第36話・逃走
ガリウス。
子供の頃の私を掠い、慰みものにし、人殺しに育て上げた組織。
アシッドレイン。
関わった人間を遺漏無く壊す麻薬。いや、魔薬とでも言うべきか。
忌ま忌ましさに満ちた二つのクソったれが、このカマ男の存在によって引き合わされた。
全く。この世界にはクソしかいないのか。
「…で、どうやってこの部屋に入ってきたかっていうとぉ…これよん」
カマ男こと蜉蝣の文太は、もともと持っていたカードを一枚、親指と中指に挟んだまま顔の高さに掲げてこちらに見せる。
それが何かは、すぐに分かる。私も同じものを持っているからだ。ただ、こっちの手元にあるものはもっと意匠の凝った、一般顧客向けのものだが。
一方、ヤツの手の中にあるカードキーには、ご丁寧に「マスター」と素っ気ないフォントで記されている。要するに。
「このビルの管理者と通じている、ということか。私がここで何をしようとしていたかも…当然お見通しでこの場に顔を出したのは、私をからかおうって所だな」
「最後のトコはちょいと違うわねぇん。ま、警察から仕事を請け負う暗殺者、なんてものが滑稽なのと同様…警察と通じたアタシみたいな存在もアナタとご同輩、ってワケね」
「何者だ」
「そぉれはアナタもよぉくご存じでなくて?」
…つまり、神崎に渡された資料の通り、ということか。
アシッドレインの取引に携わり、今もこの国の人間を廃人にしていて、それだけでも許しがたい所業であるというのに、だ。
今更ながら、寛次が吐き捨てるように言った言葉を思い出す。アシッドレインに関わる諸々の流れを追うと、必ず警察の所に行き着く、と。
問題はだな。何故警察が粉屋すら迷惑する麻薬の流通なんぞに関わっているか、だ。それを確認して仕事に関係があるのか
「正直言ってね、アタシの雇い主もアナタの動きには迷惑してるらしいのよ。だけど雇い主のその更に上とはアナタも懇意ってことらしいから、すぐに消してしまえ、って話にはならなくってね?それでまあ」
「警告、ってことか」
「そういうこと。察しが良くって助かるわぁん」
コイツの助けになるんだったら頭が鈍いことを装った方がまだマシというものだな。
そんなことを考えつつ、微妙に体重を移動させる。この男がどれだけやれるかは想像すら出来ないが、度胸だけは侮れない。武器と敵意のどちらも持ち合わせた相手のいる所にニヤニヤしながら入ってくるんだ。自信も無く出来る真似じゃあない。
(ピュロス…)
私の腰に手をかけて、まだガタガタ震えているピュロスの手に触れる。それで震えが止まる…ということもないが、気丈さを伝えるように、こちらの手を握り返してきた。
済まないな。また巻き込んでしまうことになるかもしれない。
こんな時だが、ここしばらく一緒に寝起きした少女に、慚愧の念が沸いた。
「もう一つ聞かせろ」
だが、私が私の為に問うべきが、まだある。
憐憫の情を振り切り、自分でも分かる程に固い声で訊いた。
「ガリウスを何処で知った」
私をヒトでなくし、幾人もの子供を道連れにして私が屠った、クソの極み。
アレを知って正気でいられる人間など、まともな存在ではあるまい。だからコイツも同じくクソだ。
「何処も何もねぇ…アナタ、その筋では有名だもの。いろいろと探る人間がいたっておかしくないんじゃあない?」
「私の出自を探ってアレに行き着くというわけか。存在したという事実そのものが抹消されたハズだったんだがな。ハハッ、警察の隠蔽とやらも大したことがないらしい。お前のようなクソを飼ってるなら当然と言うべきだろうがな」
「あら、飼い犬はお互い様でなくて?いいじゃないのぉ、お国のお金で好きなことやれるんですもの。ね?子供殺しのシンシア・ヴァレンティン…っ?!」
爆ぜた。
ヤツが、その名を出した瞬間に。
私の、極低温に冷えた、魂の奥底が。
「アキコっ!」
ピュロスの叫びも耳に入らない。
抜いた。Czを、ではなく袖口に隠してあった中指サイズのリモコンを、だ。
それを押して起動するのは…。
どこか間の抜けた破裂音。威力だって大したものじゃない。
だが何も知らずに扉の前に突っ立っていたバカにはそれで充分だ。
「ギャァッ?!」
