プロローグ「地球─テラ─」第6話
──ヒョォォォォ───
地上に広がる砂の荒野に不吉な風が渡っていく。それは、ひとつの世界が今まさに崩壊していこうとしている予感を感じさせてやまない。
はるか彼方の青く緑に輝く地球は、今この時、深遠の宇宙の中、静かにその美しい身体を見せつけて巡り続けていることだろう。
──ヒョォォォォ───
風は細やかな砂を舞い上げて何もない大地を吹きすさぶっていく。
ユーフラテスの地上には砂のほか何もない。ユーフラテスを含むここらあたりの星系近くに発生したブラックホールによって急激な変化が星々を襲ったからだ。
そのブラックホールも、ノントとトミーという名の地球の少女によって消滅するに至った。しかし、星々の受けた痛手は恐らく永きに渡って癒えることはないだろう。
今はこのように荒れ果て、見渡す限りどこにも生命の兆しの見られぬユーフラテスであったが、もちろん昔からこのように砂の惑星であったわけではない。地球と同じく、緑あふれ、川が流れ、なみなみとした水をたたえた海が大きなうねりを見せていたに違いないのだ。
──ゴゴゴォォ……
突然、大地が唸った。微かに微動しているようである。音は断続的に続き、聞くものがいたとしたら、いいようのない突き上げるような不安を感じたことだろう。と、同時に、地表を吹き抜けていく風はますます強くなっていった。
何かが起ころうとしている───
風の動きや大地の唸りは、己に起きようとしている何かを察知した惑星が、まるで精一杯の意思表示として実現化したものであるかのようだった。
そう、惑星は生きているのだ。惑星に意思などあるわけないと誰しも思いがちだが、宇宙に浮かぶ星たちは人間たちと同じように生きており、その生を全うしようとしているのだ。
人間と同じ生物であるこの死にかけた星ユーフラテス───彼(あるいは彼女)は震えた。それはまるで、恐怖を前にして身震いする動物のようだ。自分の身に起きようとしている悲劇を感じ取っているのかもしれない。
そして───悲劇は幕をあけた!
「なんだと!」
参謀長官シュラインの怒号が轟いた。
「総統が何者かに殺されたというのかっ!」
あの、地表を吹く不吉な風の音はこの地下都市には聞こえてこない。だが、自宅でその報せを耳にしたシュラインには、はっきりとその音が聞こえたような気がした。それは、彼の気のせいでしかなかったが、その実、彼の心の状態を如実にあらわしている証といえなくもなかった。
「くそっ!」
彼は手早く身支度を整えると、飛び出して行った。
「なんということだ……なんという……」
知らずこぼれる言葉。
さすがの彼も、一瞬、思考回路が止まってしまったらしい。呟かれる言葉には明らかな困惑が滲み出ていた。
(タレス総統……)
シュラインの心には、穏やかな笑顔を浮かべる一人の男が映し出されていた。いうまでもなく、彼の尊敬するタレス総統である。
争いごとを好まぬ、平穏な心を持つ偉大なるユーフラテスの支配者───といっても支配者というにはあまりに優し過ぎるきらいのあった人物ではある。
だが、シュラインにとって彼はそれだけの存在ではなかった。同じ学舎で学んだ無二の親友でもあるのだ。
(あなたと彼女と過ごしたあの日々を、私は忘れない……)
彼の心に眠り続ける若き日の懐かしい思い出を、彼は思い起こす。それは、世界中が若い彼らを祝福しているかのように輝きに満ちたひとときであった。
「シュライン」
いつも微笑みをたたえているような顔の若者が、柔らかな陽射しのもと、芝生の上で本を読んでいた若き日の参謀長官を呼んだ。シュラインは顔を上げて破顔した。
「ああ……あなたでしたか」
「こんなところに雲隠れしていたのか」
「雲隠れなどと……タレス殿も人が悪い……」
シュラインは少し頬を染め、もごもごと喋った。それはまことに初々しく、現在のいかめしい顔をした彼とは雲泥の差であった。
微笑んだまま隣に腰を下ろした男は、将来の総統タレスだった。こちらはまったく現在の彼と変わりがなかった。
