アルコールの絡む喉にはひどく優しく感じる味わいだった。

 そのまま清三と並んで…いや、私の少し後ろに控えた清三と一緒に、春の夜の庭園の風を楽しむ。

 私がガキの時分には、夜の庭には何かが潜んでいるようで不気味な眺めだとしか思えなかったものだが、ガリウスから逃げ出して再びこの屋敷に戻ってきてからは、夜の庭を流れ来る風に癒される思いだった。


 「…懐かしいですな。お嬢は、帰ってきてからはよくこの縁側で佇んでいたもので」

 「ああ。この眺めの小さな変化が羨ましかったものさ」

 「……意味を伺っても?」

 「なに、ゆっくりと、けれど確実に変われることが、大きく変わってしまった、変わらされてしまった自分に出来ないことのように思えただけのことだ」

 「そうですか…。でもまあ、お嬢も確かにゆっくりと、けれど良い方に変わって…いえ、戻ってきてこられたと思えますよ、アタシには」

 「ああ、ありがとよ。清三、お前たちのお陰だ」

 「礼を言われることでは…お嬢が攫われて以後、見つけてやれなかったアタシらの落ち度ですし」

 「………やめておこう。どうも良い話にはなりそうもない」

 「ですな」


 二人揃って苦笑に紛らし、話を終える。そうだな。こいつらが私のことを探し回っていたことは想像に難くないし、実際にそうでもあった。自分がこうなったことで神戸組を…家族を恨むつもりはないし、今はあの組織を潰す力が自分には……。


 「お嬢。一つお耳に入れておきたいことが」


 暴力的な衝動が身に沸き起こるのを感じたところで、清三が改まった様子で声をかけてきた。私に重要なことを告げる時の声色だったから、私は投げ出していた足を畳んで胡座になり、尻から回って清三に向き直る。


 「何だ」

 「オヤジから先ほど話がありました。看板を、下ろすと」

 「………」


 何となく、理由が想像のつく話だった。




 私は暗殺者アサシン

 家族が形を変えようとしていた。

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