クソの無様な叫び声。致命傷にはなるまいが、天井裏に仕込んだ手製の指向性地雷から射放たれた直径約3mmのベアリングの玉は、天井のジプトーンを貫通してそのままカマ男の顔と言わず体と言わず降り注ぎ、幾つか鉄球のブチ当たった顔を覆った隙に。
「逃げるぞ!」
「がってんだ!」
どうでもいい。今は、この窮地を逃れることが最優先だ。私自身と、連れ添うこいつの為に。
「テメェェェェェェ!!ガキ殺しがガキを庇おうってのかァッ!!」
知るか、ボケ。
部屋を飛び出し、チラリと振り返ると血塗れの顔のカマ男が鬼の形相でこちらを睨んでいた。他に人間のいないことを幸いと、ピュロスの手を引っ張りながら足の回転を上げる。
エレベーターなんぞ使うわけがない。予め確認しておいた非常口から飛び出し、非常階段を駆け下りた。監視カメラに記録されていることは間違い無いだろうが、この際アテにも出来ない警察の隠蔽力に期待する他無い。
「どこいくのっ!」
「とりあえず落ち着けるところだ!階段踏み外すなよッ!!」
踏み外すどころかあと一階で地上、という段になって手すりを乗り越え飛び降りる。
手を引かれたままだったピュロスが「ひぃやぁぁぁぁぁぁ?!」とか頓狂な悲鳴を上げていたが、先に両足のついた私が両腕で受け止めると一瞬ぽかんとした後、きゃっきゃと子供のように喜んでいたから、よしとする。というか実際子供なのだが。
「追いかけてはこないようだな。少し走るぞ」
「うん!」
飛び出した非常口を見上げ、誰も追いかけてこないことを確認してから小走りに駆け出す。
裏口だから人通りもなく、見咎められることもない。
人目を避けてしばらく走っていたら、隣を同じように走っていたピュロスが息も乱さない声で問うてくる。タフなんだかヤワなんだかよく分からないヤツだ。
「これからどうするの?」
「さてな。神崎に知らせてないセーフハウスのどれかに潜り込むしかないだろ」
この近くに一つ、ちょうどそれ用のものがあった。ゲイツに準備させたものだからアシがついている可能性はあるが、警察そのものに所在を握られていることはまず無いだろう。
短く後ろを確認。追いかけてくる姿やこちらの様子をうかがう人の気配もない。見張りや尾行の心配は…ま、しても仕方ないだろうな。
「…よし、ピュロス、もういいぞ。ここからは歩いていこう」
「ふぃ~、つかれたよー。アキコ、おぶって?」
「調子に乗るな。というか登山してるわけじゃないんだ。お前だって大分ダイエットも進んで体絞れたんだから、それくらい平気だろ?」
「ふとってないもん!」
「今は、な」
…本人はこう言っているが、実際以前着ていた服も着られるよーになったし、食う量も若干控え目になって食費も助かっている。良いことずくめだと思うのだが。
それからしばらくの間、重い空気を挟み並んで歩く。一応周囲の警戒は怠らないが、夕方の仕事帰りの人混みの中、でっかい楽器のケースを背負い小さな子供連れで歩く私達が目立つのは、仕方あるまい。
「…ねえ、アキコ」
「なんだ」
他人の視線に落ち着かないのか、ピュロスが手を握りながら私を見上げ、聞く。
「しょうことか、だいじょうぶ?」
「しょうこ…?ああ、証拠か。さあな。もともとあのビル自体警察の管理が入ってるわけだし…なるようにしかならんだろ」
「そうなの?」
そうなの、だ。
というか、再開発地域でもなんでもなく、ひとの目の絶えない場所で仕事をする他無く、その中で一番条件のマシだったのが、依頼主である警察の介入が期待出来るあの貸し会議室の一室だった、ってことだ。
今考えるとそういうことも含めて、あのカマ男につけ込まれる隙があったんだろう。油断と言えば油断だが、馴れってのは命取りになるわけだ。こんな仕事だと特にな。
それと、もう一つ問題がある。
「ピュロス」
「…ん?」
握った手に、知らず力が入る。
こいつにこれを聞いたらどうなるのか。自分でも分からない。期するものが無いでも無い。懇願に近いものすら、ある。
けれど。
「…私は、子供を殺した女だ。お前と一緒にいる資格は、あるのだろうか」
私は暗殺者。
だが、子供を殺すことを暗殺とは言わない。クソのやるクソ行為でしかない。それは。