「まったく君という男は難しいやつだな。それに……」
若々しい顔を、さらに少年ぽくさせ、タレスは言葉を続けた。
「その……殿……というのは、やめてくれないか。私たちは同じ学生の身ではないか。もっと砕けた口調で話しかけてもらいたいな」
「そう申されましても……あなたは将来、このユーフラテスを統治なさるお方。私どもとは身分が違いますから……」
タレスは、シュラインのその言葉に顔をしかめて見せた。
「しかし……」
そして、不満そうに何かを言おうとした。その時───
「あーら。こんなとこにいた!」
彼らの背後から、妙に冴え冴えとした声が上がった。
「やぁ───っぱり! ミイラ取りがミイラになってる」
「ミューズ!」
ふたりの男は弾かれたように立ち上がり、一糸乱れず振りかえった。
「ミューズ、じゃあないわよ。まぁったく」
「…………」
「…………」
タレスとシュラインは顔を見合わせた。ふたりの表情には、明らかに「マズイぞ」といった色が浮かんでいる。
ふたりの前に立ちはだかる少女がひとり。彼らとはずいぶん様子の違った人物だった。
漆黒の髪に瞳、肌は透き通るように白く、ほっそりとした身体はどこから見ても彼女を儚げな少女に見せていた。
だが、彼女の瞳の輝きは、低い背丈を高く見せようとして背伸びをするようにすっくと立つこの美少女を、とても見た目通りの人物であるというふうには見せていなかった。
好奇心にあふれた、挑むような煌きはタレスとシュラインをじっと射すくめるように見つめ、これからいたずらした少年をとっちめようとしている母親のように両手を腰に当てている。
彼女はぐっと胸をそらせ、言った。
「シュライン」
「……………」
シュラインは答えない。彼女をじっと見つめたままだ。その視線には何の感情も浮かんではいない。見ようによっては、まるで氷のように冷たい視線だ。反対に、彼女の方は見つめ返す瞳に炎さえ見えそうなほどだ。
「どうして、わたしから逃げるのよ」
彼女は感情を精一杯抑えているかのように、ゆっくりと言った。それを見かねたタレスが、彼らの険悪な雰囲気を何とかしようとして口を出した。
「ミューズ。ここは私に任せて……」
「あなたは黙ってて!」
ミューズはぴしゃりとさえぎる。そんな彼女にシュラインはうっそりと呟いた。
「ミューズ……君はわきまえというものを知らないのか?」
「…………」
彼の言葉には、あからさまな非難が含まれていた。それを感じたのか、ミューズは険しく睨みつけると、唇をかんだ。そこへ、さらに追い打ちをかけるようにシュラインは言った。
「タレス殿に対してその口のききようはなんだ。未来の総統なんだぞ」
「それがなんだというのよ!」
「ミューズ!」
二人は互いに大きな声を上げた。
「まっ…待ちたまえ!」
タレスが慌てて割って入った。睨み合う二人の間に立ち、シュラインの顔をじっと見つめ、諭すように言う。
「シュライン。それは言い過ぎというものだぞ」
「しかし、タレス殿……」
「それが駄目だというんだよ」
タレスは軽くため息をついた。
「確かに私は将来この惑星を統治する身ではある。だが、それまでは一介の、ただの学生でしかないのだ。特別扱いはやめてほしい。少なくとも君やミューズにだけはそんなよそよそしい言葉遣いとか態度はしてほしくないのだよ」
「タレス…どの……」
「私は君のことを何でも話せる親友とも兄弟とも思っている。そのことは忘れないでくれ。お願いだから普通に接してほしい」
タレスの表情が苦悶に歪んだ。それを見つめるシュラインの表情もまた、同じ苦痛を感じているかのように歪められた。その時、明るい声が上がった。
「わたしはいつでも友達と思っているわ」
「…………」
「…………」
そんなミューズの声に、ふたりの男はゆっくり視線を移す。
