第1章「273年後の私」第6話
「ただいま!」
ほぼ同時に玄関に駆け込んだノリコとコウイチは、大声を出した。
今日は、ノリコのイグザムデイということで、博士は早めに帰宅していたはずであった。
ほどなくして、奥の書斎から博士が出てきた。
「おかえり。フリージ(冷蔵庫)の中に冷たいジュースが用意してあるから飲みなさい」
にこにこ笑いながら、そう博士は言った。
そして、三人は居間に入っていった。
ワタナベ家の居間は、アイボリーの壁紙の広い空間で、南側の大きな窓のそばには葉のとがった観葉植物が置いてあり、とても落ち着いた場所であった。
彼らはソファに腰掛けた。
とたんに、コウイチはガラスのコップになみなみと注がれたジュースを一気に飲み干し、さらに二杯目を注いだ。
それをやさしい目で見つめていた博士は、コウイチの隣に座るノリコに顔を向けた。
「ノリコ、どうだったね、イグザミネイションの感想は」
「えっ…ええ……」
ノリコは手に持ったコップに視線を落とした。あまり言いたげな感じではない。
博士はそんな彼女を見て、
「その様子では、簡単過ぎたんだね」
「!!」
ノリコはハッとして顔を上げた。
博士の目を見つめる。
だが、彼の表情はとても穏やかだった。
「……………」
ノリコは、何も言わずにゆっくりとストローに口をつけ、ジュースをすすった。とても決まり悪そうに。
「私……」
しばらくして、ノリコはボソボソと呟いた。
「私にも…なんでかわかんないんですけど……こう、なんていうか、わかっちゃうんです。頭の中が透明にでもなった感じで、何でも理解できちゃうんです。なんか、まるで脳がフル回転してるみたいに……」
「そうか…一度、検査をしたほうがいいのかもしれんな」
ノリコは身体をビクッとさせ「私、どこかおかしいんですか?」と、不安そうな様子を見せた。
「いやいや、そうではない。これが、コールドスリープの後遺症であるかどうかを知りたいのだよ」
「コールドスリープ…」
ノリコは怪訝そうな顔をした。
すると、それを見たコウイチが、
「父さんはね、今コールドスリープの研究をしているんだよ。遠距離、たとえば太陽系間、銀河系間旅行に役立つものだからね」
「へえ、そうだったんですか」
ノリコは目を丸くして博士を見つめた。
それに頷いて見せる博士。
「あと、もう一歩というところなのだよ、成功まで。コールドスリープをすることによって、どんな障害が起きるのか、今研究しているのだがね……なんというか…君には悪いとは思うが、研究の対象になってもらいたいのだが……」
「父さん、そりゃノリコがかわいそうだよ!」
コウイチが憤慨して声を上げた。
そんな息子に対して、博士は悲しそうな顔をした。
「本当は、私自身が志願してコールドスリープをしてみるつもりだったのだ。だが、その矢先にノリコが見つかった……」
そこまで言うと、博士はノリコを正面からジッと見据え、真面目な口調で言葉を続けた。
「最初から、そのつもりで君を引き取った。すまない。許してくれ」
そう彼は言うと、頭を下げた。
「そんな…ひどいよ、父さん!!」
コウイチは、そう叫んで立ち上がった。
「待って、コウイチくん」
ノリコが鋭くさえぎる。
そうしてから彼女は、頭を下げたままの博士に向かって静かに言った。
「博士……それだけではありませんよね?」
「もちろんだ!」
博士は、強くそう言いながら頭を上げ、ノリコの目を真っ直ぐに見つめた。
「…………」
「…………」
ふたりの間に言葉はいらない。
互いの目と目を見つめるだけで、まるで本当の親子か恋人か──そんな感情がふたりの心中に湧きあがる。
「博士……」
ノリコはふっと口もとを緩めた。
「私、検査受けます」
「ノリコ……」
博士もホッとした表情になる。
「私、博士を信じています。なにはともあれ、身寄りのない私を引き取ってくださったんだもの。研究の対象だからといっても、博士の私に対する態度は、ただの偽善とは違う。本当に心から家族として受け入れてくださったって感じられた。私、そのことをとっても感謝しているんです。だから……」
ノリコは、再びソファに座りなおしたコウイチを見やる。
「だから、コウイチくんも、お父さんを信じてあげて」
「うん…そうだね」
まいったなあといった感じで、コウイチは頭をかきながら父に顔を向ける。
「父さん、すみませんでした。本当なら、息子である僕が信じてあげなきゃならないのに、他人に指摘されるなんて……まったく、息子失格だな」
「…………」
そんな息子に、博士は何度も頷いた。とても誇らしげに。




