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第38話・無垢

 バスタブは大人が二人入ってもまだ充分余裕があるサイズだったから、私とピュロスが一緒に入るには充分過ぎる。のだが。


 「…おい、そっちにもっとスペースがあるんだからくっつくな」

 「んー、おはだのふれあいがへいわをつくる?」

 「ワケがわからん……ああもう、だったらせめて動くなってんだ。妙な気分になるだろうが」

 「アキコ、かみのけはゆぶねにつかないようにしないと。エチケットだいじ。それにいたむよ?」

 「銭湯じゃないんだから構わん。それにどうせ赤毛のくせっ毛だ。気にしなければどうってことはない。それよりお前こそ…ああ、ちょっとじっとしてろ」


 バスタブに背中を預ける私の足の間に、ピュロスはこちらに背を向けて体を挟み込ませていた。

 私の胸から腹がピュロスの背中とぴっちりくっつているのだが、どうにもくすぐったいというか変な気分だ。

 それを誤魔化すため、というわけでもなかったが、湯船に浮いていたピュロスの薄い栗色の髪を引き上げて頭の上にまとめると、手の届くところに引っ掛けてあったタオルを使って湯船に浸からないようにまとめてやった。


 「んふん」


 そうしたら、気持ちよさそうに鼻を鳴らしていた。不思議とホッとする。


 「………」

 「………」


 その後は、ピュロスも私も押し黙ったままじっとしている。

 ピュロスとくっついている部分が熱を持ったように感じられて、湯が冷めていくのもあまり気にならなかった。


 これからどうするか。

 警察の内部のゴタゴタに巻き込まれているような気がする。

 神崎は…悪党ではあるが悪い奴じゃあない。少なくとも今のところは信用していても構わないと思う。

 あの蜉蝣の文太とかいったカマ男はどうだろうか。アシッドレインに取引に関わりがあることは間違い無い。だが自分からどうこうするつもりもない。向こうからちょっかい出してきたりしなければ、積極的に関わりを持たない、というか持ちたくはないのだが……。


 「…そうだ、ピュロス。お前あのカマ男のことをやけに怖がっていたが…何かあるのか?」


 びくん、と体が震えて、湯が跳ねていた。

 胸に当たった背中のところが固くなるのが分かる…そして、ギギギと軋む音でも立てそうな所作で振り返ったピュロスは、風呂に入ってる最中とも思えないくらい青ざめた顔で言った。


 「アキコ……あれ、たましいとうつわのかんけいがおかしい」

 「魂と器?何のことだ」

 「…せいしんとにくたい、といってもいい」


 精神と肉体?ピュロスの口から聞かされると、何か覚えのあるフレーズだが、と思う間も無く思い出した。


 「……お前、自分のことを精神と肉体の関係が逆の存在、とか言ってたな。それと関係があるのか?」

 「ピュロスのこととはちょっとちがう。でも、ピュロスはせいしんとにくたいのありようをにんげんとはぎゃくにとらえられるから、あれがおかしいのがわかる」

 「……もう少し優しく教えてくれ」

 「…えと、つまりね?」


 ピュロスの舌っ足らずな子供っぽい口調で長々と説明を受けるのは正直苦痛だったのだが、簡単に言えば、男性の肉体に女性の精神が宿ることは、社会的にそういうことが認められることとは別の話として、精神と肉体の有り様としては本来起こりえないこと、ということだった。


 精神は肉体に影響を受ける。逆はあり得ない。男として生まれた人間に女性の精神が宿ることは、本人がどんなにそう思ったとしても、女性の肉体に宿る女性の精神性と同質にはなり得ないのだ。

 性転換手術というものがあり、男性として生まれた体を女性のそれに置き換えることが出来たとしよう。それで器たる肉体と共に生まれた時より育ってきた精神が、完全に作り替えられた肉体と同質化しても、精神として辿ってきた道が異なる以上、女性として生まれた肉体と共に育ってきた精神と同じものにはならない。


