第29話・思慕
ジムでの運動も三回目。流石にピュロスもそろそろ慣れてきただろうとは思ったのだが、これが案外そうでもなく、ランニングマシンで五キロ走ったくらいで割とヘロヘロになっていた。
それでいくらか気の毒になって、何か買い与えてやろうと思いマーケットにやってきたのだが、私は仏心を出したことを早くも後悔し始めている。
「なんで?」
「…いや、それどう見ても調理器具に見えるんだが」
いつぞやの悪夢を思い出し、精神と肉体の双方が警告を発している。
イヤな汗が吹き出し、胃はキリキリと痛む。コイツに料理させるとか調理前の食材を触れさせるとか、してはいけない。地球の危機だ。
「そこまでいわなくてもいいとおもう。ぶー」
そんなこと言ってもな。
最終的な味覚においてそう大差は無いのがさっぱり救いにならないんだよ、お前の作るメシは。
「何をするのか分からんが、せめて味見はしろよな。絶対だからなっ」
「わかってるってば。ピュロスだってしにたくないもん」
「自分が作るものが場合によっては命に関わるブツだってことだけは本当に自覚しておけよ、ったく」
「アキコはしつれーだー」
うるさい。生き死にに連なると分かりきってることを疎かにするつもりは無いんだよ、私は。
そうして、プラスチック製の器具をいくつかと、見慣れた菓子を買わされた。何をやろうってんだ。まったく。
今日のヤサに戻って来ると、ピュロスは台所に立って何事かを始めた。
お湯を沸かし、買い込んだ器具を使って何かをしている。
私は怪しい気配が起きたらすぐに止めに入れるよう警戒しながら、ゲイツから渡された次の仕事の資料を読み込んでいる。
ここしばらくは神崎経由の警察からの発注の仕事が続いたため、ヤツの方の事情が頭に入っておらず、いくらか情勢が変わっていることを窺わせる内容が気になって、いつの間にか台所のことを忘れていた。
「よし、と。アキコー、もういいからあそぼー?」
「…ん?あ、なんだもういいのか。何も事故が起きないから諦めたのかと思った」
「じこって、ひどくない?」
「何事も無いならそれに越したことは無いさ。で、何をやってたんだ」
「それはできてからのおたのしみ」
にぱー、としか表現のしようのない顔だった。
部屋に戻った時に、くれぐれも味見は忘れるな、と何度も何度も何度も、ピュロスが不機嫌になるくらいにしつこく言いつけたから問題は無い、と思うのだが。
…ま、いいさ。遊ぶような暇は無いが、次の仕事の話くらいはしてもいいか。見た目小学生の子供にするような話じゃあないが、それこそ今更だ。
「なにみてたの?」
「ゲイツの仕事の資料。まあ、いろいろとあるな」
「いろいろか。あるよね」
「あるなあ」
「あるね」
仕事の話にはならなかった。
まあそれでも、ジムから持ってきた最近の成果を検討しているうちに割といい時間になった。外の様子なんざ見えないから時計を見ないと正確な時間は分からないが、ひと運動してきた後の腹の具合からしておやつの時間、てところか。小腹が減ってないこともなく、何か摘まむかと提案したところ、ピュロスは思い出したように冷蔵庫に向かっていった。
「おい。そういやさっき何か作ってたみたいだが」
「うん。もうかたまったとおもうから…あ、できてる」
「何がだ?」
冷蔵庫の中身を覗きながら何か取り出しているピュロスの肩越しに、何をやっているのか見ようとしたら、振り返ったヤツは持っていたものを私に差し出し、言った。
「はい、アキコ。ばれんたいんでーのちょこ、だよ」
「ばれんたいんでー?」
見ると、白く平べったい容器に茶色い固形物が入れられていた。所々斑状に白っぽくなっているが、なんとなくそれがチョコレートだということは分かった。というか本人が「チョコ」だと言っていたな。
いや、チョコだというのはいいんだが、「ばれんたいんでー」ってのは何なんだ。
「ばれんたいんでーはにほんのふうしゅう。おんなのこが、すきなひとにおくりものをするの」
「………あー、そういやそんなのもあったな。学生が世話になってる友だちにお歳暮だかお中元だかの代わりにやりとりするとかいう…」
「ぜんぜんちがうー。これはね、おんなのこがあいのこくはくといっしょにおくるものなの」
「へえ…そうだったのか」
私が知ってる風習と大分違う気がするが。神戸組の連中に教えられた知識が間違ってたんだかデタラメふき込まれたんだか…、ってそれよりも。
「で、この…文字、か?何か書かれているのは何だ」
「よんでみて」
「読んでみて、と言われてもなんかのたくったような字で何と読むんだか…ええと」
チョコの表面には、きっとホワイトチョコでつけられた模様、みたいなものがあった。言われてみれば字に見えなくも無いが…。
仕方ないか、と解読するように、字を一つずつ追う。
だ、い、す、き、な、ア、キ、コ、へ……でいいんだよな?で、次の行は…それから……あ、りが…と、う………。
「『だいすきなアキコへ ありがとう』…で、いいのか?」
「うん」
続けて読み上げると、それで間違いはないようだった。
まだピュロスの手元にあるチョコから視線を上げると、はにかんだように顔を逸らしたピュロスがいた。
「……ありがとう、なんて言われる筋合いじゃないと思うんだがな」
思わず漏れ出るため息。
というか、ありがとうはこっちの台詞だ。命を救われたこともあるが、それだけじゃない。何と言うか、その、居てくれてありがとう、とかそういう……。
「アキコ。ピュロスはね。せいしんとにくたいがぎゃくのそんざいなの。アキコがあやめた子たちが、アキコに会いたくてピュロスになった。だから、ありがとう、なの」
「……!!」
私が、殺めた、子供…?
仕事で…?いやそれならありがとうなんてそんなことが……あ、う……。
「ちがうよ。ううん、それもあるけど…アキコ。ピュロスは、ここじゃないところににくたいがあって、せいしんだけがここにきた。そしたら、アキコにおれいを言いたい子たちがいっぱいいて、その子たちのねがいが、ピュロスのかたちをつくった。だから、ありがとう、なの」
「…意味がわかんねえよ」
「みんなやさしい子たちばかりだった。だから、そんな子たちが慕うアキコのことを、ピュロスも好きになった。だから、大好きなアキコへ。ね?」
殺めた、子。
思い出すのは、紅蓮の炎にまかれて消えようとしていた数々の、亡骸。
「…っ?!」
「だいじょうぶ。アキコを、ピュロスは、だいすきだから」
こみ上げた吐き気をこらえるために、口に手を当てようとした。
けれどそれはピュロスに遮られ、その代わりに私の口には別のものが押し当てられた。
「アキコ。だいすき、だよ」
屈んでようやく目の高さが合う、ピュロスの。唇が。
囁かれ染み入る声と共に。
「ん」
私に、憐憫でもなく弾劾でもなく、ただ深い思慕を伴った情を、込めて。
……開けっぱなしであることを抗議するように、冷蔵庫のブザーがピュロスの向こうで、鳴っていた。
私は、……。