「わたしの故郷でも、身分とか家柄とかで分け隔てをする輩はたくさんいたけど、それってほんっとバカみたい。確かに時には礼儀とかって大切だとは思うけど、それも時と場合によってよ。タレスはまだ偉くなったわけじゃないし、今のわたしたちは学友同士という対等の立場なのよ。シュラインってば、ほんっとに生真面目なんだから。それじゃあ肩がこってしょうがないでしょうに」
タレスはにこにこしながら彼女の演説を聞いていた。その表情は至極満足そうだった。
反対に、シュラインはむすっとした表情で、目線を彼女からそらした。本人は気付いていないだろうが、それはまさにいたずらを見つかって母親に怒られている様子さながらであった。だが、それでも何か言わずにはいられなかったらしく、彼女に向かって負け惜しみを言った。
「故郷、故郷と君は言うが、地球なんて星はいったいどこにあるんだよ」
「あるわよ!」
声を荒げて叫ぶミューズ。
「どこにあるかはわたしだってわからないけど、わたしは地球人よ!」
彼女の叫びは悲痛だった。
「……………」
そんな彼女の声は、シュラインの表情に憐れみの色を浮かばせた。
宇宙の中のオアシス───緑の惑星であるユーフラテスの住人のほとんどが、銀色の髪と赤い瞳を持っていた。いずれも、色が濃いか薄いかの差で、基本的には他の要素というものが存在していなかったのである。稀にシュラインのように金色の髪の持ち主もいたが。
それは、自然界から見てもまったく不自然なことではあった。あるいは、もともと彼らはこの星から発生した種族ではなかったのかもしれない。それは誰にもわからない。それらしき文献などが残されていなかったからだ。
もちろん、だからといって彼らの観念に黒だの茶色だのといったものがないわけではない。
さて、そこでミューズという少女の存在だが、彼女は見たところ十八歳くらいの少女だ。というのも、彼女は自分の名前や年を覚えていないからだ。
「未確認飛行物体がこの星に墜落し、その残骸から君が見つかった……」
ぽつりとタレスが呟く。
「そう……わたしは自分が地球という惑星の人間だったということだけ覚えていて、自分に関することは一切何も記憶がなかったのよね」
「あの時のことは、私もよく覚えている」
むすりとした表情でシュラインは言った。
「よくもまあ、無事助かったもんだと、政府のお偉方が噂していたな」
「まだ一年も経っていない。でも、君がこの学舎に来て、もうずいぶんと時が過ぎたような気がするよ」
シュラインとは逆に、タレスはにっこりとそう言った。目が二本の線のようになってしまい、目尻はこれでもかといった具合に垂れ下がっている。
「そうね……もうそんなに経ってしまったのね……」
ミューズはくるりと回転すると、二人の男性に背中を見せた。黒く長い髪が、ふわりと揺れた。思わず、タレスとシュラインの目が釘づけになる。
「この星で初めて目が覚めたとき、頭の中が真っ白だったことを覚えているわ」
彼女の背中がブルッと震えた。そのときの、想像を絶する空虚感を思い出したのであろう。
「わたしがいったい何者か───人間ということさえ忘れてしまっていた気がする───それでもゆっくりと時が過ぎていき、わたしの目に浮かぶのは濃紺の中に浮かぶ真っ青な星の姿───」
ミューズの声の調子が変わった。まるで現実感のない、ふわふわとした感じだ。
「そう───ちょうど、暗い湖底からゆらゆらと浮かび上がってくる魚のように、わたしの記憶の湖……その奥底からその名前は浮かんできた───」
彼女は、いったん言葉を切ると、おそるおそる大切なことを打ち明けるように、そっと呟いた。
「───地球───わたしは知っていた。その青い宝石のような星を。比類なき宇宙の奇跡ともいうべき惑星を。わたしはその惑星で生まれ、そして生きていたのだということを───わたしはどうしてだか知っていたのよ」
「だが、君は自分の名前も経歴も、まったく覚えていなかったのだ」
シュラインが、それを忘れるなといいたげに、語気を強めて言った。
───バッ……
突然、ミューズは勢いよく後ろを振り返った。
「そんなに何度も言わなくてもわかってるわよ!」
