第2章「アメーシスのモーゼス」第11話
「!!」
ノリコはベッドから飛び起きた。
彼女にあてがわれた部屋は、ノブコの部屋とたいした違いのない間取りだった。
それほど広くもなく、シングルのベッドとしゃれた感じの机や椅子、くつろげるソファとテーブルが置かれてあるだけである。
「…………」
ノリコはベッドの上で半身だけ起こし、ボーッと辺りを眺めた。
常夜灯が部屋の四隅で仄かに光っている。
それは、夜中に移動するために足元を照らし出すためだけの灯りで、眠るためにはそれほど気になるというものではなかった。
だが、それを気にする者もいるだろうから、その部屋の持ち主の設定によっては常夜灯も消せるようになっていた。
ただ、どうやらこの都市のすべての設備は、コンピューター・モーゼスによって取り仕切られているらしい。
なぜか、ノリコにはこの都市のどこにいてもモーゼスの存在を感じ取っていたのだった。
「何だろう……」
知らず呟かれる言葉。
彼女は怯えていた。
「何か夢を見ていたような気がする……」
夢───でも、それが何の夢だったか思い出せない。
夢というか───それよりも何かの記憶を見たといった、そんな漠然としたもの。
心の奥で、今何か重要なことが頭をもたげてきたといった感じ。
失われた何か、封じ込まれた何かが自分を突き動かす。
「ああ!!」
彼女は頭を抱えた。
「このままでは、私が私でなくなってしまう!!」
ノリコはベッドを降り、部屋を出た。
「…………」
ずっと続く白い廊下をぼんやりと眺め、意を決したように歩き出す。
彼女は裸足だった。
廊下は毛の短いアイボリーの絨毯が敷いてあった。だから、素足でも冷たくはない。
だが、普通の者なら裸足で部屋の外を歩くということはしないだろう。
くるぶしまでサラサラとした感触で流れる、淡いピンク色のネグリジェをひらめかせ裸足で歩く姿は、なかなかに扇情的な光景である。ここに、狼に変貌するような者がいないことは、彼女にとって幸運だったというべきか。
彼女は歩いた。
ここでも常夜灯が足元を照らし出し、窓のない廊下を幻想的に演出している。
どれくらい歩いただろうか。
彼女の目の前が急に開けた。
いきなりという感じで、ノリコはいつのまにか大ホールに出ていた。
そこは、彼女が入ったとたんに常夜灯ではない照明がともった。
「…………」
しばらく、目をシバシバさせていたノリコだったが、慣れてくると彼女は頭を上げ、天井に目を向けた。
見た感じではドーム型の広場だ。
天井も、なだらかな曲線を描いているように見える。
それから、今度は辺りを見回した。
かなりの広さである。壁は丸く曲線を描いており、床にはランダムにソファがいくつも設置してある。
壁際のところどころには、観葉植物らしき緑が置かれてあり、見る者に安らぎを与えてくれそうだった。
ノリコは歩き出し、ホールの中央にあるソファに身を沈めた。
ソファはふんわりと彼女の身体を包み込み、一番ちょうどいい感じで彼女を支えてくれる。
「なんて気持ちいい……」
彼女は目を閉じ、すーっと息を吸った。
空気に何か含まれているのだろうか、芳しい柑橘系の香りがほんの少し感じられた。と、そのとき───
「?」
ノリコは目を開けた。
照明が落ちて真っ暗になっている。
彼女は少々不安な気持ちになった。
それもそのはず、常夜灯さえもない暗闇だ。
先ほどまで灯りの元で慣れていた目である。いきなり照明がなくなれば慣れるまではまったく何も見えないものだ。
すると───
「ああっ!!」
ノリコは思わず叫んだ。
なぜなら、彼女の目の上を満天の星空が広がったからだ。
そうか。
ここはプラネタリウムなんだ───と、彼女は思った。
ノリコは静かにソファに身体を預け、ゆったりとした体勢で輝く星々に視線を向けた。