 ピュロスの言った、精神と肉体が逆、というのは、だ。

 つまるところ、肉体が精神に従うという歪な関係を指している、ということらしい。


 「なら、あのカマ男は何だってんだ?男として生まれた精神に従って肉体がそう育った、ってことか?」

 「あれはね、ぼうりょくときょうふをまきちらすことをよろこびにうまれた。そして、にくたいはそのこころにしはいされて、あのかたちになった」

 「産まれながらのシリアルキラーみたいなもんか」

 「…うー、なんていうか」


 語彙が足りないのだろうか。頭を右に左に傾けながら唸っていた。頭の上のタオルはいつの間にかこぼれ落ち、まとめてやった髪も解けてまた湯船に浸かっている。


 「にくたいがうまれて、せいしんがそだつのがにんげん。でもあれは、せいしんのはたらきににくたいがしたがわされた。おかしい」

 「………ま、ただのオカマじゃないってことは分かったよ。お前が怖がる理由はさっぱりだが、気をつけた方がいいってこともな。それでいいか?」

 「………………………ん」


 長考の末、ピュロスは大きく頷いてそれでいいことにしたらしかった。

 私だってこんな突飛な話を瞬時に理解出来るほど頭が柔らかいわけじゃない。宇宙人だというのでもない限りは……ああそうだ。


 「ピュロス。お前自身はどうなんだ?」

 「わたしは、アキコを思う存在としてこころが生まれた。この体はそのこころに従って象られた」

 「私を思う、心?」

 「うん。アキコ、前にも言ったよね?アキコが救ったかわいそうな子どもたちのこと」

 「う……」


 目眩。吐き気。

 堪える。今はそんなことで話を中断していい時じゃない。


 「アキコがあやめた子どもたちの魂は、形になれなかったけれどそのいちばん最初の子どものこころを核にして、肉体を得た。それがピュロス。だけどピュロスのこころはピュロスとして育ったから、ピュロスはアキコがあやめた子どもとはちがう。だから、いいの。アキコはアキコとして、ピュロスを思ってくれれば、いいの」


 一度体を離し、そして振り返ってわたしを正面に見据えた。

 裸で湯船につかりながら向ける顔は、とっくに温くなった湯に浸された体であっても上気した、目の離せないものだった。


 「いちばん、さいしょ?」

 「そう。アキコが、産めなかった子どものこと」

 「……?!」


 私が産めなかった、子供?

 あの、地獄の中で犯され、孕まされた子供のことなのか?

 望みもしなかった、堕胎させられてせいせいした、あの命のことなのか?


 「……は、はは…じゃあ、なんだ。お前は私の娘、ってことになるのか?」

 「ちがうよ」


 嘲笑うような虚ろな笑みを向けられたピュロスは、記憶にもない母親のような眼差しを向けて、言う。


 「生まれなかった命には、肉体があった。だから、もうそこには心があった。心はピュロスの肉体になる。ピュロスの心はピュロスのもの。肉体は心が生んだ。だから、ピュロスはピュロスとしてアキコのことがだいすき。だいすきなんだよ。アキコを。ピュロスは」

 「お為ごかしはいい!!」


 ピュロスを突き放し、立ち上がる。

 私は何に怯えているんだろうか。


 「私が孕まされたガキのなれの果てがお前だって?冗談じゃない、あの地獄で私は自分を壊すしか自分を救う術が無かった!一緒にいたガキも同じだ!!……私が救えなかったあの連中は、今もお前の肉体になって今も私を見守っているとでも言うのか?!そんなオカルトは真っ平だ!私は生き汚く生き残り、今もこうして他人を殺してメシを食っている!そんなクソを、私が殺した子供たちが、許すわけがないだろうッ!!」

 「アキコ」


 同じように立ち上がり、ピュロスは私の乳房の間に顔を埋め、そのままくぐもった声で話し続ける。


 「みんな、憎んでなんかいないよ。祝福している。アキコのことを。生き残って、苦しんでいる子供を、その苦しみから解き放つっていう、誰にも出来ないことをアキコだけがしてくれた。幸せでなんかなかったかもしれないけれど、どの子も苦しみからだけは、解放された。だから、アキコのことを恨んでなんかいない」