ギラリとシュラインを睨みつける彼女の声は怒気もあらわで、あからさまに凄んで見せている。
「………」
シュラインはびっくりした。隣に立つタレスとて同じである。
ミューズは苛立たしげに叫んだ。
「あなたってば、ほんっとムカつく!」
「しかし…そんな彼を君は愛してしまった」
タレスがぽつりと呟いた。
「!」
ミューズの目が、さっきまでのシュラインたちのように見開かれる。
「…………」
それに対し、シュラインは一瞬のうちに無表情になった。それでも、微かに戸惑いが見え隠れしているようだ。
「そうよ…」
ミューズは開き直ったのか、言葉を続けた。
「わたしはシュラインを愛してる。だから今日こそ、はっきりと気持ちを聞きたくて、こうして捜してたんじゃないの」
彼女は大きく一歩足を踏み出し、シュラインへと詰め寄った。
「…………」
シュラインは思わず後ろへさがる。心なしか、視線はあたりを泳いでいた。
「さあ、聞かせてちょうだいな。シュライン、卒業したら結婚しましょう。わたしのプロポーズ、受けてくれるでしょうね」
「う……」
半ば脅迫めいた口調のミューズに、シュラインの端正な顔立ちが歪んだ。
やっとのことで一言、絞り出すように言う。
「私にはやらねばならぬことが山ほどある。結婚などしている暇はない」
「そんなこと理由にならないわ!」
ミューズは両手を大げさに広げると大声で叫んだ。可憐な姿に不似合いなくらいの荒々しい仕草だった。
「わたしのこと嫌いなの?」
「い…いや…」
冷や汗をかきながら首を振るシュライン。
「じゃあ、好きと言ってくれたあの言葉を信じていいのね!」
「あ…ああ…」
パッと表情を輝かせた彼女を見て、シュラインは参ったなと言いたげな表情を浮かべた。そんな二人を交互に見比べながら、タレスが感心したように言う。
「なんだ、シュライン。君たちはもうそこまで具体的に気持ちが固まっていたんだな。それじゃあ、これはもう結婚するしかなさそうだ」
「待ってください。好きだから即結婚など、あまりにも短絡的すぎると思いませんか。私だって、なにも一生独身を気取るつもりはありません。ですが、今はまだそれどころではないのです。卒業してからの仕事のことで、実のところ私は手一杯なのです。一般市民と同じように考えてもらっては困ります」
シュラインは慌てて言った。まるでいい訳をしているようにも聞こえる。
それへ、断固とした意思を窺わせるミューズの声が。
「あなたは、仕事と結婚を両立できない男ではないわ。このわたしが好きになったんだもの。それっくらいはできるはずよ」
さらに、ぐっと身体をシュラインに近づけ、挑戦的にこう言った。
「それとも、将来の施政者であるタレスの右腕になろうとするあなたが、初めて認める敗北ってことになるのかしらね」
「む……」
彼女の、その失礼な言いぐさに、さすがの彼も気分を害したらしい。一見落ちついて見え、世俗には何も関心がないかのような彼も、やはり人並みのプライドは持ち合わせていたということか。
「よかろう。仕事と結婚、見事両立してみせよう。ミューズ、ここで正式に君に結婚を申し込む」
ビシリと表情を引き締め、改めて自分からプロポーズをするシュライン。
それはまるで、決闘を申し込む男のような口調だった。彼の真っ赤な瞳がキラリと光っている。
「…………」
ミューズは勝ち誇ったような微笑を浮かべた。どうやら、シュラインは完全に彼女の思うつぼにはまってしまったらしい。
そして、それからまもなく、卒業と同時にシュラインとミューズは結婚した───
「………」
現在に戻って、シュラインは、こんな時なのになぜか微笑みが浮かんでくるのをとめることができなかった。
(あのころが、私たちにとって一番すばらしい日々だった……)
だが、次の瞬間、彼はこみ上げてくる悲しみに取りこまれた。涙がとめどなく流れる。彼はそれをとめようともしない。ふたりの息子がこの姿を見たら、いったいなんと言うだろう。
「ミューズ……私たちの友が逝ってしまったよ……」
彼はただ一人、静かに泣きつづけていた。