第10章「夢幻の果実の見せる真実の愛」第3話
吾郎が立ち去ったあと、笑湖は座っていたベンチの背に背中をもたせかけた。
そして、再び、ひとつため息をついた、と、その時。
ぽとっと彼女の膝に何かが落ちてきた。
「?」
見るとそれは丸い形をした果実のようだった。
「果物?」
不思議な色をしていた。虹色だ。
形はリンゴのようだったが、リンゴよりは少し小さく、色が赤くもなく黄色でも緑でもない。
というか、どこからこれはきたんだろう。
笑湖は上を向く。
空が広がっているだけだ。近くには木々もない。
変だなあと思いつつも、少しお腹がすいたということもあり、何も考えずに彼女はその果物をかじってみた。得体の知れないものは食べないという一般常識も忘れて。
「?」
瑞々しく美味しい。だが、一瞬、何かを思い出しそうになった。
「うう…何だろう…」
何か重要なことだったような気がするが、どうしても思い出せない。
しばらく果実を漫然と見やっていたが、頭を振ると、あっというまにそれを全部食べてしまった。
「思い出せないってことは、そんなに大したことじゃないってことだわ、きっと」
食べ終わって満足したのか、違和感を多少感じてはいても、珍しく彼女は何となく幸せな気持ちで家路についたのだった。
遠くでサイレンが鳴っている。
暗いアパートのベッドで寝ていた笑湖はふっと目を覚ました。
「火事?」
サイレンはすぐ近くで鳴っているようだった。
恐らく近所だ。
彼女は傍らの時計を見た。午前1時。まだ夜中だ。
寝間着に上着をはおり、ドアから顔を覗かせた。
同じアパートの住人もチラホラ顔を出している。
すると、誰かが「どうやら堀田酒造の方角だな」と囁いていた。
「えっ?」
彼女は火の手が上がっている方向に目を向けた。
そうだ、あそこには吾郎の家がある。
そう思ったとたん、彼女は走り出していた。
吾郎の家の周りに消防車が何台も停まっていて、放水をしていた。
見物人も多数いて、笑湖は吾郎やその親の姿を探す。
「吾郎! いないの? 吾郎!」
彼女は大声をあげて彼を探す。
きっと、彼のことだから、そこらへんから姿を見せて「何焦ってんだよ」とか言ってくれる。きっと。
それを信じて彼女は叫び続けた。
だが、彼からの応えはついになかったのだった。
堀田酒造は敷地内すべてが焼け落ち、焼け跡から吾郎の遺体が見つかった。
吾郎の両親は丁度旅行に出ていて助かった。
幸い、隣近所に延焼することなく、被害に遭ったのは堀田家だけだったようだ。
「吾郎……」
短大で出会ったのが最後だったのかと思うと、いたたまれなかった。
どうして彼がそんな目に遭わないといけないのか、彼女は神を呪った。
「私が彼の代わりに死ねばよかったのに」
ぽつんと呟く。
誰も望んでくれない自分なんかより、彼を必要としている人達は多いはず。
そんな彼がこんなに早く亡くなっていいはずがない。
どうしてあんなにいい人が早くに死んでしまって、自分のように生きてる価値もない人間が生き残るのだ。
何かで読んだことがある。
神はいい人を自分の傍に置きたがるとか。
だから、早くに天国に連れていくのだとか。
そして、悪人は地上に残して、様々な試練を課すとか。
だから、悪人ほど生き残り、善人は早死にするとか。
確かに、この世は不条理なことがありすぎる。
まるで、この世は試練の場所で、人間はこの世で修業をしているような、そんな感じだ。
「もしかして、私もそういう理由で生かされてるの?」
なんだか、そんな気がしてきた。
それでも、それでも、吾郎には生きててほしかった!
あんな形で死ぬなんてかわいそう過ぎる。
「彼を助けたい。火事の前に戻りたい。そしたら、助けられるのに!」
そう強く叫んだ瞬間、笑湖の身体はその場から消え去ったのだった。
「………え?」
笑湖は自分のアパートの部屋の前に立っていた。
今、まさに鍵を持って部屋に入ろうとしていたようだった。
「まさか、本当に時間が戻った?」
さっきまで、朝で自分の部屋で吾郎の家の悲劇を報道していたのを見ていたのだ。
それが一瞬で部屋の外にいて、どうやら今は夕刻のようだ。
何が起きたのかわからなかったが、笑湖は踵を返すと走り出す。
そう、堀田酒造へ。
走っても数分の場所だ。すぐに到着する。
「はあ、はあ…」
それでも走ることに免疫のない彼女の息は上がっている。
「よ、よかった…まだ焼けてない…」
ニュースでやっていたのだが、火元は漏電だったそうだ。
酒蔵を照らす照明器具から火が出たということだった。
笑湖は吾郎を呼び出すと、不自然にならないようにそのことを伝えた。
「最近、そういった古い照明器具から漏電があったりするみたいだって聞いて、そういえば、あんたんちも古かったわよねえって思って心配になっちゃって…」
吾郎はそれよりも笑湖からそういった話をしにきてくれたことが相当嬉しかったようだ。
「芳山、わざわざ有難う。うん、わかったよ、すぐに確認してみる」
笑湖はほっとする。
すると、吾郎は少々緊張気味で切りだす。
「俺、確認してくるからさ、上がって茶でも飲んでけよ」
「ありがとう。よばれるわね」
吾郎はよしっとガッツポーズをすると酒蔵へ走って行った。
笑湖はまだ心配だったので、彼の申し出を受けることにしたのだった。
そして、結果、問題の個所が見つかった。
「いやー、ほんとに助かったよ。せっかく親父たちに旅行をプレゼントしたってーのに、留守の間に火事で何もかも焼けちまってたらと思うと……」
吾郎はホッとしたのか、ため息をついた。
建物だけが焼けるならまだしも、本当なら吾郎が焼け死んでしまうところだったんだよと笑湖は心で思った。
(そうならないで本当に良かった)