 「……そんなこと、私に分かるわけが、ないだろう…」

 「分かるよ」


 顔を上げた。

 仡とした視線が私の弱さを射貫く。そんな眼差しだった。

 それに気圧されたように私は、ずるずるとまたバスタブに背を擦るようにして、もうすっかり冷めた湯に体を落とす。

 そして。


 「ピュロスのからだで、たしかめてみて。みんなアキコとともにあることを、よろこんでいるから。こばんだりしていないから。ピュロスのからだで、アキコもよろこんで。それはとてもだいじなこと」


 身を屈めたピュロスは、私の顔を両手で挟み込むように、だが優しく包み、そっと自分自身を寄せてくると、その無垢なる唇を、汚れきった私の唇に重ね、離し、熱い声でその先を促す。


 「…アキコ。ピュロスのからだとこころは、アキコの悦びとともに、あるんだよ」



   ・・・・・



 確かに、子どもの体だったと思う。

 胸のふくらみは僅かで、大人の体なればそちこちにあるだろうものは無く、肌の温もりが熱くさえ思えたのも、子ども特有の体温の高いことによるのだろうか。


 私は貪り、泣きながら力の限り抱きしめ、だがそこにあるものが示す歓喜を認めると、また深く涙を流し、私は満たされ、悦びを知った。




 「アキコはけだもの」

 「………うるさい」


 ひとつの臥所の中、顔を見合わせたピュロスは流石に疲れ切った様子だった。

 まあ、なんだ。こんなことをしていーのかと自問したことも何度かあったが、いつの間にか目的がすり替わって、いろいろ暴れる我が身のうちのナニかに従って好き勝手やってたような気がする。


 「ちょっとははんせいして」

 「………すまん」


 自覚はあって、ピュロスも怒気を覗かせている分、弁解の余地も無い。

 毛布を鼻のところにやって、目だけをこちらに見せているピュロスの顔は……まあ、こんなときになんだが随分と可愛かったように思う。


 「げんきになった?」

 「………まあな」


 眼の刺々しさをすこし解き、ホッとしたように問われると苦笑しか出てこない。

 まったく。一晩中、ピュロスの体を……やめておこう。いろいろ拙いことになりそうだ。


 「アキコ、おなかすいた」

 「ん、そうだな。まあ、昨夜から何も食ってないしな。ルームサービスでも頼むか?」

 「いいの?!」


 メシの話になるとガバと跳ね起き、いきなり元気になるピュロス。こういうところは全く何も変わっていない。いいことなのか、悪いことなのか。

 ただ、こいつの笑っている顔は私のハートのところに良い感じにキックをくれるようになったと思う。


 まったく。

 何が変わったか、ということもない。何も変わらなかったか、ということもない。

 けれど、私が自分を赦せる時がいつか来るのかもしれない、と思えたのは事実だ。それを変わったことだと言えるのならば……いや、変わったのではなく、自分の願いをようやく見つけた。

 …そんなとこだろうな。


 「アキコっ、アキコっ!ここにメニューあったよ!さいしょっからさいごまでぜんぶたのんでもいい?!」

 「あーもー、好きにしろ、好きに。その代わり残さないで全部食べろよ。あと先に服を着ろ」

 「おまかせて!……もしもしー?ぜんぶくださいっ!」


 フロントに電話をかけて、いきなりとんでもないことを言うヤツだった。

 ま、いいだろ。どうせ払いはゲイツなんだしな。




 『は?知りませんよ。部屋代はともかくルームメニューくらい自分で払って下さい』


 …後日、ゲイツに冷たい声でそう告げられた私は、泣いて抗議する声も聞き入れず、ピュロスのこめかみに財布の仇討ちをすることになる。




 私は暗殺者アサシン

 それを望むのは不遜というものだろうが……救い、救われ、そしていつか声を聞くことを、こいねがう。

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