第4章「宇宙船希望号の旅立ち」第1話
さて、その頃、二人の男女が地球からこのヴィーナスへやってきた。
一人は天才数学者シンゾウである。
そして、もう一人は──
長いストレートの髪を無造作にかきあげながら歩くその少女は、かなりの美少女だった。
「シンくん、急いで!」
彼女は麗しい顔に焦りの表情を浮かべ叫ぶ。
「私たちも早くノンに追いつかなくちゃ」
ノン──彼女ははっきりとそう言った。
ずいぶん前からノリコの心に呼びかけるその名前を、この少女は知っている。
いったい何者なのだろうか。
「トミー、待ってくれよ」
情けない声を出したのはシンゾウだ。
まるで尻に敷かれる夫のような様相だ。
だが、トミーと呼ばれたこの少女は、彼の声など耳に入っていないようだった。
(ノン)
彼女は心の中で呟く。
声に出せば、恐らく彼女の高揚した気持ちがダダ漏れとなったことだろう。
とはいえ、すでに彼女の顔にはその片鱗が見えていた。
傍を走るシンゾウにもそれは感じられているようだ。
眩しいものを見るように彼は隣を走る少女に視線を向けていた。
(いよいよだわ)
彼女はそんな彼の視線にも気づかず、自分の想いに沈み込んでいた。
(ノン、私たちの旅が始まるのね。あなたはまだ目覚めてはいない。自分がいったい本当は何者なのか、わかっていない。つらいでしょうね。悲しいでしょうね。ああ、早く、あなたのそばに行ってあげたい!)
一方、こつ然と姿を消したノリコたちが、ハッと我に返ると訓練の賜物か、実に見事な戦闘態勢を取った。教官たちが見たら泣いて喜ぶほどの出来栄えである。
「ここは…」
どうやらそこは転送室のようだった。多数の円形な台座がランダムに並べられている。
(なんだか…)
ノリコはどこかでこれと同じようなものを見たなと思った。
しかし、転送台は地球の宇宙船にだってある。
なにもそんなに珍しいものではない。
「これって、もしかして、あの巨大宇宙船の中なのかなあ」
カズが呟く。
「気を抜かないで!」
するとリエが声を上げた。
「まず二手に分かれて船内を探りましょう。宇宙服は着たままで。常に通信機で連絡を取り合うのよ」
軍人志望のリエが本領発揮とばかりに指揮をとる。
そんな彼女の言葉に11人はサッと二手に分かれた。
リエ、カズ、ヤスオ、サミー、アキオ、マサオ、そして、ノリコ、ヤエ、ミーユ、ハヤト、ノブオ、ケーコに分かれると、転送室を出て左右の通路に分散した。
「それじゃ、気をつけて!」
「そっちもな!」
お互いに声をかけてから彼らは行動に移した。
(やっぱりどこかで見たような…)
仲間たちと進むうちに既視感が強くなってきた。
そして、唐突に思い出す。
そうだ。
アメーシスだ。
あの都市に似ているのだ。
「っ!」
と、その時、誰かに呼ばれたような気がした。
だが、それは。
(なんだか、いつもの声とは違うような気がする)
彼女は思う。
これは声というよりは何かの意識のようなもの。
自分を呼んでいるというよりは、心に直接流れ込んでくる、そんな不思議な感覚。
ノリコはふっと後ろを振り返る。
(こっちだわ)
彼女はいつのまにか仲間の歩みから離れて別の方向に歩き始めた。
どこをどうやって歩いてきたのか、どのくらい歩いたのか、わからないくらい、彼女の足取りはまるで夢遊病者のそれだ。
「あ…」
気がつくと、彼女は大きな扉の前に立っていた。
すると、彼女はその扉に右手をそっと伸ばして触れた。
そして、思いきり前に押した。
「!」
扉は何の抵抗もなく、観音開きに開いたのだ。
彼女はためらいもなく一歩を踏み出す。
「ああっ!? これはっ!」
そこにはモーゼスがいた。
いや、厳密には、モーゼスそっくりの巨大コンピューターがそこにはあったのだ。
「うっ!」
その瞬間、ノリコの意識の中で何かがスパークした。
彼女は頭を抱えてその場にうずくまった。
そのまましばらく時間が過ぎる。
そんな彼女を見下ろすように立ちはだかる巨大コンピューターは、それまでまったく動きが見られなかったのが、ノリコがうずくまったとたん、微かな機械音とともにチカチカと様々な色の光がともりだした。まるで、その瞬きは彼女の来訪を喜んでいるかのように。すると、突然、室内中に音声が発せられた。
「私の名はコンピューター・ジューク」
感情の見えない機械的な声だ。
だが、その飄々とした口調は、このジュークという名前の機械には、間違いなく感情があるという印象を与えている。
「私を呼び覚ましたのはあなたですか?」
どうやら彼──機械に彼と言っていいのかはわからないが、それでもこのジュークというコンピューターには人間のような戸惑いというものが感じられた。
「………」
すると、うずくまったまま動かなかったノリコが、ゆっくりと身体を起こし、立ち上がった。
「あなたは…誰ですか?」
ジュークの声にためらいが感じられる。
その声に呼応するかのごとく、ノリコは頭をもたげる。
彼女の表情を、彼女の仲間たちが見たとしたら驚愕しただろう。
その顔には明らかな威厳が満ちていた。
そして、彼女は言った。自分の名を。
「私はノン。そう、私の名前はノンよ」