「まるで宇宙空間に浮かんでいるみたい」
ノリコは呟く。
彼女は不思議な気持ちを抱いた。
「私、この感覚を知ってる……?」
デジャ・ビュ───そう、自分は宇宙空間を、こんな風に漂っていた気がする。
宇宙船ではなく、身体一つで大宇宙を漂い、まるでクジラが海を泳ぐように星の海を泳いでいたような───
「そんなはずないのにね」
クスリと彼女は笑った。
だが、それとは裏腹に、彼女の目からはとめどなく涙が流れる。すると───
「何を泣くか。ノリコ」
いきなりモーゼスの問いかけが。
しかし、ノリコは、その予告なしのモーゼスの言葉にも驚きはしなかった。
彼の声は、ノリコの耳元から、あるいはホール全体から聞こえてくるようだった。
「何か悲しいことでも?」
モーゼスの声は胸に染み入るほどに優しい。
「この時代に……」
ノリコは淡々と喋り出す。涙はいまだ止まらない。
「この時代に冷凍睡眠から目覚め、二年が過ぎたわ。それはもう夢のような毎日だった。ただもう楽しいことばかりで」
彼女はため息をつく。
「でも、私、以前の私じゃない気がするの。時々自分が怖くなる。私はいったい誰なのか、いったい何者なのか……わからなくなるのよ。意味不明な夢を見たり、時おり誰かのテレパシーを感じたり……怖いわ、すごく。怖くて、誰かにすがりつきたくなるの。そんなとき、何も出来ずに震えてるばかりで、もう一歩も前に出たくないって思う。でもね、それでいて何かをしなくては──って思ったり、無性に誰かに会いたくなったり、宇宙にどうしても出て行きたいと願ったり───」
ノリコは身体を起こし、頭を上げた。
「モーゼス、私っておかしいわね」
「そんなことはない」
「…………」
ノリコはハッとした。
「貴女はおかしくなんてないよ、ノリコ」
「モーゼス」
彼の声は、とても温かだった。
ノリコは、自分の心が何か温かいもので満たされていくのを感じた。
そして、彼の言葉は続く。
「貴女だけではない。誰でもそう感じることがあるのだ。生きている者たちは、自分がいったい何なのか、そして、何の目的があって生まれてきたのか、悩まないではいられなくなる。ましてや、貴女のように特別な境遇の人は特にね。だが、悩むことは良いことだ。大いに悩むことだね。そうやって人は賢くなり、そして美しくなるのだよ」
「モーゼス……」
ノリコは何だか嬉しくなって、笑い出したくなってきた。
「あなたって、ほんと不思議なコンピューターね。こんなに人間の心理を理解できるなんて。モーゼス、あなたってまるで人間みたい」
「…………」
モーゼスは黙ったままだった。
もちろん、ノリコも彼が何か返してくれるとは思っていなかった。
彼女は再び頭を上げた。
頭上の星々は、すっかり心が晴れた彼女に、笑いかけるようにキラキラと輝いているばかりであった。
そして、次の日。
ノブコのアメーシス移民計画を聞いたノリコは、
「私、大賛成。ステキ!」
と、手を叩いて喜んだ。
「そうよね。こんな素晴らしい都市に住まないって手はないわよね!」
昨夜の涙が嘘のような彼女である。まあ、それを知っているのはモーゼスだけなのだが。
「じゃあ、私が地球との橋渡しをするわ。何か手伝いたいもの」
「ありがとう、ノリコ。嬉しいわ」
ノブコがそう言うと、すっくと立ちあがるノリコ。興奮しているのか、顔が上気している。
「こうしてはいられない。私すぐに地球に帰らなくちゃ。あー、忙しくなりそう!」
「では、地球まで送り届けてあげよう」
すかさずモーゼスが言った。
ノリコはニッコリ微笑んで、モーゼスを見上げる。
「ええ、お願いするわ。でも、火星の近くでいいからね。私、そこからは一人で帰ってみたいの」
「御意」
こうして、ノリコの小さな冒険は一応の終息を得たのだった。




